我が家

 

 

 

 

 

 

 

 

我が家のプロローグ

川村家の人々

 

 

喜代楠(きよぐす)というこの耳障りな名前の持ち主は、私の祖父に当たる人だ。

明治の末期、四十四、五年頃の川村の家は、間口も奥行きも大きく広くて、番頭丁稚を入れると二十五人位の人数が住まっていた。女中も三人が、それぞれ上女中、中女中、下女中と区分けされ、上女中は奥の用事ばかりをしていたし、下女中はご飯の支度や食べること一切をする役目だった。中女中は子供の送り迎えなどをした。喜代楠の次男坊米太郎はまだ五歳だったので、中女中に伴われて近くの日彰幼稚園へ通っていた。家に米太郎の友達が遊びに来ると、裏の土蔵の前の空き地で、メンコをしたり陣取りをしたりして遊んだ。いつも裏庭には梯子を横向きに懸け渡し、大根が山ほど干してあって、どんつきの小屋に四斗樽をいくつも置いて、まるで漬物屋のように漬物が漬けてある。そこを皆が漬物部屋と呼んでいた。

漬物とご飯だけは食べ放題だった。日常の食事といえば、朝は漬物とご飯。昼食は塩鮭の小さな切り身、もしくは野菜の煮付け。卵は病気の時しか食べられなかった。これは貧乏というより、京の商家はいずこもこのようなしきたりだった。主人だけにいつも尾頭付きが一皿余分に付いた。年に幾度か、「今日は好き焼きどっせ」と女中がいうとみんな目を丸くしたものだ。その時は、各人お皿に肉切れを分配してもらい、葱だけは山ほどあったので、鍋に自分の肉を葱で囲って、人に取られないように目配りしながら食べた。

米太郎が小学校に上ると、さすが女中の送り迎えはなくなったが、そのかわり彼のすぐ上の姉、カツが一緒に出かけてくれた。

そして、夏が来るのを米太郎もカツも待ちかねていたのである。毎年、学校が夏休みになると、カツと米太郎の二人は、父喜代楠に連れられて和歌山の、父の生まれ故郷(海草郡内海村字鳥居)へ海水浴に一ヵ月位も出かけて行くのだ。京都駅から汽車に乗り、大阪難波からは南海電車に乗り継いで二時間余り、和歌山に着くと、駅には勘五郎叔父(喜代楠のすぐ下の弟)が迎えに来てくれていた。彼の家へ行って昼ご飯を食べるのだが、海が近く、叔父が釣ってきたばかりの魚の刺身や焼魚があり、叔母の漬ける漬物がまた格段に美味しかったのを米太郎は覚えている。

そこからまた電車に二時間ほど乗って、日方町というところで降り、さらに一キロばかり歩くと一番年長の政雄伯父の家のある内海村だった。この伯父は医者で、かつ村長をしていた。そこには政雄伯父の孫で、米太郎とは同年配の政弘という子がいて、ちょうどいい遊び友達だった。しかし、米太郎達が泊めてもらうのは政弘のうちではなく、勘五郎叔父の家だったから、夜遅くまた電車に乗って和歌山の家に戻った。この叔父は川村家の四男で、長い間東京の問屋に奉公していたが、やがて年期明けを迎え、また身体も悪くして故郷へ帰ってきたのである。奉公先から戴いた退職金で家を建てて、老妻と二人暮しをしていた。子供はなかった。だから米太郎達は村長の孫と一日遊び、寝るためにだけ夜遅くこの家に戻ってきたのである。勘五郎は毎日自分の和船に乗って沖で魚を釣って来るが、あとは遊んで暮らしているらしかった。

一方、医者で村長の政雄伯父の家は随分と大きな家で、みんなが本家本家と呼んでいただけのことはある。裏へ出ると、もうそこから広大な海が望めた。政雄伯父の息子も医者で、近在で産婦人科病院を開業していた。友吉というこの息子(年は離れていたが、米太郎には従兄に当たる。)がまだ京都帝大医学部の学生の頃、川村の家に下宿して、そこから大学に通っていた。卒業まで喜代楠が面倒みていたのである。

喜代楠は米太郎とカツを和歌山に残して二三日後には京都へ帰って行った。

内海村の山手に日限(ひぎり)地蔵寺と言う寺があり、川村家が代々この寺の檀家総代に収まっていた。ここの裏山に昔から火葬場があったが、元々それはただ柱型の石材を二の字に置き、その上に棺を渡し掛けて、下から薪を燃やして焼くという、ごく原始的なシロモノだった。政雄叔父が村長の時、村議会に提案して今式の竃型に造り変えた。その後間もなく川村政雄村長は亡くなり、自らが造った火葬場で自分を最初に焼いてもらうハメとなった。

 

 

私の祖父喜代楠は慶応三年、つまり明治維新の前年、和歌山県内海村の庄屋の家に生まれた。七人兄弟の三男であった。彼は幼い頃から大変な腕白者で、両親の手に余っていた。喜代楠の父勘右衛門は思い悩んだ挙句、自分が檀家総代を勤める村の寺、日限地蔵寺の和尚に預け、じゃじゃ馬慣らしを依頼した。ところが彼は仏の修行をするどころか、ここでまたガキ大将を通し、先輩の小僧にも悪影響が出始めたので、和尚もとうとう見限って親元に送り返してしまった。途方に暮れた勘右衛門が、ツテを頼って彼を丁稚奉公に出した先が京都の呉服屋藤井商店であった。そこで喜代楠は憑き物が下りたように一生懸命に働き出し、やがて十数年の年月を経て番頭にまで成り上がるのである。

話によると、日限地蔵寺の和尚もその後、ちょっと名の通ったお上人となり、ある日、京の本山に参内された折、昔の腕白小僧の出世した姿が見たいとて、わざわざ喜代楠に逢いに藤井商店まで、供ぞろいのお輿に乗って寄られたそうである。

喜代楠が奉公先藤井商店から独立を許されたのは明治二十七年のことだから満二十八歳だった。当時そのような場合、本家から相当の別家料を拝受し、また給金の積立金という形での金一封を頂くことになる。積立金と言っても、ちゃんとした通帳があるわけでなし、その額は店により主人により、また本人の力量によりまちまちだった。それでも、かなり纏まった資金が得られるシステムで、ある程度の得意先まで確保してくれた。その代わり本家に対する忠誠は二世三世にわたるとされ、現に西大谷北谷に半畳あまりの小さな墓地まで世話してもらっている。その浄土真宗西本願寺派の墓地群の一角には藤井家の面々の墓がかたまっていた。

藤井商店には三人の大番頭がいた。A、S、川村の三人で、これらは同時に別家を許された仲だったが、AとSは実の兄弟だから実質二家が独立したのである。Aは白生地問屋を川村は太物木綿問屋を始めた。(Sは後に分離独立した。)この三人は藤井商店時代から義兄弟の契りを交し、終生変わりなく助け合うことになった。

明治三十七年五月二十六日付のS氏から喜代楠あての古い手紙が、私の家に残っている。S氏が折しも日露戦争勃発で、広島から船で戦地に出征する直前に、仕事上の重大事を連絡し合っているらしい内容の手紙である。便箋はA商店のものを使ってあった。恐らくS氏が兄Aから独立を計っているらしき文面と取れなくもなかった。その中に出てくるT某は、手紙の当時はS氏から見てただの青二才との記述があるが、のち、A商店を背負って立つ大番頭のT氏と推測される。落ちぶれた川村商店の店主喜代楠の葬儀の時、AS両家が全面的にバックアップしてくれたが、その折の総指揮者がT氏だった。

S氏は日露戦争勝利の後無事帰郷し家業を起こすが、川村家との間にこんな逸話がある。喜代楠とS氏は二人共よく呑み、芸者遊びもした。ただ喜代楠は決して外泊せず、どんなに遅くとも家に帰って寝た。ところがS氏は少し違っていて、その結果芸者をはらませ、女の子が生まれた。喜代楠は親友の窮状を救ってやろうとその子を一旦自分の籍に入れ、一年五ヵ月の後にS家に養女に出すという手の込んだことをやってのけた。だから、わが家の戸籍を見ると、米太郎と同い年のYと言う名の妹が、あたかも喜代楠の私生児であるかのように記載されているのである。

 

 

 

藤井商店からのノレン分けの際、条件の一つとして喜代楠は、主家の長女アサとの結婚を求められた。アサはあまり美人とは言えなかったし、また喜代楠の好みでなかったのだろう、終生喜代楠はアサのことを好きになれなかったそうだ。別家独立の二年後、明治二十九年に結婚するが、だからといって、妻を粗末にすることはなかったし、裏切るようなことも一切なかった。

さて一方、アサは明治二年に藤井家長女として生まれるが、必ずしも幸せな生い立ちではなかった。彼女の実父は藤井家の前の養子で、商才がないという理由でアサが生まれたあと離縁されている。二度目の養子新助の養女として育てられたのである。当時の通例からすれば随分遅れて二十七歳まで「いかずめ」をかこったのも、この辺りに理由があるのかもしれない。アサの腹違いの兄弟は五人、長男を治良助、次男は芳助と言った。女はたず、のぶ、みねの三人で、たずは名家丸舛市田の後妻に入った人である。

喜代楠との結婚に先立ち藤井家では彼女の生い立ちを問題にし、一旦、遠縁で跡目のない湯浅アイのもとへ養女に出した。これは形のみでなく、ほんの一時ではあったが六角室町の、貧しい湯浅家で生活をともにし、お針をして生計を立てたということである。アサはそのような境遇に育った精か、子供にも自分にも厳格で、几帳面、また気位も高い女だった。

この湯浅家は結局、「養女アサ」が嫁に行き、その後も世継ぎがないまま明治三十八年義母アイが死去、跡が絶えた形になった。それを昭和十五年、喜代楠の次男米太郎が再興のため名字を継ぐことになるのである。この話は米太郎には全く寝耳に水だった。当時米太郎は東京に住まっていた。一方、アサと兄喜一郎(つまり私の父)は京都旧市内中京区の高倉に引っ越してきていた。湯浅を継ぐ話を進めたのは間違いなく母アサと、近くに居を構える米太郎の姉はるの二人だった。米太郎の生まれる前年、つまり四十年も前に絶えている家を今頃になって興そうという話がどこから湧いて出たのか皆目分からない。はるはアサの次女ではあったが、物事の判断決断は兄弟の中で抜きん出ていて、アサの信頼を得ていた。はるは直ちに東京の米太郎のもとに手紙をしたため、要件あり、すぐ帰洛するようにと伝えてきた。京都の家で米太郎は、アサと喜一郎とはるに詰め寄られ、くどくどしい意味不明の理由とともに「湯浅家再興」を迫られた。東京のさる出版社に勤めていて大変忙しい身だった米太郎は、別段「川村」が「湯浅」に変わったからといって損も得もないと思い、年寄った母の願いを聞き入れてやろうと、深い思案もないままに受け入れてさっさと東京へ戻った。あと、姉のはるから次々と送ってくる書類に署名と捺印するうちに彼は「湯浅米太郎」に変身していた。「湯浅」になって米太郎が得た遺産といえば、京都壬生寺にある湯浅家累代の墓地のみである。

アサの実母、藤井ますは梅津のO家から藤井に養女に入った人である。時々アサは子供を連れて藤井本家に挨拶に出向いたり、時には川村にます自身がやってきたりしたので、はるや喜一郎は、その面影を覚えている。米太郎とカツはまだ幼く、二人の頭を撫で、特にカツは要領よくご挨拶をしたので、「おカツさんは賢い子や」といつも褒められていた。

ますの実家O家はもともと大百姓であったが、その後没落して田畑土地屋敷一切を手放すことになる。その時の最大の援助主がこのますであった。昭和四年のこと、土地家屋田畑を大金をはたいて買い取り、また当時の金で大枚三百円を貸し与えた上、次のような契約を取り交わしている。

すなわち、O家の嫡子が三十五歳となり、家督相続の上で問題なく善良に育った暁には、土地家屋等をすべて無償にて返却すると言うのであった。その契約書の保証人に川村喜代楠が名を連ねていた。よほどますから信頼されていたのだと思う。その契約の一方の人、O氏のことは、「ヨサはん」と呼ばれ、家の便所の肥を汲みに毎月来ていた。彼が来ると「ヨサはんが肥汲みにきた。クサいクサい」と子供たちではやし立てた。彼はそれでも笑顔を絶やさず、大根や茄子を山ほど置いていった。名誉のために付け加えておくが、O家はその後立派に再興して、今はその名を梅津一円では誰も知らない人はない。

川村喜代楠商店は当初烏丸三条の今は住友銀行京都支店が建つ位置にあった。喜一郎は幼時をここで過ごし、従って小学校は明倫校に通っていた。その後東洞院、六角、と転々と移り住んだ。六間間口べんがら格子の商家で、高倉角のMという帯地屋がここの家主だった。喜代楠の商売が軌道に乗ったころ、一度土地家屋を買い取ろうとの話を喜代楠が大家に持ちかけたが、Mの主人は「家なぞ買う金があったら、それを商売につぎ込んで事業を広げるのが賢い。」と忠告してくれ、喜代楠もそれはそうだと家を買うのを思い止まった経緯がある。これは結果的に悔やまれる判断だった。

 

 

 

木綿問屋が盛大な頃は、両親と兄弟姉妹五人の七人家族、それに奉公人が十五人と女中三人、計二十五人の大所帯だった。魚は仕出し屋の魚富が毎日売りに来て、アサ(私の祖母)と女中が吟味して買う。鰻は錦東洞院の江戸川から、かしわは蛸薬師烏丸のとり岩と決まっていた。そこの親子丼はまた格別旨かった。肉は三条寺町にあるところから三寺と呼び慣わされていた三島亭、八百屋は毎日荷車を曳いて梅津あたりから売りに来ていた。 

大正の御代と変わって二三年、第一次世界大戦に日本も参戦したころ、喜代楠が警察に検挙された。理由は、祇園のお茶屋の二階で花札をしていて、賭博行為の現行犯で踏み込まれたのだ。そのころの賭博といえば「花札」「おいちょ株」が主たるもので、公営競馬もない時代だったので、大方が隠れてやっていたのだが、商売敵か誰かに垂れ込まれたに違いなかった。喜代楠は着ていた着物も博多帯も引き剥がされ、粗末な単に縄帯一つで警察の留置所に放り込まれた。店主が捕まったことはただちに川村家に伝えられたが、家中の大騒動に止まらず、思いも掛けない難儀が降りかかった。号外が出たのである。「中京の呉服屋の旦那が賭博で警察に上げられた」という内容である。もちろん大新聞がそんな号外を出すはずがないが、そのころはいわゆる「赤新聞」が手刷りで、ちまたの風聞を瓦版のようなちらし新聞にして隣近に売り歩いたのである。驚いて番頭手代が手分けしてその号外を買い占めたが、買っても買っても次々刷り増して売りまくるのでそれも諦めざるを得なかった。ことは大げさになった。藤井本家から別家のA、Sまで交えての鳩首会談の末警察へかなりの額のお金を包んで、喜代楠を、本来なら一月もぶちこまれるところを、ようやく三日目に払い出してもらったという。

ついでの話だが、大体川村家に限らず、親類筋は博打事が好きで、父喜一郎の妻一恵の里、I家でも一恵の父親、兄が花札に目が無くて、私の母一恵の死後も暫くは、婿の喜一郎と米太郎が出入りして、徹夜で八々をやっていたそうである。よく、夕方になると兄の喜一郎から米太郎に電話が掛かってきた。「これから行くさかい、はよ支度せえ。」花札に止まらず、喜代楠は後々相場に手を出し、それが没落を早める結果となった。

数々の遊びごとの一つに、若い頃から喜代楠は義太夫を習いに通っていて、素人としては相当上位にランクされる腕前だったらしい。蛸薬師柳馬場に玄人の三味線引きがいて、時々家に来て喜代楠の練習の相手を勤めていた。ある時、家の下座敷を全部使って、舞台と座席をこしらえ、浄瑠璃会を開いて大勢のお客が聞きに来たこともある。

また鑑札を持っている喜代楠はよく鴨川団栗橋の辺りや桂川でもよく網を打った。昼食は仕出し屋に前もって電話しておき、幕の内弁当と酒を川辺まで配達させ、柳の下で仲間と呑み食いする。腕も達者で、毎度ハイジャコを五十尾も獲って帰り、女中が待ち構えて腹綿を出して天ぷらにした。その他数えるにいとまない。アサは、夫のことを「どうしょうもない道楽もん」と呼んでいた。

米太郎とカツと喜一郎の三人は、その頃の商家の子供なら大抵が習っていたように、謡の塾に通っていた。一日置きに三条のO先生のところへ出かけ、徐々にではあるが上達して来ていた。ところが喜一郎はそのうち謡を止めて、長唄に転向した。謡が性に合わなかったのだろうか。兄弟でも米太郎と喜一郎は性格がかなり違った。米太郎はアルコールは全く嗜まなかったが、喜一郎はは喜代楠の血を受け継いで酒を好んだ。酒の席には長唄が合うというのが変節の理由だった。

大戦後の景気後退は著しく、商売は曲がり角に差し掛かっていた。そんな時節の行く末を知ってか知らずか、 ある日、本家筋に当たる藤井家の十四五人を引き連れた喜代楠が、豪勢な慰安旅行を催し、喜一郎、米太郎とも同行した。喜代楠は南海電車の一等車を借り切りにして和歌山方面に繰り出したのである。ところがその同じ車両にたまたま徳川公爵の一行が乗って来られた。駅長が川村の番頭のところへ飛んで来て、一等車を明け渡してほしいと申し出たのである。が、喜代楠はそれに頑として応じなかった。ところが敵もさるもの、慌てる駅長に徳川さんは腹を立てるでもなく、「普通車の方へ行くからよろしい」と穏やかに言ったそうだ。和歌山駅に着くと、市長やら警察署長やらが徳川公爵を出迎えに来ていて、そのものものしさに、川村家の面々も、改めて平民と貴族の差の大きさに気付かされた。

 

私の父喜一郎は尋常高等小学校を卒業するとすぐ、店の手伝いをさせられ、やがて喜代楠や番頭に代わって北海道の得意先回りをするようになった。やがて喜一郎に嫁取りの話が持ちあがり、日取りも決まって、いよいよ婚礼が近づくと、北海道への注文取りの役目は米太郎の方にお鉢が回ってきた。初めのうちは見習いのため兄が付いて回ってくれた。

行程は、まず京都を夜行で発ち、東京に早朝に着く。そこで一商いしてから、夕方四時の急行で青森の野辺地まで行き、普通に乗り換えて下北半島の大湊、田名部の得意先を尋ね歩く。引き返して青森から青函連絡船に乗り込むのだが、シケともなればその場で一泊しなければならなかった。ようやく北海道の函館に上陸してからがいよいよ本番である。札幌、小樽、岩内、岩見沢、増毛、稚内、旭川、網走、根室、釧路、池田、登別、室蘭とほぼ北海道を東西南北くまなく回り歩いた。夜は宿でその日取った注文を手紙に書いて、京都へ送る。代金は後払いでしかも大抵二ヵ月の手形が切られた。

登別の近くのカルルスという温泉に喜一郎の常宿があって、ここには兄だけが十日ばかりも長逗留し、見習いの米太郎は引き続き道内の商いを命じられた。仕事を終えて最後に兄を迎えに米太郎が寄る時だけ、半日ばかり温泉を愉しむことが許された。兄と一緒に得意先を訪れても、碁を心得ている喜一郎は客と長々と何時間でも碁盤を囲む。碁のお陰で大きな注文を貰うこともあるのだと言われて、見習いの身の米太郎も文句の付けようがなかった。全行程で二十五日掛かり、やっとの思いで京都のわが家に帰って来る。それも束の間、五日間の休養の後、再び北海道に旅立つのである。これを兄の跡を継いで、以後八年間米太郎は続けた。無論喜一郎は年少のころから二十年あまりも同じ苦労を舐めさせられていたことになる。

喜一郎は子供の時はよく喜代楠に手ひどく叱られていたそうである。それを見て育った姉達は喜一郎が不憫だと言った。しかしそのうち成人するに従って商売も上手になり、時には親子逆転するとともに、遊びも親と張り合うようになったらしい。親譲りの酒好きで、自宅ではありつけないので外で呑み、平素のぶっきらぼうが呑むと機嫌がよくなって、そのつど宮川町に繰り出した。ある日、父の喜代楠が宮川町の階下で呑んでいると、どうも二階がどたどたと喧しい、誰だと尋ねてみたら、息子喜一郎がどんちゃん騒ぎしていたという逸話もある。親子で呑んで、宮川町から月末には集金におかみが直々やって来たが、いつも寿司桶に一杯のにぎりを手土産に持って来たそうである。

さて、大正十二年九月一日の関東大震災当日、米太郎は北海道にいた。災害発生時には函館近くの木賃宿で昼飯を食べていたが何一つ気付かなかった。彼はまだ旅の半ばで、ようやく小樽に着いたばかりの時だった。夕刊の記事で地震を知ったが、宿屋のおかみに聞いてもいま一つ不案内で、明朝行く予定の得意先に電話で問い合わせてみて、初めて関東地方が壊滅的な大災害を被ったことを納得した。米太郎はとりあえず京都の店に自分の所在を電報で知らせた。得意先訪問をすべきかどうかを考えたが、例え注文を貰っても果たして品物が送れるかどうか分からなかった。二日の朝、あちこちの主な訪問先に電話を入れ、注文のあるなしだけを確認してから、今回はこのまま京都へ帰るので悪しからずと断わりを述べ、その日の夕方発って、函館で一泊の後、三日の朝の青函連絡船に乗った。青森港はすでにいつもより人の出が多いような気がした。東北線周りはいずれ東京近辺で行き詰まるに決まっているので、新潟周り、北陸線で帰ることにする。車中一泊、新潟通過は四日の午前だった。とにかく時間が掛かった。途中からどんどんと避難民が乗り込んできた。残暑の真っただ中で、汽車は汗でむんむんしていた。米太郎は最初のうちは申し訳ないような気持ちで、出来るだけ身を譲るようにしていたが、そのうちだんだん自分も被災者のような気持ちに変わっていった。やがて、どことも分からないところで汽車は長々と止まって動かなかった。いつの間にか眠っていて、目が覚めると汽車が海岸べりを走っていた。金沢の駅に着いたのが、何日の何時なのかとっさにはもう分からなかった。汽車が停車すると、ホームで乗客に向かって沢山の人が口々に何か言っていた。「ご苦労さん、がんばって下さい」と叫んでいるのだった。それから窓という窓から丸ごとの西瓜をどんどんと放り込んでくる。「どうぞ食べて下さい、喉が乾いているでしょう」と言うのである。彼も実際喉が乾き切っていたので、遠慮などしていなかった。座席の角で叩き割って、隣近所の人達とかぶりついて食べた。京都に着いたら、客車の床は西瓜の皮だらけになっていた。

 

喜一郎の結婚式は寺町四条の大神宮さんで挙げ、宴席は自宅の奥座敷から店の間までの部屋を四部屋ブチ抜いて、約五十人の親戚縁者と番頭女中頭が列席して盛大にお披露目した。祇園町から芸者十人あまりが酌に来ていた。料理は錦の「津の利」から五六人が出張して来て、台所と裏部屋で調理し、生きのいい料理が次々と幾皿も出た。それよりもこんな奇麗な花嫁を米太郎は見たことがなかった。それに引き替え兄貴はむっつりと仏頂面をしていて、腹が立つほど素っ気なかった。そのあと三日後には御池柳馬場の「八新」という大きな料亭で、今度は店の顧客八十人を招待しての大披露宴がはなばなしく催された。

喜一郎夫婦の新婚生活も半月程過ぎたある日、一恵と米太郎が、二階の廊下の窓ガラスを拭いていた。慣れぬことで緊張していたのだろう、一恵の手が滑ってガラス戸が落ちかけたのである。義姉は「あっ」と小さな声を上げた。米太郎は反射的に手を差し伸べ、かろうじてガラス戸を受け止めることが出来、大事に至らなかった。一恵は青い顔をして、しばらく呆然としていたが、やがて涙顔で何度も「おおきに有難う」を繰り返した。嫁入りして間もなく不安な時期、初めての粗忽にならなかったことで、彼女はさだめしホッとしたに違いない。

ある日、米太郎がシャツを買いに行くと言うと、一恵が一緒に行ってくれると言うので、二人で大丸へ買い物に出かけたことがある。四条通りや大丸の店内で、通り掛かりの人が皆彼女の容姿を振り返るので、並んで歩くのは、優越感やら恥ずかしいやらで、彼はどう振る舞ってよいのか困った。

木綿問屋「川村喜代楠商店」も大正五年頃が一番栄えた時期だが、喜代楠の一番上の姉ヒサの嫁ぎ先、福井商店も、その頃は奉公人も二十人位いて、野球チームを店員だけで作れたというほど繁盛していた。松原の家も、私達の六角通りの家より大きかった。土蔵も三つあり、庭先が広くて、水道を呼びこんで設えた谷川が流れていた。ある日、福井英太郎が喜代楠のうちに来て、

「お義父さん、私もやっと百万円という金が出来ました。」

と報告しているのを米太郎は傍で聞いていた。その頃の百万円は平成の現在、十億円位に換算すべきなのかもしれない。川村商店もその頃は同じくらいの財産を持っていたようで、六角の川村と言えば、新町の美濃利商店とよい勝負の出来る資産家だったのである。祇園祭ともなると表に幔幕を張り、著名な画家の描いた屏風を飾った。その絵はかなり有名らしく、時々画学生がやってきて、見せてほしいと言い、屏風を眺めながら熱心にスケッチして帰って行った。奥の間の一間幅の大床の間には、月ごとに軸が掛け替えられ、時々カツが、習ってきたお花を生け、その様を父喜代楠が傍らに正座したままいとおしそうに眺めていたという。違い棚の上の、掛け軸などを納める「天袋」には、その小さなふすま扉に「松に雀」の絵が描いてあり、これも有名な人の落款が押してあった。

ついでながら、福井榮太郎の叔父にTSという人がいた。東洞院あたりにやはり大きな呉服店を張っていたが、なにより「達磨」の画が上手ということでちまたで有名だった。「掛巻」という雅号まで持っていて、彼の絵を求めて人が押しかけるほどで、喜代楠も何枚かを所蔵していた。

喜代楠の三女カツは、生まれた時に西院の大地主に貰われる話があった。ところが、赤ん坊のカツが、砂糖を入れた重湯をおいしそうに飲むのがいかにも可愛く、母のアサが養女口を断わったという話がある。

女学生時代のカツは活発な娘で、あだ名が「ジャンダーク」。ドッチボールでもなんでもみんなをリードして、先生まで、「おカツっあん、おカツっあん」と頼りにしたらしい。カツは米太郎より一つ年上の姉ではあったが、女姉妹の中では末娘だった。その精か、わが意を通そうとする一途なところがあった。世の中は時しも大正デモクラシーの最中で、彼女もその時代の香りに浸っていた。一度は髪結い、今で言う美容師に憧れ、四条にそのころからあった「美粧倶楽部」を覗きにいったりして母にひどく叱られたこともある。父喜代楠は末娘のカツのことを「カツかん」と呼んで、特別可愛がり、時々お供に連れて歩いた。そんなある日、やはり父喜代楠の供で西陣の機屋に連れられたことがある。そこで見た錦織に彼女は魅せられた。自分で造り出すことの悦びを味わいたかったのだろう、ぜひとも西陣で機織りの修行をしたいと望んだ。ある日その願いを母に打ち明けた。母アサは、すでに述べたように藤井商店の長女で、職工や職人を見くだしていたから、織り子または「おへこ」と呼ばれる、そんな職業につくことなぞを我が娘に許すはずがなかった。カツは母の無理解に涙し、反抗の意思を表わす方法を考えた。ある夜、自分より二つ三つ若い店の手代に家出を告げ、一緒に供をするように言いつけた。というのはカツは京都の街さえ一人歩き出来ない、根っからのお嬢様、手代は若いと言っても商売で方々に出歩いている。当座の手助けになると思ったのである。しかし手代の方は主家の「令嬢」と道行まがいの家出をする以上、許されるとは思っていなかった。彼は無論クビを覚悟していたのである。下女中と中女中の二人にもカツは家出のことを打ち明け、明日の朝の弁当を二人分こしらえるように命じた。翌日の真昼時、カツは女中のこしらえた弁当と着替えのはいった大きな風呂敷包を手代に持たせ、京都駅頭で女中たちに見送られながら母の家を出奔した。

二人は米原まで汽車で行き、駅前のちっぽけな木賃宿に旅装を解いた。もちろん部屋は別々である。翌日の朝、朝食もまだ済まさぬ時刻、私服の警官がづたづたと部屋に闖入した。「あんた、川村カツか」。同行の手代と顔を会わすこともないまま、カツは早々に母の元に連れ戻された。不思議なことに戻って来た娘をアサは一言も叱らなかった。

二人が米原で下車したのには理由がなくはなかった。その若い手代の父親が彦根で瓦焼き職人をしていて、彼の頭には親を頼ればなんとかなるとの打算があったのかもしれない。カツはその朝以降、自身の気紛れな見込みのない冒険に付き合ってくれた手代がどうなったのか、もちろん教えられもしなかったし、深刻に悩んだわけでもなかった。それから数年後のある日、彦根からカツ宛に音信が届いた。「私は父の元で瓦職人の道を究めつつあります。きっと立派な瓦師になってみせますので、ご安心下さい」と書いてあった。

 

 

前にも言ったように藤井本家の長女として育ったアサは、気ぐらいは高かったが、自分は人一倍の働き者だった。ただし表向きの商売については、主人である夫にはもちろんのこと、店の者にも一切口をはさまず、あくまで裏向きの仕事に精を出した。掃除洗濯は女中の先頭に立ってやり、またそれを天賦のように好いていて、汚いのが大嫌い、奇麗なところをなお奇麗にと一日洗いまわり、拭きまわっていた。誰に教わったのか、茄子を炊いても漬けても色は艶やかな紫色を保ち、大根を煮ても山椒入の塩昆布を炊いても右に出るものはなかった。お針の糸目の確かさは家の中はおろか、よその店にまで評判で、もし注文を取りでもすれば、京一番のお針子間違いないと言われた。お花を生け、お茶をたて、玄人裸足に三味線を引き、謡長唄、端歌まで一通りこなした。娘たちにも芸事を習得させようとして、ヒサとはるには三味線を習いに行かせていた。三女のカツにだけは、本人がどうしても楽器を嫌がるのと、容姿がよかったので、三味線の代わりに踊を習わせた。ところが、小学校で友達が、カツさんは芸者になるのかとからかわれたらしく、本人が止めたいと言い出し、末娘には事のほか甘かったアサはそれ以上無理強いはしなかった。

アサの一番の生き甲斐は芝居見物である。これは藤井の家にいた時から彼女に許された唯一の娯楽だった。月に一度外題が入れ替わるごとに、もうそわそわと初日の朝から待ちかねて出かけた。嫁に入ってからもそれは変わらず、夫も自分ばかりが祇園で遊び廻るのが気が引けて、むしろ妻が芝居にうつつを抜かしてくれるのを奨励さえしていた。普段の彼女の几帳面さには少々辟易していたのである。子供達が成長すると、娘を連れて出かけたが、三人娘の中でもはるが芝居好きで、母に必ず同行したので、「南座のお神酒徳利」と陰口されたほどである。出かける時にはかならずお気に入りの丁稚を伴い、升席の確保から弁当の手配まで身の回りの世話をさせた。家に帰っても女中や末娘のカツ相手に芝居話に花を咲かせ、いつまでも余韻を愉しんだ。

概して川村家の娘たちはお嬢様育ちだった。一番上の姉ヒサは特に長女の特権をひけらかし、二つ下のはるに親が買って与える着物でも、ヒサは自分が気に入ると、手前の持ち物と交換してくれと迫り、はるはまた元来控えめな性格で、その交渉に応じてしまうのだった。ヒサは大正五年二月に二十歳で、山のような荷物ともども下京区の御大家Y商店に輿入れしたが、二ヵ月後の四月に実家に泣いて戻った。ひび割れた両手を見せた上、さんざん嫁ぎ先のつらい仕打ちを並べ、娘を溺愛する父喜代楠の怒りをかきたてた挙句、そのまま親の庇護のもと離婚した。江州福井商店の長男栄太郎とは再婚だった。さすがのヒサにもショックだったらしく、その頃から性格ががらりと変わり、女中にもやさしい御寮さんと映り、実家に帰っても妹達にも気配りするようになった。

二番目のはるの輿入れも相当な評判だった。今だに二条近辺で昔を知る人は、その子の代まで聞きづてに知っていて、語り草となっているほどである。江州五箇ノ庄の北町屋市田家は広い田畑を小作に任せ、他の豪農がそうしたように京都市内に店を構え、呉服を商っていた。長男は先夫(商才なしということで離縁された。)の子で、修一郎が次男坊だったが、いきさつはあたかも藤井商店でのアサの立場に酷似していて、修一郎の父は婿入りに際して、実子を跡目相続させることを条件としたのである。従って修一郎は戸籍上次男にもかかわらず市田家を嗣ぐこととなり、維新以来の古い墓石を、約束通り彼が守った。むろん長男もこの墓に葬られてはいる。

ところで、先代市田忠兵衛の眼鏡に叶ったはずの修一郎の父も、今一つ商才のある方とは言えなかったらしく、やがて家業は傾き、修一郎も京都東洞院の店から勤めに出ることになる。折しも、近くの川村商店に嫁入り前の娘はるがいるとて見合わされ、二人は結婚したが、それを期に修一郎は本家から別れて二条あたりに店を構えた。父に似てどんどん商いを広げるほどの才はなかったが、堅実に、身を粉にして家族のためにだけ働いた。はるは、これも母アサの血を引いてか、あるいは母から、「女が商売に口出すものではない。」と教わり、その言葉を固く守ってのことか、一際表向きには関わらなかった。電話一つでも、愛想にも「毎度おおきに」の一言もなく、「ちょっと待っとくれやす。」と取り次ぐだけだった。

それも一つには彼女の生活環境に理由があったと言えなくもない。はるが修一郎と所帯を持った当座は姑のふさが健在で、階下の奥座敷を占有していた。口数は少なかったが、はるの実母アサに輪をかけて気位の高いふさは、いつも床の間を背に絹座布団に正座して、庭を眺めて暮らしていた。はるは、そんな姑のいる階下に下りるのが嫌で、ついつい二階が安住の場となり、次々と子供が産まれるにつけ、育児にこと寄せて、下の商売とは無縁となっていった。また、当時のはるは心身ともにか弱いところがあり、ささいな病気で医者にかかり、入院することもあった。

そんなある日、またしても入院中のはるを里の母が、見舞いに手料理を作って三女のカツに持たせた。そのころカツは十五六で外出好きの小娘だったし、また、姉がいうほど叔母のふさは嫌いでなく、なぜかカツには優しくしてくれるので、むしろ好きな部類だった。いそいそと出かけ、市田の家の戸を開けたとたん異様な雰囲気を感じた。直前、はるの姑で修一郎の実母ふさが急死していた。すでに呼ばれていたらしく、修一郎の異父兄とその美しい夫人を遺体の側に見かけた。世の中のしきたりをまだよく知らないカツは、たまたま居合わせたというだけで、入院中の姉に代わって、叔母の口元に筆で末期の水をさす役目を仰せつかった。また鋏を使わずに手で引き裂いた晒し木綿で経帷子を縫う手伝いをさせられた。

ふさの回忌を勤め終え、ようやくはる達も階下で暮らすことが許された。

と同時に、彼女の実父喜代楠が時折り、それも前触れもなくやってくるようになり、近頃病気をしなくなったはるは、父の顔を見るとそそくさと、つい数ヶ月前まで姑の鎮座していた奥の間に通し、かいがいしく、女中に酒の用意をさせ、自ら玉子焼きなどを手際良くこしらえて座敷に運んだ。修一郎が商売に出かけていていなかったりすると、喜代楠は娘のはるをはべらせ、くだくだと半日でも一日でも話をして、酒の一升も呑み切ってから、人力車に乗って上機嫌で帰って行った。

 

 

長い間続いていた木綿問屋も世の中の移り変わり、時代の波に呑まれ、ついに廃業することになり、喜一郎夫婦は大阪の嫁の里へ赴き、喜代楠夫婦と米太郎の親子は六角の家を明け渡して、太秦有栖川の借家に移った。平屋建てではあったが、庭は広く、住まいとしては立派なものだった。それでも貧乏して、太秦の田舎に引っ越した時、市中の同業者は誰も振り返りもしなかった。世間は冷たいものだと若年の米太郎でさえ感じた。喜代楠は案外平然としていたが、生まれて以来住み慣れた市中を追われ、田舎にひつそくした無念さを噛みしめたのは、アサのようだった。何かにつけては本家や、A家、S宅に挨拶に出向き、そうすることで、川村商店のかすかな灯火を消すまいとしているふうだった。

米太郎は仕事もなく、親の家に居候をきめていたが、夜になると誘われるまま、時々市内の友達の家にマージャンにでかけた。父に何度か叱られたが懲りなかった。ある夜、いつも通り午前様で、米太郎が帰ってきて、女中が開けておいてくれる勝手口に手を掛けると、まるでずっとそこで待っていたかのように、父が目の前に立っていた。げんこつが飛んでくると覚悟していると、ついと米太郎をすり抜けて表に出た父は、黙って、電信柱に向かって立ちしょんべんをやりだした。その後姿を米太郎は畏敬の念で見つめた。

米太郎も遊んで暮らすわけにはいかなかった。折も折、カツの婿、入江重三がちょつと変わった商売を手がけていた。重三は喜一郎と同い年だったが、性格性分はまるで違っていた。喜一郎はどちらかといえば繊細で慎重だったが、それに引き替え重三は体つきもがっしりしていて、一言で言えば、やり手タイプ、実行派だった。彼がやり始めた商売というのは、「定期券の信用販売」、つまり汽車電車の六ヵ月定期券を買い込み、それを月賦販売してサヤを稼ぐという、至って今日的な新商売である。その仕事を米太郎に手伝ってくれと言ってきたのである。大阪肥後橋のビルの二階に事務所を構え、そこまでの通勤は嵐電と阪急の無料パスを彼が呉れた。重三はそこの株主だった。その頃の六ヵ月定期の割引率は今よりずっとよかった。汽車、省線電車、阪急、阪神、京阪、なんでもござれで、通勤サラリーマンをセールスして回り、要望に応じて定期券を買いに走る。あとは月々集金に歩くのだが、担保もなしの信用貸しだから当然払えないのも出てくる。その時が米太郎らの出番である。職場に出向いて皆の前で催促する。踏み倒されるケースも勿論あったが、差引きはやはり儲けとなったはずである。しかし米太郎は重三から給料を貰うただの勤め人の立場で、そのうち仕事に追われ、ほとんど事務所に住み込みも同様の身となった。

重三の片腕で働いていた寺田という男がまた重三に負けず劣らず商才に長けていたが、こんなことならいっそ金貸しをした方が早道と教えるのだ。重三は早速小口の高利金融を始めた。今のサラ金の元祖と言ってもよい。これとても取り立てをしっかりしなければ元も子もなかったから、払えないとすぐ執行使を連れて差し押さえに出かけるのである。箪笥引出しお構いなしに令状を貼って回り、子沢山のかみさんが泣いてすがるのを振り切るのが仕事だった。しかし義兄重三も、また米太郎自身もそのうち、こんな生活に耐えられなくなり、やがて金融業から撤退した。

何分生まれつき入江重三は商売上手だった。定期券販売の前から薬屋を営んでいたが、何が儲かったかというと「家庭温泉薬」である。内風呂にこの薬剤を混ぜるといい香りがして、温泉にはいったと同様の効能があると書かれてあった。商品に箔を付けるため彼は朝鮮に「視察旅行」し、朝鮮から輸入の妙薬入りと宣伝したのである。これが原価の数倍もの値で売れに売れた。

カツは長男出産に際しては大変な難産であった。もう二度と子供は産みたくないと思った。それが嵩じて、夫の要求にもカツは些か恐怖感さえ持つようになった。重三の生涯たった一度の過ちは、そんな内輪の事情も考慮しなければならない。重三は確かに女性が放っておかない魅力のある男性だった。結果としてあるカフェーの女給をはらませてしまった。ある日、その父親が女を伴って、凄い剣幕で入江家へどなり込んできた。姑の指示で裏口から長男を抱えて逃げ、当時二十軒ほども持っていた貸家の一軒に、姑共々避難したことがある。重三は五百円もの手切れ金を父親に払って一応解決した。

その後二年して、カツの元にその女から一通の封書が届いた。彼女は重三への思いを断ち切れず、子供を産んだらしい。しかし不運にもその子は育たず、最近他界したと書いてあった。その証拠にと除籍届けを済ませた戸籍謄本が同封されていたのである。それがカツへの思いやりなのか、当て付けなのかはよく分からない。

カツはこの事件を、実家の母にも終生打ち明けず、手紙も謄本も無論破って捨てた。母アサはこういうことに関しては至って潔癖な性格だった。カツ自身も、見染められて嫁にきたのであって、その夫に裏切られ、浮気をされたなどとは思いたくもなかった。それに、重三の育ての母は元「おんば」だったところから、カツを嫁に出す時の喜代楠は相手の家柄を見下していた。もし重三の不祥事が父の耳にはいれば、即座に連れ戻されるだろうことは目に見えていたから、自負心の強い彼女にそんな事態は到底耐えられなかったのだ。なにしろ彼女が大阪へ嫁入りのおり、前日から娘に付いて大阪の旅館に泊まり込んだというほど愛してくれた父だった。

 

義兄の手伝いから身を引いた米太郎が、戻った家は有栖川でなく多薮町だった。

父喜代楠は隠居然として散歩に明け暮れていたが、その道すがら「川村の旦那はん」に新築の貸家の話が持ちかけられ、その話に乗って移って来たのが多薮町の家だった。ここは角家で、生け垣と格子戸のあるこじんまりした二階建てだった。もう女中もいずに、母アサが家事万端をこなしていた。この家に戻っても米太郎は落ち着かなかった。親父が遊んでいる軒の下で、同様にぶらぶらと暮らしているわけにはいかなかった。彼は元来機械が好きだったし、中でも自動車には憧れがあった。父に頼んで車の免許を取るため稲荷自動車学校に通い、器用さが幸いして二ヵ月あまりで免許を手に入れてしまった。免許が手に入るとやはり車が欲しくなる。父に申し出ると以外にあっさり許可してくれた。ただ財布を握っていたのは母アサで、彼女は猛反対だった。そのアサに喜代楠は一言、「米太郎に五百円出してやれ、わしが許す」と言い放った。

車はそのころすべて外車だったが、その手配は、商売していたころよく使った車屋町のIハイヤーに相談した。「川村はんの息子さんなら心配ない」と、五百円の頭金だけで早速現物を取り寄せてくれた。総額は当時の金で二千円ぐらいだったらしい。あとはエンタクをしながら月賦で返せばよいとのことだった。新車を目のあたりにし、手で触ってみて米太郎の胸に嬉しさが込み上げてきた。感謝の念を米太郎は、両親を新車に乗せて、大阪に嫁いだ一つ上の姉カツの家に連れていくことで表した。

まず多薮町の家の近くにガレージを借り、もう一人運転手を雇って二階に寝泊りしながら、二人で昼間と夜と二交代で街を流した。ある日烏丸通りを走っていると、慣れた風に手を挙げる若者が前方に立っていた。それは顔見知りのA商店の息子である。さすがの米太郎も恥ずかしさに冷や汗が出て、気が付かぬ振りをして通り過ぎてしまった。

商売は甘くはない、簡単にはいかないものである。雇いの運転手は歩合制だったが、稼ぎを大半報告せず、自分のポケットに入れてしまったのである。また、世の中の不景気も手伝って、米太郎のように運転手に転業する者も多く、エンタクは街にあふれていた。月賦を払うどころではなかった。半年続けて米太郎は廃業を決意した。父親に経緯を説明し、車は再びIハイヤーの主人に処分方を頼む。彼はよほど喜代楠を信頼していたのだろう、何も言わずに頭金だけで車を引き取ってくれた。しかもその後の身の振り方まで心配して、寺町のキングハイヤーを紹介してくれ、米太郎はしばらくそこで通いの運転手をしていた。

米太郎が東京へ出たのはそれから数ヵ月後だった。

兄と違って米太郎はハンサムでハイカラだった。酒は好まなかったが、カフエには通い、その頃流行していた玉突きの腕前はプロ級、賭け試合ではいつも勝ち、仲間達から嫉まれるほどだった。むろん女にももてたが、女運には恵まれなかったようである。上京後半年で結婚するが、結婚生活は長続きしなかった。二年ほどで相手が病死してしまった。

吉野晴子との結婚はずっと後のことである。時すでに父喜代楠も亡くなっていた。あたかも太平洋戦争のただ中、結婚式には兄喜一郎と市田家に嫁いだ二番目の姉はるが東京まで来てくれた。ところが、米はもちろん、副食の魚等もすべて配給制で食べるものにる時代だった。米太郎は当時埼玉の川越から東京の出版社に通勤していた。川越といえば薩摩芋の産地でもあり、百姓家が多かった。彼は、はるばる来てくれた兄と姉に何か心尽しをと思って、農家で鶏を四羽買って来た。一羽五十銭だったという。毛羽をむしり腹ワタを出して、二人が帰り際に、二羽ずつ土産に渡した。このような物は京都ではなかなか手に入れることが難しい世の中だった。

さて、川村商店にNという大番頭がいた。年は私の父喜一郎と同年代であったが、喜代楠はむしろをNをより多く信頼していた。没落の日まで、いやその後に及んでも、主人に忠誠を捧げ最後まで見捨てなかったので、喜代楠はその人情が痛いほど身に染みたのだと思う。店分散の昭和五年十二月、残り少ない資産の中から、N氏に別家料五百円の支給と積立金四百九十円の払出しをしており、その受取証文が私の家に残っている。しかし当時の社会情勢は、主人からノレンを分け与えられ独立して商売が出来る時代ではなかった。彼はそれを元手に、小さな電気器具店を営むことになる。

福井商店も、大正九年の株式と商品の大暴落で、三つの蔵に床が落ちそうなほど詰め込まれていた羽二重生地が二足三文となり、破産してしまった。挙句に、太秦の小さな長屋住まいに移り、その後しばらく太秦の地で洋品雑貨の店を営んでいた。やがて商売をやめたあと多薮町の喜代楠の家の近くの借家に住み、東洋クロスに勤めに出た。

喜一郎の妻一恵の実家は大阪岡崎橋でその昔、鯨問屋を営んでいたそうで、家の地下室に大型の冷蔵庫があり鯨肉を保管していた時代もあったということだ。母一恵の実の妹が嫁いだIT氏はパッキングケースを造る連合紙器という大会社の社長で、箕面に広大な別荘があって、そこに住んでいた。

一方、一恵の実家、板原家は天下茶屋に四五軒の貸家を持っていて、川村商店分散時、その一軒を喜一郎夫婦はとりあえずの住まいとした。そこで喜一郎は特に商売を始めるわけでもなく、また勤めに出ることもせず、しばらくぶらぶらと一恵と遊んで暮らしていた。そのうち始めたのが株の売買である。父から何がしかの金を貰っていたのだろうが、そんなやくざで不真面目なやり方で夫婦生活が成り立つ道理がなかった。一恵は心配し実家に泣きに帰ったが、板原の父親も困ったと腕組みするしか術がなかった。それやこれやの心労が元で一恵はやがて肺結核を患う身となり、最悪にもその最中彼女はみもごった。

やがて喜一郎夫婦の間に男の子が生まれ晟と名付けられたが、一恵は肺結核と産後の疲れが重なり、二度と病床を畳むことはなかった。母子は太秦多薮町に引き取られ、一恵は、夫喜一郎よりむしろ義弟の米太郎が見取ったようなものだった。ずっと傍に付き添う米太郎には、子を思う母親の心情が哀れで見ていられなかった。自分が不治の病に冒されていることを知っていた一恵は、米太郎に向かって涙を流しながら「助けて下さい」と拝む仕草をした。また、夫喜一郎に、我が子を傍に置いて欲しいとせがみ、喜一郎が止むを得ず、赤ん坊の私を柳ごおりに入れて枕元に置くと、夫が目を離す隙に抱き上げてあやすのだった。そんなことが二度三度あり、喜一郎はとうとう柳ごおりも取り上げてしまった。

産後二ヵ月余りで一恵はあの世に旅立った。さすがの喜一郎も一恵の死にはショックを隠せず、生前の妻に優しい言葉も掛けたこともなかった無口な彼が、こんなことを人に打ち明けたそうである。

「幽霊でもええ、化けてでもええ、夜中にでも、もういっぺん戻って来てほしい。」

しかし災難はそれに止まらなかった。一恵の葬儀が終わるか終わらないかに、今度は晟、つまり私自身が病気に罹った。高熱が何日も続き、体は黄色くなり衰弱していくのが目に見え、一週間後に中京の有名な小児科高木病院に緊急入院したが、すでに手遅れの様相だつたらしい。病院長が「さじを投げた」のだ。たとえ万が一助かっても熱で脳が侵され後遺症が残るに違いないと断言された。ところが奇蹟が起こった。三日後に熱が下がり出し、十日後には通常にミルクを飲むまでに快復して、心配した後遺症も出なかった。これには院長の方が首をかしげた。

私はすぐに、梅津に里子に出され乳母に育てられたが、数えの三歳になると太秦のうちに連れ戻されて、アサ(私の祖母)が育児一切を引き受けた。私の父喜一郎がほとんど家に寄り付かないまま、アサが一人で、手の掛かる時期を育てたのである。時々、叔父の米太郎が私を連れて近くの山陰線の踏切まで汽車を見に連れて行ったり、銭湯にも連れて行ったくれたそうである。

 

祖父喜代楠は昭和十二年五月、多薮町の家で亡くなった。享年七十歳だった。葬儀は、わが家の当時の経済状態からは考えにくい盛大なものだったらしく、父の親友A、S両氏の援助があったものと思われる。霊柩車に随行するハイヤーは十台を数えた。見送りの中に大勢の芸者衆がいたと近所の評判になった。

本葬は中京区高倉の浄光寺で営まれたが、その時の記念写真が手元にある。妻アサを真ん中にして、総勢三十人あまりが写っている。長女ヒサとその夫英太郎、四人の孫。次女はると修一郎、三人の孫。三女カツと重三、一人の孫。長男喜一郎と一人の孫(つまり私)。次男米太郎。それから藤井本家の人達。A、Sの両名。その他である。

アサはその六年後、太平洋戦争の先行きも次第に怪しく、物資も乏しくなりかかった、昭和十八年正月二日に、痩せ細って衰弱の果てに没した。

 

 

我が家のプロローグ おわり