二十二・『深紅の魂』
「ク、ククク……これで……終わり、だって?」
「……!」
ユウトがその声に顔を上げると、永谷がわずかに顔を上げ、ユウトを見ていた。
血塗れになった顔にあの笑みを浮かべて。
「テメエ……まだ、やる気かよ……」
ユウトは歯を食いしばり、立ち上がろうとした。
だが、体がそれに応じない。全身を強い疲労が包み、指一本動かせない。
しかし、永谷も顔を上げただけで、それ以上動こうとはしなかった。
代わりに、笑みを深くする。
「いいや……俺はもう終わりだよ……君と違って、ね」
「俺と、違って……だと?」
ユウトはその時気が付いた。永谷の目が、もう何も映していない事に。
死に瀕して、それでもなお永谷は嗤っていた。
「ああ、そうさ……俺は、これで終わり。もう、あの渇きに苛まされる事も無い……けど、君は違う」
「……」
「君は、ここからが始まりなんだ。自分の中にいる化け物と戦い続ける日々のねぇっ!」
壮絶な笑みを浮かべながら、永谷が言う言葉を、ユウトは黙って聞いていた。
焦点の合わない目をユウトに向けながら、永谷は嗤う。嗤い続ける。
「君は自分が人間だって言う! でも、いつか君だって理解するさ! 俺達は……化け物だってねぇっ!!」
「……!」
叫ぶ永谷の顔が再び血の海に落ち、水音を立てた。
それでも、永谷は嗤う事をやめなかった。
「クク……精々頑張る……事だね……この、虚構……の……現実……の中で」
最早その声は、かすれ聞き取ることも難しくなっている。
しかし、その声は確かにユウトの耳に届いていた。
「いつ……ま……でも……その……ま……ま……で……」
そして、声は唐突に止んだ。言葉の全てを吐き出すこともなく。
永谷昭弘は死んでいた。
血の海に沈み、しかし、最後までその顔にあの笑みを貼り付けたまま。
次の瞬間、その体に細かくヒビが走ったかと思うと、永谷の体は音を立てて砕け散った。
後には、細かな残骸が残り、それすら風に吹かれて散っていく。
「……化け物……か」
ユウトはその様子を見ながら、静かに息を吐きながら、呟いた。
自分も死んだら、ああいう風に欠片も残らず消えるんだろうか。
そんな考えがふと浮かぶ。
「いつまでも、そのままで……いられるわけがないって言いたかったのかよ?」
永谷の最後まで語られなかった言葉を、ユウトは口に出して繰り返す。
それは、もう一人の自分が言った言葉と同じだった。
いつまでも、そのままで。人間でいられるわけが無い。
ユウトはもう一度、自分の赤く染まった手と、そして既に塞がりつつある胸の穴を見た。
確かに自分は人間じゃないだろう。行使した力、そして、今こうして癒えていく体。
それは、人の範疇を超えている。
「……こっちが真実。そんで」
呟いて、今まで生きていた『現実』を思い返す。
ほんの2日前程度の事なのに、今はそれがひどく危うく、脆いものに感じられる。
それまでは、ずっと変わらないと信じていたのに。
「……虚構の現実……か」
変わってしまった自分の世界。変わってしまった、自分の現実。
だが、一方では変わらない世界が、変わらない現実がある。
その差に耐え切れず、永谷は背を向けた。
変わらない世界を虚構と呼んで、自分の世界を真実だと信じた。
「……だけど、俺は背を向けない……たとえ、今までの現実が虚構だったとしても」
血に塗れた手を握り締める。
己の手を血で染めても、守りたい世界がある。
それが、どんなに脆い虚構で出来た世界であっても。
「その虚構の現実で生きる為に……俺は、人間であり続けてやる」
握り締めた手に、力を込める。
一滴の血が、滴り落ちる。
「化け物になんか、なるもんか……!」
その小さな呟きは、静かな中庭に響く。
それに答える者は今度こそ、誰も居ない。
「……疲れたな……」
ユウトはそう呟くと、体をゆっくりと後ろに倒した。
バシャリと大きな水音を立てて、血の海の中に仰向けになる。
制服の布地に、自分の血が滲み込むのをユウトは感じて、横になったまま顔をしかめた。
「……また、制服ダメにしちまったなぁ」
苦笑交じりに呟くと、ユウトはゆっくりと目を閉ざした。
体がとても疲れているのを自覚する。
「こんだけ血ぃ流して、大丈夫なんかねぇ……俺の体は」
どこか他人事の口調で、ユウトは呟いた。
相当な量の血液を失った事は分かっている。
胸の穴からはもう出血してないとは言え、流した血の量は間違いなく致死量だ。
「これで死んだら、シャレにもならないよなぁ……」
そう呟いた時だった。
布地に滲み込む血の感触が唐突に消えていく。
「……?」
それをいぶかしんだユウトが目を開ける。
血の海に浸っているはずの指先をわずかに動かすと、そこに液体の感触はなかった。
指先から伝わってきたのは、ユウトが横たわる中庭の石畳のざらりと手触りだった。
「え?」
思わず、体を起こす。
すると、あれほど広がっていた血の海はすっかり姿を消していた。
「ど、どうなってんだ?」
わずかにうろたえて辺りを見回す。
ユウトの腰を下ろしている辺りに、わずかに血液が残っているのを見つけた。
しかし、それも瞬く間にユウトの中に滲み込み、後には何も残らない。
自分の体の出鱈目さを改めて認識した、といった口調でユウトは呟いた。
「……どうも、とんでもない世界に足を踏み入れちまったみたいだな」
「まったくもって、その通りですよ」
そのユウトの言葉に、別な言葉が重なる。
一切の感情を感じさせない声に、ユウトはそちらを振り向いた。
「木ノ坂さん」
「終わったようですね」
そこには、体育館から出てこようとする木ノ坂の姿があった。
その姿は地下に居た時と、いや、ここに来るまでとまったく変わっていない。
顔についた血の痕は、おそらくは返り血なのだろう。
拭いもせずに、木ノ坂はユウトに向かってまっすぐに歩いてきた。
「お疲れ様です」
「あ、オツカレ……」
木ノ坂の口調も、普段とまったく変わりがなかった。
まるで、何事もなかったかのように。
「あの。えーっと……そうだ、あいつの従者は?」
「構成を維持できなくなった後も、しばらくは動いていましたが。先程完全に停止しました」
あまりに普段通りの木ノ坂の様子に、なんと言えばいいのか分からず、
ユウトはとりあえずと言った様子で口を開く。
それに対しても、木ノ坂は淡々と事実だけを述べている口調で答えた。
「従者は、本体が死ねばその活動を停止する……元は一つなわけですから、当然ですが」
「……そだね」
淡々と言う木ノ坂の言葉に、ユウトは気の無い相槌を返した。
その目は、自然と永谷のいた辺りを見ていた。
そこには、もう何もない。普段通りの中庭の芝生があるだけだ。
「……ねぇ、木ノ坂さん」
「なんでしょう」
ぼんやりと、元通りの中庭を眺めながら、ユウトは木ノ坂に声をかけた。
木ノ坂はそれにやはり淡々と応じる。
「木ノ坂さんにとって、現実って何?」
「……唐突に、妙な事を聞きますね」
木ノ坂はわずかに片眉を吊り上げて答える。
だが、ユウトの目は永谷の居た辺りを見つめたまま動かない。
その口から、ポツリポツリと言った様子で言葉がこぼれる。
「永谷がさ、言ってたんだ。俺が今までいた現実は虚構だって。
……でもさ、俺にとってはその虚構こそが現実だったわけで」
「なるほど。それで、どちらが本当の現実か分からなくなった、と」
「うん、まぁそんなとこ」
ユウトに問われて、木ノ坂は少し考える素振りを見せた。
「……竹塚さんは、どちらがいいんですか?」
「え?」
淡々とした声で言われて、ユウトは思わず木ノ坂の方を向いた。
木ノ坂はまったく動じない声で言った。
「竹塚さんが望む現実が、竹塚さんにとっての現実ですよ」
「なんだい、それ……」
「仮に私にとっての現実を聞いたとして、それが一体、竹塚さんの何の役にたちます?」
そう言われて、ユウトは思わず言葉に詰まった。
確かに、その通りだ。
木ノ坂の現実は、あくまで木ノ坂のもので、ユウトのものではない。
ユウトの心を見透かしたように、木ノ坂は淡々と言葉を続ける。
「竹塚さんが、こちらを現実の世界と見るなら、それもよし。
逆に、こちらを非現実の世界と見るなら、それもまたよし、ですよ。
……結局の所、人の数だけ『現実』と言うものはあるのでしょうから」
紡がれる木ノ坂の言葉を、ユウトは黙って聞き続けた。
「大事なのは、自分が今どこにいて、そして、どこにいたいか……だと私は思います」
そこまで言って、木ノ坂は不器用に口の端を吊り上げた。
「自分の現在地と、目的地さえ分かっていれば、後はどうとでもなりますよ」
「……そんなもんかな?」
「そういうものです」
あっさりと答える木ノ坂に、ユウトは思わず苦笑を浮かべていた。
この人は、何があっても自分の位置を見失うことも、目的地を見失うこともないのだな、と思う。
そして、自分を省みる。今いるのは、やっぱり非現実の世界だ。
そう思ったら、素直に自分が居たい場所が口をついた。
「やっぱ、俺は今までいた世界にいたいな……」
「それでいいじゃないですか。他人の言う事に惑わされて不安になる必要はありませんよ」
「だね……って、なんで俺が不安になってるって?」
「竹塚さんは、本当によく顔にでますからね」
そう言われて、ユウトは木ノ坂に励まされたのだと理解する。
「木ノ坂さん。サンキュね」
「いいえ」
短く礼を言い、ユウトは笑った。
木ノ坂は笑みを収めてこれも短く答えた。
そして、懐から携帯電話を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。
「私です。任務は完了。これより帰還します。迎えと後処理をお願いします」
簡単に告げると電話を切り、懐に戻した。
その言葉の中の、後処理と言う単語で、ユウトはふと家の様子を思い出す。
永谷の従者との乱闘で、かなり荒れてしまっている。
今日明日は家族は居ないからいいものの、あれを一人で片付けるのは不可能だ。
壊れた調度品など、どうしたらいいか見当もつかない。
不意に思い出した事に、ユウトの顔が少し青くなる。
「これで、私達の仕事は終わりです。じき迎えが来ます。お疲れ様でした、竹塚さん」
だが、そのユウトのようには気が付いていない様子で、木ノ坂はユウトの労をねぎらった。
ユウトはそれに強張った笑いを浮かべながら、曖昧に頷く。
その様子に、木ノ坂がわずかに眉を寄せた。
「何か、気になることでも?」
「ああ、いや……」
ユウトはちょっと困った様に笑うと、改めて中庭を見回した。
中庭も、永谷の攻撃やユウトの能力のおかげで、あちこちに大きな破壊の痕が残っている。
この週末が終われば、またいつもの通りの学校生活が始まるのだが、これもどうするのか。
「考えてみたらさ。俺の家とか学校とか……かなりすごい事になってるな、と思って」
ユウトがその心配を口にすると、木ノ坂は「なるほど」と一つ頷いて、淡々と答えた。
「竹塚さんの心配も最もですね。ですが、ご心配なく。
これからUGNの事後処理部隊がここに来ます。明日の朝までには、元通りになっていますよ」
「……俺の家は?」
「もちろん、既に手配済みです」
「そうなんだ。よかった……」
静かに答える木ノ坂の口調に、ユウトは安心したように息を吐き出した。
だが、そこではっとしたように顔を上げる。
「あ、そうだ! 倉木、倉木は?!」
「……倉木部長がどうかされましたか?」
「いや、ほら。俺見られたって言ったじゃん?! あれ、倉木なんだよ!」
「竹塚さん、とりあえず落ち着いてください」
ユウトが慌てふためくのを、木ノ坂は冷静になだめた。
「お宅で起きたことは聞きました、と前に言いましたよね。
もちろん、倉木部長がその場に居合わせたことも伺っています。
そちらの方もご心配なく。手抜かりはありません」
「いや、でも!」
「大丈夫ですよ。こう言った事に対処できなければ、私達の存在はとうの昔に世間に知られています」
木ノ坂は淡々と、感情をまったく見せない声で言った。
ユウトもその声を聞いているうちに、慌てていた心が静まってくる。
その様子を見ていた木ノ坂が説明を始める。
「……倉木部長については、記憶を操作する処置をさせて頂いています」
「……そんな事して、大丈夫なの? 体とか……心とか……」
ユウトは、怪しげな科学者に『処置』をされる倉木の姿を思い描いて、思わず不安になった。
だが、木ノ坂は冷静な表情を浮かべたまま請け負う。
「大丈夫です。そんなに大した事はしていませんから。
今日の記憶を、別な物に置き換えるように、少し暗示をかけた程度です」
「解けたり、しないの?」
「100%と断言はできませんが。まず解けません。
たとえ、解けたとしても、それを現実だとは思わないでしょう」
「そう……」
木ノ坂の言葉は、完全にユウトの不安を拭い去ったわけではない。
だが、その言葉を信じなければ、倉木と顔を合わせることは二度とできないだろう。
不安だったが、今は納得するしかない。
ユウトが無理やり自分を納得させるのを、感情を見せない顔で木ノ坂は見つめていた。
そして、いかにもたった今、思い出したかのようにユウトに問いかける。
だが、その話の切り出し方はいかにも不自然だった。
「ところで、竹塚さん。この後はどうするつもりですか?」
だが、話題を切り替えてもらった方がユウトとしても助かる。
考え続けていると、どこまでも不安になる。
だから、ユウトは木ノ坂に言われた事に、素直に答えていた。
「んー……とりあえず……家帰って、寝る……」
「いえ、そうではなく」
だが、ユウトの答えは木ノ坂の求めた答えとは離れていた。
木ノ坂は冷静にユウトの言った事を一蹴すると、もう一度、おもむろに口を開いた。
「私が言いたいのは、今後UGNに協力するか、しないかと言う事です」
「あー……そう言えば、決めて無かったか……」
木ノ坂に言われて、ユウトは眉根を寄せた。
だが、考えたのはわずかな時間だ。
このまま、自分の力の制御方法も知らずに野放しでいれば、自分は遠からず永谷のようになる。
そう思えば、迷うことは無かった。
「ん。迷う事ないな……協力させていただきます!」
「そうですか」
ユウトが答えても、木ノ坂はニコリともしない。
その様子に、ユウトは少し憮然とした表情を作った。
「何だよ。誘っといてその態度はないっしょ?」
「いえ、竹塚さんの英断を、喜んでますが?」
「だったら、少しは嬉しそうな顔をしたらどうですか。先生」
「そうですか? では」
そういうと、木ノ坂は唐突に満面の笑みを浮かべた。
だが、その笑顔はすこぶる嘘臭い。
「……スイマセン、ゴメンナサイ」
「何故謝りますか? まあ、別に構いませんが」
木ノ坂の笑顔を見たユウトの口からは、真っ先に詫びの言葉が飛び出していた。
嘘臭さ満点の笑みを収め、無表情に戻ると木ノ坂は淡々と言った。
「ちなみに、所属の仕方も二種類ありますが」
「二種類? どんなの?」
「私のように正式に所属する形と、民間協力者として必要な時に力を貸して頂く形ですね。
それぞれ、エージェントとイリーガルと呼んで区別します」
「正社員とアルバイトみたいな感じ?」
「……ええ、まあそう考えて差し支えはないでしょうね」
ユウトは少し考えると、頷いて答えた。
「まだ、何にも分からないからなー。いきなり正社員はきっついや。アルバイトで」
「……わかりました。では、イリーガルとして登録させて頂きましょう。
どちらにせよ、近いうちにこの辺りを管轄している支部に来ていただく事になるでしょう。
その際に、コードネームも決定する事になるかと思います」
「コードネーム?」
ユウトが問い返すと、木ノ坂はこくりと頷く。
「ええ。本名で任務に就くのは色々と危険が多いですから。
大抵のエージェント、イリーガルは本名とは別にコードネームを持ってます」
「木ノ坂さんが『静かなる死神』って呼ばれるみたいに?」
「そうですね」
木ノ坂が答えると、ユウトはまた少し眉根を寄せる。
少し考えた後、おずおずと木ノ坂に問いかける。
「……あのさ、それってもしかして……強制?」
ユウトの問いかけに、木ノ坂は少しだけ考えた。
「いえ。大抵は本人の希望するもので呼びますね。たまに、本人が希望しなくても呼ばれる場合もありますが」
「へぇ……で、コードネームって何か決まりでもあるの?」
「特にはありません。本人の能力や覚醒したきっかけになぞらえて選ぶ人が多いですが」
そう言われて、ユウトはまた考える素振りを見せる。
今度は先ほどよりも長い。
その様子を、木ノ坂は無表情に眺めていた。
「考えると言う事は、何か希望があるんでしょうか?」
「うーん。出来ればなんだけどね? 今、考え付いた名前が一つ、あるんだ」
「ほお」
ユウトの言葉に、木ノ坂が興味をそそられたような声を出す。
顔は相変わらずの無表情だが。
「伺っておきましょう」
「えっとさ……『深紅の魂』って言うのはどうかなーって」
「ブラッディ・ソウル……ですか?」
ユウトの言った言葉を、木ノ坂は自分で口にして、確かめる。
改めて口に出されると、少し恥ずかしいのか、ユウトは顔を僅かに赤くして頷いた。
そして、慌てて取り繕うような言葉を口にする。
「いや、別に深い意味はないんだけどさ」
「深い意味がないんですか?」
だが、言った瞬間に木ノ坂から冷静に突っ込まれ、ユウトは顔をもう少し赤くしながら言った。
「う……いいじゃん! 語呂とか響きがいい方が!!」
「いえ。別にそれが悪いとは言ってませんが?」
「じゃあ、なんでそうやって問い詰めるような目で見るんだよ!」
「これが地ですから」
「嘘だぁっ! その目は、その目は……『なに気取った名前つけてんだ?』って馬鹿にしてる目だぁっ!!」
「……いえ。そんなことは欠片も思っていませんが」
「じゃあ、今の間は何?!」
「別に深い意味はありませんよ?……しかし、なるほど『深紅の魂』ですか……」
「なんだよー! そんな変かよーー!」
ユウトがエキサイトしているのを無視して、木ノ坂は落ち着き払ってユウトの言ったコードネームを吟味した。
実は聞いた時から悪くないとは思っていた。
だが、それを言う前にユウトが勝手に自爆をはじめたのだ。
今はもう言い繕うのもあきらめて、がっくりと肩を落としている。
「いーさー……どーせ俺には木ノ坂さんみたいなコードネームはつけらんないさー……」
「やれやれ……」
木ノ坂は微苦笑を浮かべると、ユウトに向かって声をかける。
「別に、変だなんて言っていませんよ? むしろ、悪くないコードネームです」
「……ホントに?」
「ええ。これで登録を申請しておきましょう」
「そっか……よし」
先ほどまでの落ち込みが嘘のように、ユウトは満面に笑みを浮かべていた。
その変わり身の速さに木ノ坂は微苦笑を浮かべたまま言った。
「しかし、簡単にコードネームを思い浮かべられるとは思いませんでしたね」
「へ? そーなん?」
「ええ、普通は割と悩んでつけるようですよ。自分にもう一つの名前をつけるわけですからね」
「そーなんだ」
「ええ。何か、元々考えていたかのようにも思えますが?」
木ノ坂が探るように言うと、ユウトは苦笑いを浮かべて答える。
「いや、別にそんなんじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「ただ俺の力から連想したのが、この名前だった。それだけだよ」
「……そうですか。分かりました」
ユウトが言い、木ノ坂が頷いた時、校門に一台のリムジンが止まった。
中からスーツ姿の男が出てきて、木ノ坂に合図を送っている。
「どうやら迎えが来たようですね。お家まで送りますよ」
木ノ坂はそう言うとさっさと校門に向けて歩き出した。
ユウトもそれに続いて歩き出そうとして、ふと足を止める。
肩越しに後ろを向き、永谷の残骸があった辺りを見た。
そこに永谷がいて、こちらを見て嗤っているような気が、ユウトにはした。
(俺は……お前みたいにはならないぜ。永谷)
血で汚れたままの顔を引き締めて、ユウトは口の中だけで呟いた。
(俺の中にも、確かに血に塗れた化け物はいるさ。けど、俺はそいつには絶対に負けない)
視線を前に戻し、ゆっくりと一歩を踏み出す。
(その化け物を忘れない為の、コードネームだ……)
深紅の魂。それは、ユウトの中に潜む、もう一人の自分を意識した名前だ。
深く紅い血に塗れた魂が、ユウトの中には確かに存在する。
その事を忘れれば、自分は永谷と同じ存在に成り果てるだろう。
人であるために、自分は常に意識をしていなければいけない。
自分の内の、深紅の魂を。そして、それを忘れない為のコードネーム。
(俺は俺が化け物だなんて、認めない……俺は、俺は人間だ……ッ!)
ユウトはさらに一歩進んだ。
自分が守った現実へと帰るために。
例えそれが虚構だったとしても、その虚構こそユウトがいたいと思う現実だから。
そして、二人を乗せたリムジンは夜の町へと消えていった。