序・「変貌」
現実は簡単に崩れ落ちるもの。世界は幻でできているものだ。そんな言葉を、少年は考えていた。
少年は今、地面に倒れている。その腹部からは大量に出血していた。
血溜りの中で、少年は思った。 まるで、漫画か映画。そうでなければ、悪い冗談だ、と。
不思議と痛みはあまりない。そのせいで、少年はこの状況を正確に認識できずにいた。
だが、これは現実だった。
確かに少年の体からは血が流れ続け、それとともに体から力が失われていく。
少年は手をついて立ち上がろうとして、失敗した。自分自身が作り出した血の池の中に倒れる。
何でこんなことになった?
少年はそう自問する。
その答えは、目の前にあった。
「シィイイイイイイ……」
歯の隙間からもれるような呼気。いや、唸り声。その声の持ち主こそが少年の体を裂いたのだ。
人ではない。しかし、獣でもない。
それらすべての優れた点をかき集め、再構築した。そんな印象を与えるモノだった。
この世に存在する、あらゆる肉食獣がもち得ないその鋭い爪で、少年は引き裂かれた。
だが、少年にとって自分を傷つけた相手などどうでもよかった。
ただ、自分の身に起きた理不尽を呪っていた。
自分はただ学校に忘れた財布を取りに来ただけだ。
それなのに、なぜこんな目にあわなければならない?
どうして、こんなところで地面に転がらなければならない?
なぜ、どうして……。
そんな言葉ばかりが、少年の中で渦巻く。
やがて、腹部が焼けつくように熱くなった。そして、すぐにその熱さを上回る激痛が少年を襲い始める。
少年はその苦痛にもがいた、もがくが、その体は弱く痙攣するばかりだった。
自分の体に走る激痛に、初めて少年は死を意識する。
そして、死を意識した瞬間、頭の中で渦巻いていた言葉が「何故」から、別の言葉に入れ替わった。
「死にたくない」 ただその一言に。
しかし、言葉は渦巻くが、体からはどんどん力が抜け、感覚も急速に薄れていく。
自分がどうなっているのかすらわからなくなる。
声だけがどんどん強まっていく。
死にたくない、死にたクナイ、死にタクナイ…………死ニタクナイ!
その言葉がひときわ強くなったとき、少年の体に変化が起きた。
腹部にあった痛みが急に消え、感覚が蘇る。全身に力が漲ってくる。
こんな感覚は今まで感じたことがない。だが、少年はそんなことを気にしてはいなかった。
少年の目の前には、自分を切り裂いて殺そうとした異形の怪物がいる。
少年はもはやそれを恐ろしいとは思わなかった。
それよりも、自分のもつ力と怪物の力。どちらが強いか試してみたい、と思っていた。
自分のもつ、力。
少年はそう考えたことに何の疑問ももたない。
少年が起き上がったのを確認した怪物が、鮫のような歯を剥き出しにして襲い掛かる。
少年が、笑う。
そして、闇に赤い血が流れ落ちた。