白薔薇の揺り籠



その部屋は、広い邸の中の廊下をいくらか歩き続けた先にあった。
ドアをノックして、少しして中から「どうぞ」という声が聞こえてからドアノブに手を掛ける。

「入るぞ」

ここは、邸の中でも最も日当たりと風通しのいい部屋だった。
風に揺れる、繊細な白いカーテンが太陽の光を透かしていて、とても綺麗だと思う。

部屋の中は、見渡す限り何もかもが白い。壁も、床も、家具もすべて。
時折、どこか違う世界にでも紛れ込んでしまったのではと思うほど、澄んだ部屋だった。

それは、ただ一人の少女の住む世界。


「調子はどうだ」

天蓋のついた、白い大きなベッドに横になっている彼女に声をかけると、大丈夫とでも言いたげに微笑んだ。

「いい、寝ていろ」

起き上がろうとしたので、それを制止すると少し残念そうな顔をしながらも、大人しく言うとおりにしてまたベッドの中へと戻った。

格子の入った大きなガラス扉の向こうには、中庭が見える。中庭は花園となっていて、その花のすべてもが白薔薇だった。丁寧に手入れをされたその花は美しく咲き乱れ、白と緑とのコントラストが中庭を埋め尽くしている。

そしてその中央には、施された金の装飾が美しい、白馬のメリーゴーランドが佇んでいた。遊園地にあるものよりはいくらか小ぶりだけれど、それでもこの庭には十分な大きさに思える。

まるで夢の世界のような中庭の、そのすべてが父親によって、愛する彼女へと贈られたものだが、その持ち主である彼女はもう久しく中庭へは出ていなかった。


散りゆく白薔薇。廻らない白馬。時間の止まった白い部屋。


「……あの、」

ベッドの中でそう小さく声を出す彼女のもとに近づいて、そばにあった椅子に腰を下ろした。

「どうした?」

何か言いたげでも、なかなか次の言葉を口にしない。
物憂いげな表情で、ただじっと俺の目を見つめてくるだけで。

「……ごめんなさい、わたくし……。みんな、とてもよくしてくれるのに……」
「どうした?なにかあったのか」
「……」
「話してみろ。誰にも言わないから」

彼女のその美しい宝石のような瞳に次第に涙がにじんでいく。それがじきに溢れて、落ちて、横へと流れていくのをそっと拭ってやる。

「ごめんなさい……。ちっとも元気になれなくて……」
「そう急がなくていい、今はただゆっくり休んでいればいいんだ」
「でも、きっと、もう……」
「なに言ってんだ、必ず良くなる。そう、医者だって言っていた」

自らが発したその言葉に一瞬戸惑うも、絶対に表情には出さない。

本当は、医者はそんなことを言ってはいなかった。ただの、彼女に対する……いや、実際には自分自身に対する、気休めの言葉に過ぎなかった。そう信じたいのは、誰よりも俺だったのに違いない。

「この俺が言うんだ、間違いない」
「……」
「それとも俺の言うことが信じられないか?」

幼いわりに聡い彼女にはもしかしたら嘘と気付かれていたかもしれないが、それでも俺に向かって少し首を振り、にこりと微笑んで見せた。

「……いいえ、おにいさま」

その幼い少女は、俺のたった一人の、妹。生まれつき病弱で、滅多に邸の外に出ることもなくほとんどをこの部屋の中で過ごしていた。学校にも行けず、友達も作れず。

「お前は、俺が守ってやる。だから、何も心配しなくていい」


あの日、白いカーテンを揺らす風は、暖かかったのに。
あの時、指の先に触れた妹の涙は、温かかったのに。



……………………。

…………。



「…………また、あの夢か」

朝、目を覚ますと嫌な汗をかいていた。もう何年も経つというのに、未だにあの頃の夢を時折見ることがあった。手で額の汗を拭うと、ふと、頬の辺りに乾いた涙のような感覚があるのに気が付く。

「……チ、」

ベッドから降りてシャワールームへと入り、水を浴びて目を覚まそうとする。

今はもうあの邸には住んでいないし、あの国にも住んでいない。
……彼女も、もうここにはいない。

「クソ、何度見れば気が済む」

あの夢を見た日はいくらか調子が狂う。 今日は新年度の登校初日、入学式があって新しい一年生が入ってくる。生徒会長として挨拶をしなければならないというのに。


髪を乾かして、制服のYシャツに腕を通し、ボタンを閉める。それからブレザーを羽織り、何かを振り切るように部屋のドアを勢いよく閉めて、朝食をとるためにダイニングへと向かった。

「景吾ぼっちゃま、少し、お顔の色が優れないようですが……」
「なんでもねえ、大丈夫だ」

どんなに隠そうとしても、毎日俺の顔を見続けている執事には気付かれてしまうことに、心の中で舌打ちをした。


年を重ねるごとに、あの夢は、色が濃くなってゆくように思える。
まるで、俺自身を戒めるかのように。

(ハ、自分のことがそんなに憎いかよ)


白い部屋、美しい中庭、儚い少女の姿。
俺の記憶の中だけに残る、遠い世界。

それは度々夢の中に現われては、俺に忘れるなと言ってやがる。けれどそんなこと、わざわざ教えてもらわなくたって、わかっている。

(赦されようなんざ、思ってねえよ……)