結・「虚構の現実」
午前9時30分。
目覚まし代わりのCDプレイヤーが起動する微かな音で、ユウトは眠りの淵から引き上げられた。
次いで、目覚めを促すように、CDプレイヤーから朝を告げるには騒々しい音楽が流れる。
その音を、ユウトは布団を被る事によって遮断しようと試みた。
音楽が鳴った、と言うことは起床の限界時間までは後10分はある。
タイマーをセットした本人だから、それはよく分かっている。
それで、目覚ましとしての意味があるのかどうかは、さておき。
そもそも、今日は学校は休みだ。だから、普段よりも遅い時間に起きても何も問題はない。
「ん……」
ユウトは心地よい二度寝を、暖かな寝床の中で楽しもうとした。
だが、そこで階段を上ってくる気配を感じる。
敏感にそれを察知したユウトは、布団を一層強く引き上げた。
だが、その程度でノックされる扉の音は消えない。
「ユウトー? そろそろ、起きなさい〜?」
扉越しに聞こえてくる、母親の声。
ここで無視しても再度扉を叩かれ、同じ事を繰り返されるだけだ。
観念して起きるまで、延々と。
ユウトの母親は、決して子供の寝坊を許さない人だった。
父親なら、ノックをして起きなければ放って置いてくれるのだが。
ユウトは渋々と布団を引き剥がすと、返事を返す。
「はーい……起きたよー……」
半ば寝ぼけた声を出すと、階段を下っていく音が聞こえた。
ユウトは体を起こすと頭をガリガリと掻き、リモコンを引き寄せてCDを停止させた。
ついでに、大きな欠伸を一つ浮かべる。
そうすると、やっと頭が動き出してくるような感じがした。
「さて、と……」
布団から抜け出すと、カーテンを開く。
明るい太陽の光が、ユウトの部屋に差し込んできた。
その眩しさに目を細めると、傍らにあるカレンダーに目をやる。
「……あれから1週間、ね」
奇妙な感慨を持って、ユウトは呟く。
変貌した世界に足を踏み込んでから、一週間が過ぎ去った。
あれ以来、ユウトはそれまでとまったく変わらない生活を送っていた。
朝起きて学校に行き、授業を受け、帰宅して眠る。
そんな日々が続いている。
こうしていると、あの週末の夜がまるで嘘のようだ。
「だけど……」
あれは、紛れもない事実である。
その証拠に、永谷昭弘という生徒はユウトの通う学校から姿を消した。
表向きは親の都合で引っ越した、と言うことになっている。
その唐突さに一時期は噂になったが、だが、それもすぐに他の噂に紛れてしまった。
今はもう、誰も気にしてなどいない。
皆、そういうものなのだと納得し、記憶の底に沈めてしまった。
「……虚構なのかな、やっぱり」
ユウトはそう口にして、そして思う。
今暮らしている日常は、やはり虚構なのかと。
永谷についての真実を、ユウトは知っている。
永谷の家族は、永谷が人でなくなった時、真っ先に『喰われて』いたそうだ。
その事をユウトは木ノ坂から聞いている。
そして、永谷本人はユウトがその手で、倒した。
「けど、それは誰も知らない。知っちゃ、いけない……」
ユウトは自分の手を見ながら、呟いた。
この世界に生きる人の大部分が生きる日常。
そこに、この真実は、必要ない。
日常の裏に潜んだ、日常の別の顔。
それは、知る必要のない者には、決して知らせる事はできない顔だ。
自分が、その別の日常に足を踏み込んだことも、また。
だけど、もしそれがばれてしまった時は?
そこまで考えて、ユウトは自分の思考がまずい方向に向かっていることを自覚した。
頭を一つ振って、思考を切り替える。
「……いけねっと。さて、今日はどうしようかねぇ?」
その為に、ユウトはそう口に出して呟いた。
学校は休みだ。遊びに行くか、家にいるか。今日の予定を考える方に頭を持っていく。
その時ユウトの目は無意識に隣の家の一点を見ていた。
そこはまだ、カーテンがかかったままの部屋の窓だった。
本当ならば、今日は用事があった。あの部屋の主と遊びにいく、と言う用事が。
だが、それは叶わないだろうとユウトは確信していた。
「……まあ、当然だよなぁ」
ユウトは軽く溜息をついた。
あの日から、ユウトは極力倉木を避けるように行動していた。
朝はいつもより一本早い電車で学校に行き、毎日のように入り浸っていた部室には近寄らず、
学校で倉木と会いそうになると慌てて逃げ出す、と言ったように。
結局、あれ以来倉木と会話は交わしていない。
木ノ坂の言う記憶操作を疑うわけではなかったが、やはり不安があった。
「無理だっての……」
ユウトは恐れていた。
倉木にあの時と同じ言葉をぶつけられる事を。
ぶつけられないにしても、あの恐怖に染まった目を向けられる事を。
日常で生きる覚悟は決めた。
けれど、もう一度同じ事をされたら、その覚悟を貫く自信はない。
「しかし。我ながら……なっさけない覚悟だよなぁ」
ユウトは自嘲気味に呟いて、寝巻きを脱ぎ始める。
何はともあれ、まずは着替えてリビングに顔を見せなければ。
降りてこないのを怪しまれて、また扉を叩かれてはかなわない。
「ま、今日は家でのんびりさせて貰おうかね」
着替えながら、ユウトは今日の予定を改めて考えた。
そして、今日は家でのんびりゲームをしたり本を読んだりしてすごそうと決めた。
だが、そう決めた瞬間、再び階段を上ってくる気配がする。
足音と上る間隔から、母親だと見当をつけた。
そして、気配はユウトの部屋の前で止まる。
「ん? なんで?」
ユウトは疑問の呟きをもらした。
時計を見てみると、時刻はまだ9時45分。
二度寝を防ぎにくるには、まだ早い。
そして、母親が起こしにくる以外でユウトの部屋にくることはまずない。
「おかーさん。俺もう起きてるよ?」
ユウトは何かの勘違いだと考えて、扉に向かって先に答えた。
だが、扉の向こうから聞こえてきた母親の言葉は、ユウトの予想を超えていた。
「起きてなきゃ困るわよ。美奈ちゃん、もう迎えに来てるわよ?」
「へ?!」
「今日は美奈ちゃんと出掛けるんですって? だったらもう少し早く起きた方がよかったんじゃない?」
母親の言葉に、ユウトの頭は盛大に混乱していた。
迎えに? 何故?
その混乱に拍車をかけるように、母親の声がする。
「とりあえず、上がって待っててもらってるから。早く支度しなさいね?」
「え、ちょ、ちょい待ってよ?!……ああ。もうっ!」
それだけ言うと、母親は階段を下りていく。
ユウトは混乱する頭を何とかまとめようとするが、無駄だった。
とにかく、実際に自分でも確認しない事には話が始まらない。
ユウトは大慌てで着替えを済ませると、部屋を飛び出した。
飛び出したままの勢いで階段を駆け下り、リビングの扉を開ける。
「来た来た。遅い!」
「あ、いやその。悪ぃ……」
リビングの扉を開けると、テーブルについていた倉木がユウトの方をぴっと指差した。
その様子は、いつもとまったく変わりがない。
ユウトは呆気に取られてしまい、思わず謝っていた。
だが、呆気に取られてしまったのは一瞬で、次の瞬間には疑問を投げかけていた。
「……って、そーじゃなくて! なんで?!」
「何でって?」
「い、いや。何で倉木が迎えに来てるってか。えーと、その……」
平然と倉木に返されて、ユウトは勢いを殺されて言いよどむ。
ユウトの状態を見ていた倉木が少し心外そうな声を上げた。
「あー。もしかして、忘れてた? 今日は私と遊びに行くって約束したよね? 先週の金曜日に」
「……いや、お、覚えてたけどさ……」
「覚えてたなら、なお悪い! 今日の予定とか相談したかったのに、ユウ君なんか私の事避けるし。
しょうがないから、直接迎えに来たの」
「いや、それは……」
勢いよく飛び出してくる倉木の言葉に、ユウトはタジタジとなりながら、言葉を探す。
だが、それを言うよりも早く、倉木が追い討ちをかけてきた。
「約束、忘れてないなら早く準備してね? 後10分くらいなら、待ってあげる」
「うぇーい……」
倉木のいつも通りの仕草に、釈然としない物を感じながら、ユウトは回れ右をしてリビングを出た。
とりあえずは、身支度を整えなければならない。
ユウトは首を捻りながら洗面所に向かった。
それから、きっかり10分後、未だに内心首を傾げながら、ユウトは玄関口に立っていた。
横では、倉木が母親に向かってにこやかに声をかけている。
「じゃあ、ユウ君借りますね。行ってきます」
「はいはい。いくらでも借りてっていいから。行ってらっしゃい」
「……」
これもにこやかに応じる母親が、ユウトの顔をふと見た。
その顔は、ひどく楽しそうな微笑が浮んでいる。
倉木が先に玄関を出たのを見届けて、靴紐を結んでいるユウトにこっそりと声をかける。
「それじゃユウト。気をつけてね? ちゃんと、エスコートしてあげなさいよ?」
「……何を言うかな、この人は……」
ユウトは母親のノリについていけず、げんなりと言葉を返した。
視線を上げると、扉の向こうで倉木がユウトを待っている様子で立っている。
ユウトは立ち上がると、母親に向かって言った。
「とりあえず、行ってきまーす」
「はい、行ってらっしゃい。しっかりね!」
最後まで笑みを浮かべたままの母親の顔が、扉の向こうに消える。
(何がしっかりなんだ……?)
ユウトは母親のよこした言葉の意味を考えながら、表に出た。
思いの外、日差しが眩しい。思わずユウトは目を細めた。
その日差しの下で、倉木がニコニコと笑いながらユウトを見ている。
その様子に、あの日の倉木の姿はない。
「……」
「どうしたの? 難しい顔しちゃって」
「……いや、何でも」
思わず押し黙ってしまうユウトに、倉木が問いかける。
ユウトが歯切れの悪い言葉を返すと、倉木の顔がふと曇った。
「もしかして……私と遊びに行くの、イヤだった?」
その言葉に、ユウトは心底慌てて首を振った。
「イヤじゃない! イヤなわけない!!」
実際、今日の予定は楽しみだった。だが、それはかなう事がないと思っていた。
だから、ユウトは今のこの展開に戸惑っていた。
「そう? じゃ、なんでそんな難しい顔してるの?」
「いや、それは……」
問い詰める倉木に、ユウトはなんと答えればいいか迷った。
まさか、あの日の事を正直に尋ねるわけにもいかない。
だから、何とか誤魔化すために、ユウトは適当な事を答えることにした。
「ほら、部誌の小説。実はあれが中々進まなくてさ、間に合うかなーって思ってたんだよ!」
「あ、そうなんだ……でも、締め切り来月まで延ばすから、ユウ君なら間に合うんじゃないかな?」
「そ、そうか? んじゃ、頑張ってみるわ……とりあえず、行こか?」
「そうだね。行こう?」
そう言うと、倉木はさっさと歩き出した。
ユウトもその後に続き、そして横に並ぶようにして歩き出す。
とりあえず、誤魔化す事には成功したようだ。
ユウトはほっと胸をなでおろす。
そして、これ以上追求される前に、別な話題を振って矛先を変えようと試みる。
「んで。今日はどこに行くんだ?」
「んー。それも含めて、事前に相談したかったんだけどね?」
ヤブヘビだった。
倉木の目が細められて、ちろりと横目でユウトを見る。
その目に、かなりの非難の色を見て取って、ユウトはまた焦った。
折角誤魔化しかけたと言うのに、墓穴を掘ってしまった自分に内心歯噛みをする。
とりあえず、再び誤魔化そうとユウトは試みた。
「い、いや。顔を合わせると進行状況とか聞かれると思ってさ!」
「ふーん?」
「いや、マジだって!!」
「……」
倉木は無言のまま、なおも横目でユウトを見続ける。
ユウトはあたふたとしながら言葉を捜す。
……出てこない。
ユウトの額に、じんわりと汗がにじんだ。
「……ぷっ」
かなり追い詰められた様子のユウトを見ていた倉木が、不意に表情を和らげた。
そして、クスクスと笑いながら言う。
「ゴメン、冗談。ちょっと困らせてみただけ」
「へ……?」
唐突に普段通りに戻られて、ユウトは一瞬間の抜けた声を出した。
その時のユウトの顔が面白かったのか、倉木は笑いながら問いかける。
「でも、私ってそんなに締め切りに厳しいイメージなの?」
「……締め切りとかじゃなくて、進んでないって言うのは俺のプライドが許さないもんで……」
からかわれた事に気がついて、ユウトは少しだけ憮然とした表情を浮かべて答えた。
その答えに、倉木がもう一度笑う。
「アハハ。ユウ君、昔からそうだよねー。人の頼みはいつも一生懸命やろうとして」
「頼まれたからには、ちゃんとやるべきだろ?」
「うん、そうだけど。自分に無理させてるんだもん。その癖、人の助けは素直に借りないし」
「すんませんね。それが性分なもんでして……」
ユウトはやはり憮然とした表情を浮かべながら言い、そして言いながらも考えていた。
倉木の様子は、以前と変わらない。
今も、極普通の世間話をしながら、時に笑い、時に真面目な表情で話している。
本当に、忘れているのだろうか、あの時の出来事を。
その疑問が、どうしてもユウトの頭から離れない。
そして、その疑問がとうとうユウトの口から漏れた。
「なあ、倉木。先週の土曜の事なんだけどさ……」
ポツリと漏れたその言葉に、倉木の顔が再び曇る。
だが、その表情は恐怖とは違う。微妙な後悔と恥かしさが混じった表情だった。
そして、倉木は申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「うん。ゴメンね。昭弘が突然押しかけて……何にもなかったから、よかったけど……」
「……え? 何もなかった……?」
倉木の言った言葉は、ユウトに大きな衝撃を与えた。
何も、なかった?
ユウトが驚いた表情を浮かべると、倉木は疑問の表情で見返した。
「……あれ、何かあったの? 昭弘、あの後ユウ君にすごい勢いで追い出されて……。
もしかして、その前に喧嘩とかしたの?」
「あ、ああ。いや……そういうわけじゃ、ないんだけど……」
話すうちに、倉木の顔に浮んできた不安を打ち消すように、ユウトは軽く首を振った。
だが、その心の中には驚きと疑問ばかりが浮んでいる。
それを確かめるために、ユウトは慎重に言葉を選びながら聞いた。
「いや、実は俺、その後の事よく覚えてないんだよな。かなり頭に血ぃ上ってたみたいでさ。
で、倉木にヒドイ事とか言ってないかとか、ちっと気になってるわけで……大丈夫だった?」
「うん、それは大丈夫……だけど。本当にゴメンね。できればすぐに昭弘に謝ってもらおうと思ったんだけど……」
そういうと、倉木は申し訳なさそうに顔を伏せた。
その様子に、それ以外の何かがあったと思える部分はない。
ユウトは木ノ坂に感謝した。
本当に、倉木はあの時の事を忘れている。
「……いや、ならいいさ。あいつも何か慌しく引越しちゃったしな」
ユウトは内心で安堵の溜息をつくと、そう言った。
その言葉に、倉木が少し寂しそうな顔になる。
その顔に、ユウトは胸が少し痛むのを感じた。
「うん。私、お別れ言えなかった……」
「……そっか。まぁしょうがないさ」
ユウトがそう言うと、倉木は「うん」と小さく呟いて頷いた。
そして、そこからはしばし無言のままで二人は歩き続けた。
その沈黙は少し、いやかなり気まずい雰囲気のように、ユウトには感じられる。
それを打破すべく、倉木に声をかけるタイミングを探す。それは程なくしてやってきた。
駅前に出る道の、大きな交差点。そこで二人は信号待ちの為に足を止める。
そして、そこでユウトは倉木の方を見ずに、唐突に口を開いた。
「……あーあのさ。倉木」
「……何?」
答える声が、心なしか硬い。
あの時の出来事と永谷との記憶は、どうやら別の物らしい。
まだ、倉木の心はどこか永谷に縛られているのだと、ユウトには思えた。
それが、妙に苛立たしいものにユウトは感じた。
だから、ユウトは道すがら考えていた言葉を一気に吐き出した。
「遠くに行っちまった奴の事なんか、忘れちまえ」
「え?」
「だからさ、確かに永谷は行っちまった。お前に何にも言わないで。
けどさ、だからってお前がそれに囚われる必要ってあるのか?
俺はないと思うぜ。これであいつとの関係はチャラになった。それでいいんじゃね?」
言いながら、自分は何を言ってるんだと思う。
けれど、ユウトは倉木がこれ以上永谷に囚われているのを見るのは嫌だった。
その思いが、ユウトの口を動かし続ける。
「だから、今日はぱーっと遊ぼうぜ。あいつの事、忘れるくらいに」
「……」
ユウトが言い切った時、信号が青に変わる。
それを見て、ユウトはさっさと歩き出した。
その一歩後ろを、倉木が歩く。
長い横断歩道を渡り終えた時、倉木がポツリとユウトの名を呼んだ。
「ユウ君」
「ん?」
「……ありがと」
倉木は小さくそう言うと、さらに小さな声で呟いた。
「…………」
「え? 何か言ったか?」
「なんでもないよー」
ユウトがその言葉を聞き取れず問い返すと、倉木は答えずにまっすぐに歩き出した。
ユウトを追い抜いて、さらに歩いていく。
ユウトは倉木がなんと言ったのかを考えて、その後姿を見ていると、
途中で倉木が足を止め、ユウトの方を振り向く。
「どうしたの? ぱーっと遊ぶんでしょー? だったら、早く行こうよ!」
その顔には、笑顔が戻っていた。
その笑顔を見て、ユウトは思った。
この今が、現実が虚構だって言うなら、虚構の現実も、そう悪いもんじゃない、と。
そして、倉木に笑い返して、答える。
「……おう!」
そして、ユウトは歩き出す。
とても脆くて危うい、この虚構の中で。
とても残酷で冷たい、この虚構の中で。
その虚構の中にある、ほんの少しだけ優しいものを、守るために。
ダブルクロスSS 『虚構の現実』 了