解散日記2

 

 

 

 

 

 

 

   

 

第二章 会社解散

 

一九九〇年(平成二年)

 

四 月

 

昨夜半、腹の調子が悪くて夜中に下痢し、薬を飲んだ。家内が「ほかろん」をもんでくれたので、それを腰に当てて寝たお陰で、朝になったら落着いていた。

日曜だったが、十時ごろ会社へ出掛ける。会社まで、私の家から十五分とかからない。地下鉄に乗っている間ならわずか五分である。事務所ビルの前に佇むと、まだ「みやびホテル幹線食堂株式会社」の表札がそのまま懸かっていて、少し安心した。一階はかって在来線特急食堂車を営業していた頃の仕込み場だった。その後ホーム売店の営業を始めてからは弁当作りの場と変わったが、それも昨日(三月三十一日)で一切の営業を閉じて、今日は入口に鍵がかかっている。厨房横の階段を上がった二階に我々の事務室があった。新体制の初日だが、昨日までと変わらず三人が出勤していた。

「今日からタイムカードを押さなくてええらしいです。」

A君が私の耳元で囁くように告げる。変には思うが聞きただすのは止めておいた。

三月末で再就職未決定者は十二人を残すのみとなっていた。

レストラン京都の店長を兼ねる浜屋次長は程なく駅へ行ってしまった。中川取締役もやってきたが、少しいらついているようで、昼には新大阪へ出かけてしまった。「みやびフーズ」という新会社の名前が気にくわないと堀吉君が愚痴りだすが、それも無理からぬことだった。なんと言っても長年聞きなれた「みやびホテル」の名前が恋しいのである。私はと言えば、取り残された寂しさはあったが、それよりも、もうこの絶間ない日々の闘いから解きほぐされたような安堵感の方が大きかった。

 

月曜日。出勤早々机の上の樹脂製の模造ガラスをアルコールできれいに拭いた。中に挟んで敷いてある業務組織表や列車発着表などを剥がして捨てる。就職あっせん関係の書類も一部づつを残しておいて、まとめて専務室の納戸にしまった。おかげで大分すっきりした。

今日昼からは、関鉄デパートにワープロのテープを買いに行ったのが主な仕事のようなものだった。夕方になってやっとオフコンが決算数値を打ち上げた。仕事らしい仕事をそれから始まる。しかし、七時半になって皆が帰りかけると、力が抜けてきて、さっさと机を片付け、堀吉君や倉中さんに「お先に」と出てきた。帰りがけに会社で貰ってきた夕刊を、地下鉄の座席で広げると、大見出しで円と株の暴落を報じていた。

 

次の朝は、三条通りまで歩き、電話売買のオカムラに寄って、京都と新大阪の電話七本を売る手続きをした。そういう事情で出勤が三十分遅くなる。中川部長とA君が机の移動をしていたが、堀吉君らはあまり手伝おうとしない。私は上着を脱いで皆の仲間に入った。事務室は元々二部屋だったのをぶち抜きにして使用し、最盛期には端から端までぎっしり大小の机で立て込んでいた。今はひっそりしたものだ。真中に仕切りこそなかったが、自ずから入口に近い方に新会社みやびフーズの中川取締役、とその社員がかたまり、奥の方に旧幹線食堂会社の森中常務、私、倉中係長が陣取ることとなった。みやびホテルから派遣されて手伝ってくれているA君は、ばつ悪そうに倉中係長の向かいに机を寄せていた。新会社、旧会社、親会社、三様の給料体系が雑居していたのである。

十時過ぎに、新しい事務体制の打ち合わせがあるので、倉中さんとA君と私が残って、あとは三階に上がってしまった。そこへ元東京営業部の神野部長がひょっこりやってきて、お茶を飲みに行こうと誘うので、新阪急ホテルに出掛けた。みやびホテル大阪には十一日から出勤するとのこと。身分は嘱託、所属は接遇部のナイトマネージヤーだと明かした。そのホテルには彼の後輩が部長の座を占めていることも私は知っていた。ベルボーイ時代のオールナイト勤務をつらい仕事として私は思い出していた。勝気な神野元部長にも幾分の不満が残っているように見えた。小一時間も喋った。会社の敗戦処理をやった同志として、戦友会のような組織を作らないか、そして、ほとぼりがさめて皆が落着いたころまた集まろうと私が提案すると、彼は感情を殺したような顔で何度もうなずいた。

中川部長と小口現金の引き継ぎをやってるころ、新大阪事務所に勤務していたU元次長から電話が掛かってきた。大阪営業部の電話が廃止になっているのを聞いてないと中川部長に文句を言ってきたのだ。私が代わって、

「既に辞めたはずの人にどうして一々相談したり許可を受けたりせないかんのですか。」

少し興奮ぎみに声を荒げると、さすがひるんで、

「取締役ですか。すみません。そやかて、私らにも残務がありますさかい、連絡方法を教えてもらわんと・・」

「今後は京都のここへ直接電話してください。」

と私は事務的に答えた。彼は元JRの駅長だった。電話を切ってから、少し気の毒だったかなと反省した。JRからの転職者(彼らをOBさんと呼んでいた。)を我々は知らず知らずよそ者扱いしていたし、今回のことでも彼らなりに言い分があったに違いない。

机の配置が終わったら、変に落着いた。それぞれの居場所に小さな幸せを見つけたような感じだった。中川部長がA君と日報引継ぎをやっている間、肝腎の新会社事務員はそ知らぬ顔だ。やりにくかろうと思うと、ますます肩の荷が下りた気持ちだ。倉中係長も金庫の鍵を渡し、ほっとして、早く仕事を片付けて帰ってしまった。中川部長は表向き張切って見せているが、荷物が今度は彼の肩に懸かっているのがもろに見えた。

 

九州から森中常務が帰ってきていた。特に何があった訳でもなさそうだ。机の配置が変わっているのに気が付いたに違いないが、そのことについて一言も触れなかった。

皆、事務を引き継ぐ気があるんだろうか。人ごとのような顔ばかりである。中川部長はどうするつもりなのか。A君が四月一日分の日報を整理しているので、それは向こうでやってもらうのと違うんかと質すと、十二日まではこっちでやってほしいと言われたとのこと。昼からもずっと日報にかかりきっている。中川部長はそのまま新大阪へ行ってしまった。

博多事務所は閉鎖になったが、残務整理に松原取締役が当たっていた。彼の知らぬ間に、以前いたOBさんの事務係が臨時に応援に来ているらしい。誰が応援を頼んだのか分らない。

京都魚国を受けたからよろしく頼みますとN君が電話してきた。ちょっと前向きになってきたみたいだ。紹介状を書こうと約束した。

みやびホテル大阪の人事部次長から、

「採用した女の子五人のうちの二人が、そちらの残留レストランに呼び戻されている、どうなっているんですか。」と電話で問い合わせてきた。

「とんでもない、会社としてそんなことはやるはずがない。直ちに調査します。」

と返答した。

なんとも困ったことだ。新大阪から帰ってきた中川部長に調査を依頼した。やがてレストラン大阪の花村店長が私に電話してきて、当の女の子の一人が料理場に再就職の相談に来た形跡があるとのこと。今後とも人の補充にはくれぐれも気を付けるように言っておく。そのことで中川部長にみやびホテル大阪へ説明に行ってくれと頼んだら、私がどうしても行かんならんのですか、と大分不満気だった。

「新体制との関わりがあるでしょう。」と私はつっぱねた。

 

金庫を誰が扱うのか、も一つ訳が分らない。そうこうするうちに中川部長は新大阪へ行ってしまった。十時過ぎ、ホテルから一人が手伝いに来てくれた。堀吉係長も三階へ上がったり下がったりする。退職精算の第二戦目が始まったのである。

あっちもこっちも、ふつふつと海中噴火をしている。W君がもう我慢できませんと噴き出してきたらしく、Tさんもどうやら辞めそうだ。原因の一つに中川部長との確執があるらしいことは薄々分かる。むろん彼が悪いわけではない。この時期誰がやってもぎくしゃくは付き物だ。

どうにもこれでは金庫は無理と思えたので、堀吉君に、

「今週中はこっちで預かるわ。鍵返してくれるか。」と提案した。堀吉係長も、

「すんません。落ち着いたらまた教えてもらいますから。」と素直に鍵を返してきた。

ユニホームも着けないで、組合の副委員長が風呂券を貰いに来た。当直明けかと聞くと、

「いいえ休憩中です。」とのこと。どういうつもりなんだろう。

牧坂専務、森中常務と私とで、決算について打ち合わせる。帝国ホテル幹線食堂会社が数社に株を分割したという情報を得た。赤字が親会社の連結に関わらない対策らしく、近い将来、列車から撤退の方向も決まったようだ。その理由が、カフェテリヤ車の増加で、高級ホテル料理を提供する場がなくなったからだという。我が社の「業績不振」による撤退理由と大違いである。親会社の力の差を見せ付けられる思いだ。このカフェテリヤというのは、食堂車に代わって惣菜をパックにして販売するシステムで、人手の掛かる食堂車を次第に廃止していくというJRの戦略だった。我が社の列車撤退の大きな理由の一つも、これを採用するとさらに莫大な投資を必要としたからだったが、結果は専任役員の経営責任を問われたのだ。

中川部長が夕方帰ってきた。京都駅レストランの女の子二人がまた辞めると言ってきているらしい。さらに中川部長は、事務所のTさんのことも、「何を考えてるのかよお分らん。」とも言った。お互い同士不信感を抱き、次第に溝が深くなっている。

今日はまたホテルがどこも超満員で、牧坂専務の泊まる所がない。あちこち捜し回った挙句、今は空家になっている事務所横の従業員寮の一室に、毛布を重ねて敷布団を作り、ホームごたつの掛け布団を上布団にメークベッドして泊まってもらった。

三階の退職精算は七時半ごろ終わった。私はそれを見届けて帰った。中川部長は、私が帰り際にもまだワープロを打っていた。

うちに帰ったら末娘のすみ子は、岡崎公園近くのマンションに住む姉のところへ入学式に着る服を借りに出掛けていた。

 

朝のうち九時半から八条口にあるみやびホテルの系列、新みやびホテルで会議。再就織あっせん作業の四月一日現在でのまとめを私の資科で討議する。残るは九州の数名となった。Q君がまた話題に登った。就職受験先が採用を決定しているのに十四日まで留保している。十日が第二次退職金の支払い日だから、それまでは行動しない、皆に迷惑は掛けたくない、ということらしい。どういう意味なのか私にはよく分からない。いつものように森脇専務が、

「事が起これば、組合の中であろうがなかろうが幹線会社の役員が矢面に立つことになるものと心得なさい。」と責任を押しつけることしきり。牧坂専務がたまらず、新会社の採用には幹線食堂会社の役員は関係させてもらえなかった、というようなことを口にすると、またまた興奮して、

「辞令を出す前にあなた方に名簿を見せているんだから、拒否することも出来たはずだよ。」と、理屈にならない理屈を並べ立てた。私はその間、誰とも目を合わさぬようにして黙って聞いていた。

会議の後、木田次長がしきりに、

「迷惑ばかり掛けて済みません。」と謝る。私は、

「今日もおかずばかりげいげい言うほど食べさせられて、胃の調子が悪い。」

と言うと、皆納得して大笑いした。

第二次の退職金の支払いに振込み明細を持って銀行へ行った。今回は二億七千万円だから、前回との合計では七億円を越える。とにもかくにも十二日の支払いで、退職精算事務が全て終わる。

新会社事務のTさんが十日で辞めると言ってきた。浜屋次長にも常務にも専務にも断ったというから、もうどうしょうもない。中川部長にちゃんと申し出るように言って了承した。いや、私が了承する事柄ではもうなかった。

六時頃に中川部長が帰ってきた。みやびホテル大阪でのごたごた、京都駅食堂のごたごたと頭が痛いところヘ、Tさんの話をすると、かなりショックを受けていた。

八時過ぎに家に帰り着く。母と娘が大学入学を手巻寿司で祝っている最中だった。

 

翌朝、Tさんが中川部長に話があると言っているから、例のことだろう。しばらくして中川部長が浜屋次長と堀吉係長を三階に集めて相談を始めた。一時間ほどして皆が下りてきたが、中川取締役がみやびホテル人事部の湯川部長に電話して、昼から寄せてもらうと話している。何をどう決めたのか何も言わない。常務と私が食事に行っている間に中川部長はホテルヘ出かけたらしい。二時半ごろに帰って来たが、何を相談してきたのか、これも黙っていた。入れ違いに森中常務と私がみやびホテルに行くこととなった。広部常務に決算数字を示して意見を求めた。そのあと、ムーンライトでお茶でもと誘われたので、社長室には五時前になってしまった。求人企業への礼状を見てもらい、森中常務は九州の状況を報告した。

「ところで就職のことやけど」と社長が始めて私の就職先のことを、

「予算決算が出来る君をぜひにと言うてきてるとこがある・・・」と明かした。具体的な名前はどことも洩らさない。それでも、砂漠でオアシスを見た思いだった。

森脇専務の部屋にも寄る。案の定宿題を出されてしまった。

会社に帰って私は残業。森中常務はさっさと帰ってしまう。中川部長もほどなくA君を連れてどこかへ飲みに行くのだろう、さっさと帰ってしまった。倉中係長はちょっと疲れましたと愚痴をこぼした。

うちに帰ると、家内のお茶の先生だったMさんが四国観音寺から出て来ていた。気さくな人だから、遠慮なく目の前で晩飯を食べ始めたが、長女のS子さんが三十三歳でまだということでお婿さん捜しのようだ。釣り書を二通も置いて帰った。

 

日曜日。午前中は何をするでなしに時間が経っていった。町内の会計が当たっているので、家内は町費を集める準備に忙しかった。私も手伝ってワープロでその集金簿を作ったりしたが、どうもワープロの調子が悪い。印刷がうまく出来ないのである。昼から会社へ行って、機種が同じ会社のワープロで印刷をし、コピーをしてこようと私は言った。

「そこまでして会社に行きたい?」と、礼子が皮肉った。

昼ご飯を食べ、ひと寝入りしてから、一時過ぎに会社へ出掛けた。中川部長、浜屋次長、A君が来ていた。京都駅食堂が人がいなくてA君に明日「館内ヘルプ」を頼んだらしい。「館内ヘルプ」というのは、同じ会社の中で違う部署に手助けに行く制度のことで、残業とは別枠の時間給が付く。中川取締役も明日の朝は早番に入るという。料理場は何の手伝いもしないと浜屋次長がこぼしていた。同情はするが私にはどうすることも出来ない。こちらの業務に波及しないことを祈るだけだ。

新会社としての営業許可と用地建物借用するJRの認可、つまり幹線食堂会社からみやびフーズヘのバトンタッチが必ずしも容易でないとの観測が、私の胸につかえていた。

「町費の集金簿」を印刷してから決算の手直しをする。やはりそこそこ手間が掛かった。明日に回していれば後の仕事に差しつかえていただろう。今日昼からでも出て来ておいてよかったと思う。

先日辞めた元経理のWさん(女性)をバイトに呼んでみようかと浜屋次長に提案してみた。

「Tさんが辞めた今となっては女一人になりますからねえ。」と、もひとつ乗り気でない。その上で、

「J君のことを皆がどうかと言うてるんてすが・・」

その逆提案に私は頭から反対した。せっかくの今の勤めを辞めさせてまで、我が社へ再び引っ張るほど、正直、彼を満足させられるか保障出来ない、と私は言った。彼の母親にもこれ以上迷惑は掛けられない。

五時前に浜屋次長が、

「今日は早く引き揚げるつもりです。」と言いつつ京都駅へ出掛けて行く。それを見送ってから、私も帰り支度を始めた。中川部長が経理伝票を眺めていた。一言声を掛けて、勉強に応えてやろうかどうしょうかと迷ったが、そのまま、「お先に」と席を立った。

家に帰ったら誰もいなかった。中川部長を残して来たのが気にかかった。薄情に急いで帰ってきたのが虚しかった。

十時ごろ東京の保雄から電話が掛かってきた。私の仕事のことにえらく気を使っているらしいので、そんな心配する必要はないと繰返し言っておく。

 

京都駅食堂の人手不足は深刻になってきている。朝からそのことで中川部長は新みやびホテルでの対策会議に臨んでいる。昼過ぎ帰ってきて、食事をとるひまもなく新大阪へ出掛けて行った。

森中常務があっせん企業の明細を手掛てくれたので助かった。私は森脇専務の宿題に専念し、午前中に目鼻がついてきたので、これなら夕方まで掛かるまいとタカを括ったのが間違いだった。

牧坂専務から、Lさんの経過が良好との電話があった。本人も再就職したがっているらしいので、早速、みやびイン東京へ面接を申し入れたそうだ。退職届を「会社都合」として出させましょうと言うので、それはなりません、「転職のため」と書かせてくださいと念を押した。「会社都合」では労災にまた引っかかる。

昼から堀吉君とクッキーを持って、社会保険事務所の所長と適用課長に、退職関係の事務が完了したので挨拶に出向いた。その足で職安にも出掛ける。四月一日付きで殆どのセクションの担当が変わり、まるで神隠しにあったみたいに見事なチェンジングだった。それでも我が社の事情は前任から引き継いでくれていて、話は通じた。クッキーを持って行ったのを、それぞれの所長がちゃんと受け取ってくれた。最初に相談に訪れてから五ヶ月を経ていた。昨年十一月学卒のN課長に新卒採用キャンセルの相談を持ち掛けたのから始まり、長いようでもあり、短いようでもあった。帰り道で堀吉君はしきりに会社の現状を嘆いたが、私には返事のしようがなかった。

五時半からA君は黒ズボンに蝶ネクタイのウエーターのいでたちで駅食ヘヘルプに走って行った。

私は案外仕事が手間取って、終わったら九時近かった。

 

翌朝十時前に森脇専務から催促の電話があった。「これからすぐに出ます。」と返事をして、十分ほどしてからタクシーを飛ばしてみやびホテルへ出かけた。時間がない、新館建設企画室の辻輪取締役のところにいるから、そこへ直接来てくれとのことなので、車でホテルの裏山に乗り着けた。建設企画室と言っても道の脇に建った飯場の事務所のようなところである。ホテル経理時代机を並べて仕事をした辻輪取締役に久し振りに会ったので、よもやま話をしようと思ったら、専務がせかせかとやって来て、会議があるからとすぐに書類をみせてくれ、説明しろとせつかれた。その分、けちを付ける暇もなかったようで、一応満足して、一緒に来ていた広部常務にも自分で説明を買って出てくれた。割と機嫌よく、「ご苦労さんでした。」と無罪放免となった。

辻輪取締役とは十分ほど立ち話ができた。彼は誰もが認めるみやびホテル生え抜きのホープだったが、経理担当の広部常務しかり、役員室には入れず現場に小部屋をあてがわれていた。

裏山から本館に入って、社長に会いに行った。決算の説明をして、それが済むか済まぬかに、またまた就職の話になった。どうやらそっちの話がしたくてしようがないらしい。こっちも内心、ちょっと聞いてみたい。

「しばらく出てもらわんならんぞ。京都から一時間くらいのとこや。」

胸騒ぎがした。「・・大阪ですか?」

「あそこは違う。」ひょっとしたら、奈良かもしれない。それとも兵庫か?

「いつ、かたが付く?七月には目途がつくのか。」

「清算までとなると七月は無理です。清算と掛け持ちは駄目ですか。」

「それもなあ。まあ二年か、せめて一年、仕込んで欲しいんや。向こうもぜひともていうてるし。」

「ありがとうございます。」

私が腰を上げかけると、社長は顔面を緩めて機嫌がよかった。

「また喋りに来てくれ。」となごり惜しそうに片手をあげた。

社長室を出てから、自分が見透かされたようで悔しかった。

 

人事係のTさんが今日付けで辞めるので帰り際挨拶に来た。あれほど女同士犬猿の仲だった倉中係長とも言葉を交わし、倉中さんもそれに答えて別れの言葉を投げかけている。災害の後のように、あらゆる過去が水に流れて行く。

決算が確定したので、ほっとした。関鉄デパートを用もないのにぶらりとする。倉中係長も六時前にそそくさと机を片付けて、お先にと帰ってしまった。その後すぐ中川取締役が帰り、そして私が一番最後に退社したが、まだ辺りはほの明るかった。

娘はオリエンテーリングとやらで外泊である。礼子と二人きりの夕食だった。私は再就職のことをまだ妻には黙っていた。

 

四月もすでに十一日。平成元年度の決算数字が確定したので、仕事は忙しいが気分は軽い。相変わらず京都駅レストランが人手がなくて、中川部長と浜屋次長が交替で手伝いに行ったり来たりである。今朝もA君はヘルプに引っ張り出されたようだ。

昼からも私は机にへばりついて仕事をした。森中常務もロッカーから過去の書類を引っ張り出して整理している。お互いあまり口を利かない。

中川部長はみやびホテルへ出掛けたし、堀吉君は新大阪、浜屋次長は京都駅へ行きっぱなしである。Tさんが辞めてしまって、事務所が殺風景この上ない。新体制側がW君だけで入口近くにぽつんと座っている。

夕方近く、気分転換にぶらりと外に出たついでに、何ヶ月振りかで東本願寺まで足を伸ばした。会社が隆盛だったころ、よく昼間ここに来てベンチで昼寝をしたこともある。桜は少ないが二、三ヶ所咲いていた。まだ乾いていない鳩の白い糞がベンチにくっ付いていることがあるが、よく確かめてから腰掛けた。今日はひと寝入りとまではいかなかったが、爽やかで広々とした境内を歩いていると、やっと自分が取り戻せた気分だった。

 

昨夜、礼子が近所でコーヒーを二杯もよばれたから寝付かれんと言うのにつられて、こちらまでしばらく暗闇で起きていた。人のせいで寝られなくなったのに、先に寝息を立てだした家内を揺り起こしてトラベルミンを半分ずつ二人で飲んだ。それが朝方まで残って、頭がぼうっとしている。顔付きまで変わっているのが自分でも分った。

中川部長も、口先ばかりで、一向事務を引き継ごうとしない。棚卸もいい加減な所が多く、浜屋次長に聞いても人ごとみたいな返事しか返って来ない。こっちも下手な引き渡し方はしたくないと思ってるから、せき立てもしないでいる。

二時過ぎ、森中常務は病院に薬を貰いに行くと言って、そのまま帰ってこないつもりである。

私は事務所のオフコンにつながっていた電話を売りに出掛けた。もう幹線食堂営業の売上をオフコンを通じてJRに報告することもない。キャッシュで六万円で売れる。むろん膨大な赤字には焼け石に水ではあるが、これも会社解散処理の一つなのだ。会社に帰ってから、三月末締めの事業所税の資料作りに精を出した。これは人が思うほど大して骨の折れる仕事ではない。それでも七時を過ぎたころ堀吉君に、

「まだやるんですか。」と呆れ顔をされた。

 

すみ子が通学しだしたので、我々も早起きせざるを得ない。

少し早く会社に着くとさすがに誰も出勤していず、入口の鍵を開けて中に入った。一足遅れて倉中係長が出勤してきて、「どうしたんですか。」と不審尋問された。

午前中に事業所税の資料作りから申告書を書き上げる。昼からは銀行回りをしたあと、消費税の資料作りに取り掛かる。これが初めてのことでもあり何とも厄介だった。

友達の印刷屋に就職が決まっている福岡営業部の坂見次長が、明日かぎりで辞めたいと電話で言ってきた。

「まあ、しっかりがんばって。」

と励ましたが、はかばかしい返事は返ってこなかった。坂見次長とはもうこれっきりかと思ったら、夕方近く、その坂見次長から常務に情報が入る。例のQ君が社会党県連に、残留要員の選び方が不公平だと訴えたと、言ってきたらしい。要するに、組合幹部が残留しているのがけしからんというのである。県連は、言い分もっともだと取り上げてくれた上、後は任せておくようにと肩をたたかれたとか。Q君も就職先が決まったので、そちらを任せて、仕事第一にがんばるとのこと。先日の話はこれだったのかと私は今やっと理解した。森中常務は、とにかく西内専務に報告しておくと坂見次長に電話口で言っていた。恐らく大事には至らないだろうと私は思った。退織金も受け取ったからは単なる感情問題にしか過ぎず、法的に争いようがない。それでも一度弁護士に相談してみましょうと私は常務に約束した。

 

消費税は何とも厄介な税である。と昨日も思ったが、今日もやっぱりそうだった。

森中常務はみやびホテルヘ呼ばれて行った。昨日のQ君の一件を説明に行ったのだろう。

新みやびホテルの社員食堂で森川取締役に会ったが、またまた、

「あんたはどうなるんやな。」と真顔で心配してくれる。

「さあ、誰かに聞いといて下さい。」とはぐらかしておく。そのあとで、西内専務にお茶を誘われたが、森川取締役が専務に話したのか、しきりに慰めてくれる。

「沢村さんならどこでもいけるし、組合のことさえなかったらわしとこに引っ張りたいとこや。」

「ありがとうございます。」

新会社の人手不足が話題になった。

「人件費はセイブしないといけないでしょうが、日常の事務はおろそかに出来ませんから・・・」

「よう分ってる。考えてるがな。」と専務は気楽そうに笑った。

 

中川部長が相談があると言うので、何事かと思ったら、新大阪のS君がすぐにでも辞めたいと言ってきている、何か名案はと聞くので、

「根本的な問題やし、目先の名案なんかないなあ。」と答えた。

消費税は七時過ぎにやっと目鼻がついた。 

 

そして翌日も消費税の続きを昼過ぎまでかかりきって、ようやく申告書まで書き上げることができた。もちろん完ぺきという訳ではない。なんとか格好をつけただけである。この複雑な税務にノイローゼになって自殺した人がいるというのも分かる気がする。私のようにいい加減にあしらっておいてさえウンザリなのである。

いよいよ決算議事録に取り掛かるが、これはもう手馴れた楽な仕事だった。我が社は二月末決算で、たとえ会社がすでに営業してなくとも、その後三ヶ月以内の五月中に株主総会を開催しなければいけなかった。といっても社内役員のみの内輪の総会だし、まだ充分時間はある。

堀吉君は朝から周辺の同志社大学やら龍谷大学やらにバイト生を求めて出掛けたが、三時頃帰って来て、学生はウヨウヨいるけど働きたいやつは少ないとぼやいた。同志社の学生食堂にもアルバイト募集の張紙が出ていて、時給七百円だったそうだ。うちは平日五百五十円だからとても太刀打ちできない。

新会社予備軍は今日も相変わらずもたもたしている。森中常務はさっぱりやる気をなくして、一日中ほとんど仕事をしていない。

 

牧坂専務から電話が掛かってきた。Lが昨日からみやびイン東京へ出勤していて、わが社への退職届も出したそうである。会社に対する気持ちも大分和らいでいるので、示談にも素直に応じて貰えそうである。東と西の難間のうちまず東の方が解決することになる。専務は明日京都へ出て来る。

昼前社長から電話が掛かった。

「近いうち、こっちへ来る予定はないのか。」

「近々参る予定です。」

「それなら、近々でいいから、寄ってくれ。」

なんだろう。きっと就職のことだと思うとちょっと胸が高鳴った。

京都銀行へ列車営業撤退と借入金の親会社に肩代わりの件を了解を得に行った。

久々に堀吉君も休みで、静かな事務所である。オフコンの音がことのほか大きく耳につく。

六時には皆帰ってしまった。私も六時半に会社を出た。 

 

牧坂専務がみえた。帝国ホテルが列車撤収を決めたらしく、来年と再来年と二度に分けて実施するとのことだ。我が社の二倍のシェアを持ち、従業員も倍の八百名となれば大変である。新卒の採用はどうするんだろう。従業員の大半は親会社に吸収するとか。

昼食のあと、西内専務がお茶に誘ってくれた。牧坂専務といっしょに新みやびホテルの役員室でコーヒーをよばれた。若手が会社に夢がないと言っているという話から、

「どうしたら夢のある会社になるんやろ。ええアイデアないか。」と西内専務が聞く。

「やっぱり、何か具体的な、会社としての目標になるものを示すことではないですかねえ。」とそれらしいことを言っておいた。まもなく会社を首になる私に聞いてどうなるというのだ。

三時過ぎから蹴上みやびホテルに出向いた。社長室に行くと、こちらの用事をそっちのけに、いきなり長良河畔ホテルの湧原社長の名刺を差し出された。

「ここなんやけど、どや。」

私は一瞬ぎくっとした。てっきり奈良か兵庫あたりと想像していたのと、通勤時間一時間の線で覚悟を決めていたので、遥かに遠い気がした。

「宿舎も用意するし、週に二、三回帰る交通費ぐらい上乗せするいうとるねん。ぜひとも来てほしいそうや。わしは一年言うたけど、向こうは最低二年はいて欲しいらしい。」

京都からの所要時間のことを聞くと、社長は本棚から時刻表を持ってきて、新幹線の乗り継ぎ時間をメモしてくれた。

「まあ、二時間までやな。」社長の熱心さに、だんだんこちらも断るすべのないことを悟った。

「前向きに考えさせてもらいます。」と答えた。

社長は満足げにうなづいて、

「そんなら近いうちに湧原社長に会うてもらうことになる。」と、これで決りの雰囲気だった。その上、牧坂専務、森中常務が関鉄エキスプレスという運送会社に内定していることまで、打ち明けてくれた。

夕方、牧坂専務がLの示談の件で、打ち合わせをしようと言うので、役員室に上がった。

××万円で行きましょう。それ以上も以下もなしで・・」

私の紋きり口調に牧坂専務はいささかむっとしていた。

うちに帰った早々、家内に長良河畔ホテルのことを報告する。いきなりのことで礼子もびっくりしていた。風呂から上がってきたすみ子が、バイトを決めてきたと浮き浮きとしている。どこやと聞くと、

「寿司バーや。」と事もなげに宣言した。「バー」の二文字が私の胸に刺さった。

 

十時半にホテルに三人で行ったが、森脇専務にお客が来て、三十分待たされた。今日はまあまあ、脱線もなく穏やかな話し合いとなった。新会社での営業認可の件は森脇専務は案外楽観的に考えてるみたいだ。JR西日本のA課長に「大ぶねに乗った気でいますから。」と下駄を預けて来たそうだ。

しかし、向こうもさるもの、

「荷が重過ぎて沈むかもしれませんよ。」と返され、

「その時はいっしょに沈みますと答えてやった。」と森脇専務が一人で大笑いしてみせた。

「ところで、皆さん方は、次の会社へ行ってもらう場合、多少の骨休みを必要とされますか、どうですか。」と出し抜けに尋ねられた。牧坂専務も森中常務も、そんなことは言ってられませんと答えた。私は、もし許されるなら十日ぐらい戴けたら、と希望を述べた。専務が渋い顔をした。

昼から堀吉君と監督署へ行く。Lの退職手続きに誤りがないかを問いただした。全く問題ない、と馴染みになった係長が答えてくれた。

「もうあなた方の会社はノータッチです。」と、好意を込めて付け加えた。

帰って、牧坂専務に報告すると、まだ、じめじめと、

「そんなに突き放してはLが可愛そうですよ。」

「我々はもう二た月でいなくなるんですよ。会社もなくなるんです。」と私は強い調子で決断を迫った。

レストラン大阪のS君が退職の挨拶に立ち寄った。しばらくの間ぶらぶらと遊んで暮らすつもりらしい。結構な世の中である。「おじんばっかりが残ってきました。」と堀吉君。新会社に採用された者がだんだん気の毒に思えてきた。ベースアップがないことがどこからか聞こえてくる。ホテルの方は一万円のアップだとか。当然と言えば当然かもしれないが、誰だって面白くないだろう。関係のない倉中係長まで、疲れた疲れたと言う。

八時に家に帰ると昨夜来故障していたテレビが直っていた。テレビが普通に写っているだけで、ほっとする。共聴アンテナのヒューズが飛んでいたとかで、吉忠ビルから菓子折を持って謝りにきたらしい。家内はすっかり吉忠ビルさんが気に入ってしまっていた。

 

朝から、就職あっせん状況の最近までの集計をやる。大した修正もなかったので簡単に考えていたが、案に相違して、どこがどうしたのか知らないが、てこずってしまった。昼近く、やっさもっさの最中に、島田元常務が見えた。新みやびホテルの新しい副社長に挨拶に行って来たと言う。この忙しいのにそんなことの報告でいちいち来られてはかなわない。しかし、今から三十年以上も前のこと、私がみやびホテルにベルボーイとして入社する時に面接してくれた大先輩だ。今日は直ぐに帰るからと言われるので、それ以上忙しい振りはできなかった。しばらくしゃべって、邪魔した邪魔したを繰り返しながら帰られた。

再就職あっせん集計資料はとうとう夜の八時までかかったが、完成までにはいたらなかった。

 

今日は退職についての協定書の調印式があるので、牧坂専務が来られた。

調印式は三時からなので二時過ぎに専務と常務が社印を持参でみやびホテルに出かけた。

その間に私は小森地図店で岐阜市の地図を買ってきて、長良川沿いの「長良河畔ホテル」を確認する。

就職あっせん業務の集計が予想以上に手間取り、八時になってもラチが明かなくて、とうとううちに持って帰ってしまった。また倉中さんを一人事務所に残して来たが、倉中さんもだいぶ参っているようだった。六十歳を越え、女性の身で本当によくやってくれている。

帰り路、ポルタ(地下街)の本屋で時刻表を買った。早速礼子と二人で地図を広げて、我家から長良河畔ホテルまでの通勤時間を調べる。岐阜羽島までは新幹線で三十六分しか掛からないのに、岐阜羽島からが案外遠いのだ。全部でやはり二時間は充分かかった。景色と空気のよさそうな所には思えた。

 

休みの日に限って早く目が覚めて、それからどうしても寝られない。七時前に起きて朝ご飯を食べてから、昨日持ち帰った「再就職者の集計」の仕事を座敷机で始めたら、豆の皮をむくところがないと礼子が小言を言った。この間から手こずっているので、なんとか片付けてしまいたかったが、手元の資料が足りないので結局完成には至らず、座敷机は豆の皮むき場にとうとう占領された。

夜、久し振りに佐和子夫婦が来た。彼女はまた少しふっくらして来たみたいだったが、言うと気にすると思って黙っていた。二人とも来週からのパリ行きで浮き浮きしていて、片言のフランス語を吹聴し、わざわざ買ってきた「パリの歩き方」のビテオを皆で見せられた。 

 

朝出がけに大型ごみを出した。長男の回転椅子はどこも傷んでいないので、誰かが持って行ってくれたらと期待したが、通行人は振り向きもしない。もっとも小雨が降って人通りも少なかった。

午前中になんとか再就職の集計を終わった。森中常務は朝っぱらから雑誌を見たり新聞を見たり、一体何を考えているんだろう。

月末の支払いがやっと目鼻が付いたが、三月の試算表はまだこれからである。

私は夕方からいよいよ決算関係の議事録に取り掛かる。

帰ったら九時だった。家内は向かいに建つビルの説明会に出かけて留守だった。すみ子は今日から例の寿司バーのバイトに初出勤である。私は一人で夕食をとり、風呂に入った。

 

火曜日。十一時に約束していたのに十時半に早々とO税理士はやってきた。あまり仕事がないのだと、自分でも公言していた。列車営業徹収の一件をまだ話してなかったのがこの間から気掛りだったので、そこをまず説明する。先生はちょっと驚いた表情を覗かせたが、すぐに平常心に立ちかえり、「それから?」と後を催促した。消費税の申告書を見せる。

「今年はまだ練習問題やと税務署も言うてますから、私も気楽にサインしときますよ。」

レストラン京都で食事をする。またまたマルサ(特別査察)の時の手柄話を聞かされた。長年あちこちの税務所を勤め上げ、年金も三百万貰っていると、なんでも打ち明ける人だ。

昼から、南都銀行へ一億円の書換えに行く。売上は途絶え、返済のない借金だった。そのあと、税務署に消費税の申告をし終え、夕方、一カ月ぶりに散髪に行く。

会社に戻ってきたら、堀吉君が帰り支度をしていて、ほかは皆帰ってしまっていた。一人残ってLの労災関係のまとめをし、打ちきり補償の金額を空欄にして稟議を書く。

 

朝、出勤したら福岡営業部の坂見次長がソファーに座っていた。別れの挨拶に立ち寄ったのだ。東京まで行って、そこからぶらりと足を伸ばして仙台まで開通したばかりの上越新幹線に乗ってきたという。一度気ままな出たとこ勝負の旅がしてみたかったらしい。折りしも神野部長から電話が掛かる。一週間に三度がナイト勤務で、今朝は勤務明け、これから寝るんだという。この間一度トラブルがあって、まだ不慣れでてこずってしまったとも言った。課長連中に続き、次長、部長と次々離散していく。

「月に二度や三度トラブルがあっても、あとの大部分結構な部屋で寝て給料が貰えるなら文句は言えんなあ。」と、無責任なことを私は言って、明るさを保とうと努めた。

昼、坂見君を地下街へ連れて行って和定食をおごった。友達の印刷屋に勤め口は決まっているが、給料はだいぶ安いらしい。同じ福岡営業部の日野課長も地元のレストランに再就職した。手取りが十五万円も少ないとこぼしているそうだ。九州地区の求人状況が関東近畿と比べると悪く、特に中高年には厳しかった。全国一律賃金制だった我が社の福岡勤務者は相対的に高賃金を得ていたことになり、辞めてみて初めて九州での賃金格差を思い知らされたようだ。

坂見君とも、もう当分顔を見ることも声を聞くこともないだろう。

三時ごろから、電話をしておいて中之島のM弁護士を訪ねる。Lの示談の件で意見を聞いた。私の算定額では安すぎる、もし向こうに弁護士が付けば倍は必要だと言われた。私の見込み相違だった。

中川部長に事務の引継ぎのことを言ったら、連休後まで待って欲しいと言い、連休後には事務員がゼロかもしれん、と言うので、

「その節は部長さん直々引き継いでもらいますよ。」と、つい意地の悪い言い方をしてしまった。

 

出勤前に家から太陽神戸銀行へ朝一番に出掛けた。支店次長と担当のMさんに列車撒退の報告と借入金の書換を頼んで了解して貰った。すでに親会社の経理から話は通じていたようだ。 

牧坂専務が十一時ごろ来られた。

昼食に行く道すがら森中常務に、就職のことを聞いたら、来月十五日に東京へ社長といっしょに面接に行くことになっていると打ち明けた。もちろん牧坂専務もいっしょとのこと。

夕方からLの件で打ち合わせをする。昨日のM先生の意見をかいつまんで報告し、慰謝料××万円の倍の線で社長などに了解を得ることとなった。 

 

朝から労働保険の申告書に取りかかる。中川部長に頼んでいたのだが、彼が忙しそうなので、自分でやった方が、今か今かといらいらしなくていい。資料作りはスムースに運んだ。午前も昼からも取り立てて邪魔もなく、七時過ぎには目途がついた。

牧坂専務は今日もう一晩宿泊することになった。一人ぼっちの品川寮に帰るのが嫌なのかもしれない。

 

Lの件で三十分程度打ち合わせる。後、労働保険の詰めをするが、それが案外手間取った。

昼から専務はLの示談の件で社長に会いに出掛けた。私も行くつもりだったが、専務は一人でいいと言うので、まかせて自分の仕事をする。

三時頃専務が帰って来て、金額については案通りで社長も了解したとのこと。そのあと専務は間もなく東京へ帰った。

労働保険の資料作りも五時過ぎにほぼ出来上がったので、早々と帰り支度をする。皆けげんな顔をしていた。

 

またまた日曜日のせいで朝早く目が覚めてしまった。

それで、十一時頃から会社へ出かけた。

浜屋次長に、堀吉君とW君が出勤していた。考えてみれば彼等は、気の毒に三カ月間は祝日休暇はないのである。昼から遅く中川部長も出て来たが、すぐ新大阪へ行ってしまった。私も四時になるや、机を片付けて家に帰った。

長男から何の音沙汰もないので、夕方家内が思い切って東京のさゆりさんのうちへ電話した。

「さゆりは三日から家族旅行に行く予定で、京都へ行く話なぞ初耳です。保雄さんは一日にそちらへ帰られるとうかがってますが・・」

どうなっているのか。なにかとちぐはぐであった。それでも家内は、なかなかそつのない話っぷりやったと弁護した。

 

どこか気の緩みを感じる。一応断ってはいたが休みを取り、お弁当を持って、家内とハイキングに出掛けた。南禅寺の裏山から初めて日ノ岡へ抜けた。途中清流があり、沢があり、そこでお弁当を広げた。山道を抜け出たところに突然疎水が流れており、疎水脇は公園化されていて、道のはたの新縁がきれいだった。帰りは元の道を戻り、途中の崖にはびこっている羊歯を、うちの庭に持って帰ろうと二、三株ひっこ抜いてビニール袋に取りこんだ。半分ばかり戻ったところで、私は眼鏡をどこかに紛失したのに気が付いた。「大変!」と、家内は捜しに戻ろうという。私はせっかくここまで来て引っ返すにはもう疲れ果てていた。ところが家内はさっさと引き返しに掛かる。広い山中のどこに落としたかも分らない。

「もうええがな、諦めたから。」

ところが、あったのである。途中休憩した沢のほとりの草むらに、家内は執念で私の眼鏡を見付けた。

保雄から明日帰るとの電話があり、夜半には長女がパリから無事着いたとの電話も掛かってきた。

 

 

五 月

 

出勤途上御池通りがざわついていた。今日はメーデーである。遠い昔、私たちのころは世の中全体が血気盛んで、社会主義の理想を信じ、また労働者の団結も固くて、警官ともみ合いながらジグザグ行進を繰り返したものだ。今はのんきに子供連れもいる。

「従業員就職あっせん業務報告書」を一日掛かりで作りあげる。

中川部長は新みやびホテルに行ったり、みやびホテルに行ったり、相変わらず忙しい。それに引き替え森中常務はいかにも手持ち無沙汰である。十四日には東京の関鉄エキスプレスに面接に行くことになっている。日が迫ってくるにつれて気持も自然そちらに向いているのだろう。

私は少し早目に家に帰った。

十時過ぎ、やっと表の戸が開いて、保雄がノソッと入ってきた。前よりちょっと痩せている。相変わらずの寡黙で、ただただ腹が空いているのか、すき焼きを旨そうに食べていた。近頃倹約していてロクなものを食っていないと白状した。

 

三月の月次決算がやっと出来た。やっとである。「再就職あっせん業務報告書」の製本が終わった。長い痛みの道程であった。

その直後、日野課長がゴルフ場を辞めたとの情報が寄せられた。安い給料では家計を支えきれないのだろう。給料水準は東より低いが、その分、物価、それに土地の値段は相対的に安いということはあった。そこで福岡地区の中堅は大抵家のローンを抱えている。

きりがないので「報告書」の修正はそのままにしておいた。

中川部長は九州ヘ出かけた。森中常務の話では、Q君は例の地評への提訴を取り下げたらしい。

三時項ひょっこりと、私の前任杉山さんがやってきた。ちょっと話して、森中常務とお茶を飲みに出ていった。

七時半にうちに帰る。長男とその母親で手巻き寿司を食べていた。何かというとうちはすぐ手巻き寿司である。そのあと、結婚式のスケジュールと予算について保雄と打ち合せる。総額△△万円の援助を約束すると、長男は先程までくしやみばかりしていたのが、幾分安心したのか、しきりに申し訳ないを繰返し、くしやみも収まってしまった。

「お父さんの会社はどうなるの?」

「心配いらん。」

「部屋に電話を必ずつけなさい。」と、設置料として七万円渡したのを、家内はまた新幹線のホームで保雄に繰返し念を押していた。

 

「子供の日」今日は十時に出勤した。A君がしきりに他人の非難をする。

「係長のおっしやってたことが今になって分ります。」とA君が倉中さんの同意を得ようとする。倉中さんは以前と違ってなかなか話に乗らない。私も同様首を突っ込みたくなかった。今さら誰にも恨まれたくない。静かに消えて行きたいのである。私はA君の気持ちが静まるまで黙って仕事をした。

堀吉君が組合の教宣を見せてくれた。みやびホテル側が一万四千円のべースアップと昨年並の夏期ボーナスを得ていた。それに引き替えみやびフーズはベースアップなし、ボーナスは二カ月。堀吉君は憤概して私に同意を求める。それにも私は答えられなかった。三時頃堀吉君は新大阪レストランへ「館内ヘルプ」に出掛けて行った。

五時過ぎにひとくぎり付けてうちに帰った。鴨川東岸道路の完成祝いの祭りを見に行こうと、家内を誘って出掛けた。植木市があるようなことが新聞に出ていたので、それを目当てに行ったのだが、鉢植えの花屋が一軒あっただけだった。結局ジュンク堂で東京の地図を買って足を棒にして帰った。

 

今日は朝から天気が上々だった。久し振りに休みを取り、南禅寺山から日の岡へ抜けるコースを歩くことにした。ちょうど蹴上浄水場の一般公開に行きあわせ、毎年の恒例にもかかわらず二人とも初めてで、見て行くことにした。数万株のつつじは盛りを過ぎてはいたが、それでもなお壮観だった。それにすごい人出である。浄水場の広い敷地の隣にみやびホテルが偉容を誇っていた。私の育った会社が今は遠い存在に見えた。

山に入るとひっそりしたものである。縁が鮮やかでいい香りがした。シダや萩の株、笹などを少々持参のスコップで掘り起こして持ち帰る。これが今日の目的でもあった。私の持つビニール袋から木の枝葉が覗いているのを、家内はひどく気にして「うらじろ」の葉でカモフラージュした。

下界は暑かった。家に帰り着くや、庭に下りて持ち帰った草木を植えた。それから一時間あまり昼寝をした。

 

翌朝、自宅からみやびホテルヘ直接出かけるつもりだったが、電話で秘書に尋ねると、社長も専務も留守だったので一日延ばしにする。

総会の営業報告書をワープロで書き上げる。つい二、三年前までは全部タイプ印刷屋に出していたから、会社としては経費節減だが、印刷屋はあがったりのはずだ。

新宿にある長男の会社へ電話する。保雄は客先へ行っていると、上司らしい人が丁寧に答えてくれた。息子がお客に応対できるなんて信じられなかった。夜にうちへ電話するように伝言しておく。いつのまにかシステム第八部に替わっていた。

夜、東京から長男が電話してきた。婚礼の予算表をさゆりさんに渡さないよう念を押したが、すでに△△万円のことは彼女に言ったらしい。しまったと思ったが後の祭だ。

 

朝、もう電話せずにホテルヘ出かける。社長はおられなかったが、森脇専務に会った。「あっせん業務報告書」を差し出したら、「ほうっ」とひとこと、さすがに感心したようで、あとはいつもの説教も出なかった。事務所に帰ったところへ東亜ビジネスがIBMのシステムを受け取りに来た。会社の物とはいえ、なんとももったいない話である。数百万円をかけて開発したコンピューターシステムのハードとソフトが、二束三文で引き取られて行く。会社を閉めるとはほんとに高くつく。

新みやびホテルの西内専務に会いに行ったら、ちょうどビアガーデン開きの神事があるので社長が来ておられた。

「こないだの話どうや。」

今の私にどんな返事が出来たろう。

「ハイ・・・どうぞよろしくお願いいたします。」

と頭を下げた。すぐさま長良河畔ホテルに電話して、見ている目の前で三十日の朝に挨拶に行くことにさっさと決めて、自分の手帳にも書きこんだ。即決裁判のようなものだった。

十年ほど前にレストラン京都を退職したKさんが雨宿りを理由にひょっこり顔を見せた。この人も元JRの駅長で、もう八十に手が届くというが、元気なものである。以前ならレストランに案内してあげたのに、もうそこは他人の家だった。彼自身も事情を知っていて寄ってこなかったと言う。しばらく世間話をするが、突っ込んだ話はお互い遠慮した。その間一時空は真っ暗、雷は鳴る、すごいどしや降りとなったので、Kさんも帰るに帰れず、番茶ばかりすすっていた。

 

今朝も家から直接蹴上のホテルへ出かけ、社長に議事録の判をもらう。何か気のせくことがあるのか人が説明する先に判を押してしまい、長良河畔の話もなかった。

会社に帰って、みやびホテルの有村総務部長に頼まれていたので、事務所ビル土地建物の評価証明を取りに区役所へ行く。その帰り道、元社長の奥さんにばったり会った。遠慮されるのを無理やりに京都駅レストランへお茶に誘った。昨日、一周忌の法要をみやびホテルで済まされたのだそうだ。唯一我が幹線食堂会社の専任社長だった住島氏にはずいぶんお世話になった。読書家で、社長室に上がるといつも何かを読んでおられて、私にも何冊か貸してくださった。忙しくて読めない時には、「面白かったです。」とそのまま返すこともあった。するとまた次のを家から持って来て、「これもいいよ。」と薦められた。幹線食堂がこんなことになる寸前に亡くなられ、よかったのかも知れない。奥さんは私が趣味に創作折り紙をやることも知っていて、ひと仕切り社長の思い出話をしゃべった。新会社のコック長も、元社長の奥さんにはテーブルまでわざわざ出向いて来て挨拶した。

お陰で大阪ヘ行くのが少し遅れる。淀川区役所と中之島の法務局に行った。新大阪女子寮売却のための下調べだ。法務局は随分混んでいた。

順次遅くなり、新大阪の事務所には約束より十五分も遅れてしまった。ところがコンピューターを引き取りに来る東亜ビジネスの部長は四時になってやっと着いた。その間人気のない机ばかり並んだ事務所で一人待ちぼうけを食らった。やがて、人夫たちの手で旧大阪営業部のコンピューターが二束三文で担ぎ去られた。

なにやかやで今日一日外に出っぱなしだったので、仕事が溜り九時まで残業する羽目になった。

 

朝一番に税務署に出かけて、帰って来たら牧坂専務が見えていた。十時過ぎから打ち合わせ。私にはあまり気乗りのしない会議だった。牧坂専務は昨日までJR九州に行っていて、レストラン博多を新会社に名義変更する件は概ね了解されたようだ。これでJR西日本、JR九州とも発車オーライとなった。

昼から牧坂専務と監督署に行く。労災担当の係長に、またLのことですかと苦笑いされた。話を聞くうち専務は、今までの調子とがらっと変わって、虎の門病院へ問い合わせ中で、返答によって労災適用停止の認定もあるとの係長の説明にすぐ納得してしまった。

 

最近、事務所の一階から二階への階段にかけて異様な匂いがする。厨房が匂っているのである。堀吉君にそのことを言ったら、どこからか匂い消しを捜してきた。

「どうですか、大分ましになったでしょう。」

しかし、彼の努力にもかかわらず全然ましにならない。

「溝掃除をせなダメや。」と言いたいところだが、やってくれるわけもなし、黙ってしまった。

昼時間、森中常務に就職先のことを鎌を掛けて聞いてみた。森中常務が業務関係、牧坂専務が総務関係。関鉄エキスプレスの配送部門の子会社ということも明かした。輸入肉をスライスしてスーパーに卸してもいるらしい。

明日の会議に備え討議資科を整理する。解散の日取りがおよそ確定したので、解散前後の移り変わりを整理する。案外いろいろと仕事があって、自分でも今日までうっかりしていたのが恐ろしいようだ。頭の整埋にもなった。なんとか大まかにでも出来上がったのは夕方だった。それから帳簿の数字を「止める」作業にかかる。これもそこそこ時間が掛かり、なんとか止め印を打ち終えて帰り支度をしたのは八時前だった。

 

営業報告書とか、解散スケジユールとかまだまだすることがあったので、牧坂専務が来て待ってると森中常務が催促するが、結局三階には上がれなかった。

会議には私の独断で広部常務にも入ってもらった。森脇専務が遅刻したので実質二時から会議になったが、今日はほとんど私の資科に従って、マイペースで打ち合わせが進んだ。資料を整理しておいたかいがあったというものだ。あとはJRが新会社を承認してくれるかどうかにかかった。森脇専務も機嫌がよかった。 

 

森中常務は朝から面接に東京へ出かけて行った。いよいよ最終段階に差し掛かった感じである。

私は十一時ごろを見計らって、亡くなった岸根専務のうちヘ一周忌のお参りにタクシーを飛ばした。奥さんは見た目には元気そうだった。住島元社長とたった一日違いに昨年相次いで亡くなられたが、あの時はみんなびっくりした。社長の会葬のその足で、専務の通夜に走ったのだから。なにか、幹線食堂株式会社の行方を予見するかの出来事だった。

昼からは綿引監査役が監査の下見にやってきた。いつものように放っておけばいいので、私は大半下に降りて自分の仕事をした。

夕方牧坂専務、森中常務から相次いで電話があったが、面接の首尾を聞くわけにはいかなかった。

 

中川部長は九州ヘ。入れ違いに森中常務が東京から帰って来た。昨日の東京はひどい雨降りだったと言いつつ、突然ロッカーを片付け出した。もう余り時間がない、月末あたりは会社へ出られないだろうから、三十一日が株主総会だと欠席することになるとも言った。

「会社の事は残る者に任せておけ、後足で砂をかけるぐらいの気持ちでないと思切って次のとこへはいけないぞ。」と、社長にハッパをかけられたと言い訳した。

十一時に、綿引、有村両監査役が来て、帳簿監査が始まった。A君に帳簿を読まそうかとも思ったが、結局私が読み上げることになり、倉中係長が帳簿を繰った。十何年来同じコンビでやってきたのだ。今さら変えようがない。十二時半までかかった。有村監査役は用事があるからとホテルに帰り、そのあと京都駅レストランで食事をとる。綿引監査殺はいつも通りステーキ定食を注文したが、私は、傍目もあるのでハンバーグ定食にしておいた。

昼から、年金基金の町田課長が事務連絡のためにやってきた。その彼を捕まえて、森中常務は自分の年金受給のことを熱心に聞き出していた。ついつい私も聞き耳を立て、二人の会話を横目で見ながら、法人税申告書を書く。遅くとも今週中には仕上げなければならないので、二年先の年金を計算をしている閑はなかった。