【東京のお父さんの手記より】

 ムクを死なせてから4年。「もう犬は、動物は、絶対飼わない。飼う気にもなれない」と家族全員そう思った。
 しかしムクがいなくなってぽっくり開いた生活の穴は、あまりにも大きかった。
 以来、悲しみを紛らわせようと、ぬいぐるみを買い集めては、それと話しをするようになった。
 やがて犬のいる生活に、思いを馳せるようになった。道で見知らぬ犬の頭を撫で、旅先で人の犬の写真を撮っては、自らを慰めた。
 そんな日々が続いたある日、阪神地帯に大地震が襲った。
 厳寒の中、多くの人命が失われた。そして同時に、人間に愛されていたであろう犬たちが、一瞬の内に行き場を失った。そうした報道を見ては涙した。
 一匹でも救い出せないか。そんな気持ちから、兵庫の三田まで、里親になるべく夫婦で訪れた。だが、報道とは様子が異なり、そこでは里親に出せる犬はいないということで帰ってきた。

 しばらくして、銀座でボランティアによる被災犬の写真展があった。
 まだ里親を求めている犬が、いっぱいいることを知った。同時に、全国で毎日何匹もの犬が理不尽に殺されていると聞かされた。年間では四十万匹だ。
 被災犬はまだいい。命を全うできるようみんなが見守っている。しかし、飼い主の身勝手で捨てられた犬は、殺されるしかないのだ。
 「どんなワンちゃんでも宜しければ、そちらを…」との、東京側のボランティアの一人である信夫(しのぶ)さんの勧めに応諾した。
 被災犬であろうがなかろうが、主人を失ったことに変わりはない。四十万分の一でもいい。助けられるものなら助けたい。
 後日、都の動物管理センターに電話をした。里親になるには、毎水曜日に開催している講習に出なければならないという。平日は仕事がある。犬の生死に関わることなのだが、ついついそのまま日が経ってしまった。そんなころのある晩、電話があった。
 被災犬の写真展で会った信夫さんからだった。

 用件は、尼崎で保護されている犬を、引き取ってもらえないかとのことであった。
 8月31日までに出された犬は、震災被災犬として保護されるが、その後に捨てられた犬は、殺処分されることになっている。しかし、その犬は性格がとってもよく、動物管理センターの獣医さんが、処分させるには忍びないと、現地のボランティアの人と協力して、なんとか里親になってくれる人を探そうと、処分日を一日延ばしにしているのだと言う。
 子犬は貰い手が結構いるのだが、成犬は中々難しいらしい。
 大型犬は飼う自信もないし、環境も適していないが、中型犬以下ならこちらはどんな犬でも構わない。ましてやそんな状況なら協力します。と伝えた。
 話は数日の間に、とんとんと進んだ。
 輸送は現地のボランティアの人が伊丹空港まで届けてくれ、こちらは羽田で輸送費を払って受け取るだけでいいということになった。さらに好都合なことに、信夫さんが仕事で、同じ飛行機で伊丹から羽田まで来てくれることになった。
 一応ファックスでその子の写真を送ってくれたが、黒犬であることぐらいしか分からなかった。
 再び犬を飼うことに最後まで反対していた息子も、そうした経緯では仕方ないと諦めてくれたようだった。
 
 その犬が来る前日から約三週間の日記を、備忘録としてここに掲載しておく。


くろちゃんが来た!

十月二十日(金)
 いよいよ明日、尼崎から犬が来る。
 いけねえ、まだなんにもワン君の準備していなかった。信夫(しのぶ)さんが家に来るというので、部屋の大掃除に追われ、ケージを組み立てただけだった。
 夜になって、慌てて商店街へ買い出しに車を出す。
 まず、首輪とリード。荒物屋も兼ねたスーパーに運よく置いてあった。しかし大きさが分からない。送ってもらったファックスから想像するしかない。
「これじゃ大きい」
「いえこれくらいはあるんじゃない?」
 とにかくグリーン、と色だけこだわって、適当なのを一揃い買う。
 後は…そうだ、ドッグフードだ。
 デパートやスーパーに買い物に行くと、ドッグフードの陳列棚をいつも横目で睨んでいた。ムクが死んでから買えないのが寂しかった。やっとそのドッグフードが買えるのだ!
 さて、今度の子はなにが好みだろう。ま、取り敢えずドライタイプの安いのを一つ、小箱で。初日だからちょっとおごってやるか。グルメのシーザーも一缶。
「おい、トイレ用のシーツ要らないか?」
「いいんじゃない?」
「そうだな。そうなんなきゃ分かんないもんな」
 これでよし。さあ、いつでもいらっしゃい。ケージにはWELCOMEサインも貼ったし。
 
十月二十一日(土)
 お見合いの当日のように朝から落ち着かない。お見合いの経験はないけど、きっとこんな気分なんだろう。
 快晴。無風。これならワン君の飛行機も揺れないだろう。
 久しぶりに一家揃った。一路日産へ。いや羽田飛行場へ。
「これからは、うちも関西弁で話さんとあかんよ」
「なんで?」
「そやかて尼崎から来るんばってん」
 何語だそれ。
 羽田がなんときれいに、大きくなったもんだ。
「なにかおいしいもの食べたい」
「なににしよう」
「あたしお腹空いてない」
「中華がいい」
 どうでもいいじゃないか、そんなこと。もうすぐワン君が来るんだぜ。
「このゲートだ。間違いない。手分けして探せ」
「信夫さんてどんな人?」
「大きくってぽちゃっとした女の人だ」
「お父さんしか分からないから探しようがないじゃない」
「犬連れてるから分かるさ」
「あのベルトに乗って出てくるんでしょ?」
「箱に入ってんじゃないかなあ」
「あ、あれ、あの人そうじゃない?」
 航空会社の借り物の、大きなプラスチックケージから黒い犬が連れ出されている。
「おお、あれだ!」
 ガラス越しに手を振っていると、すぐ気が付いた。ワン君ではない、信夫さんがだ。
 あいさつもそこそこに、感激して撫で回すが、ご愛敬に尻尾をちょっと振っただけで意外とクール。
 ゲート前でお約束のご対面記念撮影。
「はいチーズ」
 ワン君にはできないか。
 しかし臭いねえ、君は。見たとこ痩せてはいるが…ん、よし、これは正しく雑種だ。
 おしっこが溜まってないか心配しながら駐車場まで直行。エレベーターでも大人しくしている。いい子だ。でもどこへ急いで行こうとするのか、ちびのくせに信じられない力でぐいぐい引っ張る。
「うちのお母さんに信夫さんじゃ無理かも」と、だれも心配したが、九十年式カリブは喘ぎながらもなんとか走った。
 妙に盛り上がるその車の中で、ワン君のここまでのいきさつをお聞きする。
 9月の中旬、尼崎のある空き地に捨てられた。結わえ付けられていた塀には、「だれか飼ってやってください」とだけ書いた置き手紙が、脇に添えてあったと言う。
 幾日かは近所の人が世話をしていたらしい。その後交番に届けがあり、警官が保護した。が、ほどなく”決まり”に従い動物管理センターに引き渡された。
 尼崎の動物管理センターには、実はこの犬ともう一匹、殺処分するには忍びない犬がいた。現地のボランティアが、きっと里親を見つけるから処分を延期してくれと、嘆願しておいた。獣医さんも協力してくれた。しかしながらその犬は、通常通り殺処分されてしまった。そのとき激しく抗議をして、この犬だけはどうにか処分を免れさせることができた。と言うことだった。
 ワン君は車には慣れているらしく、聞くともなしに大人しく自分の身の上話を聞いている。
 芝浦に近付いた。ワン君がそわそわしている。
「おしっこじゃないか?」
「もうすぐだから」
「いや、止めてやれ」
「でも…」
 ムクを乗せてドライブしていたころと同じ会話(どなりあい)が続く。
 結局、これからの住まいとなるビルのちょっと手前で下ろした。えらい力で引っ張る。片足上げてちょろっと用足しをすると、ビルに向かって歩き出した。
「さあここが君のお家だよ。入ってごらん」
 ムクが旅行のとき使っていたケージに押し込もうとするが嫌がる。
「ああ、ドーカン(動物管理センター)のケージで悪いイメージがあるかも…」
 と、信夫さん。
 じゃ、この段ボール箱に毛布を敷いてと。
 おお、座った座った! 水はどうだ? 要らないの? じゃ、ご飯だご飯だ。え? これだめ? 少し昂奮しているみたい。
「では私はこれで」と、信夫さんが階段を下りて帰ろうとする。それを尻尾を振りながら追いかけようとする。
 待て、待て、ここがお前の家なんだ。どうやら信夫さんを新しい主人と信じてたみたい。
 最初の問題は名前だ。「クロ」に反応するから多分「クロ」ではないかとの情報を尊重して「クロちゃん」に決定。毛色が黒だからって、イージーすぎないかという一部の反対意見は無視。
 次は臭いをなんとかしなければ。まず洗おうとなった。
 そういう仕事はお父さん。で、風呂場で裸になって一緒にシャワー。
 ぶるぶる体を震わせながらも、じっと大人しくしている。
 あれ? 犬用のシャンプー捨てちゃってなかったんだ。しょうがない、今夜のところは人間用で間に合わせよう。でもヘアーシャンプーか、ボディーシャンプーか? えい、両方使って二回洗っちゃおう。
 風呂上がりにシーザーを開ける。これはぺろっと食べた。こう見えても結構いい生活してたみたい。ミルクはどうだ? これもぴちゃぴちゃ飲んだ。
「おーい、牛乳飲んだぞ!」
 そんなことで驚くなって顔で、クロは段ボールにうずくまった。
 
十月二十二日(日)
 早朝のお散歩はお母さん。夜はお父さん。気が向くと大学生のお兄ちゃんや友紀ちゃんもときどき。
 お愛想に尻尾を振って元気そうだが、食欲がない。水もあまり飲まない。ドライフードは苦手なようだが、シーザーばかりじゃこちらの食費を切りつめさせられる。ペディグリーチャムを与えてみる。これはいいらしい。折角買ったんだから、ドライフードを混ぜてこれからの食事とする。
 屋上の庭へのドアは、用をしたくなったらいつでも出られるように開けっ放し。ムクのときもそうだったから。プランターを荒らされるのは覚悟の上だ。でも、朝夕二回の散歩まで我慢できそうだ。
 デパートで蚤取りシャンプーとブラシを購入。二回目のシャンプーでだいぶ臭いも薄らいだ。
 
十月二十三日(月)
 聞き分けがよくって、大人しくって、ホントにいい子だと、家族全員感嘆。
 ちょっと困るのがウンチが形にならないこと。拾うのに苦労する。ワクチン注射のせいだろうからと、しばらく様子を見ることにした。
 ボール遊びするかなと思って、ボールを転がすが見向きもしない。変な子。
 階段を下りられないよう小さな柵を置いたが、勝手には出ないようだ。ここが自分の家という意識があるのだろうか。でも、ムクは十年目に一人(一匹)で下りて、ビルの裏で多くの自動車に撥ねられ轢かれて死んだのだ。同じ過ちをして欲しくない。ムクの遺骸をかき集めたお兄ちゃんは心配でしょうがない。
 そう言えば、ここに来てからまだクロちゃんはワンともクンともいわない。震災やらなにやらのショックで、言葉を失ったのか。ちょっと心配。
「お父さん、この子フケすごいよ」
「おかしいなあ」
 またシャンプーしなきゃならないかと思うとげんなり。クロも嫌いだろうが、こっちも大変なんだよね。
 
十月二十四日(火)
「クロ、吠えたわよ!」
 クロちゃんの第一声を、お母さんが朝の散歩で聞いたらしい。
 その状況はこうだ。毎朝散歩している岸壁の部外者立入禁止のところを入ろうとしたとき、管理人らしき人が自転車で近付き「ああ、そこ入れないんです」と言った。そのとたん、「ウーッワン」と吠えたのだ。そうか、吠えるんだ。よかったよかった。
 玄関からちょいと前足をかけて家の中に入ろうとする。「めっ!」と叱ると、上目遣いに人の顔を見て耳を垂れて引き下がる。その仕草がかわいそうで家の中に引き込みたくなる。
「ねえ、入れちゃだめ?」
「だめよ。掃除するのはあたしなんだから。外で暮らす癖をつけなきゃ。たまんないわ」
 お母さんは厳しい。
「朝の散歩、あなたやってくれるんならいいわよ」
 しーん。
 
十月二十五日(水)
「クロったら猫嫌いみたい」
「そうそう」
「ちょっとでも猫を見かけると、ものすごい力で引っ張るの」
「そうそう」
「あの子散歩で二回ウンチするよ」
「そうそう」
「帰りがけになるともう一回するんだ」
「そうそう」
「行くときはぜえぜえしながらすごい力で引っ張って行くのに、帰り道になると、とぼとぼ歩くだけ」
「そうそう」
 みんな散歩するたびに新しいクロちゃんを発見する。
 会社に行くのに階段を下り、エレベーターを待っていたら、カタッと音がした。
 まさかと思って戻ってみると、きょとんとした顔でクロが踊り場に立っているではないか。閉めたはずの階段前の小さな柵が少し開いている。鼻先で開けてしまったのだ。追ってくる気持ちは分かるが、万一なにかあったら、ムクの事故死を今なお深く悼むお兄ちゃんに怒られちゃう。
 柵を大きなものに取り替え、さらに内側から開かないように工夫してみるが、なかなかうまくいかない。賢すぎる犬も困ったものだ。仕方がない、事務所まで連れて行くか。
「どうする? 一緒に会社行くか?」
 分かってんのかなあ。無邪気に尾を振って喜んでいる。
 エレベーターを二つ乗り継いで事務所に入る。個室の執務室に入れた。うれしそうにうろうろ歩き回ってから、あてがわれた毛布にうずくまった。これから毎日こうするわけにもいかないし、柵をどうにかしないと。そこで煙草を一服。
「クシュン、クシュン」
 そうか、おまえは煙草だめか。しょうがない、今日は禁煙だ。
 社員がドアのガラス窓からこちらを覗いた。中に犬がいると聞いて知っている。
「ウーッ、ワン」
 おお、吠えたよ、うい奴め。一宿一飯の恩義を感じて、番犬のまねごとしているのだ。
「よしよし、いいんだよ」
 言って聞かせるとすぐ唸り声を止め、入ってきた社員に大人しく頭を撫ぜさせた。賢いったらありゃしない。
 
十月二十六日(木)
 今日からは、だれもいないときは屋上で過ごさせることになった。鉄扉を閉めてしまえば、絶対に階段を下りられないから、お兄ちゃんも安心だ。しかし風で寒くはないか、日が当たって暑くはないか。過保護の犬馬鹿は心配でならない。
 うまい具合に、友紀ちゃんの部屋の前の隅が気に入ったようで、そこに置いた段ボールを自分のねぐらと決めたようだ。隣のビルの十一階の執務室からその様子を観察できるし、こりゃいい。雨さえ降らなければ。
 初めてムクと同じように、屋上ではしゃぎ回って遊んでくれた。心に余裕ができたのか。おいおいうち流の遊び方を覚えるだろう。
 
十月二十七日(金)
 ウンチがまだ固くならない。水状態ほどではないが、取るのに苦労する。食欲はあるし、元気だからそう心配は要らないだろうが、そのうち医者に診てもらおう。
 
十月二十八日(土)
 お母さんはお茶会、友紀ちゃんもお兄ちゃんもバイトでいない。残ったお父さんは屋上庭園の手入れ。クロちゃんはその作業を邪魔したりせず、ずーっと側で見ている。時折近付いては「あそんでよー」と体をすり寄せる。よーし、これが終わったら散歩しような。だからプランターに悪戯しないでくれよ。
 ホースで水を撒くときは尾を下げて逃げて行く。シャワーで懲りたのか、水が嫌いなのかは分からない。散歩の途中にカーウオッシャーの音が聞こえても嫌がる。だれかに水を掛けられて、いじめられたことがあるのかも知れない。永遠の謎だ。
「今日はお母さんいないから、内緒でここまで入っていいよ」
 と、靴脱ぎ場まで入れてあげる。
「ここから先は上がっちゃだめだよ」
 と、言い聞かせるが、人の言葉はそこまで理解できなかろう。でもうちの賢いクロちゃんはちゃんと、分かったような顔して、脱ぎ捨てられた靴の上に寝そべった。
 しばらくクロの視界の届かない奥の部屋にいると、コトコトっと音がした。
 行ってみると、燃えないゴミの袋からチャムの空き缶が転がり出ているではないか。クロがさりげなく去って行く尾っぽが見えた。
「あっ、これっ! だめでしょ!」
 耳を垂れて「すいません、ちょっとした出来心なんです」てな顔をしている。憎めない。でもここで甘やかしてはいけない。威厳を持って、心を鬼にして、頭をこつんとやる。
「めっ!」
 頬も打った。が、ムクの時ほど強くは打たない。いや、打てなかった。まだ完全には気心が互いに知れていないから、あまり強く叱って噛まれるのが恐かったのだ。
 
十月二十九日(日)
 隣のビルの上に住むおばあちゃんと、お父さん、そしてお母さんの三人で昭和記念公園に、クロちゃんと初めてのドライブ。
 水筒もドライフードも持った。もちろんウンチ用にたっぷり紙とスーパーの袋も用意した。
 渋滞や道に迷って時間が掛かったので、車の中ではちょっとうんざりしたようだったが、公園での散歩は大満足だったようだ。毎日こんな散歩をしてもらえると思われると、こちらもちょっと辛いところがある。でも、ここのところずっと雨らしい雨も降らずにいい天気なので、クロちゃんもご機嫌。
 大きい犬によく吠えるのだが(主人に格好いいとこ見せようと思ってか)、さすがに公園で遭ったピレネー犬は余りにも大きかったのか、ちらっと見て見ぬふりをして通り過ぎた。
 記念撮影をと、お父さんが抱っこした。逆光なのでストロボを使った。お母さんが失敗してもう一度。また抱っこしようとしたら嫌がって、お父さんの手を噛もうとした。驚いたが叱りはしなかった。叱った方がよかったのかどうか分からない。が、噛まれるのも恐かったからそのままなだめて抱っこした。
 多分ストロボが恐かったのだろう。ムクもカメラを向けると逃げることがあったから。
 大勢の人の中でどうなるか心配だったが、若い女の子に「わーかーわいいー」とか言われて囲まれると、お腹を見せたりして結構お愛想振りまいてた。そのくせ、中年のおばはんたちがぎゃあぎゃあ騒ぎながら近付くと「こっちに来るな」とばかりに吠える。なんとギャル好きとは。飼い主にもう似たか。
 
十月三十日(月)
 あまりクロが散歩のとき引っ張るので、お母さんが右腕と肩が痛いと嘆いている。
「しつけ次第で、主人より前に出ないようにさせられるらしいわよ。うちもそうしようかしら」
「できるだろうけど、クロは我々と一緒にぶらぶら歩いてるだけじゃ運動にならないから、いいよ」
「そうねえ。じゃあ、朝の散歩、たまにはあなた行ってよ」
「えーっ」
 仕方ない、前に出ないしつけをちょっとしてみようか。
 しかしこっちの気も知らずに、今日もぜえぜえ言いながらぐんぐん引っ張って歩くクロだった。
 黒い犬は怖そうに見えるから、よその人が不用意に近づかなくていい。そう思っていたのに、なぜか若い女の子が「かーわいい」と頭を撫でに寄ってくる。ムクは臆病で人を噛むことがあったから、気が気じゃない。
「なんて名前ですかー?」
「クロです」
「なに犬?」
「純粋な雑種です」
「ふふ。いくつ?」
「推定三歳。はっきり分からないんです。これ、阪神大震災の被災犬なんです」(ここでちょっぴり鼻がうごめく)
「あらあ、可哀想に、苦労してるのねえ」
「だからクローなんです」
「ふふふ」
 被災犬の里親になり、ボランティアのまねごとをしているという気になって、ちょっと鼻が高い。
 一つの命でも助けたい、という気持ちがあったのは本当。でもホントのホントの気持ちは、どんな犬でも飼いたかった。それだけ。それがドーカンの子や被災犬なら、犬助けもできて一石二鳥だっただけ。ごめんねクロ。偽善者で。
 
十月三十一日(火)
 きのうからご飯に混ぜて飲ませている下痢止めが効いてきたようだ。ウンチがふんわりした形になった。そんなに食べさせてはいないのに、ウンチはしっかり朝夕二つはする。
 くるくる回り出したときに新聞紙をお尻の下に置くと、ちょうどその上に乗って始末が楽だということを、お母さんが発見。以後、我が家の新聞紙はスーパーの袋とセットになって、クロの段ボールのそばに置かれるようになった。
 友紀ちゃんに買ってきてもらった蚤取り首輪をつける。一層飼い犬らしくなったぞ。

十一月一日(水)
 やたら足で首の回りを掻いたり、体を人工芝にこすりつけたりする。体が痒いようだから、また蚤取りシャンプーだ。見たところ蚤はいないようなんだけど。
「さあ、おいで。おいでったら。おーい、ゆみこー、クロを風呂場へ持ってきてくれー。」
「こないのよ。」
「抱いて持ってくればいいじゃないか、早くしろよ、寒いよ。」
「噛まれるんじゃないかって…恐いんだもの…友紀ちゃんにやってもらおう。友紀ちゃーん!」
 まあ、風呂場に入れるだけで大騒ぎ。それでも風呂場に来てしまえば大人しく体を洗わせる。
 あっ、やめろっ、やめてくれ、シャンプー流す前にぶるぶるって振るのは! あーあ、お父さんの頭まで蚤取りシャンプー掛かっちゃったじゃないか。しょうがない、おれも頭洗うか。
 排水口に引っ掛かったクロの毛より、自分の髪の毛の方が多いのが悲しかった。
 洗ったら黒い体毛にきれいな艶も出た。これであさって来る信夫さんにも恥ずかしくないぞ。あっいけねえ、保健所の登録まだだった。

十一月二日(木)
 三田の獣医さんに予約を取って、まずは狂犬病の注射。
「そこに名前と、あ、そこの名前は飼い主さんの。あ、年令はワンちゃんの。」
「実はかくかくしかじかで、年令が…」
「ああそうですか。私も当時しばらくあっちに行ってたんですよ。最初は避難所でも一緒に飼えたんですが、そのうち苦情が出てねえ。いろいろ大変でした。歯を見るとまだ若いな。三歳ぐらいかな」
「体が痒いみたいなんですが…」
「シャンプーは二、三倍に薄めて使ってください。脂分取り過ぎてフケが出たりしますから、人間用はだめですよ」
(てへ! 最初の日、ヘアーシャンプーとボディーシャンプーでやっちゃったんだもんね。黙ってようっと。)
「ウンチが軟らかくて…」
「下痢は難しいんですよ。いろんなことが考えられるんでねえ。牛乳は飲ませてませんよね?」
「あ、はい」(ありゃりゃ! 飲ませちゃった)
「まずは検便しましょう。寄生虫に起因することが多いですから。いつでもいいですからこれに入れて持ってきてください」
 クロは賢い。先生の言うことちゃんと聞いてたんだ。その足で保健所に鑑札を受けに行くと、途中でちゃんとウンチ。それを持ってすぐまた獣医さんへ。
 結果はすぐ午後電話であった。
「きれいでした。」
 やったね。
 さあ、あとは明日お客さんが来るからお部屋の掃除と。c

十一月三日(金)
 月刊誌「SINRA」が犬特集をやることになって、信夫さんの記事にクロも載るんだそうだ。これでクロも一躍有名犬の仲間入りだぞ! 飼い主はどうかな?
 お世話になった信夫さんが十時半にお見えになる。来訪客の出迎え方として、一応形だけ「うーっ」と一回。その後はべたべた。写真家の須田さんも到着。これがどういうわけか、またべたべた。
 屋上庭園でフィルム二本撮りまくられたが、ストロボにもさほど異常反応は示さず。
 部屋で信夫さんに取材を受けるが、むしろこちらが捨て犬の状況をお聞きすることの方が多かった。
 保護動物の処分状況を、マスコミが取り上げにくいのは、部落問題に絡むからだというお話は衝撃的だった。倫理的に一番遅れているのは人間という動物ではないか。
 帽子を被った作業服姿の男の人、さらに棒らしき物を持っている人、こういう人には異常な反応を示す。シャワーなどの水が撒かれる音にも異常に恐がる。これらはみんなドーカンでの二週間の生活体験からであろうことが、信夫さんからお話を聞いて合点した。
 辛い過去をきっと忘れさせてあげるからな。うんと甘えていいぞ。
 いつもなら夕方までうつらうつらしているのに、今日は朝から取材を受け、午後も花の苗の整理をしているお父さんにべったり付き添っていたから、夜の散歩の後は、もう眠いのなんの。部屋から出てくる家族にも、寝床の段ボール箱からちらっと上目遣いに見るだけ。いつもなら、のびのびーをするのに。

十一月五日(日)
 早朝五時十五分、台湾からのお客さん、楊君を帝国ホテルでピックアップ。日本の秋を見せようという計画。
 その前にちょっとシーバンスまでお散歩。これから長旅になるのを察しているのか、すぐにウンチ。
 河口湖、山中湖、忍野、十国峠を経て伊豆高原の別荘へ。初対面の楊君に特別警戒心もなく、快調なドライブ。
 河口湖湖畔で放し飼いの柴系チビデブ牝犬に遭遇。初めは興味ありそうなそぶりをしながら、向こうがその気になって、そばに寄ってくると「うーっ(あっちへ行けブス!)」。そりゃないだろうお前。失礼じゃないか。
 別荘では玄関に段ボールを設営。
 二十センチほどの蹴上げでも、一度「だめ」と言われたら絶対上がってこない。お父さんが風呂に入っているとき、配管がどどどと振れ動いたときだけ、地震と思ってか、びっくりして前足を蹴上げに乗せたが、お母さんと目が合って、すぐ下ろしたのだからうちのクロちゃんは偉い。
 城ヶ崎海岸のお散歩では、野良猫ハンターごっこ三昧。吊橋は揺れが恐くてほふく前進。途中五匹ほど繋がれた犬たちに一斉に吠えられたときは、相手が悪いと見て完全黙殺。色々ありました。
 食事やカラオケのときは、二時間近くじっと車の中でおねんね。疲れもあったか。

十一月六日(月)
 五時半前の早立ちだったが、都内のラッシュに巻き込まれ、八時過ぎに芝浦到着。遅い朝食が済んだら、いつものように屋上でひなたぼっこ。

十一月十日(金)
 午後六時出発。初めての夜のドライブ。伊豆行き以後、「この子は車が好きなのよ」と勝手に推断したお母さんに、これからもお供することになるのだった。
 双葉パーキングエリアで休憩。カーブの多い坂道にも、ムクほど不快感も示さず、蓼科のりんどうの郷に十時に到着。
 例によって玄関に段ボールベッドを設営。ここでも五センチほどの蹴上げに乗ろうとして、一度「だめ」と言われたらそれっきり一歩も上がろうともしない。「過保護よ」と言われながら、電気ストーブをそばに置いてあげた。
 着いてすぐちょこっと別荘内の道を散歩。野良猫ハンターごっこのつもりで草むらに鼻を突っ込んだと思ったら、道まで後ずさりして「うーごろごろ」と狼みたいな唸り声を上げた。どうもいつもの猫とは違う、変な奴がいる、こいつは気をつけなきゃ、とでも思ったか。狸かテンだったろう。クロは相手を見てけんかするのだ。賢いのだ。

十一月十一日(土)
 夜半の雨も上がり、いい天気。例年より早い初雪がところどころ残っている。
 お母さんがテディベア博物館を見ている間、クロはお父さんと白樺湖一周一時間の散歩。大きな犬が八頭ほど繋がれたところで一斉に吠え立てられるが、クンともワンとも言わない。多勢に無勢のときは相手にしないのだ。
 お父さんもウンチしたくなって、テディベア館の横に繋いでおいたが、伏せをして待っててくれた。待ち合わせ時間を守らないお母さんよりずっとお利口さんなのだ。
 グランシェスキー場の野原で、恐る恐る、初めてリードを外して自由に歩かせてみた。どっかへ飛んで行っちゃうかと思ったが(そのときはクロ自身の責任だと言い訳をしながら)、予想に反して草むらに鼻を突っ込んでうろうろするだけ。モグラの穴が気になるらしい。あっちの穴こっちの穴と、「ふむむむむ」とか言いながら足で穴を掘ったり、鼻を突っ込んだり。モグラに鼻を噛まれやしないか心配。「こっちへおいで」と言って歩き始めると、ちゃんと後を追って歩いてくる。
 ムクだったら、喜びのあまり斜面を駆け登ったり、見えないところまで吹っ飛んで行ってしまうのだが、クロはうれしそうではあるが、はしゃぎ回ることはしない。こっちが引き返せばまたちゃんと一緒に戻る。どうもリードなしで歩くのに慣れているようだ。
 最近食欲旺盛になったクロのために、安いドッグフードを求めて長戸町まで下る。途中、「不動岩」の標識がある。以前からお母さんは気になって行こうと思っていたので、立ち寄ってみることにした。
 結構山の奥に入るのだが、クロには絶好の散歩道。ここでもリードを外してやる。
 先になったり後になったりして一緒に歩く。「どこの山でも連れて行けるわねえ」とお母さんはもう次の計画に余念がない。
 一キロほど歩いて滝壷に。その水を舐めてから、枯れ葉が積もった上をはしゃぎ回った。
 道を車を置いたところまで引き返す。どんどん見えなくなるまで先に行ってしまうが、「くろー」と呼ぶと吹っ飛んで戻ってくる。車のところでどうするか隠れて見ていると、ちょっと先まで行ったが、ちゃんとその辺りでうろうろして待っている。どうしてまあお利口さんなんでしょう。
 お父さんとお母さんが買い物やカラオケしている間は、ちゃーんと車の中でおねんね。
 友紀ちゃんが「クロを独り占めしないでよ」と、別荘に電話してきた。

十一月十二日
 夜以外は板張りで囲まれたベランダにクロは置かれた。水抜き作業で、その外を、お父さんが落ち葉を踏み締めながら、がさがさっと歩いた。クロがどういう反応を示すか興味もあった。匂いで分かるか、音に対して不安を覚えるか。
 板張りの隙間から見えるはずなのに、離れたところから「うーごろごろ」と唸り声を発したのだ。ちょっとした匂いでもすぐくしゅんくしゅんするから、鼻は犬一倍敏感で、聴力は少し鈍いかと思っていたのに、意外だった。
「クロ」と呼ぶと、「あれー?」てな顔をしてから、「いやぁ、まいったなあ」と照れくさそうに尾っぽをちょこまか振りながら近づいてきた。
 渋滞が気になるが、天気がいいので草笛ランドの別荘用地に立ち寄った。ここに用地はあるが小屋を建てる計画は(資金の都合で)当分ない。
 ここでもリードを外してあげたが、遠くへ勝手に行かないで、その辺を散策。モグラや鳥が潜んでいるので鼻を突っ込むが、道路から勝手に他人の用地の草むらに入り込むこともしない。どこまでも人間らしい振るまい。人間の幼児よりずっと常識をわきまえているのだ。
 夕刻、ダイエー八潮でまたドッグフードの買い出し。二階のキシフォートが一缶六八円で長野のDIY店並み。安いドッグフード探しの楽しみが増えた。
 夜は「クロちゃん」とだれが呼ぼうが頭を撫でようが、そっぽを向いて知らん顔で寝た振り。冷めた子である。

十一月十三日(月 )
 お母さんが新しい発見。
 骨の形をした食べられるおもちゃに全く興味を示さなかったのに、今朝ひょいとそれを投げたら、咥えて屋上の隅(クロが来る前に遊び場兼簡易トイレとして土を五センチほど敷いてあった)に行って、鼻で穴を掘るとそれを埋め隠したのだ。
 野外での経験から本能が呼び起こされたか。
 埋めた骨を昼に掘り出して、また放り投げたが、もう見向きもしない。「折角隠したのにー」とふてくされたのだろうか。不可解な犬だ。
 これから、なにをして見せてくれるのだろうか。


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