第二十二番 佐竹寺
(茨城県常陸太田市天神林町)


本尊は聖徳太子が彫ったといわれる十一面観音で、それを護持していた花山法王の発願により、元密上人が寛平7年(895年)に開創したと伝えられている。仁王門は昭和15年の建立だが、本堂は、天文15年(1546年)佐竹藩の18代佐竹義昭が再建したもので、その豪壮な姿には圧倒される。大きな茅葺の主屋まわりに、裳階をめぐらし、屋根が二重になっているように見える。花頭窓や組物などもじつに見事で、桃山建築の先駆けとして注目され、国指定の重要文化財の指定もうけている。

佐竹寺

佐竹寺3佐竹寺2


第二十三番 観世音寺(佐白観音)
(茨城県笠間市笠間)


孝徳天皇の白雉2年(651年)に狩人粒浦氏が、白馬、白鹿、白雉が守っていたという霊木で千手観音を仏工に刻ませ、安置したのが始まりである。元久2年(1205年)宇都宮氏の一族藤原氏が伽藍を破却してここに居城を築こうしたため、僧徒の抵抗をうけ、僧徒は敗れ、その後藤原氏は城を築造して笠間氏を名のった。しかし多数の僧侶を殺した罪業の恐ろしさに、観音の前で懺悔し、笠間城内に観音堂を再建した。笠間氏の庇護のもとで約400年間の繁栄を続けたが、天正18年(1590年)、笠間氏の宗家宇都宮氏に滅ぼされると寺勢も衰退した。明治の廃仏毀釈によって、本尊と仁王像は近くの玄勝院に難をさけられ、昭和5年、山麓公園のかたわらに間口5間の仮本堂が建てられ、本尊はここに安置され、昭和59年3月、観世音寺と寺号を改められた。茨城県の霊場は明治の廃仏毀釈によって再起不能にいたるほどの打撃を受けた。その中でもこの寺は最もひどい痛手をうけたわけである。

佐白観音

佐白観音2


第二十四番 楽法寺(雨引観音)
(茨城県真壁郡大和村本木)


588年、聖徳太子の父である用明天皇の世に、中国・梁の帰化僧・法輪独守居士が、故国から持ってきた延命観音を安置したのが開創である。光明皇后は自身の安産祈願のため、法華経一巻を書写してここに奉納し、無事出産。それ以来皇室の安産子育の祈願所ともなり、昭和34年11月浩宮御出産のときは、住職が随員と共に宮中へ参内し、お守りを奉呈している。嵯峨天皇の引仁12年(821年)、干ばつが国中を見舞ったため、天皇が自ら写経してこの寺に納め、ひたすら降雨を祈らせたところ、国中が雨で潤い五穀が実った。雨引山の山号は、このときの勅命によって定められた。現在の本堂は寛永7年(1630年)に改修され、仁王門は天和2年(1682年)に再建されたものである。

雨引観音

雨引観音2