第二十八番 龍正院(滑河観音)
(千葉県香取郡下総町滑川)

承和5年(838年)滑河城主・小田将治の発願により慈覚大師により開かれた。本尊は4メートルあまりの法橋定朝作の十一面観音だが、ある年の五月、気候不順のために、この地方は時ならぬ冷害にみまわれ、真冬のような寒さが続き、農作物は大きな被害をうけ、人々は飢えて横たわるものが続出した。当時の城主・小田将治はこの悲嘆を見聞し、金銭や食べ物を施して、天候の回復と病人の平癒を観世音に祈願し、法華経を読誦したところ、結願の日に朝日姫と名のる少女があらわれ、小田川の川辺に将治を案内して姿を消した。そのとき、川に舟を浮かべていた老僧が僧衣を網にして小さな観音像をすくい上げて将治に与え立ち去った。将治はこの像を持ち帰り、堂宇を建立して安置したところ、気候は回復し、農作物は豊作となった。観音像が示現した場所は、龍正院から300メートルほど離れた田園の中にあり「観音応現碑」が立っている。この観音像は一寸八分(約55p)の十一面観音で、前述の観音像の胎内に奉納されている。

滑河観音

滑河観音2


第二十九番 千葉寺
(千葉県千葉市中央区千葉寺)

和銅2年(709年)行基がこの地を巡錫していると、池に1本の茎に2つの花、1000の葉を持つ青い蓮華があり、花の中に阿弥陀如来と観音が並んで説法していたという。この瑞兆を見た行基が十一面観音像を刻み奉安したのが千葉寺の草創である。聖武天皇の世(724〜49)には、天皇の刺諚により、十八間四面の大きな観音堂が建てられた。永暦元年(1160年)雷火のため焼失。この時より現在の場所に移されたと伝えられる。中世には下総一帯に勢力を誇っていた豪族・千葉氏の勅願所として栄えたが、豊臣秀吉の小田原城攻めの際、北条氏と共に千葉氏も滅亡し寺の寺領も減らされたが、天正18年(1590年)徳川家康が御朱印地百石を寄進し、当時十八坊を有し、格式も高く、繁栄を極めた。文化3年(1806年)の火災により本堂をはじめ諸堂宇を焼失した。そして本尊もついに火災に遭い、現在の本尊は文化6年(1808年)造顕という。明治維新当時は寺領も没収され、住僧もなく、船橋本覚院の兼務となったが、村内の有志によって土地の払い下げを請願し、土地を得て十二間四面の本堂を建てて復興したものの、また戦災に遭った。現在の本堂は昭和51年に再建されたものである。

千葉寺


第三十番 高蔵寺(高倉観音)
(千葉県木更津市矢那)


開創は、6世紀にまでさかのぼる。徳義上人が修行中、雷鳴がしきりに起こり、里人は世の変化の現れと恐れたが、上人は一人山中に籠もった。そこへ老翁が現れ「衆生済度のために飛来した観音をここに安置した」と古木を指し、姿を消した。その梢には身の丈四寸の観音像が安座していたという。上人は里人とともに堂宇を建立し、安置したのが始まりという。また、高蔵寺には、藤原鎌足生誕にまつわる伝説がある。里の有力者だった猪野長官という人物が、40歳あまりになっても子宝に恵まれず、この観音に願をかけたところ、予与観という名の一女を授かり、その一女が生んだ男の子が藤原鎌足である。藤原鎌足は、七間四方の本堂や阿弥陀堂、三重塔、鐘楼などを建立した。本尊は、行基が古木で3.6メートルの聖観音を刻み、その頭部に徳一上人に示現した観音像を納めたものである。

高倉観音

高倉観音2