なつかしい風景



朝、目を開いた時、一体ここはどこなのだろうと思った。

体は大きな柔らかいベッドに沈み、そのベッドには天蓋のカーテンがついている。まず自分の部屋ではない。昨日泊まった、ロンドンのホテルでもない。

は、と飛び起きて辺りを見回せば、あまりにも豪華なその部屋の造りは私に思い起こせる限り、跡部先輩のお邸以外にはありえなかった。

(昨日……)

私は、跡部先輩のお邸までやって来て、先輩に会って、そして……。

夢のようだ、と思っても決してそうではない。私は一旦心を落ち着けるために一つ深呼吸をすると、部屋に備え付けの洗面所で顔を洗い、運び入れてもらってあった自分のトランクから洋服を出して着替え、一通りの身支度を整えた。

「……おはようございます」

ダイニングルーム近くで会ったミカエルさんに控えめに挨拶をすると、こちらを振り向きにっこりと返事を返してくれる。

それから促されて朝食の席につくと、跡部先輩はすでに起きていて食事をとられているところだった。おはようございます、と挨拶をするとその表情が少し柔和になる。

「よく眠れたか」
「はい……ふかふかのベッドで、それはもう……」
「そうか」

懐かしい。いつかの夏に、ここへ滞在させてもらっていた時も、こうやって毎朝一緒に朝食をとっていた。また、こんな風に同じように時を過ごせるなんて。

そのそばには樺地先輩もいる。樺地先輩も、このお邸に一緒に暮らしているらしい。ますます昔に戻ったような気分になって、嬉しかった。

「こちらにはいつまでいる?」
「あ……、本当は、今日までの予定だったのですけど」
「……何か、予定でもあるのか」
「いえ、特にそういうわけではなく……」

ただ、跡部先輩に会いたいという、ただそれだけが目的の旅だったから。会えさえすれば、観光などは、特にしなくともよかった。

旅の資金は、これまでに貯めたおこづかいやお年玉などから捻出した。ホテル代や飛行機代などを含めれば、この日程がぎりぎりだった。ただ、それだけのこと。

恥ずかしい気もするけど隠すわけにもいかず、素直にそんな理由を説明すれば、先輩はどこかほっとした表情をしたように見えた。

「なら、しばらくここにいればいい。年が明けてからでも、学校には間に合うだろう。飛行機はキャンセルすればいい、帰りはうちのジェット機で送ってやる」
「……え、でも」
「遠慮ならいらねえ。まあ……、お前さえよければの話だが」
「私は……その、ご迷惑でさえなければ……」
「そうか。ならば、ここにいろ」
「はい、……ありがとうございます」

昨日は、先輩に会うことだけで頭の中がいっぱいで、帰りの心配などしていなかったけれど。朝になってふと冷静に振り返ってみれば、どうしたものかと身支度をしながらずっと悩んでいた。

そばにいてくれないかと先輩が言ってくれて、私は本当に嬉しかった。私も、ずっとそう思っていたから。いつだって、先輩のそばにいたい。少しも、離れたくはないと。

けれど、現実に考えれば私はまだ高校生で、氷帝の高等部に通っていて。卒業した後には大学部に進むことも決まっている。両親にだって友達にだって、ここへ訪れたこと、一つも話などしていない。

(……どうしたらいいのだろう)

そばにいるというのは、具体的に、どうしたらいいのだろう。跡部先輩には、大学がある。将来のため、それは絶対に外せないことだ。だから、途中で日本に帰ることなどできない。

跡部先輩に会って、想いを伝えて、彼も同じように私を想ってくれていて……。私の願いの全てが叶った。これ以上、望むことなど何もない。

そう、思うのに。先輩に抱き締められていたあの瞬間には、悩みも苦しみも、そんなもの何一つ感じられなかったけれど。急に、この先の道には薄く白い霧のようなもやが掛かって、真っ直ぐ先が見えなくなった。

……身分違いの恋。

実ったところで、そこに未来などあるのだろうか。枝になった実は、熟れることなく、強い風に吹かれて、そのまま地面に落ちてしまうのではないか。

お邸で過ごしている時間、私は本当に幸せだと感じる一方で、また異なる悩みを持っていた。何事も楽天的に考えられない自分にうんざりとしても、きっとそういう性分なのだから、諦める他ない。




「……あ、はい」
「どうした」

年も越したある日。広いお庭のよく見える、日当たりの良いお部屋で窓辺のソファに並んで座っていたところ。いつの間にかぼうってしてしまっていたのだろうか。声を掛けられて、はっとする。

「いえ、……何も」
「考え事か?」
「……すみません、ご一緒の時に。失礼しました」
「何を不安に思っている」
「不安、なんて……」
「お前の顔に書いてあるぞ。私は不安です、悩んでいます、ってな」
「……え、」

思わず手で自分の顔を触ってみると、跡部先輩は可笑しそうに声を出して笑った。からかわれていたのだ、と気付くと恥ずかしくなって、顔が熱くなる。先輩は、そんな私の様子を少し愉しんでから、そっと頭を撫でた。

「これからのことか?」
「……」

見透かされて、私は、それでもどこかほっとしていた。先輩の目を見つめて、それから伏し目がちに小さく頷いた。

「それなんだがな。俺も、考えていたところだ。……、お前は、高等部を卒業したらどうする」
「……氷帝の、大学部に進学する予定です」
「そうか。大学へいって、やりたいことがあるのか」
「いえ、……特には。両親には、申し訳ないのですけど……」

ただ、周囲の流れに任せてそういう風になっただけで。別段、強い希望があったわけではない。せっかく、快く大学へ上げてくれる両親には、居たたまれなさしかないけれど。

「将来、何か希望することは」
「……ありません。私はただ、先輩のおそばにいられれば、それでいいんです」
「そうか。……お前は、それがどこだろうと、構わないか」
「はい」

はっきりとそう返事をすると、跡部先輩は私の顔を覗き込むように、優しく頬に触れる。


「……はい」
「それなら、高等部を卒業した後はロンドンへ来い。この邸で俺とともに暮らすといい」
「……、え……?」

私は、何度か瞬きを繰り返した。その声音から、本気で言っているのだろうと、わかっていたから。黙り込んでいると、先輩は少し首を傾ける。

「イギリスに来るのは嫌か?」
「……いえ、そんなことは」
「この邸は、お前の気に入らないか」
「いえ、いえ……そんな」

慌てて首を横に振ると、彼は口角を上げて微かに笑う。それから、そっと頬にキスをされて私はますます固まったように動けなくなってしまった。

「一度、お前の両親に挨拶に行かねえとな」
「……」

本来なら大みそかには帰宅する、と言い残していたところ、それが冬休みいっぱいに延びた。と両親には言い訳の連絡をしてあった。

両親には、今までも、跡部先輩の話をしたことがない。いつかのイギリス旅行の時だって、学校の研修旅行だと話していた。隠す必要などなかったと今になってみればそう思うけれど、当時は、そうは思えなかったから。

両親は、何て言うだろう。――それよりも、先輩のご両親は、大丈夫なのだろうか。何度かお邸にお邪魔した時も、いつも不在にしていて一度も顔を合わせたことがない。

私などが、大切なご子息のそばにいても許されるものなのだろうか。これは、私と先輩だけの問題などではない。その時、やっと。そう……思い至った。

が一度帰国する時に、俺も同行して話をしよう」
「……え、」
「何しろ、娘の大学部への進学をやめさせて、外国へ連れて行こうってんだからな。お前の両親には、酷く責められるだろうが。まあ、当然だ」
「……」
「そう不安そうな顔をするな。きちんと事情を説明して、頼んでみる」
「……はい」

うちの両親ならば、話せばわかってくれる気がする。本心から願って、望めば、きっと理解してくれるだろう。……けれど。

(先輩の、ご両親は……?)

普段の跡部先輩の様子から伺い見るに、あまり過干渉といったタイプではなさそうだ。けれど、これまでのただの後輩としての関係ならばいざしらず、お邸で一緒に暮らすとなれば話は違う。

私のことを安心させようと、そっと頭を撫でてくれるその手の平の温かさを感じながらも、やはり胸の底に芽生えた不安は、消えてくれることがなかった。