第十九番 大谷寺(大谷観音)
(栃木県宇都宮市大谷町)
弘仁元年(810年)弘法大師がこの地を巡錫したおり、自ら洞窟の岩壁に千手観音を刻んだのが開創。造像当時は、漆の上に金箔を押した輝々とした姿だったという。西の臼杵磨崖仏(大分県)に対し、東の磨崖仏として知られ、史跡としても美術的にも貴重なため、昭和29年に特別史跡、同36年には重要文化財と、二重の指定を受けている。この洞穴には古くから人が住んでいたようで、昭和37年から3年かけて保存維持のため大々的な工事が行われたが、その際、地層の最下層からは約1万年前の土器などが発掘された。縄文最古という、屈葬された人骨は、宝物館に展示されている。
第二十番 西明寺
(栃木県芳賀郡益子町益子)
開創は天平9年(737年)、行基による。紀有麻呂のよって堂がたてられた、天平11年に落慶供養が行われた。延歴元年(782年)には、一山12坊を数えるほど時勢は栄えた。紀家といえば、「土佐日記」を著した紀貫之が有名だが、後の紀一族は益子に移り住み、西明寺権現平に紀貫之を祀った。それが益子氏の始まりであるという。椎の巨木におおわれた石段を登ると、明応元年(1492年)建立の、重厚な茅葺の純唐様による仁王門があり、その左手に天文6年(1537年)建立の、銅板葺の和様と唐様が調和した優美な三重塔がある。いずれも重要文化財に指定され、室町時代の特徴がよくあらわれている。また、正応4年(1291年)再建と伝えられる閻魔堂が右手にあって、関東随一の巨大の閻魔大王が安置されている。閻魔大王は、笑っており珍しい。正面の本堂は治承元年(1177年)の創建で、元禄14年(1701年)に外陣を増築したといわれる。
第二十一番 日輪寺(八溝山)
(茨城県久慈郡大子町上野宮真名板倉)
天武天皇の673年、役ノ行者の創建、大同2年(807年)に弘法大師がこの地を訪れたとき、狩衣を着た大己貴神と事代主神の2神が現れたため、大師が2体の十一面観音として刻み、日輪・月輪の2寺を建てて安置し、観音霊場としたという。室町時代には間口十六間の総ケヤキ造りの大伽藍となり、多くの堂宇が建ち並ぶ大寺として栄えたが、江戸時代初期に2度の火災に遭い、水戸光圀公によって再建されたが、天保3年(1832年)には水戸藩の廃仏運動に遭遇。明治13年(1880年)の火災で堂宇を全焼するなど、いくたびもの難にさらされた。大正3年(1914年)に仮堂が建てられた、現在の観音堂が完成したのは、昭和48年である。昔から「八溝知らずの偽坂東」、あるいは「坂東の八溝知らず」といわれるように、今でも坂東の札所の中では唯一の難所である。