自宅のリビングで、テーブルの上に広げた教科書をだるそうに眺めながら、となりに座っている仁くんは言った。

「こんなんただ覚えりゃいいんだよ」
「覚えられないから聞いてるんでしょ」
「お前そんな馬鹿だったのか」
「……いいから、教えてよ」

高校も3年生に進級してから数カ月。もうすぐテストがあるし、苦手な数学の勉強を教えて欲しくてこうやって頼んでいるというのに、仁くんはちっともやる気を出してくれない。まあ、やる気を出すところなんて今までほぼ見たことないけど。

神様は不公平だ。こんなどうしようもない不良に優れた学力と記憶力を与えるくらいなら、私にくれればよかったのに。その方が、いくらかもっとマシにその力を世間のために使えたかもしれない。

「……チ、ったく面倒くせえな」

そう言いながら結局は手にペンを持って、なにやら公式を書き出し、なんだかんだ分かり易く教えてくれた。途中、何回か「お前みてえな馬鹿にはわかんねえかも知れねーけどな」と言われたけど、教えてもらっている手前怒るのは我慢した。

「ありがと、仁くん」

一通り教えてもらい終わって、なんとなく理解できた気がする。教科書を閉じながらそう言うと、ちょうど玄関のドアが開く音がして、仕事に出掛けていた優紀ちゃんが「ただいま」と言いながら帰って来たのが聞こえた。

私がそれに「おかえり」と答えている間に、仁くんは何も言わずさっさと立ち上がって自分の部屋へ戻って行くのと入れ違いに優紀ちゃんがリビングへ顔を出す。

「あら、、仁は?」
「……さあ、知らない。自分の部屋じゃないの」

そう言って私は手に持っていた教科書をバッグにしまい、近くにあったリモコンを掴んでテレビの電源を入れた。











ちゃん、数学のテストどうだった?」

教室の窓際で外を眺めていると、私の横に並びながら壇くんが言った。いつの間にか高校3年生になっていた私達は、知りあった中学一年生の頃からずっと友達で、今年初めて同じクラスになった。

「まあまあかな」
「えーすごいなあ、すごく難しかったのに」
「ちょっと教えてもらったから」
「それって、もしかして亜久津先輩にですか?いいなあ」

そう言って羨ましそうな雰囲気の壇くんに、何も言わず笑い返した。

私はこれまでずっと仁くんのことが嫌いだ、迷惑だ、と高校に入ったばかりの頃までは思っていたけれど、不器用なりに彼も私のことを気に掛けてくれているのだと気が付いてからは、仲が良いとまではいかないまでも、少しずつ話せる様になった。

確かに、千石さんの言うとおり、仁くんは以前よりもちょっとは人間が丸くなったかもしれない。全部じゃないけど、ちょっとだけ。

「僕も亜久津先輩みたいなお兄ちゃんが欲しかったなあ」

そう笑う壇くんに対して、きっと以前の私なら「いらないからあげる」くらいのことを言っていたのかもしれないけど、何故だろう、今はそうするのはちょっと寂しい気もする。

(……あんなに嫌いだったのに)

兄なんていらないと思ってた。一人っ子だったらどんなによかっただろう、って、何度思い描いたことか。それでもやっぱり私には兄が一人いて、色々あった今となっては、それでよかったのかもしれないと考えられるくらいになっていた。











「……もしかして、ちゃん?」

学校が終わって、相変わらず一緒に寄り道する女友達なんていない私は、帰り道を一人で歩いていた。すると、突然聞き慣れない男の人の声に名前を呼ばれて、誰だろうと思いながらそっちの方を向いたけれどやっぱりよくわからない、知らない人だった。

「やっぱり、ちゃんだよね」
「……」
「あ、突然ごめんね。俺、河村っていうんだけど」

(……カワムラ?)

私が黙ったままでいると、怪しんでいるのがわかってしまったのか、何故か板前風の格好をしているその人は自分の名前を名乗った。それでも私が何も答えないと、そのカワムラという人は続けて言った。

「えっと、俺のこと覚えてないかな?」
「……」
「きみのお兄さんと同じ空手道場に通ってたんだ。随分前だし、やっぱり忘れちゃったかな」

(……空手……?)

まだ小学生の頃、確かに仁くんは空手の道場に通っていて、私はその様子を時々、優紀ちゃんと一緒に見に行ったりしてた。

少しの間記憶を遡っていると、そういえば、昔から一匹狼タイプだった仁くんにも道場で唯一話し掛けてくれてた男の子がいたことを思い出した。

「…………隆くん?」

あの子は……確か、河村隆くんといった。仁くんと同い年の、とっても優しい男の子で、時々顔を出す私のことも「ちゃん」と呼んで親しくしてくれていた。

「よかった、覚えててくれたんだね」

隆くんはほっとした様に言ったので、怪しんでしまったことを「ごめんね」と謝ると、「気にしないでよ」と笑って返す隆くんは、今も昔とずっと変わらずに優しい人だと感じた。

そう言えば隆くんのお家はお寿司屋さんだった気がする。何故板前の様な格好をしているのか不思議だったけど、出前か何かの途中だったのだろうか。

「よく私だってわかったね」
「うん、山吹の制服着てる可愛い子がいるなって思って、よく見たらちゃんだったんだ。優紀ちゃんに似てるからすぐわかったよ」
「そう、なんだ」
ちゃん小さい時から可愛かったけど、今もすごく可愛いね。びっくりしちゃったよ」
「……そうかな」

隆くんはこういうこと言うタイプの人だっただろうか……?と思ってもなにしろ最後に会ったのは小学生の頃だから記憶がおぼろげで、何が正解なのかもよくわからない。

お世辞かもしれないし、とりあえず、にこにことそう言う隆くんに控えめに笑い返した。

「亜久津は今、どうしてるんだい?」
「大学に通ってるよ」
「山吹の?」
「ううん、違うところ」
「へえ、そっか。あいつ、勉強得意だったもんな。家から通ってるの?」
「うん。出て行くのかと思ったけど、まだ家にいる」

隆くんの言う通り、不良の割に何故か勉強のできる仁くんは、山吹とは違う大学にあっさり合格していた。そこは家から通えない程でもないけれど、決して近くとは言えないからてっきり一人暮らしでもするのかと思ったのに、実際にはそんなこともなく大学2年生になった今も家で一緒に暮らしてる。

ちゃんと優紀ちゃんのことが心配なんじゃないかな。女の人二人だけじゃ危ないからね」
「そうかなあ……」
「亜久津の奴あれで案外優しいとこあるから。それに、昔からちゃんのこと可愛がってたしさ、余計心配なんじゃない?」
「……まさか。隆くんなんか勘違いしてるよ」
「え?」

隆くんはちょっと不思議そうな顔をしている。久しぶりに会って、そんなことを急に言い出すので、不思議なのは私の方だった。仁くんが私のことを可愛がってた……?なんで、いつ、何を見てそんな風に思ったのだろう。

「仁くんが、私のこと可愛がるわけない」
「そうかなあ。俺にはそんな風に見えたけど」
「気のせいだよ……絶対」
「うーん、でもあいつ、いつも空手つまらなそうにしてたのに、たまにちゃんが道場に見に来てた日にはさ、なんだか楽しそうだったよ」
「……そうなの……?」
「うん。知らなかった?」
「知らない……」

優紀ちゃんに、「見に来るな」と怒ってたことしか覚えてない。だから隆くんがそうは言っても、いまいち信じられなくて、本当なのかなと思ってしまう。

「あと俺がちゃんと話すと、その後に、に馴れ馴れしくするなっていつも言われたし。亜久津でもそんなこと言うんだなと思ってさ、よく覚えてるよ」
「……」
ちゃん可愛いからね。心配だったんじゃないかな」

隆くんが懐かしそうに昔のことを話すのを、同じに笑っては聞けず、それには何も返せなかった。まさか、彼が嘘を吐く様な人間じゃないなんてことはわかっているけれど。

「そういえば、俺出前の途中だったんだ。ごめんねちゃん、久しぶりに話せてよかったよ」
「あ……うん」
「また今度、うちの店においでよ。優紀ちゃんや亜久津も一緒にさ」
「……うん」

じゃあね、と手を上げて隆くんは近くにとめてあった自転車に乗ると、あっという間にいなくなった。それをちょっと見送ってから、私はまた一人で歩き出す。

この頃では、仁くんもそれなりに兄として気に掛けてくれてはいるのだろうなと感じても、千石さんや隆くんが言う様に、私のこと好きとか可愛がってるとか、いくらなんでもそこまでは思えなかった。

あの話は本当なのだろうか……?

記憶の中によみがえる幼い日の仁くんの姿。それは姿こそまだ小学生だけれど、すでに粗暴で反抗的だった仁くんは、周囲にいる大の大人ですら手に負えない様な、そんな存在だった。

そのうえ利口で頭の回転が速いので、みんな怯えた目をして見ていたことを覚えている。

まだ小さかった妹の私は、そんな仁くんのことがなんだか怖かったし、当然好きとも思えなかった。私に乱暴したりすることはなかったけど、それでもやっぱり怖いと感じていた。

空手もテニスも勉強も、器用な仁くんはなんでもあっさりこなしてしまうのにその割には問題ばかり起こして、優紀ちゃんはその度に悲しそうな顔してた。

ケンカ、煙草、カツアゲ、バイク……仁くんが悪い方にばかり進んでいくのを、どうして、と思っても私には止めることなんてできなくて、ただ、泣いている優紀ちゃんのそばにいて慰めることしかできなかった。

(……昔のことは、あんまり思い出したくない)

この頃では少しずつだけど話せる様になって、やっと、普通の兄妹みたいになれる気がしていたのに。それでもやっぱり昔のことを思い出せばなんだか嫌な感情が心を支配する。

私のことが好きなら、可愛いと思うなら。どうして、あんなことしたの?
ずっと嫌だと思っていたのに。私……悲しかったのに。











家に帰ると、今日は大学の授業が早く終わったのか、仁くんが先に戻って来ていた。家の中を見渡し、優紀ちゃんにいて欲しかったのに、こういう時に限って帰りが遅いことをそういえばと思い出す。

なんとなく顔を合わせるのが気まずくて、リビングにいる仁くんを避けて自分の部屋に入り、そのまま外が暗くなるまでそこからは出ないでいた。

(……お腹すいた)

ふと、お腹がぐう、という音を立てて、今さらになってそういえば夕ご飯どうしようと思う。帰り掛けに買ってくるの忘れちゃったし、適当に何か食べようかなと思って部屋を出るとなんだか美味しそうな匂いがする。

(……?)

キッチンに行ってみれば、テーブルの上には一人分、食事が置いてある。一体誰が?と思っても、私じゃないのだから他には一人しかいない。

ちら、とリビングの方を見れば仁くんはもう食べ終えたのか、ソファに座って煙草を吸いながら、つまらなそうにテレビ画面を眺めている。仕方なく私はそこへ近付いていって、聞いた。

「……仁くんが、作ってくれたの」

そう言うと、こちらを向いたので目が合った。そして、低い声で小さく「ああ」と言う。「ありがとう」と続けると、それには何も答えなかった。

(……美味しい……)

キッチンに戻って、テーブルで一人でそれをもぐもぐと食べている間、私は今日隆くんに言われたことを思い出していた。仁くんが、私のことを可愛がっている、と。べつに思い出したくなんてなかったのに、思い出してしまった。

隆くんも、千石さんも。どうして、周りの人達ばかりそんな風に言うのか。優紀ちゃんだってよく、「仁はのこと本当は大好きなのよ」とか言ってて、一体何言ってるんだろうと思ってた。

私が今まで気が付いていなかっただけなのだろうか?でも、当の本人があんな風じゃ、そう感じるのは無理でも仕方なかったと思うし、仁くんだって、私に好きと言ったことなんて一度もない。

そんなの嘘だ、勘違いだ。と一蹴したかったけど、それなら今私が食べているこれは何?

いつだって、優紀ちゃんの帰りが遅い日には、仁くんが家にいた。夕ご飯を買い忘れた時には、今日みたいに作ってくれたことだって、何度かあった。でもそれは気まぐれだと思っていたし、きっと自分のついでなのだとも思っていた。

だけど、所詮は全部私の頭の中で勝手に考えて決め付けていたことだから。本人に聞いたわけじゃないし、聞いたところで答えてくれるはずもない。

もしも、そうなのだとしたら……。一体、どんな風に受け止めればいいのかわからなくて、私は口に含んだ水と一緒にそれをゴクリと飲み込んだ。











その夜、私の浅い眠りの中には、なんだか懐かしい光景が映る。

地面に座り込んで泣いている私の前にはランドセルが転がっていて、どうやら数人の男の子にいじめられて泣いている様子なのに、何故か近くにいるその男の子達も泣いていた。

彼らは地面に尻もちをついたり、倒れ込んだりしている。その顔や体にはいくつも傷があり、所々血が滲んでいて、どうしてだろうと思って顔を上げればその前に誰か立っていた。

(……仁くん……?)

仁くんは少しも怪我をしていない。容姿から、仁くんも小学生の頃だと思うけど、その手は男の子達の内一人の胸ぐらを掴んでいて、掴まれている方は力なくぶら下がり地面に膝を付いていた。

「……もう、やめて……」

その子が絞り出した声でそう言うのも聞かず、仁くんは容赦なく拳を振り下ろし勢いよく殴った。座り込んでその光景を眺めている私は、怖くて仕方なくて、やめてと言いたくても言えなかった。

その男の子達は、仁くんと同じ学年だったかもしれない。下校途中、どうやら仁くんのことが気に入らない様子の彼らは、妹の私をいじめることでその憂さを晴らしたかったのか、突き飛ばされたり髪の毛を引っ張られたりした様な、気がする。

そうして何も抵抗できずに泣いているといつの間にか仁くんがやって来ていて、あっという間に、彼らは呻き声を出しながら次々と地面の上に転がっていった。

それは私を助けるためにしてくれているのだと、わかっていても怖かった。誰かが殴られて血を流すを見るのは、恐ろしくて、その度に私の目からは涙がこぼれていく。

「次、に近付いたら殺すぞ」

そう低い声を出す仁くんは、本当に怒っていた。


……その後のことは、よく覚えていない。
だけど、その次の日あたりから、それまでもどこか余所余所しかった同級生や周囲の人達の態度が、わかりやすく明らかに変わったことは思い出せる。

みんな私に近付くことすら怖がっている様子で、遠巻きに怯えた目をしていた。それから私が男の子にいじめられることは一度もなかったけれど、代わりに、私に話し掛ける人もいなくなった。

――亜久津の妹には近付くな。

私の周囲ではそんな言葉を耳にする様になった。私に関われば、その兄が出てきてひどい目に合うと。だけど、あれは私を助けてくれただけなの、と言ってもきっと信じてくれないと思ったから誰にも言わなかったし、確かに仁くんは普段理由もなく暴力を振るったりしていたからそれは仕方ないと感じていた。

容赦なく拳で人の顔を殴り、体を蹴り飛ばす仁くんのことを、本当に怖いと思ったけれど、それでも仁くんが来てくれてどこか安心している自分がいたことも確かだった……。

(…………)

ぼんやりとした記憶はそこで途切れ、浅い眠りからも目が覚める。真っ暗な部屋の中で、私はまた隆くんに言われた言葉を思い出してしまった。

仁くんなりに、私のことを可愛がっていたのだろうか……。

昔のことを思い出すのは嫌だと思ったから、自分でも知らない間に、忘れてしまった記憶もきっと多い。他にもこんな様なことが何回かあったかもしれないけど、やっぱりよく覚えていない。

あの時は本当に怖かったけれど、でも心のどこかで助けてくれて嬉しい、と思っている自分がいたことを今まですっかり忘れてしまっていた。……もしかしたら、わざと忘れたのだろうか。

凶暴な兄を好きだと思えば、同じ血が流れている自分も、いつかはあんな風になってしまうのではと不安だったし、そんな人を好きな自分はどこかおかしいのかもしれないと悩んでいたこともなんとなく思い出した。

だから、その考えから離れるために、わざと嫌いと思い込んだのだろうか。

「怖い」「嫌い」だと思い続けていた兄のことを、心の底で私はずっと好きだったのかもしれない。そんなわけはないと思うのに、それでもこの夢は、まるで私に「そうだ」と思い出させているみたい。

仁くんは相手がどんな大きな人だって、例え何人にも囲まれたって、ケンカで絶対に負けたりすることはなかった。いつだってためらいなく殴り、その返り血を顔に付けて薄く笑う兄のことを怖いと思う反面、強くて格好いいと感じている自分もいた。

……だから、怖かった。


そんな仁くんのことを好きだと思う自分が、怖かった。









TOP NEXT