第十番 正法寺(岩殿観音)
(埼玉県東松山市岩殿)


養老2年(718年)物見山の岩窟に逸海上人が千手観音を安置したのが始まりという。戦国時代になって天文年間(1532〜54)北条氏康が高坂に戦陣をしいたため、戦火にかかり堂塔は灰燼に帰した。後に天正2年(1574年)、住職の栄俊が再興し、徳川家康より慶長19年(1614年)25石の寺領を賜ったが、寛永年間に焼失し、明和6年(1769年)には恵日法師が十一間四面の本堂を建立したものの、後の明治11年には火災に遭い、現在の堂は高麗村から移築されたもの。本尊の千手観音は、鎌倉初期の作である

岩殿観音

岩殿観音2


第十一番 安楽寺(吉見観音)
(埼玉県比企郡吉見町御所)


行基がこの地で聖観音を刻み、岩窟に納め磐石を扉としたが、田村麻呂が奥州征伐のときに石扉をのぞいて拝したところ、観世音は光り輝き、日神が天の岩戸から出現したごとき様相だったので、岩戸山と名づけられたと伝えられている。源範頼が稚児僧として居留し、やがてこの地方の領主となってからは、吉見御所と称され、所領の半分を寄進し、二十五間四面の大堂と、高さ三十三メートルの三重塔を建てた。しかし、天文年間の兵火(上杉憲政と北条氏康との松山城合戦)で焼失し、現在の御堂は寛文元年(1661年)の建立である。近くには、吉見百穴がある。

吉見観音

吉見観音2


第十二番 慈恩寺
(埼玉県岩槻市慈恩寺)


天長元年(824年)慈覚大師により開かれた。大師が毘沙門天のお告げにより、大杉の霊木に千手観音を彫刻して本尊としたが、ここの様相が、いかにも大唐長安の大慈恩寺ににているので慈恩寺と称したいう。後に火災のため本尊は焼失、現在の本尊は江戸初期(18に、天海僧正によって比叡山より招来されたという。中世には、六十六の僧坊を有した大寺院で、江戸時代には徳川家康の保護も厚かった。現在の本堂は十三間四面の堂々たるもので、天保14年(1843年)の再建である。本堂から徒歩10分のところに建つ高さ十五メートルの御影石の十三重塔には、かの「西遊記」の三蔵法師の霊骨が奉安されているが知る人は意外と少ない。

慈恩寺

慈恩寺2