第四番 長谷寺(長谷観音)
(神奈川県鎌倉市長谷)
ここの尊像は、養老5年(721年)に徳道上人が、春日の仏工、稽文会・稽首勲の2名に命じて、大和長谷寺山中の楠の大木に2射の十一面観音像を刻ませ、1射は大和長谷寺へ、他の1射は、有縁の地に出現して衆生を済度されんと祈願して海上へ流したところ、16年後の天平8年(736年)、三浦の長井浜に漂着した。そこで藤原房前は、この像を現在の長谷寺の所へ移し、徳道上人を開山とした。ここは、鎌倉の大仏から500メートルと近い。
第五番 勝福寺(飯泉観音)
(神奈川県小田原市飯泉)
天平勝宝6年(754年)唐の高僧鑑真和上が登朝した時、85センチあまりの十一面観音像を孝謙天皇へ献上し、後に僧・弓削道鏡に下賜した。宝亀元年(770年)道鏡が下野国薬師寺戒壇院再興のため下る途中、現在の寺から2キロ程離れた千代村で、観音像が急に重たくなり、動けなくなりその場所に一宇を建て、観音像を祀ったのが創始で、当初弓削氏の氏寺だったらしく、補陀落山弓削寺と称したが、開基の66年後、本尊の霊告により現在の飯泉に移しが、応永25年(1418年)には小田原城の鬼門鎮護の道場となり、天皇から飯泉山勝福寺の勅号を賜ったという。本尊の開帳は33年に一度で前回は昭和56年だった。二宮金次郎の話や江戸時代は相撲興行が行われた地でもある。
第六番 長谷寺(飯山観音)
(神奈川県厚木市飯山)
神亀2年(727年)行基がこの付近を通りかかったとき、五色に輝く泉の中から観音像が現れた。そこで行基は、かたわらの楠木で、左手に水瓶を持った高さ1.8メートルの十一面観音を刻み、その胎内に泉の観音を納めて寺を開いた。後に弘法大師が密教道場とし、この地の建仁年中に領主・飯山権太夫が伽藍を建立した。その後嘉吉2年に炎上し、その時再建されたのが現在の御堂で、5百余年の歳月を経ている。