ある日、電話の着信があって、それは千石さんからだった。出てみると、最近駅前におしゃれなカフェが出来たので一緒に行かないかという誘いだった。

千石さんは、高校を卒業してそのまま山吹の大学に進学した今でも、時々こうやって私に連絡をくれる。優しいから、友達が壇くん以外いない私のことを気に掛けてくれているのかもしれない。

それに承諾の返事をすると、都合の良い日時を聞かれたけれど、どうせ私には誰かと遊ぶ予定なんてない。だって、いつも一緒に出掛けるの優紀ちゃんしかいないし。だから、千石さんの都合に合わせた。


「すみません、待ちましたか」
「ううん、俺もさっき着いたところだから気にしないで」

約束した休日に、少し迷いながらもなんとか目的の店に辿り着くと千石さんは先に席に座っていて、笑顔で私に手を振っていた。そんな風には言っても、きっと本当は随分前に着いていたのではないかと思う。

「今日は付き合ってくれてありがとうね、ちゃん」
「お礼を言うのは私の方です」
「そんなことないよ。ちょうどここ来てみたかったんだけどさ〜、男だけじゃちょっとなって思ってたとこなんだ」
「そうなんですか」
「うん、それにこんなに可愛い子と一緒だなんて本当ラッキーだよ」

久しぶりに会ったけど、ちっとも変ってないなと思いながら、つられてちょっと笑った。それからも服装とか髪型とか、いちいち「可愛いね」と褒められる度になんだか懐かしかった。

千石さんなら、きっとこのお店にだって一人で躊躇なく入れそうなのにやっぱり気を使ってそういう口実を作ってくれたのだろうか。テーブルの上に並ぶ可愛らしいお菓子や飲み物がよく似合っていて、女性だらけのこの店内でもやけに馴染んでいる様に思えた。

「壇くん元気にしてる?最近会えてないんだ」
「はい、今年は同じクラスになったんです」
「じゃあよかったね」

他愛もない話をしながら、時々、失敗した格好悪い話なんかを面白可笑しく織り交ぜて、笑わせてくれる彼は相変わらず優しくて、そしてやっぱり希有な人だと思った。

「亜久津の奴、今も大学通えてるの」
「はい。案外、続いてます」
「へえ、そっか。まさか外部の大学行くとは思わなかったけどなー、でもあいつ頭良いし、まあ当然か。ついにあの亜久津も真面目クンになってしまったとはね〜」
「そんなんじゃないです。しょっちゅうサボってるみたいだし」

はじめはすぐに辞めるんじゃないか、と思ったけど未だに中退することもなく通っている。まあ確かに元々勉強ができるし、単位さえ取れればいいらしいので必要以上には授業に出てないみたいだけど。

「そうなんだ。どう?ちゃん、亜久津とは仲良くやってる?」
「……え?」

急にそんなことを聞かれて、私は握っていたフォークをうっかり落としそうになった。

「どういう意味ですか」
「いや、ちゃん前は亜久津のこと嫌い〜って言ってたからさ。ちょっと気になって」
「……べつに、普通です」
「そっか〜。嫌いから普通とはまた大昇格だね」

千石さんは笑っていたけど、私はそれには笑い返せなかった。彼は精神的にも大人だし、優しいからあれからも私達兄妹のことを心配して気に掛けて続けてくれていたのかもしれない。

近頃、私は仁くんに話し掛けたりするのが以前の様にはできなくなってしまった。
私は……本当は仁くんのことが、好きだったのだと。思い出してからは。

「あ、でも亜久津には俺とこうやって会ったこと内緒にしてね」
「どうしてですか」
ちゃんとデートしたなんて知れたら、俺の命が危ないからさ」
「……大げさですよ」

また、ふざけてそんなことを言っているのだろうか。まあでも、私が仁くんにその日あったことを話すなんて、今までもこれからもないので、千石さんが心配する必要なんてない。

それからもしばらくの間話をした後、陽も傾いてきたのでそろそろ帰ろうと店を出た。千石さんは当然の様に私の分も出してくれて、払いますと言っても「いいのいいの、俺にいい格好させて」と笑って断られ、結局「ありがとうございます」とお礼を言った。

「途中まで送るよ。本当は家まで送ってあげたいんだけど、亜久津に遭遇したら大変だからさ、ごめんね」
「いえ」

まだそんなことを言っている千石さんは、私の歩く速度に合わせながら、にこにこと笑って横に並ぶ。こんなに優しくて気が利いて、顔も良いしさぞかしモテるのだろうな、と思った。それでも、いつだって彼は変に格好つけたりしない。

「あのさ、もう俺に敬語使わなくていいよ」
「え?」
「今は学校の先輩じゃないんだし。呼び方も、下の名前で呼んでくれると嬉しいなあ」

急にそんなことを言われて、横を見ると千石さんはこちらを向いて笑っていた。だけど、これまでずっと敬語だったし、山吹という大きな括りで言えば先輩には違いないんだけど……と思う。

「……でも」
「俺達、友達じゃん。もっとラフにいこうよ」

私みたいな歳下にもそんな風に言える千石さんは、やっぱりすごい。いつだって先輩風を吹かせたりなんてしなくて、歳上なのにフレンドリーで偉ぶったりしないから。こんな人もいるのだな、といつも思う。

それに、「友達」と言ってくれてすごく嬉しかった。


「わかった、清純くん」

下の名前で呼ぶと、嬉しそうに笑う清純くんの顔を見て山吹に入ってよかったと感じた。ずっとつまらなくて仕方なかった学校生活も、壇くんや彼に出会えたことで初めて、価値があったのかもしれないと思えた。

……こんな人が兄だったら、どんなに楽しかっただろう。気が付けばそんな風に考えてしまう自分がいた。そんなの無理なのに、どうしてだろう。

それからも二人並んで歩きながら、他愛もない話をしていると、ふと人波の中に見知った顔を見付けた。その姿は、見間違うことなんてない……できない。


(……仁くん)

べつに、街を歩いていることくらい普通だし、なんでもないことなのに。それでも、そのとなりに知らない誰かがいることに気が付いて、私は思わず足を止めてしまった。

それは女の人だった。仁くんと同じくらいか、少し歳上だろうか。華やかな雰囲気の綺麗なその女の人は歩きながら親しげに腕を組む。それを、仁くんは振り払いもせずそのままにしていた。

「……ちゃん、どうしたの」
「……」
ちゃん?」
「……え、あ、ごめん。なんでもない……」

目の前に手をヒラヒラと振られて、私はそこから視線を離した。本当はその姿が消えて見えなくなるまで眺めていたかったけれど、怪しまれると思って無理やり清純くんのことを見た。

「誰か知り合いがいたの?」
「え、いないよ、違う」

私が見ていた方に首を向けようとした清純くんの腕を掴んで、なんでもないと言って止める。そんな私のことを少し不思議そうに見ながらも、「行こう」と言って私が足早に歩き出せば、同じく歩き出し、また元の笑顔に戻った。



「じゃあ、またねちゃん。気を付けてね」

そう言って笑顔で手を振りながら去って行く彼の後ろ姿を、私は振り返すこともできないまま、遠く離れていくまでずっと眺めていた。

それから一人で歩き出し、家に着くまでさっきの見た光景ばかり思い出してしまっていた。あの女の人の顔が頭の中に張り付いて離れない。それは夕ご飯を食べている間も、お風呂に入っている間も……ずっとだった。


「仁、遅いわね」

ソファに座ってテレビ画面に流れるいまいち面白くない映画を眺めていたら、となりにいる優紀ちゃんがふいにそんなことを言うので、ずっとぼんやりしていた意識が急に戻って来る。

べつに、あの人が夜遅くまで帰って来ないなんて、珍しいことじゃない。今までもそうだったし、気にすることでもないのに。いつだって仁くんのことを心配する優紀ちゃんに、私は「そう?」とだけ返した。

……今も、あの女の人といるのかな。
知らなかっただけで、もしかしたらこれまでも遅い日はあの人と一緒にいたのかもしれない。

だったら何?べつに、彼女くらいいたって普通だし、あんな不良だけど頭は良いし背丈はあるし。案外モテるのかもしれない。大学生だし、もう20歳なんだからそんなの当たり前だ。と思っても、なんだか胸の中がモヤモヤとしている自分がいることに気付いた。

親しげに仁くんに笑い掛ける、あの女の人の顔を思い出して妙に苛立ってくる。ソファから立ち上がって自分の部屋へ戻ろうとすると、後ろから「もう寝るの」と優紀ちゃんの声が聞こえても、それには答えられなかった。

真っ暗な部屋の中でベッドに潜り込み、目を瞑ってもう寝てしまおうと思っても私の希望とは逆に意識は冴えていくばかり。

それからもしばらく目を閉じたままだったけれど、一向に寝付けなくて、暗闇の中、コチコチと鳴る時計の音ばかりがやけに聞こえる気がする。リビングの方は静かで、優紀ちゃんも部屋に戻って寝てしまったみたいだった。

それも当然、時計を見てみるともう午前2時を過ぎている。ため息を吐きながら体を起してみると、なんだかトイレに行きたい気がしてそのまま立ち上がって部屋を出た。


手を洗いながら水が蛇口から流れてくるのをぼんやり眺めていると、遠くでガチャリと玄関のドアが開く音が聞こえて、はっとした。帰って来たのだろうか。……でも、今廊下へ出たらすれ違ってしまうので、どうしようと一瞬悩む。

だけどずっとここにいるのはおかしいし、べつに何も変なことはないし。と思って結局なんでもない顔して廊下へ出て自分の部屋の前まで戻り、ドアノブを掴んだ時に仁くんが横を通った。

廊下は照明が点いてなくて暗かったから姿はよく見えなかったけど、通りすがり、煙草と香水の匂いがした。それは、嗅いだことのない香りで、仁くんがよくつけている香水ではなかった。

(…………)

またベッドの中に戻って、私は暗闇を見つめていた。今までどこにいたのだろう、誰といたのだろう、なんて、そんなこと考えたくないのに。それなのに、頭に浮かんでくるのは、また昼間の女の人。あの香水は、だからきっとあの人の……。

私とは違って、二人はもう大人なんだから、付き合ってたとしたら……当然。

布団を思い切り頭まで被って、無理やり目を瞑る。お願いだから、早く眠りついてと自分に頼んでみてもそれは無駄なことで、結局朝までちっとも寝ることなんてできなければ、嫌な考えを振り切ることもできなかった。











ちゃん、なんだか顔色悪いけど、大丈夫?」

昼休み、いつも屋上で一人きりで昼食をとる私のところに、時々壇くんが様子を見にやって来ることがあった。昨日全然眠れていないこと、なんでもない振りしていても気付かれてしまったのだろうか。

「べつに、平気だよ」
「そうですか?無理しないでね」

私のことをそんな風に心配してくれるのは、この学校では壇くんくらいなものだ。私と仲良くしているせいで嫌な思いをすることはないだろうかといつもどこか心配だったけれど、案外、彼は強いのだろうか。べつに誰かに何か言われても平気そうだった。

「そういえば、ちゃんはもう卒業した後の進路考えてる?」
「え?」
「僕、まだどうしようか悩んでるんだ。このままうちの大学に入るか……」

進路……進路か。そんなの、ちっとも考えてなかった。何度か提出させられていた進路希望の紙はいつも、およそ行くつもりもない上、私の学力では到底入れない様な、適当な大学の名前を書いてばかりいた。

確かに、このままエスカレーター式に山吹の大学に入る人は多いみたいだ。清純くんもそうだし、テニス部の他の先輩達も聞くところによるとみんな大体がそうらしい。

ちゃんは、このまま山吹の大学に進む?」
「さあ……わからない」
「そうなんだ。なにかやりたいこととかあるの?」
「……べつに、ない」

壇くんは、「そっか」と言って手に持っていたどこかの大学のパンフレットを眺める。

私は、ただひたすらに学校生活が息苦しくて、早く終わってくれないかなあとそればかり考えていたから。この場所から解放されるならべつになんでもいいと思っていたけれど、そういえばまだ上があるのだった。

就職という方法もあるけれど……。何かやりたいことや、なりたいものがあればどんなによかっただろう。少しでも目標とするものがあれば、また違ったのかもしれないな。

「やっぱり、亜久津先輩はすごいよね。あんな偏差値の高い大学にさらっと入っちゃうんだから、格好いいなあ」
「……」

今その名前は聞きたくない、と思ってもそんなことは言えなくてただ黙ってた。仁くんの何が彼をそんなにも惹き付けるのか、ずっと不思議に思っていたけれど、今ならなんとなくわかってしまいそうな自分が嫌だった。

勉強はできるし、運動も得意で、背も高く力も強い。顔だって、男らしくて……。

素行の悪いところを除けばなかなか褒められる箇所の多いことに今さらながらに気が付く。もしも、他の人……他の女の人が、それに先に気付いていたのだとしたら……。

あんなに嫌いだったはずなのに、どうしてこんなにも苛々とした感情が湧いてくるのだろう。べつに誰にとられようが、そんなのどうでもいいはずなのに。平気なはずだったのに。











夜、お風呂に入った後リビングのソファにもたれかかる様にしてテレビドラマを観ていると、仁くんがやって来て少し離れた所に座った。本当は一緒にいたくないと思ったけど、なんだか体が重くて動かない。

もうあの知らない香水の匂いはしなくて、今日のはいつも仁くんがつけてるのみたいだった。その指の間に挟まる煙草から煙が細く昇っていくのをぼーっと眺めていたら、ふとこちらを見たので目が合った。

。お前、起きてんのか寝てんのか」
「……起きてる」

そう言いながらも、思ったより眠たそうな声を出してしまった。昨日の夜まるで寝ていなかったから、今さらになって急に眠くなってきた。お風呂に入ったからだろうか。だんだん、瞼が重たくなっていく。

「寝てんだろ」

仁くんがなんかそんなことを言ってる様な気がしたけど、正直よくわからない。ドラマの中の悲しそうなセリフやBGMさえ、次第に心地よく感じてきて……その後のことは覚えてない。

誰かに抱き抱えられている感覚がしたけど、私はとにかく眠くて、それが夢なのか現実なのかははっきりしなかった。大きな手が私の肩を抱き、その腕が背中に回り……胸の辺りからは、嗅ぎ慣れたいい匂いがしていた様な、気がする。

どこか柔らかい場所に下ろされて、その手が私の体から離れていく時、薄っすら目を開けてみるとそこには仁くんの横顔が見えたけれど、やっぱり夢なのかその時の私にはわからなくて、またすぐに目を閉じて眠りについた。



朝、目を覚ますと私はちゃんと自分の部屋のベッドの上で寝ていた。確か、昨日の夜リビングにいた気がするけど、覚えてないだけで自分で移動したのかな……?

そこまで考えて、夢の中で見た姿を思い出す。もしかして、あれは現実だったのだろうか。だとしたら、私の体を抱き抱えていたあの大きな手と腕は……。…………。


制服に着替えてキッチンへ行くと、珍しく仁くんが朝早く起きていて、ダイニングテーブルの椅子に座って新聞を読んでいた。なんで、こんな時に限っているんだろうと思いながら、その向かいに座って手元のスプーンを掴む。

それでスープをぐるぐるとかき混ぜながら、ちらりとそちらを見てみるけれど新聞が広がっていて顔は見えない。けれど、紙を掴んでいるその手が目に入って、一瞬スプーンを動かすのを止めてしまった。

昨日の夜、私の体を抱いていた大きな手……そう思えばなんだか変な気分になってくる。気のせいだ、と自分に言ってみても妙な気持ちは胸の中からいなくならない。それに、その手は私だけじゃなくて他の女の人のことだって抱き締めているに違いない……。


(……ああ、そうか)

あの時、清純くんのことを兄だったらよかったのに、と思ったのは……。

もしも、兄なのが仁くんじゃなかったなら、子どもの頃からずっとからそばにいなかったら。好きだなんて思うこともなく、きっとこんな風に、胸の苦しく感じることもなかったからだ。









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