平成17年12月20日 『広島の民俗と歴史』のフォロー まほろば工房
▼  古川阪次郎
▼  松田登三郎
▼  西内文夫
 P48 【市井出身】 古川阪次郎
土木学会9代会長
 1884年工部大学校土木卒。工部省に入り94年鉄道技師兼陸軍御用係、96年笹子遂道工事に尽力。1903〜4年欧米出張後鉄道隊技長として日露戦争に従軍。13年鉄道院技監兼技術部長をへて副総裁となり17年退官。のち九州鉄道、金剛山電気鉄道の役員、鉄道会議議員、帝国鉄道協会会長をはじめ各種委員会会長を多数歴任。ロシアおよびスペイン皇帝より勲章をうける。

産業技術遺産探訪〜笹子隧道(JR中央本線・下り線)
 笹子(ささご)隧道の建設工事は、工部大学校を卒業した古川阪次郎(ふるかわ ばんじろう)の設計・監督(監督長)のもとで、1896(明治29)年12月に着工されました。全長4657.3m(15280フィート)の当時としては考えられないような長さのトンネル掘削工事でした。工事はトンネルの両側から始められました。古川阪次郎はそれまでの旧態依然としたトンネル工事に対して、新しい技術を意欲的に導入していきました。  古川阪次郎は、日本で初めてトンネル工事用の自家水力発電所をトンネル出口付近の川に建設し、ここで発電した電気によって坑内に電灯や電話を設置し、空気圧搾機を運転、さらに工事用電気機関車(米国製)を導入して、ズリ(掘削した岩や土砂)の搬出と資材の運搬を行いました。また、掘削には電気雷管を用い、三角測量には20秒読みのトランシットをはじめて用いています。

中央線笹子トンネル
 古川阪次郎のの設計、監督による。  明治29年12月起工後わずか6年の明治35年11月完成。  総延長4,653b、昭和6年清水トンネル完成までは我が国最長のトンネルであった
 P52 【茂浦出身】 松田登三郎
攻玉社(土木関係)出身者
 松田 登三郎 大倉組常務(大成建設前身)

設計者:松田登三郎
 割烹旅館 山月(旧大倉喜八郎別邸 共寿亭)  小田原市板橋913
 建築家伊藤忠太が設計を審査した建物で、工事責任者が松田登三郎か? 建築ツアー バックナンバー
 P54 【茂浦出身】 西内文夫
地域の本棚
 アジア競技大会  1回 1951年 ニューデリー 10種競技で西内文夫(丸亀2中教諭)が優勝(6324点)
 アジア競技大会  2回 1954年 マニラ  10種競技で西内文夫(教委)が2位(5429点)

nikkansports2001seikyo
 2001年8月23日 西内文夫(79) 元中大陸上部監督 急性心不全

佐柳島・郷土史掲示板 水夫のその後 鐵五郎 - 2005/05/30(Mon) 23:10 No.388
 讃岐広島の茂浦出身の咸臨丸乗船者は、平田源次郎、森寅吉、森友吉、森和三郎の4人です。平田は明治26年1月26日江栄丸の船長となり、開拓民を乗せて北海道西の焼尻島に向かう途中、暗礁に乗り上げ座礁した。船は大破したが開拓団の人々はロシア船に救助された。しかし、船長の平田は責任を感じて切腹して北の海に船とともに消えた。森寅吉は鵬翔丸に乗り組んでいたが帰国後間もない万延元年7月23日伊豆下田の大浦沖で台風に遭遇し、立石の伴幸吉、瀬居島の島本善四郎ら24人の乗組員全員と共に死亡した。立石の曽根仁助は慶応4年榎本率いる旧幕府軍の咸臨丸に乗っていたが嵐の中、駿河湾清水沖を流され政府軍に銃撃され海中に転落死亡した。これを拾い上げ埋葬したのが清水の次郎長で後に裁判にかけられるが、死者を悼む人間としての当たり前の行為であると述べ、山岡鉄舟裁判長に許される。茂浦には西内富蔵という人も居た。平田と共に江栄丸に乗り込んでおりロシア船に助けられ青森に送り届けられたが、仕事も金もなく乞食同然で大道芸をしながら投げ銭で飢えを凌ぎ歩き続けて広島に帰ってきた。明治28年富蔵の3回忌の法要が行われている席に幽霊のように帰ってきて皆を驚かせた。その場はすぐに歓迎の宴会になったということです。この人のお孫さんがアジア大会の陸上競技で日本人初の金メダルに輝いた西内文夫さんである。 水夫の子孫たちにも色々な物語があります。子孫の会の発展を祈ります。藤本さん要望承諾ご協力有り難うございました。よろしくお願いします。