イノセンス 「ねえ、ちゃん。テニス部に体験入部しない?」 氷帝学園に入学してから数週間が過ぎ、なんとかクラスの中にも話せるような友達ができてほっとしていた頃だった。その内の一人が、休み時間にそう私に話し掛けてきた。 「テニス部?」 「そう、行ってみようよ。もしかしたら男テニの練習見れるかもよ!」 男テニ?私たち女子なのに、なんで?と不思議に思いつつも、彼女の勢いに押されてしまって「そうだね」と笑って答えるしかなかった。 「あー、それ最初から跡部先輩目当てでしょ?」 そこにもう一人べつの女の子がやって来てからかうように言うと、先程の彼女は「へへ、わかったあ?」と楽しそうに笑う。それから二人でキャッキャと楽しそうに跡部先輩の話で盛り上がっているのを、しばらく眺めていた。 (……跡部先輩) 入学式は正直、緊張していて校長先生たちのあいさつを聞いているどころではなかったけれど、跡部先輩のことだけはよく覚えている。 生徒会長として壇上に立つその人は、端正な顔立ちをしていて、スタイルもよくて、同じ中学生とは思えないくらい綺麗な人だなあと思った。 その周囲の空気まで変わってしまうような、圧倒的な存在感に呆然として、ただぼんやりと眺めるしかなかった。それは言葉にしてしまえば、ただの一目ぼれというやつなんだろうけど、でも、それとはまた違う気がする。 憧れと、畏れと、切なさと、そんなのが混ざり合ったよくわからない気持ちなんて、今までその瞬間まで感じたことなかった。ふと泣きたくなるような、そんな気持ちなんて。 「ちゃん、跡部先輩って男子テニス部の部長もやってるんだよ」 「そうなんだ……」 中等部から入学した私は、この学園のことをよく知らない。他の生徒は大体が幼稚舎からの持ち上がりの子ばかりで、そういう子は色んなことを知っている。 跡部先輩は「跡部様」なんて呼ばれたりもしていて、私の思っているよりも、もっとずっと女子生徒から人気があるのだという。 「ね、行ってみようよ!跡部先輩見れるかもよ」 「う、うん。そうだね」 テニス部以外の人間だと、なかなかテニスコートに立ち入ることはできないらしい。今なら体験入部できるし、このチャンスを逃す手はない、と彼女は意気込むけれど、それはあまりに不純な動機に思えた。 だけど……、 (もう一度、跡部先輩に会えるかな) あれから、校内で彼の姿を探してみても、この広い校舎の中ではなかなか見掛けることができなかった。 はっきり言って運動はあまり得意ではなくて、気は進まなかった。けれど、何よりもう一度跡部先輩を見てみたいという気持ちがそれよりも勝ってしまい、結局その子と一緒に女子テニス部に体験入部することにした。 「お疲れ様でした」 はじめはまだ、まるで初心者なので、簡単な筋トレやラケットの振り方を習う程度だった。一年生は割と早めに帰してもらえるので、案の定何日かして慣れた頃、友達が男子テニスの練習を見に行こうと言い出す。 「でも、大丈夫かな……」 「平気、ちょっとだけ」 女子は男子テニスコートに近づいてはいけないという決まりがあるらしい。友達の後ろについて、少し不安に思いつつも、結局なんだかんだ勝手に入り込んでしまった。当然、私達の他に女子の姿はない。 「あれー……跡部先輩、今日はいないのかなあ」 少しして、友達が心底残念そうな声を出した。 私はハラハラしながらも、少し遠くのコートの方に目を凝らす。水色のユニフォームを着ている生徒はたくさんいるけれど、そこに跡部先輩の姿は見えなくて、ちょっとがっかりした。 あの日壇上に立っていた、凛々しく美しいあの姿をもう一度見てみたかったと思う。 「しかたない、今日は帰ろうよ」と彼女に言い掛けたところで、誰か後ろの方から、私達に対してだと思われる声が聞こえた。 「オイ」 きっと怒られるのだと思った。こんなところで何をしているんだ、と言われるのだと思った。 とっさに謝ろうとして振り向くと、そこにいたのは、たった今私達の探していた人で、一瞬心臓が止まりそうになった。 「お前達、一年か?ここで何してる」 (……跡部、せんぱい……) その距離、1メートルあるかないか。どうしよう、何か言わなくちゃと思うのに、この喉はちっとも声を出してくれないし、頭の中は真っ白になって何も言葉が浮かんでこない。ただ黙って、動けもせず、立ち尽くしていることしかできない。 すると一瞬間をおいて、となりの友達が答えてくれた。 「……すみません、見学をしていました」 「見学?許可は出てるのか」 「いいえ……」 ただ身を小さくして、二人の会話を聞いていることしかできない。 せっかく会えたのに、話せたのに、結果それは跡部先輩に嫌われてしまうだけだというのがすごくショックだった。どんなに近くても、今は少しも嬉しくない。 友達のことを見ている跡部先輩を、窺うように恐る恐る眺めていると、こんな時だというのに、なんて綺麗なのだろうと思う。一瞬、息が鼓動が凍りつくような、そんな絶対的な美。 するとふと、私と目が合ってしまったので思わず顔を下に背けてしまった。 泣きたかった。ここに来なければよかったと思った。その青みがかった美しい瞳に映る自分なんて、いっそ今すぐ消えてしまえばいいのにと願った。 「……まあいい。女子は基本的に男子コート立ち入り禁止だからな、覚えておけ」 「はい、すみません」 「今日のところは、もういい。ほら、帰れ」 「はい、失礼します」 跡部先輩は小さく顎をしゃくって、帰るように促した。私はただの一言も発することができないまま、友達に習うようにして深く頭を下げて、その場所を離れる。 じんわりとにじむ視界の中、ふらふらと男子コートを出てしばらく歩き、校舎の近くに来た辺りで友達が私の方を向いた。 「跡部先輩が出てくるなんて、びっくりしたね。でも話せたし、ラッキー」 「……」 「ちゃん?どうしたの、大丈夫?」 「……っひく、」 「なんで泣くの?!」 驚くのは自分の方だった。なんで、こんなことで、突然泣いているのか、私が知りたかった。けれど、きっと私自身が思っているよりもずっとショックだったんだとその時に気が付いた。 (……跡部、先輩……) 私はもう、嫌われてしまった。 あの、美しい人に嫌われてしまったんだ。 |