解散日記1

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

2005.11.1再編集 して再録

ま え が き

 

          

当社(みやびホテル幹線食堂株式会社)の新幹線車内営業は昭和五十六年(1981年)以来赤字基調であった。

さらに、昭和六十二年(1987年)四月に国鉄が分割民営化され、JRとなってからは従来の営業方針や施策が大幅に変化し、当社を取巻く経営環境が激変した。昭和六十三年度にはカフェテリア車(従来の食堂車をはずし、車内で惣菜パック等を販売する新型車両)の導入により、当社は四本の「ひかり号」を返還させられ、やがて、JR東海が受け持つ東京〜新大阪間の「ひかり号」のほとんどが食堂車からカフェテリア車に代わることとなった。

昭和六十三年十一月に行われた昭和六十四年度(改元により平成元年度)のダイヤ改正会議は、従来に比べ、JR主導の色合いが極めて強いものであった。すなわち、平成元年三月時点では、東京〜新大阪間「ひかり号」のうちカフェテリア車の担当はパッセンジャーズ・サービス(新しく生まれたJR直営会社)とJ・ダイナー東海(旧日本食堂が改名して誕生したJRの子会社)の二社のみとする旨JR当局より申し渡しがあった。当社としてはやむなく、カフェテリア車導入が当面予定されていない列車の中から、できるだけ売上の多い食堂車の営業を選択することとなったのである。カフェテリア車導入に伴なう当社の営業シェアの滅少をカバーすべく、東京〜博多間列車について二本増の六本を確保した。そのうち特に二階建て列車については、条件のいい時間帯(昼食夕食時間を含む)の列車を要求し続けたが、これはJRに受入れられなかった。

さらに、JR各駅には売店および食堂が急激に新増設され、またスピードアップと停車駅の増加は、旅客の乗車時問の短縮につながり、いずれも車内営業での売上減少となった。一方アンペア列車(折り返して乗務できない列車)による運用効率の低下も大きく、また東海道区間売上金の日々納金の義務付け(コンピューター導入による列車別売上集計の即日化、同時にJRに対する営業料≪売上歩合≫を翌日に銀行へ、バンキング納入する。)などが経費増につながり、月々の列車営業損益は、かきいれ時の八月(夏休み、お盆休み時期)でさえ赤字となった。加えて、銀行からの借入も限界を越え、月々の人件費を始め諸費用の支払い資金は親会社みやびホテルに頼らざるを得ない状態であった。

 

×       ×       ×

 

平成元年(1989年)八月。カフェテリア車営業の試算によれば、食堂車営業はより一層収支が悪化する。280A(東京〜新大阪間ひかり号。先に当社260Aと交換してもらったばかりの列車)は一月二十四日以降カフェテリア車を連結するので、その営業を行わずに返還の方向で臨むことを申し合わせる。また東京店(駅食堂)については閉鎖の方針をほぼ決する。

  

九月に入って当社はさらに、平成二年三月ダイヤ改正時点以後もカフェテリア車は担当しない方針を固めた。

また列車営業部門撤収の方向で検討に入り、従業員名簿の整理、分析を開始する。

JR東海に対し当社の営業状態、当期の見通しを説明し、「一月二十四日以降の280A(カフェテリア車に差替え)を辞退したい。」旨申し入れた。また三月以降もカフェテリヤ営業はやらない方針を伝える。

「つまり撤収を意味するのですか?」

とのJR側の質問に、当社牧阪専務は、

「恐らくそうなるでしょう。時期については未定です、その節の要員受入れのことをよろしくお願いします。」

と付け加えた。 

 

資金繰りの見通しからも情勢はますます厳しかった。列車撤退の時期として、平成二年六月か九月を設定する。

従業員名簿の確認、新卒の採用状況報告、従業員の居住分布表、個人別給料支給状況の各資料を提出する。   

東京店(駅食堂)については、平成元年十二月末日で撤収の方向を固めた。

列車営業は、平成二年三月ダイヤ改正時点での撤収を想定する。社長より出席役員に緘口令が発せられたのもこの時期であった。

 

十一月に入り、新卒(来春卒業の高校生三十九名に合格通知を発している。)対策を早急に研究し詰めること、が私に課せられた当面の仕事だった。

私が七条職安学卒部門統括職業指導官と会い、新卒採用決定後条件変更する場合手続きなどを正す。

「早急に学校に事情を説明し相談して貰いたい。」との返事。

二十四日。JR東海と会談。来年三月ダイヤ改正時に列車営業返上することの正式意思表示。

「ついては、京都駅ホーム売店の営業継続をよろしくお願いします。従業員の雇用確保について、同業者等への受入れ斡旋を含め、なにとぞご協力ほどお願いしたい。十一月二十八日団交を通じ従業員に通告することになります。列車返上時までの営業については親会社の協力も得て最大努力いたします。」 

二十七日。労働組合委員長等に列車食堂営業、東京店営業からの撤収について明らかにし、経営協議会開催を申入れる。

会社側の「経営協議会」開催提案に対し、組合よリ団交申入れの逆提案がなされた。

 

二十八日。労働組合は会社あてに「抗議文」を発すると同時に、労使の団体交渉開始。席上、会社側から労働組合に「新幹線営業撤収」の申入れをするや、組合は即座に席を蹴って退席した。

二十九日。全みやび労組、緊急臨時中央大会開催。「新幹線営業撤収大合理化反対」決議声明。中央闘争体系が発令された。

所轄職業安定所あてに「新卒採用決定取消しについて」の文章を発送する。また、各学校長あて「採用決定変更についてのお詫びとお願い」の文書を発送する。 

労働組合の「新幹線営業撤収反対」職場会議(幹線食堂部門)を十一月三十日から十二月九日までの十日間各職場に召集。

 

十二月一日。SPSが各社を招集し、みやびホテル幹線食堂会社が三月ダィヤ改正時にて列車を撤収するむね正式に公示する。

四日。新卒採用取消しに伴う学校訪問が開始された。採用決定取消しについての個人あてお詫び状発送。

十一日。全みやび労組《スト権確立および闘争宣言》を会社に通告。    

二十八日。労組「闘争ニュース」見出しに左記のような文字が踊った。列車食堂常勤役員の引責総退陣を確認!会社側、早期斡旋を開始したい意向を表明。受け入れ要請に男女選別せず、斡旋の機会均等、選択は本人意思を、大原則とする。今後の賃金、退職金、残存事業(事業計画、人選)を早期に示せ。列車会社に当事者能力なし、今後は親会社のホテルの責任で事態収拾にあたる。

三十一日。本日付けにて東京パクレット(東京駅構内食堂)の営業を廃止する。

午後十時を過ぎて、東京営業部長から無事閉店したむね連絡が入った。

 

明日、新年を迎えれば、いよいよ列車営業本体の撤収に向けて諸事が動き出す・・・・・

 

 

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2005.1.17再編集 して再録

第一章 全員解雇

 

一九九〇年(平成二年)

 

一 月

 

昨夜の年越しそばが、まだ胃に溜まっている。高校三年のすみ子は八時に起きてきた。そのままどっかり座りこんでテレビを見ているので、正月早々家内がこごとを言っている。長女の佐和子は東大阪へ嫁に行き、長男保雄は東京へ出たなり帰って来ない。今年は三人きりの元旦の朝となった。おせちは自社製のを売上協力で買った三重折りがお膳に、まだ重なったままで置かれていた。それとにらみ鯛が一尾。見た目には平穏な正月である。でも半年後、我が家がどんな状況となっているのかは予想がつかない。また考えたくもない。

九時に会社へ出掛ける。レストラン京都に立ち寄るが、「おめでとう」とは出来るだけ口にしないようにする。森中常務の後に付いて、JR京都駅と新大阪駅の駅長室に挨拶回りに出かけ、昼は新大阪の事務所で冷たい折詰め弁当を食べる。

常務の息子さんは昨夜からスキーに出掛けたとか。昨年夏に奥さんを亡くし、今朝もみそ汁を自分で作り一人きりでお雑煮を祝ってきたとのこと。うちなぞまだ幸せな方である。

京都の事務所には倉中係長とA君が出勤していて、そちらから「おめでとうございます」と挨拶をしてくれた。

 

三日目になっても地下鉄はほとんどが正月気分の客ばかりである。夫婦子供の家族連れが多い。出入り口の反対側のドアーにスキーをもたせかけ、床の中央にリュックを置き去りにして大声で談笑する若者。私だけが異人種のような気がした。

これで三が日とも会社に顔を出したことになる。義務を果たしたような気持ちだった。今日は数人が出勤していて、おめでとうございますと言う人にはおめでとうを言い、言わない人にはご苦労さんと言っておく。仕事はそれなりにやってくれている。人手が少ないのでやらざるを得ないのだ。

昼過ぎに、組合の見回り役なんだろう、ズボンのポケットに手を突っ込んだ格好で入ってきて、みんなに「おーすっ」と声を掛けて回っていた。私の机の前を通りかかったので、私が「おめでとうございます。」と挨拶すると、びっくりしたようにポケットから手を出して、

「おめでとうございます。えらいがんばってはりますねえ。」と挨拶を返した。

 

一月四日十時過ぎ社長が年賀に見えた。当社の社長は親会社みやびホテルの社長が兼任していた。

年賀といっても今年はアルコール一切なし。社長のお詫びの言葉だけで、五分で終わった。牧坂専務も朝から見えていて、いろいろと話がしたそうだったけれど、私は仕事を口実に二度の誘いにも場を外してしまった。

入手が足りず、浜野次長、堀吉係長も狩り出されて列車に乗りに行った。中川部長も明日は乗ってくれることになっている。私は私で、とりあえず仕事が山ほどある。どれから取掛かっていいか分らないほどである。

ここ一週間ほど、腔門のあたりがかゆくて、しかもただれてきている。歩くと擦れて痛い。この時期にこれ以上ひどくなってはかなわないからと、あちこち医者に電話するが、近頃の医者は正月も七日間も連休をとるところが多くて、患者なぞそっちのけで休暇を満喫している。やっと会社の近くの内科病院が七時半まで開いているというので、地獄に仏と机の上を大急ぎで片付けた。かろうじて時間内に駈けつけたら即座に、「便秘のせいやなあ」と先生に言われた。

「しかし便は少しは出るんですが・・」と抗弁してみたが、

「便が隠れてるのを便秘と言うんですがな。便が出ないことと皆勘違いしてるのや。」

なるほどそうなのか?

 

五日、昼過ぎ、堀吉君が列車を降りて戻ってきた。皆それなりに協力してくれている。

会計のJ君が、十日限りで後は有給休暇を消化したいと申し出てきた。

「さびしいなあ。」と言うと、

「すみません」と頭を下げた。

「こんなことになって、お母さんにもよくお託びを言っといてくれ。」

私がまだ若くてベルボーイの頃、彼の母親はホテルでオペレーター(電話交換手)をしていた。これ以上言葉を交わすと胸がつまりそうになったので、後は笑顔でごまかした。

四時頃ひょっこり、私の前任者で今は退職された杉山さんが訪ねて来る。我が社の事情をM高校の先生からの年賀はがきで読んで、うすうす知っているらしい。

「大変やなあ。」

「えらいこってすわ。」

M高校は長年九州地区でウエイトレスを供給してくれた商業高校である。昨年夏には、この学校だけでなく各地区の高校から七十人もの生徒に採用通知を出しておきながら、秋になって採用を取消した。

 

一月六日。今日は関西鉄道本社に九時三十分の待合わせのところ、目が覚めたら七時四十分だった。

時間のないのに、律義に浣腸をしてから出掛ける。地下鉄から近鉄ヘ乗り継ぎ、西大寺でもちょうど入ってきた快速急行に、ホームを斜めに走って飛び乗るという離れ業で、信じられないほどうまく乗り継げたと思ったが、それが鶴橋ではもう九時三十五分だった。十五分近く遅れたのを、「どうしたんや」と問われ、逆に、「乗り継ぎがうまくいきませんで・・」と弁解しなければならなかった。

我が幹線食堂はみやびホテルが親会社で、従って関西鉄道からは孫会社に当たる。みやびホテルの社長、専務は関西鉄道からの派遣役員だった。

森脇専務は別室で会議があるとのことで、みやびホテル総務の野中課長と二人でGさんと会った。いわゆる年期の入った筋金入りの係長である。会社解散みたいな滅多にないようなことが、関西鉄道本社ともなると開連企業の中に四つも五つも事例があるというから大したものだ。

「いずれ日を改めて労務担当の弁護士さんにも会ってもらいましょう。」と、なんでもこなしてきたらしい的確な助言をいくつもしてくれた。

昼飯の接待もなく、森脇専務は、自分は残るので二人で帰ってくれと言われ、一時過ぎに京都に戻る。

事務所では、私が帰ってからずっと、森中常務は机に向かったまま、なにをするでもなし、気力をなくしてるみたいに動かなかった。彼はホテル事業部時代からの生え抜き、いわゆるプロパーで、列車編成に関すること、乗務員の乗りまわし、駅構内食堂の営業、メニュー内容など、すべてに精通し、指導力を発揮してきたのだ。それが、夕方六時になるとさっさと机の上を片付けて引き揚げてしまった。

私は八時までワープロを打った。

  

七日、十時に会社へ顔を出して、今日は昼には帰るつもりだったが、着いた早々、出勤していた堀吉係長とU君が列車に狩り出された。福岡営業部から、乗務員が八人編成のところ三人だけで博多を出てしまったので、新大阪から何とか二人をとのこと。お陰で事務所の留守番がなくなり、私が夕方まで残るはめになった。すでに各基地で乗務員不足が目立ってきている。しかし社員を募集して補充するわけにはいかない。それは道義的にもできない。

近頃は本来の経理の仕事より、ワープロ打ちに専念している。

三時からホテルに出かけ、親会社と幹線会社の役員が集まっての打合わせに同席する。従業員解雇に伴う再就職あっせん開始が現実のものとなりつつあった。労働組合との協議を控えての打合わせである。一ヶ月前にお膳立てした再就職あっせんスケジュールが、いよいよ実行に移されるわけだが、なんとなく胸騒ぎのする思いである。自分で自分の首を絞めていることは理性では解っていた。それにもかかわらず、まるでゲームの始まりのような、顔の火照る、浮ついた心境だった。

今日の打ち合わせの曳きまわし役は私だった。みんなにワープロ打ちした表を配り、晴れがましくも、「解雇予告」以下のスケジュールを順を追って社長以下に説明した。

 

夕方配られてきた組合の教宣(機関紙)が、幹線会社専任役員の解任と、幹線従業員全員解雇の逆提案を掲載していた。昨年末の団交の席で委員長が言葉にしていたが、執行委員と会社側役員とだけの中であり、脅しという気が少しあった。

十七年前、「みやびホテル幹線食堂」が親会社「みやびホテル」から分離独立した時、両者の従業員の労働条件で相当もめた。妥協の末、出発時点ではとりあえず平等の取り扱いとなり、その上、先々の不安を解消するため、労働組合は分裂せずに、全員が親会社の組合に残ることとなった。のちに、幹線食堂会社の業績が悪化する中で、完全平等の原則は少しずつ崩れていったが、全般的には組合員の待遇維持に有効だったと思う。「みやびホテル労働組合」の委員長、書記長は親会社側で占め、幹線食堂会社側からは副委員長、副書記長が選ばれていた。

みんな大分興奮していた。

「これが組合の言うことか。なんのために高い組合費払ろてきたんや。」

十六日の拡大中央委員会に出席する代議員のW君に、自分の実印を持ってくるようにとの指示があったそうだ。「全員解雇」を議決するにあたって議事録署名人に指名されたのだ。W君は人事課の係員でもある。

昨夜半、すみ子がこわい夢を見たと二階から駆け降りて来て、われわれの布団にもぐりこんだ。一昔前と違って、もう娘と二人が一つの布団では寝られない。肩がこるし体がはみ出し風邪を引きそうだから、隣の部屋に布団を敷いてやる。それやこれやで少々寝不足ぎみとなった。

それにもかかわらず会社では午後の団交に備え、朝一番からそそくさと打合わせをする。組合の速報で状況がごろごろ変わる。

午後二時半団交。三月十五日全員解職の組合逆提案にも驚いたが、会社側からも調子を合せたように、「会社解散、新会社で駅構内レストランを」と、組合員をびっくりさせた。一般には会社と組合の慣れあいとしか写るまい。団交はこの前までとは打って変わって穏やかに進行した。

  

一時から「再就職あっせん小委員会」。今日は宴会がひまなので、「藤の間」を使用することになった。少し前から私は腹の調子が悪かった。森中常務もトイレヘ行くといい、いっしょに便所に入ったのは余り人に言えたざまではない。

ホテルの藤の間はずいぶん立派な部屋で、まるで「御前会議」の雰囲気である。組合もずいぶん態度が軟化している。履歴書に貼る写真代を会社が出そうというのに、そんなの自己負担でよいという。

八時過ぎまで残業していたら、地震があった。倉中係長は胆をつぶして、机の下に潜り込んだ。揺れが静まると机から這い出して来て、ガスストーブを消しに飛んで行ったのには、さすが女性だと感心した。

  

レストラン博多が四月以降どうなるか微妙なことになってきた。JR九州がコンコースの全面改修を計画していて、以後はわれわれは新契約に基づくテナントとして入ることとなるらしい。もう十何年来一種の既得権益として博多駅構内での営業を請け負ってきている。どうしてこんなことが今頃になって分って来たんか分らない。

ホテル人事部の木田次長と東映映画村へいっしょに出掛けた。取締役飲食部長と会ったが、一見助監督くずれのような紳士であった。数年前、映画産業が斜陽になった時期、余剰人員のはけ口としてこの映画村が造られ、食堂の料理方も大部屋あがりの素人だという。「ホテル仕込みのコックさん」がぜひ欲しいのだと飲食部長が膝を乗り出した。

帰り道、御池通りをバスで通ったので、我が家に立寄った。娘は昼からの授業を受けずに帰って来て、二階で受験勉強をしているという。皆そうらしいが、長女の時にはそんな話は聞いたことはなかった。

 

昼から労使の「幹線食堂再建委員会」が開催されたが、幹線食堂の役員は出席できない。別室で待機である。一時半から六時まで待ちに待たされた。社長と森脇専務は引続いて、「祇園の間」の「新春大舞踊会」とやらにタキシードを着込んで出掛けてしまったから、そこから戻って来るのを皆で待つこととなった。八時半になってやっと、待ち切れず解散となる。時間の無駄もいいところである。 

 

日曜出勤。森中常務も来ていた。牧坂専務もほどなく出てこられた。

「解散」「清算」の日程案を昼過ぎまでかかって書き上げる。こんな作業は滅多に経験できるものではない、と自分に言い聞かせ、そう思うと気分も落着いた。

牧坂専務に解散の日程表を見せたら、なんとなく腑に落ちない顔をしていた。しばらくして急に東京の自宅へ帰ると言い出された。なにか空しくなったのだろうか。

そのあとは、求人を依頼する企業へ出す手紙の宛名書きを七時頃までやる。約百社もあった。 

暮れるとさすがに寒い。うちに帰ると、ちょうど湯どうふがくつくつと煮たっていた。 

 

地下鉄の乗客が平然と座っているのが、近頃当り前のことに思えなくなっている。皆、なんの屈託もない顔つきで座っている。安定した会社勤めが定年まで続くことを当り前のことと考えているが、ある日突然破局は襲ってくるのだ。

昼からみやびホテルへ出かけ、一連の再就職あっせんのための資料を輪転機にかけた。四百部ともなると大変な量であった。 

 

経理のG君が、有給休暇を消化するから実質の出勤は二十五日までというので、替わりの事務員を求めて午前中にキャリヤパワーとマンパワーに出掛けた。二つとも清潔な感じの事務所で、女性ばかりで運営してるみたいだった。登録者の九十%が女性ということだった。一時間千八百円とはいい値段である。でも食費、交通費、社会保険料いっさい込みとなればそれほど高くはないなあと納得させられた。

町内の岡田さんのお通夜の帳場を引受けているので少し早めに帰る。ご飯を食べている最中に、野々村さんが誘いに来た。今日はそれほど寒くないので助かる。参列者もそれほど多くなかった。帳場もひまだった。八時にならない間にお開きになった。

夕方から佐和子が喪服持参で来ていて家内といっしょにお参りした。香典はこちらで包んでやる。婿殿が東京の学会に出張したので、今日は泊まって行くそうである。 

  

午後みやびホテルヘ。経理担当の広部常務に役員給料の減給りん議のことで話を聞く。私と松原取締役の本給部分の取扱いに私は疑問を持ったが、突っ込んだことまでは聞き質せなかった。それどころか、

「いろいろご配慮ありがとうございます。」などと言ってしまった。

 「桃里の間」での再就職あっせん小委員会で、森脇専務の指名でコーディネーター役を勤める。いよいよ二十二日からのあっせん開始と決定。準備に十時まで残業する。

「ここまで来て、書き直しがどうの刷り直しが大変とか言わないで下さいよ。」と牧坂専務に念を押された。そのお陰で大変な二重手間となった。彼等はさっさと帰ってしまう。

それにしても委員会の席上、組合委員長がヨーロッパ旅行の話を持出し、会社に寄附を要請したのには呆れて物が言えない。

 

朝から私一人でみやびホテルヘ出掛ける直前、牧坂専務に企業あて「求人依頼」の手紙をセットするよう頼んでおいた。専務は軽く「いいですよ。」と請合ってくれたが、ちょっと気の毒な気がした。その上、ホテルヘ着いてから電話で糊付けも頼んでしまった。

すごい量の印刷物である。午後、そのセットに精を出している最中、二時からの「退職金小委員会」に急に呼ばれた。牧坂専務も呼ばれて来ていた。森中常務もやがてやってきた。先に仮計算していた割増退職金のリストが役に立ち、概算の総額を発表すると、みんな息を飲んで言葉を失っていた。四時半まで掛かった会議の間中、従業員全員に郵送する「再就職あっせんに関する資料」のセツトのことが気掛りで、終わるやいなや駆けつけると、みんな上着を脱ぎ捨てて頑張っている。私も上着を脱ぐ。森中常務もほどなくやってきて、上着を脱いで手伝ってくれた。ダンボールにパック詰めにしてフロントページに預け、「宅配便に渡してくれ」と頼んで帰途についたのは七時半を回っていた。

それから会社でもう一仕事。九時半にうちに帰ると、ホームごたつを机にして娘が一人で勉強していた。礼子は婦人会の新年宴会で十一時半に帰ってきた。

 

夜、ルーマニヤのチヤウセスク政権崩壊の七日間をドキユメントで見た。歴史の瞬間である。

 

土曜日にみやびホテルヘ社印を持って行ったなり持ち帰るのを忘れていたので、朝ホテルの人事部に寄る。とって返して九時半から、あっせん業務担当者会議を開く。いろいろ問題がありそうだが、何より、再就職あっせん開始を契機に早期退職者が出ることが予想され、人手不足になった時の幹線食堂営業をどうするかが一番の問題となった。牧坂専務はただ口をつぐむのみだった。

夜の八時頃親会社の湯川部長から電話が掛かった。特別急ぐ用件もなく残業をしてるかチェックされているようなタイミングだった。今日もまた九時まで残業する。

 

ゆうべは夜中に目を覚ました。胸に圧迫感があった。

明日から就職あっせんの受付に入るので、その最終打合せを、新幹線八条口にある、系列の新みやびホテル役員応接室で九時半からやった。森脇専務は「壮行会」と呼んだ。森中常務は福岡営業部ヘ、中川取締役は東京営業部へ行くのだから、なるほど壮行会かもしれないが、私は大阪営業部担当だからそれほどの悲壮感はない。

午後、ホテルの木田次長と新大阪ヘ出かける。新幹線各列車が雪で遅れていて、水野次長が乗務員に矢つぎ早やに指示を与えている。

四時半には帰れたので京都に五時に着くなり散髪に行った。今度いつ行けるか分らない。私の体力を心配してか夕食は久し振りにすきやきだったが、なぜかすぐに満腹してしまった。

今日、衆議院が解散した。

 

朝一番成人病検診を受けた。血圧は心配していたが、全く正常だった。

今日からいよいよあっせんが始まるので、京都の事務所には寄らず、その足で大阪営業部ヘ直行する。

ところが、案に相違して一日中ひまで時間を持て余ました。一人も相談に来ないのだ。あっせん委員の我々は、だれかれの陰口や冗談話で時間をつぶした。東京、福岡とも同様らしい。食事をしてはうたたねの繰り返しだった。どことも早目に引揚げたので、われわれも時間より早く二十三時過ぎで打ち切った。ほかの委員は近くのホテルに予約を取っていて泊まったが、私はそれをキャンセルして十一時十九分の快速でうちに帰った。

うちに着いたら、娘が奥の間で寝ていた。久し振りに母といっしょに寝るところだったのに悪いことをしてしまったようだ。

 

朝大急ぎで机の上の仕事を片付けておいて十時の新快速に飛び乗ったが、あいにく席はなく新大阪まで立ちっぱなしだった。

今日は午前中いろいろ問い合わせやら何やらで割に早く時間が経った。それでも申込みは一件もなく、昼からは全く暇だった。

晩は予定より三十分早く引き揚げて、七時五分の新快速に乗れた。しかし帰りもまた立ちっぱなし。それでも八時前にはうちに着いていた。

 

昨夜はそこそこよく寝られた。寝られるとやはり心臓の痛みもない。

今朝はさらに遅くなって、九時十五分の新快速で出掛けた。この時間なら何とか座れる。いつのまにか私も座席を捜す年になってしまった。前の座席に若いアベックのうちの男の方が紙袋から豚まんを取り出して食べている。二つ目を頬ばりながら彼女にもすすめるのを、女のほうは笑いながら首を横に振った。ふと私は東京に就職した長男のことを思出した。保雄にもさゆりさんという彼女がいる。

水野次長ははしやいでいた。自分中心でことがらが進んでいると思いだすとたん、急に言葉が滑らかになる癖がある。歯の浮くようなようなことを平気で言う。今日は二時から小委員会があるのだが私は呼ばれてなかったし、幹線食堂会社の役員は誰も呼ばれてない。ホテル人事の木田次長は出席するので、昼から京都へ帰ることになっていた。

 

京都地区あっせん委員の浜屋次長が私用で休んだので、私が代わって今朝は京都へ出勤する。といっても五時まで一人の問い合わせもない。一日中ワープロを打っていた。昼過ぎレストラン京都の店長に電話をしたら、あっせん資料を数人が返してきたとのこと。名前を聞くと中高年だけでなく、若手の名前も出てきた。これは変だと私は思った。タ刻、森中常務から電話があり、聞いてみると、博多でも同様のことがあり、組合が動いているらしい。常務の言葉を借りれば、唾をつけて回ってるらしいとのこと。ホテル人事の湯川部長に聞いてみたが会社は知らないという。京都は委員長が、新大阪は副委員長が、博多は副書記長が一人一人に新会社の配属を言いまわっているらしい。

夜九時過ぎ、M君から電話があった。副委員長からレストラン京都に残留を言渡されたそうである。組合の出方は腹立たしかったが、一面我々の指名でないことがはっきりして都合のいい面もある。

 

今朝はまず職安ヘ出掛け、中高生の就職担当次長に会う。話が長くなったので新大阪へは、十一時に着いてしまった。

今日もあっせんの相談はぼちぼちというところ。購買係のU君に「若い人はジューダ(求人誌)で探せば、もっといいところが沢山ある。」と言ったところ、出勤していた組合役員にジューダで探せとは何事かと詰め寄られた。

夜、飲めもしないのに寝しなに缶ビール一本を飲みきったせいで胸が少し痛かった。

 

夜中目を覚ますたびに胸が痛かった。

午前中大阪営業部へ。こちらの厨房に手伝いに来ているM君に廊下ですれ違ったが、困ったような顔をした。

「組合が選んだのにも理由があるやろ。あとは自分で決めることや。」近寄って彼の肩をたたいた。

昼から京都へ帰って、今までの中間集計をやった。予想外の出足の鈍さが数字の上でもはっきりした。みんな関心があるらしく社長からも電話があった。数字をかいつまんで報告しておく。堀吉君に離職票の溜め書きのことを頼んだら、案外素直に給料計算後にやると言ってくれた。その上、自分も失業保険を貰ってしばらく頭を冷やすとも言った。

六時半に帰って夕食をとったが、胸がなお痛むようなので行き付けのM医院ヘ自転車を走らせた。ここの看護婦は地下鉄でよく見掛ける顔で、診察時間が終わりかけていたのを取り次いでくれた。心電図もとってもらったが単なるストレスだと言われた。

 

昨夜は薬のお陰でよく寝た。

午前中、森中常務も九州から帰ってきて、みやびホテルに集まり現状報告をさせられた。常務は風邪でダウン気味である。

そういうことで大阪営業部へは午後から出かけた。かなり寒かった。

相変わらず相談は少ない。二時過ぎになって、ちょうど今娘のテストが始まった頃だと、そんなことを考えていた。

五時半に終了して京都へ戻る。会社へは寄らずそのまま家ヘ帰ると、娘はぶつっとこたつに潜りこんでいた。

「どうやった。」ときくと、

「ふつう・・」と一言返ってきただけ。

すみ子の「ふつう」はまずまず出来たという場合が多いと一人合点して、私は安心した。家内はそんなことでは納得しない。相変わらずの心配性である。

 

 

二  月

 

朝起きたら、屋根に雪が積もっていた。少し風邪ぎみでもあり、アルパカの冬オーバーを思い切って羽織った。

「気がひけるんやろう。」と妻に見透かされたようなことを言われた。なにしろ私も礼子も貧乏性なのだ。

朝から大阪へ行くはずが何やかやとあって、とうとう昼になってしまった。一人に関西鉄道観光の申込書を出させたほかは取り立てて申し込みはなかった。

女子寮の暖房が故障しているのに、業者がもう修理できないと言ったとかで、課長代理が顔をこわ張らせて申し立ててきた。いつの間にか管理職も組合を盾にして物を言ってくる。

 

森中常務は亡くなった夫人の一周忌で休む。

私は銀行へ行くと言って、実は私用であちこち印鑑変更届に回った。先日礼子が家の銀行印を無くしてしまい、大騒動しているのだ。午前に三和、午後にも住友、大陽神戸。これで大体完了した。

会社に帰ったら南都銀行の支店長が転任の挨拶に来られていた。奈良本店に帰任するらしく、彼も五十五歳で縦のポストから外れるらしい。

事務所の三人に今後の身の振り方を確認する。言い合わせたように再就職はせずに家でしばらく休息するとの答えが返ってきた。こんな話は寂し過ぎる。

 

朝から打合わせのはずが伸びに伸びて、夕方六時からになった。

牧坂専務が風邪でダウン。京都へ出てくるつもりが、自宅から新宿まで来て動けなくなったらしい。家に戻って医者に診せたら急性肺炎と診断されたとか。東京から戻って来た中川部長も未だに風邪が直らない。森中常務がまたダウン寸前である。まずまずなのは私だけ。

打合わせといってもこれと言ったことはなく、私が出した「解雇予告」が最大のテーマとなった。八時半帰宅。

 

日曜日の朝、「ソ連、民主社会主義ヘ移行」の大ニュースが流れた。娘は短大の受験に八時前にもう出掛けた。

昨日からもう今日は休むつもりで決心している。十一時頃から礼子と久し振りに御所へ散歩に出掛けた。あちこちの松が先日の雪で、枝折れしていて散乱していた。

すみ子は待てども待てども帰って来ずに、五時半ごろやっと帰ってきて、日本史も英語も難しかったという。

  

中川部長の奥さんから主人が風邪で休みたいと電話が掛かってきた。中川部長が持ち帰ってる書類があるので、奥さんに郵送を頼んだところ、電話口で口ごもっているので、変に思ったら、実は自分も風邪で、寝込んでいますとのこと。

様子を見にレストランに廻ったら娘の友達のYちゃんがバイトで来ていた。「受験は大丈夫なの?」と聞くと、

「私はエレベーターやから・・」と笑顔が返ってきた。

南都銀行の支店長にせん別を持っていくが、挨拶廻りで留守だった。

なんやかやでばたばたと日が暮れた。あげく六時半からまたホテルで打ち合わせ。昼間事務所でぜんざいをよばれたので、お陰で腹は持った。「雇用関係の終了」を皆が生ぬるいという。

 

昼から西内専務と関西鉄道本社ヘ出かけた。特急電車の中で専務は手塚治虫の「ぶっだ」を読み始めた。「なかなかためになるよ。」と薦められた。

「解雇予告」を関鉄本社の庶務課長から弁護士のM先生に聞いてもらう。ほぼ私の案に賛成していただいたが、ただ言葉としては「雇用契約の解約」とした方がいいと助言された。

六時半に帰った。それから封筒に全従業買の氏名印をつく。「解雇予告書」を渡す準備である。

うちに帰ると、娘がしきりに難しかったを連発するので、こちらも少し落胆した。

  

牧坂専務から電話が掛かってきた。やっと熱が下がったからと、出勤して来ている。無理しているようだ。

今日も、午前も午後も矢のように時間が経った。三時にぜんざいをまた食べたが、随分甘くて夕方まで胸がもたれた。西洋フーズを受けたJ君に合格通知が電話で来た。よかった、よかった。

今日は娘は同志社短大の入試である。五時頃になって、いくら何でももう終わっているだろうなと思いながら、仕事をした。五時半ごろ委員会が終わって全交渉が妥結したとの連絡を受けた。

七時半に帰宅したら、娘は先日来と同じ口調で、難しかったと言う。とにもかくにも、娘の入試も今日で終わりだ。礼子が母親らしい気遣いで、お疲れさんケーキを買ってきた。すみ子に私がもう一度感触を尋ねると、

「心配せんでも、そのうち発表があるわ。」と逆に慰められ、 

「お母さん発表まで心配なこっちゃなあ。」と家内まで冷やかされる始末だった。 

  

今日は関西鉄道本社へ六人を連れて、就職試験を受けさせに行った。みんな緊張のせいか、事務所で弁当を食べて行こうと言っても誰も乗って来なかった。向こうに着いて聞いてみたら、十二時半から五時近くまでかかりますよ、とのこと。慌てて、社員食堂を利用させてもらい、三百九十円の洋定食をとる。メニューの数も三十種類ほどもあり、さすが大会社は違うと羨望ひとしきり。

今日から中川部長が出てきてくれて、「解雇予告」の氏名印押しを一手に引受けてくれた。 

 

昼からみやびホテルヘ出かけ、我々の関与してない残留者名簿に初めてお目に掛かる。大部分は予想していたが、灯台もとの堀吉君、Tさんは意外だった。私が行き先の確認をした時にはすでに残留がきまっていたことになる。副委員長、副書記長が入っているのは当然といえば当然なのだが、それにしてもぬけぬけと、という気持ちである。

それやこれやで九時半帰宅。娘は明日の発表が気掛りなのか、浮かぬ顔をしていた。

  

朝の十時頃、副委員長がぷらりと入ってきた。贅肉が付いている。何もせず、ぶらぶらしていたせいだろう。残留者に目配せして見せ、された方も会釈している。

牧坂専務、森中常務との打ち合わせが長くなり、食事を終わったのが一時半だった。娘のことを思い出し、今まで電話がないからは、駄目だったのだろうと悲観的になった。

その直後に家内から電話が掛かり合格の知らせだった。

今日から「解雇予告」を皆に手渡す。スムースである。堀吉君だけがなぜか絡んできた。残留組とこちらは分っていたが、言うもならず、その見え透いた演技に腹が立った。他の連中は何の抵抗もない。これもあっけない。異常な経験である。経理の倉中係長には会社解散後の四月一日以降も私の下で当分残留してくれるよう頼む。もうひとつ乗り気でないような顔付きを覗かせていた。

佐和子が信州松本から電話してきた。長男も電話してきた。皆次女のことを聞いた。家内は観音寺(彼女の実家)にもすみ子の大学合格の電話をした。

 

日曜日もなにもない。九時半に出社したらもう森中常務から電話が掛かっていた。配達証明郵便の出し方を聞いてきた。「解雇予告」を休務者に送るのに、内容証明、配達証明で郵送する方法を二度も中央郵便局を往復して会得した。

昨日の晩に中川部長が、別便で残留者用の文章を発送していた。出勤していた浜屋次長に、近く速達が届くはずだと、人目のない時に耳元でささやいたら、どきまぎしていた。が、すぐ観念して、実は先日・・・と白状した。

うちに帰って見たテレビで山が荒れていた。春のような陽気で雪が溶けて雪崩が起きている。松本ヘスキーに行っている佐和子夫婦のことが気掛りだった。

 

今朝もまた森中常務から電話が入っていた。九州に行って何かいらいらしているみたいだ。各地からの報告からして、昼までに全社で九十パーセントは「予告文」を渡し切ったことになる。京都は残り一人だけ。三時半には福岡から完了の電話があった。

レストラン京都でM君に出会った。彼が片脇へ引張って行って、ばつ悪そうに、

「僕たち実は最近離婚したんです。」というので、唖然としていると、

「近くご挨拶にお伺いするつもりです。」と言った。私が彼等の媒酌人だった。

夜八時頃、長女から電話があって、スキーから無事帰ったらしい。

十時過ぎ、遅がけではあったがM君の父親に電話する。離婚話はだいぶ前に始まっていて、もう決定済みらしく、ただ報告のみの段階とのこと。お父さんはひたすら恐縮するのみだった。

 

 

朝のうちに残りの一人が終わって、京郡での「予告」事務は完了する。新大阪へその足で向かう。

昼から京都事務所へ帰って来たが、堀吉君も今日は素直になっていた。

四時からホテルで、各営業部基地の返還、再生の打ち合わせ会議がある。長年積み重ねてきた知識を元に森中常務が小気味良く、流れるがごとく説明する。西内専務は、

「なんにも知らんものが寄り合って相談しても何にもわかれへん。」と兜を脱いだが、森脇専務は、

「それを教えるのが君たちの義務や。」と、どこまでも人の気持ちを逆撫でする。

 

親会社に提出する連結決算用の資料がなかなか完成しない。朝から掛かっているが、次々雑用が入って、昼から新大阪へ行く時間が来てしまった。大阪営業部に着いたら一時二十分。福岡から一人女の子が、みやびホテル大阪を受験にやってきたのを連れて行くことになっている。二時の約束である。

向こうに着いたら二時を十分遅刻してしまった。面接の間、私がベルボーイ時代にフロントクラークだった鶴瀬常務に会う。抹茶をご馳走になりながら、会社の話をしていたら、

[あんた自身はどうなんや。]とふいに聞いてきた。

「私はまだそれどごろでは・・」

「そんならうちへ来ないか。」

こちらの返事も待たずに早速、

「セールスでもなんでもええんやろ、履歴書を送ってくれ。」と決め付けられた。

帰社したら、森中常務が声を潜めて、「浜屋次長が残留を嫌がっているらしい。」といった。

帰って、礼子に鶴瀬常務の話をすると、「セールス?」と聞き返して眉をひそめた。

「あんたには無理ちがう?」とずばり言った。

 

十一時過ぎには、社員食堂で少し早い昼飯を食べ大阪営業部ヘ出かける。JRの子会社SPSに六名を面接に引率して行く。

三時に京都へ帰って来て、うちへ電話する。娘が出てきて、「あったことあったんやけど、まだ速達が来やへんね。」

O短大はどっち道滑り止めだから、娘も私もそれほど感激がない。

残留組にまた一人変更が出たらしい。

レストラン博多要員の一人と列車乗務のKを交換異動するよう、ホテルの西内専務が喧しく言って来た。これは新会社への残留員工作の一環だと分かっていた。森中常務もだいぶ抵抗したが、とうとう諦めて明日付けで発令することを了承する。

七時半に帰宅。まだ合格通知は来てなかった。郵便車が車ごと盗まれたニュースが流れて、速達が十八通あったとか。いくら滑り止めでもなんとなく物足りない夜であった。

 

午前中に連結決算の資料を作ってしまおうと思ったが、相変わらずの雑用に追われ、ろくでもない電話にしばしば仕事が中断した。京都関鉄デパートへ紹介状を一通持って行く。

新大阪のSPSへはとても行けそうにないので、中川部長に代わりを頼んだ。

十一時前に家内から電話が掛かって来て、KJ短大も受かったとのこと。礼子の声も弾んでいた。十二時頃になってやっと資料が完成し、二十三日の監査の準備は一段落で、間に合ってほっと一息である。

夕方西内専務から電話があり、ホーム売店がやれないかもしれないとの話で、緊急に会議を開きたい、牧坂専務にも召集をかけたという。一山越えたと思ったのに、また一波乱ありそうだ。

組合幹部が三、四人レストラン京都で会合していて、その席にビールを持ってくるよう業者に言えと、浜屋次長に要求して来たらしい。浜屋君が心配を森中常務に打明けた。どうなるのか新メンバー。

 

森中常務は奥さんの法事で休みだった。牧坂専務は十一時頃来られた。

娘から電話で、同志社短大にも合格したと言ってきた。

「私て、すごいやろ。百発百中や!」と興奮していたが、私は周囲に気兼ねして、「おめでとう」も言ってやれなかった。

昼からみやびホテルに出かけ「ホーム売店」の件で緊急会議を開く。事務所一階の厨房で弁当を作って、新幹線上り下りホームの売店で売っていたが、小規模ながら幾ばくかの利益を上げていた。JRはここも取り上げようというのである。野原社長は至極淡白に、

「JR東海のS社長がそこまで言うてるなら、もうあかんで。」

その一言で「ホーム売店」もまた閉鎖の方向へ動いた。その他の議題として、退職条件の説明会を各地でやることになるが、私はそのメンバーから外れた。

牧坂専務は八時半頃最終の新幹線で東京の自宅へ帰ってしまった。

  

今日は総選挙の日である。十時過ぎ投票に行く。

七時過ぎから開票速報が一斉に始まり、七時半には当確が出始めた。自民党が予想以上に強く、社会党も躍進する。五日前の新聞予想がぴったし当たっている感じで、ただただびっくりするばかり。

  

京都関鉄デパートへ面接に一人女の子を連れて行く。会社に戻るやいなや内定の電話があったほどで、彼女はなかなか評判がよかった。

事務所の空気が私に流れているように昨今感じる。親会社の湯川部長も先日、組合の評判があんたにはいいようだと耳打ちしてくれた。堀吉君も協力的だ。娘がアルバイトを探しているので、適当な求人紙を求めたら、トラバ一ユとサリダを明日貰いましょうと言ってくれた。そのことで組合副委員長からじきじき、「娘さんバイトしやはるんですか。いろいろ大変や。」と電話があったのも何か拘わりがありそうだ。

夕刊が自民二百七十、社会百三十六と確定数を報じていた。

 

牧坂専務は昼過ぎからJR西日本に列車返上の挨拶に森脇専務と出掛けた。

我々は二時からみやびホテルで説明会の下相談をする。

そのうち両専務も帰ってきて打ち合わせに加わる。牧坂専務が、残留人事が組合主導で行われたようなことを口にしたところ、森脇専務が急にかんかんに怒り出した。あくまで会社の人事だと言い張った。白々しくて聞いていられない。四月から旧会社の事務所には役員と経理の倉中係長以外は立ち入り禁止とも言った。

帰り道、森中常務も腹を立てて、そのうち一言いわせてもらうつもりやといつになく興奮していた。

 

牧坂専務は今日は野原社長とJR東海のS社長に会いに名古屋へ出掛けた。やっぱりホーム売店の存続は無理という結論だった。利益の上がる美味しい玩具はすべて取り上げるわがまま殿様のようだ。

午前中ワープロで「解職条件について」を打つ。

夕方からまたみやびホテルで打ち合わせ。明日から「メンバー」はみんな福岡へ行く。堀吉君の長女も高校入試に合格した。それも学費が大変だ。我が家も同様である。帰宅は八時過ぎになった。娘は今日学校へ報告に行き、「三つも受かって、ひとつくらい誰かに回してあげて欲しいわ。」と先生に言われたと嬉しそうに報告した。その後で友達と化粧の講習会に出かけて行った。

 

二十二日から福岡で「退職条件の説明会」が始まった。

昼前に森脇専務から電話が掛かり、一時半頃にやってきて、またぞろJR西日本用の資料作りを言いつけて帰る。明日は会計監査があるというのに、やれれやれと思ったら、ついでに管理職の経歴書を作るようにとも付け加えた。

「沢村さん、がんばってくださいね。」と言われると、つい、

「まあ、体に鞭打って最後までがんばります。」

と気持ちに反した言葉が口を突いてしまう。

すみ子は今しばらくバイトはやらずに、ぼうっとしていると言って、友達の受験のお守り袋作りに精を出していた。

 

公認会計士の監査日である。我が社は年商こそ四十億を越え決して小さい会社とはいえないが、資本金は一億足らず、従って公認会計士の監査は必要としなかった。ただ、みやびホテルの百パーセント子会社なので、親会社の連結決算の対象となっている。その関連での監査だった。四人の先生方がやってきた。その内三人が女の先生だ。一番若い先生はまだまだ子供っぽくて、しやべり方なんか、うちの娘と大して変りがない。しかし、若いからまじめなのだろう、監査は朝の九時半から夕方の五時半まで、びっしりだった。いつも昼はうちのレストランでステーキ定食と決まっていたのだが、皆の手前をやはり気使って今年はハンバーグ定食にしておく。

夕刻から、幹線食堂会社専任役員の履歴書をワープロで作る。案外手間が掛かった。

 

昨夜は胸が詰まるようで、一晩まんじりとも寝つかれず、相当時間寝返りを打ちながら起きていた。朝になってもほとんど起きられないぐらいの状態だった。それでもやっと洋服に着替えたが、立っていられず、ホームごたつに潜ってうたた寝してしまう。十五分ほど寝たお陰でなんとか体がしゃんとしてきたので、ミロとりんご二切れを食べて会社へ出かけた。一目で顔色が悪いと分るようで、皆が「体の調子でも悪いんですか?」と声を掛けてくれた。昼ご飯も半分以上残してしまった。

やっと夕方になり、急いで片付けてうちへ帰ったが、まん悪く医者は土曜日で夜は休みだった。それでもタ食はそれなりに食べられたし、気分も少し落ちついてきた。娘も鼻を詰まらせて風邪ぎみだった。

 

昨夜は前夜の分までよく寝られた。体の調子はだいぶましだった。九時過ぎに会社へ出かける。十時半頃、昨夜九州から戻っていた常務も出勤してきた。私は、森脇専務に言い付かった資料作りを口実にに、同行を求められた大阪行きを断った。常務は十一時過ぎに、専務は十二時前に、新大阪での説明会に出掛けて行った。

京都駅食堂の店長がやって来て、咋夜副委員長がボトルキープし、伝票にサインして帰ったと言ってきた。請求すればと言うと、それは困る、社用にしてもらえないかと半分命令口調だ。そんなこと私の一存で出来んと言うと、しばらくして、電話で浜屋次長が持ってるボトルで埋めておくからと言ってきた。午後は、再就職の先が決まってない部課長の履歴書をワープロした。どうしてか今日はワープロが疲れる。やはりまだ芯熱があるらしく、体がだるい。 

 

昨夜風邪薬を飲んだせいか、朝までよく寝た。妻は、どうしたのか夜中しばらく寝られなかったと言った。

今日は朝から秒刻みの忙しさだった。京都での説明会にも出席せず、昼食も、向かいのうどん屋で天そばをかきこんで仕事を続けた。二時半までの約束が二時になると森脇専務が、

「沢村さーん」とやって来た。大慌てで、何とか書類を揃えることができた。やれやれと汗を拭う。帰り際、専務がまた、「沢村さーん」と寄ってきて、「心配するな。今はいわれへんけど・・」と意味ありげに肩に手を置いた。

「管理職のこと、よろしくお願いいたします。」

と私も、どさくさに頭を下げた。 

 

今朝も忙しかった。職安から課長と係長がやって来た。みやびホテルの木田次長も交えて、三月十六日から末日までの、失業保険空白期間の取り扱いについて意見交換する。三月十五日が全員解雇の確定日で、新会社発足は四月一日だったから、その間は旧幹線食堂会社への出向社員扱いになる。なぜこんなことになったかというと、JRとの営業契約ならび駅構内借用契約の期日がすべて四月一日を起点として一年ごとの更新だった。新会社との新契約もその基本を曲げるわけにはいかなかった。一方旧会社の担当列車はダイヤ改正日の前日、つまり三月九日ですべて返還する。給料締切日が十五日だということも考慮されて退職予定日が三月十五日と決まった。十六日から三十一日までの旧会社の借用期限内は旧会社の従業員がいないから、新会社に移った従業員を旧会社への出向という形で受け入れて営業することとなる。なんともややこしい事情だ。

昼からは新大阪の「説明会」に初めて出席した。参加者はたったの二人。それでも幹線食堂会社の専務と、親会社の専務はそれぞれ代表挨拶をした。組合の委員長は馬鹿に機嫌がいい。

五時過ぎ、今日も無事に過ぎようとした頃、親会社の経理担当常務に突然ホテルに呼び出された。連結の監査で幹線食堂撤収の議事録を見せたのが問題になっているらしい。幹線食堂会社の議事録の日付が十一月二十日。それを親会社では一月二十二日としている。つまり親会社の決算後に幹線食堂撤退が決まったとしたいらしい。意思の疎通がなかったこと。監査に親会社が立ち会わなかったことの非を常務も認めたが、なんとも後味が悪るかった。議事録を二つに分割して作り直すことになる。

 

昨夜、また一晩腹がじわんと痛くて寝苦しく、朝になっても気分が勝れなかった。やっばり咋日の連結監査のことが心に懸かったのかもしれない。

昼、うちへ帰っておかゆを食べる。それから一寝入り。二時頃会社へ戻ったら、一時までにホテルへすぐ来るように広部経理担当常務からの伝言が入っていた。電話してもすでに常務は出掛けた後。どうにでもなれと、後は夕方まで放っておく。

四時半ごろ広部常務から電話で、何とか場面を取繕ったそうだ。A会計社のG先生も暗黙で承知したらしい。確かに私にも軽率なところは無くはなかった。

 

 

三  月

 

娘の卒業式である。六時にもう起き出した気配で、七時過ぎには着付けに出掛けて行った。一時間半後に振り袖姿で帰ってきた。写真を何枚か撮ってやる。背が少し高く見えた。

私が出掛ける頃は今にも降り出しそうな空模様だった。

午前中に議事録の打ち直しをし、昼からは今期の決算予想を作る。作り終えて、それを大急ぎで三、四枚コピーすると、タクシーでみやびホテルへ。広部常務にだいぶ絞られた。会社解散の話まで若い会計士に喋ったのはどうみても軽率だった。続いて森脇専務にも一言断りを言う。と、案外当りは柔らかだった。

「何かと気分の落ち込む時もあるやろけど、君が頼りやから、がんばってくれよ。」

逆に励まされた。

家に帰ると、振り袖は壁に掛けてあって、すみ子はコンパに行ってまだ帰っていなかった。十時過ぎに、姉に借りたスーツを着て、疲れた顔で帰ってきて、そのまま二階へ上がって寝てしまった。

 

各地の説明会が昨日で終わり、森中常務も帰ってきた。

朝十時から総括の役員会をみやびホテルでやるというので出掛けた。その冒頭、この間の慰めの言葉はどこへやら、またぞろ森脇専務から議事録の件が持ち出され、何もご存知ない牧坂専務が一言疑念をはさんでしまう。そこで森脇専務がまたまた口を震わして怒りだし、急いで私が謝ってその場を納めた。会議後、社長が新会社の新役員に言及した。むろん我々は入っていない。さらに幹線食堂役員の再就職の件を述べられた。森中常務には東京での就職が可能かどうかを尋ねられた。即座に常務は、お願いします、と言った。牧坂専務にもJRに頼んであるからと縦に首を振って見せた。

「松原さんは郷里に帰るんやてね。」

私のことは一言も出なかった。事務所に戻ってから、専務が再就職の件を、思いがけないことと驚いておられるので、私は取締役の履歴書提出のことを二人に打明けた。常務も心なしか少し元気が戻ったような感じだった。

 

明日は休むと言っていた常務が、昨日の社長の話に気をよくしたのか出勤していた。年前中、再就職未定者の名簿を作る。

レストラン京都でM君に会ったら、離婚手続きは完了しましたと言う。事務所にも書類は出してあるらしい。

「今晩にでも寄せてもらいます。」

家内に電話したら、今日はお雛様が飾ってあるから離婚話はちょっと、と言う。なるほどと思い、M君に五日の晩に日を変えてもらった。

ホテルの西内専務から、沢村さんは明日は出てくるのか。と聞いてこられた。

「あんたが出て来るなら私も出るが」とのこと。どういう意味なのだろう。

「明日はちょっと息抜きとは言いませんが、息継ぎぐらいさせてください。」と断った。

「そうか。」ということになった。後で聞くと、森中常務も同じようなことを尋ねられたらしい。

七時過ぎ、家に帰ると長女夫婦が来ていて、雛祭りだから、ばら寿司とケーキが出た。家内に保雄から電話が掛かってきて、近く申込みにさゆりさんの家に行くつもりだと言ってきた。いよいよか。

思い出したら、次女は府立短大の入試が今日だったが、とうとう行かずじまいのようだ。三つ合格して、これ以上無駄な勉強はしたくないとのことらしい。

 

日曜日。久し振りの休みだが、六時半に目が覚めてそのまま寝られず、七時半には起きてしまった。

保雄のことで家内と相談していると、側から娘がなかなかいい意見を挟むので感心してしまった。「式はやっばり京都で挙げるのが本当やないの。」とか、「その前に二人で京都へ来ることが先決や。」とか。

その保雄から電話が掛かって来たのは九時を過ぎてからだった。やはり自社株以外には金はないらしく、家も一軒借りるつもりという。株は売っても、結婚なら会社にも理由は立つというが、私は自社株はなるべく手放さない方がいいと助言した。すかさず息子は、それが駄目なら借金しかないと言った。親に出してくれと頼まないところが、それ以上にどきりとさせられる。

 

関西鉄道へ二人連れて行くので、十時十五分の新快速で新大阪へ出向いた。一人が少し遅れて来たので、大急ぎで昼弁当を食べて地下鉄に飛び乗った。上本町に着いたらまだまだ十二時前で、逆に早過ぎて、部屋がまだ開いてないと言われた。時間がもったいない。京都へとんぼがえりして、三菱銀行へ出かける。それから職安へも。

今夜はM君が来るので少し早く帰った。ちょうど玄関に車を乗り着けていて、タイミングがぴったりだった。どうして離婚ということになったのか、具体的に言わないし、こちらも聞かなかった。どうもM君は短気なところがあるみたいだ。会社もそのうち辞めたいという。なだめかけたが、考えてみれば私がとやかく口を挟むことではない。そこそこ話し込んで八時過ぎに帰って行った。

 

朝、一人女の子を関鉄デパートへ連れて行った。

中川新取締役は印鑑を持ってホテルヘ行った。もう我々だけの社印ではない。当面新会社は我が社の子会社のような扱いなのだ。常務と昼食に出掛ける道すがら、帰ってくる中川部長に出会った。我々に彼は困ったような顔をして見せた。

職安に出す大量解雇の届けを書いた。約三百五十名だ。今更その数の多さに驚く。それも、事態の流れの途中で辞めて行った者を含めると四百名を越えた。中川部長と三階で間談する。親会社の湯川部長が監査役に入るらしい。新会社の従業員の人選に、自分が関与出来ないままに決まったことに、中川取締役は強い不満を私にぶつけた。それらを黙って聞きながら私は、寂しさの一面ほっとしたのが本音だった。会社名は「みやびフーズ株式会社」。

「大量雇用届は中川部長に書いてもらおう。」と、職安の届書の一枚を彼に渡した。新会社要員は八十名。全従業員の二十パーセントに当たる。旧会社管理職十六名のうち残留組は五名だった。

今日は何となく早く帰宅してしまった。

 

会社の交通費を節約するのに、我が家の近くだからと、司法書士事務所に行くのに家に寄って、娘の自転車に乗って行った。走り出したとたん小雨がぱらついてきて、往復を全速力で走りに走った。傘をさして会社へたどり着いたら青空がさっと広がって、陽がさしてきた。

社員食堂で湯川新監査役といっしょだった。めっきり痩せてきている。奥さんにもそのことを指摘されて自分でも気にしているらしく、態度も以前ほど威勢がよくない。弱っているのが目に見える。

夕方には健保組合の小谷理事が来て、愚痴をこぼしていく。何かにつけてちぐはぐで事務が噛み合わない。なんの因果でこんなに大量の離職者を一気に処理しなければならないのだ、と私になじる。

残留者も、その処遇が知らされず、不安なことである。しばらくは今の給料を維持すると聞いているが、私からそれを言ってやるわけにはいかない。

京都駅食堂の料理課長が箱根のホテルを希望している。あっせんもいよいよ管理職に及んできた。今や詰めの段階である。