天国の記憶



じきに日本へ戻る日が近付いてきていたある日、私は先輩に誘われて外出をしていた。

特に行き先を告げられなかったので、どこへ行くのだろうと思いつつも問うことはできないでいると、車が止まった場所は、いつか、見覚えのあるところだった。

(……教会、)

大きくて、立派な、美しい教会。以前にロンドンに訪れた際、先輩を追いかけてやって来たことのある。

車を降りて、先輩に続いて歩き、中へと入った。相変わらず荘厳たるその雰囲気に、思わず息をのむ。人数はあまり多くなく、薄暗いその場所は、静寂に満ちていた。

大きな長い椅子に先に腰掛けた先輩に、となりに座るよう促されたのでそれに従う。それからしばらくの間、言葉を交わすこともなく、ただ、祭壇に置かれた蝋燭の炎が揺らめくのを黙って眺めていた。

シン、とした空間はどこか張り詰めているようでいて、それでも、心が落ち着いて安らぐ。ここはきっと、先輩にとって、とても大切な場所なのだろう……。と、言われなくとも、そう感じていた。

「……

先輩が口を開くまでは、自分も口を噤んでいたら、ふと静かな声で名前を呼ばれて首を向ける。

どこか憂いを帯びた表情。時々見せる……、それは、きっと妹想っている時なのであろうことを、私は知っていた。

「ここには、……妹が眠っている」
「……」
「今でも、こうやって度々訪れる。あいつが……、妹が。せめて天国で、安らかに過ごせるように。祈りを捧げるくらいしか、俺にできることはないからな」
「……そう、ですか」

微笑みながらも本当に寂しそうなその横顔に、私は、簡単に「妹の代わりでも構わない」などと言ってのけた自分のことを、愚かだと恥入り、そして後悔した。

私はただ、大切に想われている妹のことが羨ましくて……そんなことを言っただけだ。それ以上に辛く、苦しかったであろう彼女のことなど、ちっとも理解しようとしていなかった。

先輩は、今でも亡くなった妹のことを大切に想ってる。救ってあげられなかったことを、ずっと、ずっと悔んでいる。

それなのに、私は……。

自然と俯いて、黙り込んでいると、再び名前を呼ばれておずおずと顔を上げた。先輩は寂しさの中にもどこか穏やかさを含んだ眼差しで、私のことを見ている。

「俺は、ずっと……天使を探していた」
「……え、?」
「妹が亡くなった時。父親が、妹は天使だったから、天に帰ったのだと俺に言った。だが、俺にはそんなの、信じられなかった。妹には、翼などなかったからな」
「……」

いつか、先輩のお邸の中の教会で、ぽつりと話してくれたこと。確かにその時に、「妹は天使だったから」と言っていた。その言葉の意味を追求することは、その時にはできなかったけれど。

「だが、中学3年の春、お前に出会って……俺は、初めて天使の存在を信じ始めた」
「……。どうして、ですか」
の背中に、翼が見えたからだ」
「……」

そう、そして、あの時もそんなことを言っていた。私の背中に、”翼”が見えたと。今になって考えてみても、ちっともよくわからない。だってそんなの、自分にも、自分以外にも、一度だって見えたことなどなかったから。

「だから、なんだか気になった。お前も、妹と同じ、天使だったからだろうか。そばにいると……酷く、懐かしい感覚がしたんだ」
「……私は、天使などでは……」
「……そうかもな。だが、俺にはそう思えた。今でも、そう思っている」
「……」
が近くにいれば、いつかに開いた心の穴が埋まって、そして、満たされていくような気がした。妹を失った悲しみや、苦しみから、逃れられるような気がしていたんだ」

天使であるはずがない。そう、思うけれど。
静かに話すその声に、私はそれ以上何も口を挟むことができずに、黙って聞いていた。

「赦されるつもりなど、なかったはずだった。……それでも、俺はいつも何かに、誰かに、赦されたくて仕方なかったのだと思う。お前に、妹の面影を求めてまで」
「……」
「だが、それは錯覚だった。ずっと俺が探していたものは、妹の面影でも、過去への贖罪でもなく。自身だったのだと……失って、やっと気が付いた」

膝の上に置いていた手に、先輩の大きな温かい手が重なる。そっと握られると、私は、なんだか胸が一杯で、次第に視界が潤んでいった。

「お前は……、俺の唯一の心の救いだ。以上に望むものなど、他にはない」

気が付けば、この目からはぽろ、と一粒涙が落ちていた。……こんなにも愚かな私でも、必要だと、そばにいてもいいのだ、と。

先輩は、そう言ってくれるのだろうか……?

(……もしも、)

もしもそうなら……私は、この体ごと差し出したっていい。この先の未来も人生も、何もかも、すべて明け渡したって構わない。

心の声は言葉にならず、ただ、静かに瞬きを繰り返すだけ。にじんだ世界の中で、二つの視線が交わる。

。俺と……結婚して欲しい」


初めて先輩を見た、入学式。忍び込んだ男子テニスコートで会った日。夕暮れの生徒会室で紅茶を一緒に飲んだこと、休日にテニスを教えてもらったこと。

誰よりも好きと思い始めてしまっても、そんなのはいけないことだと己の心を戒め、何かの罪悪のように感じていた日々。

ロンドンのお邸で見た、白い部屋。白薔薇の中庭。白馬のメリーゴーランド……。

先輩には亡くなった妹がいるのだと知り、そして、その妹に私が似ているのだと知った、秋。私はそれが苦しくて、身代わりになるのは耐えられなくて、渡英を断った。……それからの、後悔と涙の日々。

さまざまな想い出が、頭の中を風に吹かれたように駆け巡る。

青く澄んだ美しい瞳に静かに見つめられて、私の頬にはまた一粒、涙が滑った。

陽の光に透けるステンドグラスは、儚く繊細で、どこまでも美しい。天国も、あんな風に美しい場所だろうか。楽園のように、花が咲き乱れ、小鳥はさえずり、泉には綺麗な魚が棲むのだろうか。

……妹は。天使は。天国と呼ばれる場所で。

きっと幸せに、しているはずだ。だって、お兄様やご両親に、ずっとずっと大切に想われている。安らかに眠れるようにと、心から、祈りを捧げられているから。だから……泣くことも、寂しがることも、ない。


跡部先輩は、私のことを、妹の代わりではなく。私自身として、大切に想っていると。愛していると、言ってくれた。私はそれが、本当に、本当に嬉しかった。

けれど……、

きっと、先輩は妹のことを忘れることなどない。できない。
だから、無意識にも私の中に妹の面影を探してしまうことだって、なくなりはしないのだろうと思う。

先輩の中に影を落とす、”妹”という存在のその深さを見れば、そう簡単になくせるものでないだろうことくらい、私にもわかる。もしかしたら、先輩が自分で思っている以上にその影や傷は、深いのかもしれない……。

それほどの長い時間、想い、悔み続けていたのだろうと思えば……、胸が痛かった。

妹とは、跡部先輩にとって唯一無二の存在。世界中どこを探しても、誰も代わりになどなれない。だから、苦しんでいる。面影を求めて、そんなものいないと知りながらも、ずっと妹の代わりを探していた……先輩は。

それはきっと、今も……。

(…………)

疑っているのじゃない。責めたいのでもない。これは、自分自身に対する問いだ。お前には、そのすべてを背負う覚悟があるのか、と。妹の記憶とともに、生きていく覚悟があるのか。

(……私には、……)

耳の奥で響くのは、切ないオルゴールの音色。記憶の中には、儚げに微笑む少女の面影。中庭に咲く白薔薇は、今も、優しく風に吹かれて揺れている――。


「……はい」

私は、涙とともに、小さく頷いた。

私がそばにいることで、先輩の心が少しでも安らぐのなら。救いになるのなら。私の向こうに妹の面影を求めようと、それでも構わない。もう、それを以前のように悲しんだりはしない。

「……

透き通る、その真摯な瞳の色に、私は覚悟を決めた。

乗り越え、受け止めなくてはならない困難や、苦労や、現実。私などが想像している以上に、もっともっとたくさんあるだろう。それでも……、決めたのだ。もう、迷わない。絶対に、後悔など、しない。

「どうか……いつまでも、おそばにいさせてください」

どこまでも、どこまででも。ともにゆく。それが、たとえ世界の果てにある、誰も見たことのない悠久のエデンだったとしても。

……もう二度と。戻ることは、できなかったとしても。






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