第7番 光明寺(金目観音)
(神奈川県平塚市)
大宝2年(702年)、現在の大磯町小磯の浜で、海女の桶に七寸の小さな金像が入った。わが家に持ち帰ると、そこに一人の行脚の僧が訪れ、これぞ聖徳太子御作の観音像であると告げて去ったという。そこで海女は家の奥にこの像を祀り、それが光明寺の創始となった。のちに道儀上人が一宇を建立。天平年間には行基が1.7メートルの観音像を刻み、その胎内に金像を納めた。それが本尊の金目観音で「お腹ごもりの観音」として知られるようになった。
第八番 星谷寺(星の谷観音)
(神奈川県座間市入谷)
行基が星谷の地に巡錫したおり、「見不知森」の中で、法華経を読む声を聞いた。声の主を探してみると、それは古木の根元にあった観音像の声だったという。行基が土地の人々にそのことを伝えると、人々が集まってきて堂を建て、観音像を安置した。それが星谷寺の始まりである。鎌倉時代には、兵火によって伽藍の多くを失ったのに加え、野火で観音堂を全焼。そのとき、本尊は火中から飛び出し、600メートルほど離れた木の上に止まり、光明を放ったという。その場所に本堂を再建し、中興したのが、現在の星谷寺の場所である。
第九番 慈光寺
(埼玉県比企郡都幾川村西平)
天武天皇の白鳳2年(673年)に僧慈訓に命じて千手観音像を刻み本尊として祀ったのが創始。この寺は平安時代より延歴寺別院として名高く、東国最古の寺歴をもつだけに、名宝が保管されている。宝物館には、国宝「法華経一品経」などの重要文化財等が陳列されている。、現在の観音堂は江戸後期に再建されたものである。