第一番 杉本寺(杉本観音)
(神奈川県鎌倉市)
巡礼始まりの寺
本堂の正面には仁寿元年(851年)慈覚大師が当山に参篭した刻んだと伝える十一面像。その左手は天平6年(734年)この寺の開基でもある行基菩薩作と伝えられる十一面像。右手は寛和2年(986年)恵心僧都が花山法皇の命によって刻まれたと伝えられる十一面像が、それぞれ安置されています。また、源頼朝が文治5年(1189年)に焼失した寺の再興に尽くし、前立十一面観音像も収められております。
現在の茅葺本堂は、延宝5年(1677年)に再建されたものである。参道の石段(鎌倉石)はすり減って危険なため途中迂回しなくてはならない。
第二番 岩殿寺(がんでんじ)
(神奈川県逗子市)
奈良時代、徳道上人がこの地に下向したおり、はるか巽(東南)の方角に地上に一筋の光がさしているのを見て、光の出所を探しあてると、そこで一人の老翁に「ここは大悲垂応の霊洞です。………どうか万民のためによき霊場をつくってやってください。」と語って姿を消してしまった。そこで上人は社を構え、祠を建てて大和に帰ったという。その数年後、行基がこの地を訪ね、十一面観音像を作って安置したのが岩殿寺の開創である。それゆえ、岩殿寺の開基は徳道、行基の両聖人とされている。源頼朝の信仰も厚く、治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れて船で真鶴岬から房総に逃れようとした際に、観世音が船頭となって無事に送り届けたという話は有名である。
また、文豪・泉鏡花ともゆかりも深く明治35年(1902年)、神楽坂の芸妓すずと恋に落ち、師・尾崎紅葉の怒りをかって逗子に逃げてきた鏡花は、岩殿寺に魅せられて小説「春昼」を書いた。
第三番 安養院田代寺(田代観音)
(神奈川県鎌倉市)
この寺が安養院田代寺という二つ重ねの寺名で呼ばれるのは、やや複雑な寺歴による。
まず田代観音の縁起は、源頼朝の家臣田代信綱が、東大寺の学僧が中国から持ち帰った観音像を得て深く信心し、戦場に向かうときは必ず鎧の中に入れていた。その加護に対する報恩のために、建久3年(1192年)、尊乗上人を開山として比企ヶ谷に建立したのが田代寺で、本尊の千手観音は鎌倉期制定の坂東第三番札所となった。一方、安養院は嘉禄元年(1225年)に、北条政子が夫・源頼朝の菩薩を弔うために建立し、政子自身も葬られた長楽寺がもとになっている。同寺は元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡の際に兵火で焼けたため、名越の善導寺跡に移り、政子の法名から安養院と名づけられた。その安養院も延宝8年(1680年)に火災に遭った際、比企ヶ谷にあった田代寺もその地に移して再建され、現在の安養院田代寺となったのである。現在の庫裡は、昭和3年に建てられた銅葺の建物である。境内には、天然記念物に指定されている樹齢700年のマキの巨木がある。