我家写真1

 

 

 

 

 

 

古いアルバム

その1  

私の祖父喜代楠は慶応三年、つまり明治維新の前年、和歌山県内海村の庄屋の家に生まれた。 

年少のころの喜代楠はとてつもなく腕白で、持て余し者だったようだ。

困り果てた彼の父が、ツテを頼って彼を丁稚奉公に出した先が京都の呉服屋藤井商店であった。

そこで喜代楠は憑き物が下りたように一生懸命に働き出し、

やがて十数年の年月を経て番頭にまで成り上がるのである。

前列右端の喜代楠と本家の面々

 

 

藤井商店からのノレン分けの際、条件の一つとして喜代楠は、主家の長女アサとの結婚を求められた。

アサはあまり美人とは言えなかったし、また喜代楠の好みでなかったのだろう、

終生喜代楠はアサのことを好きになれなかったそうだ。

別家独立の二年後、明治二十九年に結婚するが、

だからといって、妻を粗末にすることはなかったし、

裏切るようなことも一切なかった。

妻アサと喜代楠

 

 

木綿問屋が盛大な頃は、両親と兄弟姉妹五人の七人家族、

それに奉公人が十五人と女中三人、計二十五人の大所帯だった。

 

左から長女ヒサ、次女ハル、三女カツ、長男喜一郎、次男米太郎

 

 

 

年端の行かないお手伝いと丁稚さん

 

 

 

魚は仕出し屋の魚富が毎日売りに来て、アサ(私の祖母)と女中が吟味して買う。

肉は三条寺町にあるところから三寺と呼び慣わされていた三島亭、

鰻は錦東洞院の江戸川から、かしわは蛸薬師烏丸のとり岩と決まっていた。

現在の三条寺町界隈