ちゃんから、東京を出て亜久津と一緒に暮らすと連絡があってから一年。 それ以降は時々連絡のやり取りをする程度だったけれど、この前、今度帰省するのでその時に食事に行かないかと誘われた。 俺もちゃんどうしてるかなと気になっていたし、久しぶりに顔を見たかったので「いいよ」とすぐに返事をした。都合のいい日時を伝えると、店などは全部彼女が決めてくれると言うので、ある日の夜に俺は案内された通りの店にやって来た。 酒を飲める様に気を使ってくれたのだろうか。割と新しい居酒屋で、それも個室を予約してくれてあった。あえて聞かなかったけれど、二人きりで会ったりして亜久津のことは大丈夫なのかな……と気になっていたのもどうやら紀憂だったらしい。 扉を開けて部屋へ通された先には、ちゃんと彼女の兄もいたのだから。 「清純くん、久しぶり。元気だった?」 「うん。ちゃんも元気そうでよかったよ」 彼女はにこ、と屈託なく笑ったので心からほっとした。一年前に会った時にはこんな風に笑顔を見せたりはしなかったから。今は随分と幸せに暮らしているのだろうな、とわかる。 「ごめんね、仁が勝手について来ちゃって……」 「あーうん、大丈夫だよ。よ、亜久津久しぶりじゃん」 「……」 数年ぶりに会った元クラスメイトに明るく話し掛けてみても、それはシカトされて何も返答はなかった。 ガラの悪さは変わらないけれど、それでも学生時代に比べればこいつも随分と落ち着いて大人になった様に思える。まあなにはともあれ、二人とも元気そうでよかった。 「……で、なんでちゃんは俺の横に座ってるのかな?」 ふと気が付くと、いつの間にかちゃんはぴったりと体をくっ付けながら俺のとなりにいて、楽しそうにメニュー表を眺めながら「清純くんなに飲む?」などと言っている。 「え、接待しようと思って」 「接待?!」 「そうだよ」 「いやいや、いいよそんなの。会社じゃないんだし」 「でも、清純くんにはお世話になったから……」 「気持ちだけで十分だよ」 どうやら、以前のお礼も兼ねて食事に誘ってくれたらしい。彼女のそんな気持ちは嬉しいし、有り難いけど向かいの席から突き刺さってくる視線が気に掛かかる。さっきまではちゃんも対面していたはずなのに。 「俺のことはいいから、あっちに座りなよ」 元の席に戻る様に促してみても、えーでも……、となかなかそばを離れない。 「ほら、亜久津くん怒っちゃってるからさあ」 「大丈夫だよ。仁、清純くん好きだから」 「いやあ〜もし好きだったら、あんな目で俺のこと見ないと思うなあ」 あいつが俺を好きだなんてまるで初耳だよ。どういうこと?絶対違うと思うけど、もし仮にそうだったとしてもなんか怖いし、それに気持ち悪いよ! 「べつに怒ってないよね?」とちゃんが笑顔で話し掛けても、亜久津は険しい表情をして黙ったまま何も答えない。 「そりゃちゃんには怒らないだろうけどさ。俺の場合、下手すると殺されちゃうから」 ね、だから戻って戻って、と言ってやんわりその背中に触れてしぶしぶ立ち上がらせると、彼女を向かいの席に移動させた。亜久津の殺気立った機嫌の悪さも多少は和らいで、とりあえずほっとする。 初めちょっと残念そうな顔をしていたちゃんも、少し経てばまたにこにこと笑顔に戻っていた。こうしてみると本当に優紀ちゃんに似ている。顔はもちろんのこと、雰囲気が随分と柔らかくなって、性格まで似てきた気がする。 以前のちょっと冷たく、素っ気ない彼女の面影など微塵も見えない。もしかしたら本来の彼女はこっちなのかもしれない……と、思った。 ちゃんが明るく元気になってよかったと安心した半面、優紀ちゃんが二人に増えて亜久津の奴、親子で一緒にいる時なんか大変そうだな。と若干同情しつつも、振り回されてるとこ想像するとなんか笑えてくる。思わずプッと吹き出しそうになったけどなんとか堪えた。 それから飲み物や料理などをいくつか注文して、食べながらお互いの近況などを話した。と言っても喋っているのは基本俺とちゃんだけで、亜久津は時々彼女に話し掛けられると頷く程度で。俺にはまったく興味がなさそうだから、やっぱり妹が心配でついて来ただけなのだろう。 そういえば、こうやって俺と亜久津とちゃんの三人だけで会うのは初めてかもしれない。学生時代、この二人はロクに目も合わせないくらいで、ちゃんと会話しているところなんて見たこともない。まさか大人になってからこんなに仲良くしているなんて、あの頃の俺にはまるで想像もできなかったな。 兄妹とはいえお似合いの二人は、まるで若い夫婦の様にも見える。今はもう、本当に幸せに過ごしているのだなと思えば、胸の奥の辺りがジンとした。 (……ちゃん、よかったね) いつもどこか寂しそうな色を映していた彼女の瞳は、柔らかな安らぎで満たされている。確かに、人には言えない関係かもしれない。だけど幸せの形なんてものは人それぞれで、色々あって、どれが正解かなんてそんなの誰にもわからない。 今、この二人はとても幸福そうだから。それが答えだ。それで、いいじゃないか。 そんなことを考えながらちゃんのことを眺めていると、ふと、視線を感じて目線を横へずらすと彼女の兄と目が合った。その瞬間、とりあえず脳内には「マズイ」という言葉が浮かぶ。 「千石」 「見てない!ちゃんのこと、やらしい目付きでなんて一切見てないよ?!」 「いいからさっさと取れや。皿が空かねえだろが」 「……え?」 テーブルの上を見てみれば、皿には俺の取り分の料理がまだ残ってる。まさか、亜久津がイラついている様に見えたのは、ちゃんを見ていたのにじゃなくて、これを早く取らないことに対してなのだろうか。 そういえばさっきから、空いたグラスとか、気付かないうちになくなってたな。……まさか、亜久津が?とりあえずそれを箸で摘んで食べてしまうと、亜久津はその皿を片付けた。 「……お前、どうしちゃったの?」 思わず口から出た声にも、聞こえているはずだけど何も答えない。 「仁はいつもこんな感じだよ」 「えっ、そうなの」 「家事みんなやってくれるし、料理も全部仁が作ってくれるの」 「へえ……」 「それにね、仁は私の言うことなんでも聞いてくれるんだよ」 「……。マジ?亜久津」 「うん。ね?仁」 彼女の口から飛び出す衝撃的な事実にちょっと驚きつつ、冷やかしてやりたい気持ちで半笑いしながら尋ねてみると、亜久津は俺のことをギッと睨み付けた後にちらりとちゃんの顔をみて、至極不機嫌そうな声を出す。 「……あ?誰がテメエみてえなガキの言うことなんざ聞くかよ」 どう考えてもこれはこいつなりの照れ隠しだ。と、いうことはこりゃどうも本当っぽいな。そう確信すると、もう面白くて仕方なくなってくる。ちょっとからかってやろうっと。 「なに、お前ついにちゃんのこと好き過ぎて、シモベに転職したわけ?」 「違えってつってんだろが、ぶっ飛ばすぞテメエ」 「またまたあ。亜久津ってばさ、昔からちゃんのことがだーい好きで……ぐえ、」 ガチャガチャと皿やグラスのぶつかる音が聞こえたかと思えば、気が付いた時には席から身を乗り出した亜久津に胸ぐらを掴まれていた。 「ちょっと仁、やめてよ」 即座にちゃんが止めに入ってくれて、亜久津はチッと舌打ちをしながら掴んでいた手を乱暴に離し、また着席した。それから、彼女に「大丈夫?」と心配そうに聞かれたので、「大丈夫だよ。慣れてるから」と笑って返す。 「ごめんね」 「いいよ、いいよ」 「仁、清純くんに酷いことしないで」 ちゃんにたしなめられて、亜久津は黙ったまま不満そうな顔する。かつてはあんなにも荒れてて誰の手にも負えなかったこいつにも、今は敵わないものがあるのだと思えばなんだか可笑しくて笑いが込み上げてくる。 「……っで!!」 にやにやしながらその様子を眺めていたら、今度はテーブルの下で足を蹴られた。 ……だめだ、こいつ中学の時から何も変わってない。落ち着いて大人になったなんて思ったのは、間違いだ。やっぱり無かったことにして欲しい。 「なに、どうしたの?」 「いやあ、ちょっと亜久津がさ……」 「もう、仁だめでしょ。やめて」 「やーい、怒られてやんの……いてっ!」 「仁!」 口よりも先に手……いや、足が出る癖は直っていないらしい。もう一発蹴られた痛みに呻き声を上げると、ちゃんは亜久津の服を掴んで止めに入り、それから何やら言い聞かせている。亜久津は返事などしないけれど、じっと彼女の顔を眺めていて、反発することもない。 亜久津が大人しく誰かに叱られてる。それも年下に、女性に。しかも妹だし。珍しい光景過ぎて笑いたいけど、また怒り出すから我慢した。 「仁がごめんね。もうしないから」 「あーうん、平気平気」 「ほら、仁も清純くんにごめんねって謝って」 いくらちゃんに促されたって、亜久津が謝るわけないだろうな。そんなところ見たことないし。口が裂けてもそんな言葉、言うはずない。でも、さっきちゃんの言うことならなんでも聞くって話してたから、もしかしたらもしかするのか? 「……」 亜久津が言葉を発するのを黙ったままじっと待っていると、少しして、不機嫌そうな表情のままその唇が小さく動いた。 「千石……、テメエ後であばら何本折られてえか考えとけよ」 ……だめだこりゃ。 べつに俺は気にしてない。亜久津といればいつものことだしさ。気を取り直してそれからも楽しく話をしていると、ふとちゃんが食べながら、最近元々着ていた服がきつくなってしまったと話し、俺の方を見る。 「私、太っちゃったの」 「えっ」 「清純くんもそう思うよね」 見つめられながらそんなことを言われてちょっとどきっとした。確かに、最後に会った時よりかも全体的にふっくらとした印象だけど。それは以前と比べてというだけでべつに太っているわけではない。 心労からかちゃん痩せちゃってたから。今はだいぶ顔色も良くなって、きっと亜久津が心配して随分とまあ、よく面倒見てあげてるんだろうな、ということは聞かずとも察した。だからべつにいいんじゃないのか。彼女が可愛いことには変わりないし。 「いやいや、そんなことないよ」 「ほんとなの。だって体重が」 「全然大丈夫だよ、気にする必要ないって」 「でも、優紀ちゃんにもちょっと太ったんじゃない、って言われたんだけど……」 と、亜久津の方を向きながら「ね?」と尋ねる。亜久津はちらりとちゃんのことを見た後、「さあな」とだけ言うとまたすぐに顔を前に戻した。 「仁だって、私のこと重いって言ってたじゃん」 「覚えてねえ」 「嘘、言ってたよ。そのくせ、痩せようとすると邪魔するの。変でしょ?」 彼女に同意を求められて、思わず「う、うん。そうだね」と頷いた。こいつ、相変わらず素直じゃないな。ちゃんが痩せちゃって心配だからって、正直に言えばいいのに。 そう思っていると、亜久津はまたちゃんの取り皿に食べ物を乗せてる。よく思い出してみると最初からずっと彼女に与え続けてる気がする。ちゃんもそれに「ありがと」とか言って普通に食べてるし。いつもこんな感じなのかな。だからなんじゃないかな。まあ、いいか。 「ちゃんは、今日は飲まないの?」 「え、うん。もうずっと飲んでない」 「せっかくだから、飲めばいいのに」 「うーん、でも……」 「亜久津がいるから大丈夫じゃない。な、亜久津。お前どうせ飲まないんだろ」 弱いし、と言い掛けたけどまた蹴られることを予想してそれは止めておいた。ちゃんは少し考えた後、亜久津に向かって「いい?」と聞くと「好きにしろ」と返事があったので、じゃあと飲むことにした様だ。 彼女一人だけなら心配だけど、帰りも兄が一緒なら大丈夫だろう。などと俺は気楽に考えていた。あと、ちょっと忘れてた。彼女が酔うとどうなるかを。 「仁はねえ、私のこと大好きなんだよ〜。他の男の人と喋るとヤキモチやいちゃうの、可愛いでしょ?」 「……へ、へえ。そうなんだ」 いつの間にか数杯を飲み干していた彼女は随分と上機嫌で、楽しそうに兄……もとい彼氏、いや旦那さんとの惚気話を聞かせてくれる。俺は相槌を打ちつつ、ヒヤヒヤと肝を冷やしながら亜久津の様子を窺っていた。 亜久津はさっきから伏し目がちに黙ったまま、何も言わない。マズイ。キレるのは時間の問題だ。飲むのを勧めたのは俺だし。二人のそんな話を聞いてしまっては、今日は無事では帰れないかもしれない。 これ以上喋るのはやめてくれ、と内心思いつつもちゃんはそんなのちっとも気が付かない様子でにこにこと話を続ける。 「でね、でね。毎日仁と一緒にお風呂入るんだけどお、仁ってば最初照れちゃって〜」 「えっ、お、お風呂っ?」 「そうだよ。体洗いっこするんだけどね、私が洗ってあげるといっつも……」 「オイ、」 ずっと黙っていた亜久津が、低い声を出してちゃんの言葉を遮ると、彼女はきょとんとした顔をして亜久津の方を見た。そんな様子を眺める俺はもう若干、生きた心地がしない。 「なに?仁」 「なにじゃねえ。これ以上ふざけた話すんな」 「ふざけてないよー?」 ああ、よかった。止めてくれて。と思いつつ、話の続きがちょっと気になってしまう自分もいる。洗ってあげると……どうなるんだ?でもそんなこと、めちゃくちゃ機嫌の悪い顔した亜久津を前にして、聞けるわけないけど。 「二人は仲良しなんだね」 「うん、すっごい仲良し!仁のことだーい好き」 「そっかー。ケンカしたりしないの?」 「しないよ。あ、でも意地悪はされる」 「意地悪?」 「そう、仁がね、嫌って言ってもやめてくれないの」 「……え?」 「それにね、私にもっといじめて欲しいって言えって……むぐ」 話している途中で彼女の口を亜久津の大きな手が塞いでしまった。なんかすごいこと話してた気がするけど、気のせいかな。俺も酔ってるのかな、幻聴かな。 彼女が、苦しいと声にならない声で訴えると、その手はぱっと離れた。なにするの〜、とちゃんが気の抜けた声で不思議そうに聞くと亜久津は思いっ切り眉間に皺を寄せてる。 「馬鹿かテメエ」 「だってほんとのことだもん」 「んなわけねえだろ」 「えー?だって仁、いつもエッチする時……」 「お前ちょっと黙ってろ」 咄嗟に亜久津が彼女の頬をきゅっと摘むと、ぱちぱちと瞬きしながら、相変わらずよくわかっていない様子で。焦った亜久津なんてなかなか見られないぞ。なんだか、妹に振り回されてるのこいつを眺めるのが、段々楽しくなってきた。 「えーなになに、続きが気になるんだけど」 「うるせえ殺すぞ」 凄んだ低い声を出しながら睨まれたので、仕方なく黙った。それから亜久津は、「どうすんだ、コレ」と妹のことを顎でしゃくって指す。 「なんだ亜久津、ちゃんが酔うとこうなること知らなかったのか」 「知らねえよ。なんとかしろ」 「俺的には面白いから、もうちょっと続けてもらってもいいんだけど」 「ざけんなテメエ、マジでドタマかち割られてえのか」 亜久津をからかうのが楽しくて、うーん、そうだなーと勿体ぶって考える振りをしているとまた軽く足を蹴られたので、仕方なく「多分、もうちょっと飲ませたら寝ると思うよ」と教えてあげた。 すると、亜久津は明らかに怪訝そうな顔をする。 「……あ?馬鹿か、悪化したらどうすんだ」 「いやーどうかな、わかんないけど。だって他に方法知らないし」 「……」 「ま、俺はべつにこのままでもいいけどね」 テメエ後で覚えとけよ、とぼそりと呟くと亜久津はまた数杯追加注文し、それを無言でちゃんに差し出した。すると彼女は「いいの?ありがとー」と機嫌良く飲み干すと、しばらくして急に静かになり、いつの間にか眠ってしまった。 「ほらね?」 亜久津の肩にもたれ掛かりながら、静かな寝息を立てる彼女の顔を眺めた後、亜久津の方を見てにやりと笑う。何でお前がそんなこと知ってるんだ、とか問い詰められるかな。と思ったけどそれは聞かれなかった。 「ちゃん元気そうじゃん」 「……」 「仲良くやってるみたいでよかったよ。お前も相変わらず、随分と入れ込んでるみたいだし」 「……なに言ってやがる」 「まあこれだけ可愛かったら仕方ないか」 「可愛いかねえよ」 どう否定しても、照れ隠しだってわかっちゃってるけどね。亜久津、昔からちゃんのこと相当好きだったからな。だから、彼女に「だーい好き」なんて言われて、面倒くさがりながらも内心喜んでるんじゃないのか。怖くて聞けないけど。 「向こうの暮らしは落ち着いた?」 「……ああ、まあな」 「東京出るって聞いた時はちょっと驚いたけどさ、幸せそうでほっとした。お前達のこと、結構気になってたんだ」 「何様だテメエ」 偉そうな口利いてんじゃねえ、と悪態を吐かれてもきっと本音ではないのだろうとわかっている。「なに笑ってんだよ」と言いながら、ちらりと妹のことを見る亜久津の眼差しは柔らかく、穏やかさすら含んで見えた。 「それにしても、酔ってるとはいえよく眠ってるね」 「……テメエに会うのが楽しみとかなんとか言ってたからな。どうせ昨日の晩は浮かれてロクに寝てねえんだろ」 「え、小学生じゃん」 「だからこいつはガキだっつってんだよ」 やっぱり亜久津は変わったのかな。以前ならこんな風に笑ったりしなかった。まるでナイフみたいに鋭く尖ってて、近付こうものなら誰だろうと容赦なく傷付ける。人から羨ましがられるほどの恵まれたものをいくつも持っているのに自らそれを無下にしてばかりいて。 それとも、恵まれ過ぎた天才は、他人からは理解され難く。案外簡単に道を踏み外してしまうのだろうか。こいつは一体、どうなるんだろう。どこへ行くんだろう。そばで眺めながら、そんなことが気になっても、付け入る隙もないし、助言など聞き入れるわけもない。 このまま擦れて、崩れて、壊れていくのかと思っていた時代。それでも、妹に対してだけはいつもどこか優しくて。まだ心までは死んでいないのだな、となんだかほっとしたものだ。 (お前も、よかったな) そんなこと言える立場じゃないことは十分承知しているつもりでも、やはりそう思ってしまう。これから、つらいことや大変なことはたくさんあるかもしれない。それでも、きっと二人一緒ならば大丈夫だろう。 「……あれ、仁……清純くん……?」 亜久津が珍しく、他愛もない世間話に付き合ってくれていると、ふと眠っていたちゃんが目を覚ました。とろんとした目で、ぼんやりと俺達の顔を交互に眺めている。 「おはようちゃん」 「……おはよう」 笑いながら言うと、彼女はとりあえず同じに返した後何度か瞬きをする。そして、「なに寝呆けてんだ」と亜久津にポンと手を頭に乗せられても、まだ完全には目覚めておらず不思議そうにするだけ。そんな様子がなんだか可愛くて、余計に笑った。 「……仁、トイレ行きたい」 「行けよ」 「一緒に来て」 「あ?そんぐらい一人で行けや」 「やだ、一緒に来てよお」 「……ったく」 ちゃんに服の袖を引っ張られながら、亜久津は軽く溜め息を吐くと「んだよ」と俺を一睨みした後、一緒に席を立っていなくなった。なんか……もはやお父さんみたいだな。 「ちゃんの兄で彼氏で旦那で父親で……お前、大忙しじゃん」 「あ?」 彼女を連れて戻って来た亜久津に対して、茶化す様に笑いながらそんなことを言うと、やっぱり想像通り不機嫌そうな顔してる。 「楽しそうだね。可愛い女王様のシモベとしての生活は」 「気色悪りい言い方すんじゃねえよ」 亜久津は怒ってるけど、俺には割とまんざらでもなさそうに見えたけどな。 会計は、気が付けば亜久津が全額支払ってくれていた。自分の分出すと言っても無視されたので仕方なく、亜久津ありがとねと笑ってお礼を言った。まあそれすらもシカトされたわけだけど。店の外へ出ると、もう春とはいえまだ夜風は冷たい。 「清純くん、またね」 「う、うん」 「また遊ぼうね。ね、ね」 ちゃんはまだ酔っているのか、別れ際俺の体にぎゅっと抱き付いて上目遣いになんだか甘えた声を出す。俺は笑いながらも、こっちを見ている亜久津の視線にこっそり冷や汗をかいていた。 「わかったよ」 「絶対だよ」 「うん、約束する」 「」 「あ、ほらほらちゃん、お兄ちゃんが呼んでるよ」 柔らかい力で彼女の腕を解くと、亜久津の方へ軽く背中を押した。すると今度は兄に向かって、にこにこと楽しそうに話し掛ける。 「清純くんがね、また遊んでくれるって」 「そうかよ、よかったな」 こうして見ると、亜久津もちゃんとお兄ちゃんやってるんだな。ちゃんも、随分と妹らしくなった気がする。……いやずっと最初から兄妹だったんだけど。なんか、この二人いつも他人みたいな雰囲気醸し出してたから。 子どもの頃より、大人になった今の方が仲が良いなんて。不思議だ。でも、本当に良かった。なんだか俺も嬉しいよ。と、自然に笑みがこぼれる。 「千石」 楽しそうなちゃんの様子を微笑ましく眺めていると、ふと亜久津に名前を呼ばれてそちらへ首を動かした。 「……が、世話になったな」 ぼそりとそう言い、一瞬目が合った後にまたぱっと逸れる。え?と思っても、俺は口には出せなかった。代わりに、ちゃんがきょとんとした顔で亜久津に向かって質問する。 「仁、今なんて言ったの?」 「なんでもねえ。行くぞ」 くるりと方向転換した亜久津が歩き出しながら手を差し出すと、彼女はそれを追い掛けてきゅっと繋ぐ。そして案外ゆっくりと進むそのペースに歩調を合わせながら、こちらを振り返ると、笑いながら俺に向かって手を振った。 「清純くん、またねー」 「うん。またね、ちゃん」 「ばいばーい、元気でねー」 少し歩いては振り返り。また少し歩いては振り返り。そんな彼女と手を繋ぎながら並んで歩く亜久津は、一度も振り返ったりはしない。そんなところもあいつらしい。俺に感謝の気持ちを述べるなんて、やっぱりだいぶ大人になったんだな。それだけ、妹のことが大切なんだろう。 (ちゃんも亜久津も、元気でね) その夜、人波の中で何度もこちらを振り返っては楽しそうに手を振る彼女の笑顔は、本当に幸せそうに見えた。 |