11.組合役職員

(1)役 員

 昭和50年2月15日、中込商店街協同組合を設立したときの役員数は、理事12名、監事2名の14名であったが、その後近代化事業の進展に併せて増減され、最高時の理事の数は18名にまでなった。
 また、役員の任期は定款の定めるところにより2年となっているが、組合設立当初の役員の任期だけは1年であった。この中で最も重責を担ったのは初代理事長の市川邦男氏であった。市川氏は、組合設立当初から近代化事業が完成するまでの5期9年間理事長の要職を務めた。
 このほか市川氏は、昭和44年中込商店会会長の当時「中込商店街建設委員会」を組織し、自らその会長になり、率先して街づくりについての調査・研究など続始指導的役割を担ってきた。従って、市川氏は、通算15年にも及ぶ長い間、街づくりに情熱を傾けられた方で、まさに近代化事業生みの親であったと言っても過言でない。
 市川理事長のあとは、上原正男氏が理事長に就任した。上原氏は、近代化事業完成後の活性化対策に取り組む一方、商店街組織一本化という難しい仕事を手掛け、これを実現させ平成元年5月から中沢邦次郎氏にバトンを譲った。
 組合設立当初から今日まで(平1・3・31)役員として連続14年間組合のために尽力された方々は、市川氏のほか、上原正男氏、中沢邦次郎氏、小清水明司氏、大塚今朝雄氏の5人に及んでいる。このほか、昭和63年9月24日に行なわれた完工祝賀式典の席上で、10年以上組合の役職員として務めたことにより感謝状が贈られた方々は前記5人のほかに、小林七郎氏、神津光俊氏、高橋令雄氏、と専務の私、事務局長の本間徳衛氏、事務職員の飯田小夜子さんの合計11人であった。


(2)理事会

 役員の中で最も大変であったのは理事であった。計画策定から事業執行に至るまで、一切の業務は組合総会の議決という段階はあるものの、すべて理事会で審議しこれを決定し実行に移さなければならなかった。近代化事業が完成するまでは、理事会は定例的に毎月2回開催されたし、このほかに委員会の会議もあった。ほとんどの場合、午後1時半からで5時過ぎまでかかった。
 理事といっても大半の人達は、店の経営者であって、自分が働かなければ商売が成り立たないという立場の人であった。毎月2、3日は、大事な時間を潰さなければならない。そのうえ理事はブロックの代表という立場上から、地元ブロックの考え方や組合員の意見などをまとめ、責任も負わなければならなかった。何の役得もなく、報酬や手当がある訳ではない。まったく奉仕的な役職であった。それでも自分のブロックまたは、自分の店が近代化に取り組んでいる時は“自分達のブロックだ”“自分達の街だ”という意識も強かったため、比較的人選も楽であった。しかし、それが終わってしまうと、どうしても敬遠されがちであった。
 いずれにせよ定刻に会議が始まるというようなことはまずない。10分や20分の遅れは普通。また、全員揃うという会議もほとんどなく、出席者が最後まで残っている、という会議は珍しいくらいであった。
 理事会への出席率を高めるために、いろいろな申し合せもしたし方策も取った。「無断欠席の場合は、罰金を取る」「理事の出席状況を組合ニュースで公表する」など。しかし、結果はいずれも期待した効果はなかった。考えて見れば無理もないことだった。何とかヤリクリはしても、店を閉めてまで出席する訳にもゆかず、結局そのシワ寄せは家族の所へ行ってしまう。
 当然奥さん方からは「何んでウチの主人だけがこんな苦労を・・・」という不平、不満の声が出てくる。そんなことから、当時は理事の奥さん方にも集まって貰い、近代化事業の説明をして協力をお願いする一方、日頃の労苦に報いるため慰労の宴を開いたりもした。
 店舗の近代化事業が終わった頃からは、月2回の理事会を1回にしたが、理事会の責任と重さについては少しも変わりはなかった。「全国的にも稀に見るような立派な街づくりだ」と高く評価されているこの商店街近代化事業も元をただせば、すべての事が理事会の決定に基いて行なわれてきたのである。直接事業に係わることはもちろんのこと、賦課金などの財務に関すること、歩行者専用道路の施設や駐車場などの共同事業に関すること、販促イベントに関することなどのほか、福利厚生、渉外、陳情に至るまであらゆることが審議され実行に移されてきた。今日(平1・3・31)までの間に理事に就任した方々は総数で45名、監事は8名になるが果たした役割は大きい。


(3)委員会

 組合では、理事長の諮問機関として当初は、次の5つの委員会を設置した。(137ページ参照)
 総務委員会・調整委員会・経営委員会・施設委員会・融資委員会
 委員会の任務は理事長の諮問に応じて、その部門に関する事項について審議し、その結果を答申するというものである。5つの委員会のうち、融資委員会は実際の委員会活動をしないまま昭和53年度には廃止された。
 その理由は、融資相談や資金調達については、高度化資金の借入業務を含めて、当時、区画整理事務所へ出向していた市役所商工観光課の職員と組合事務局の手で処理ができていた。また、資金貸付(転貸業務)については、「貸付金が回収できなかったときどうするのか」あるいは「貸付業務を行なう場合は、法的にも厳しい規制があるうえ、不正につながる恐れもある」などのことから、これらは行なわないことになったためである。
 また調整委員会はもっぱら権利調整(前述)の任に当たってきたが、昭和56年度をもって各個店の店舗近代化事業が終わったことからその時点で廃止となった。従って、平成元年度現在の委員会は、総務、経営(後に催事委員会に名称変更)、施設の3委員会になっている。
 委員会は、理事と各ブロックから選出された委員で構成し、いずれの委員会も当初は21名ずつであったが、その後は13〜15名になっている。
 なお、理事長を除く全理事は、いずれかの委員会に所属し、正副委員長は理事の中から選出することになっている。
 委員会活動では、各委員会とも事業の進展状況によって強弱はあったものの、それぞれ所管事項について理事会の補助機関的な役割を果たしてきた。


(4)事務局職員

 組合設立以前の中込商店街建設委員会当時の事務は、中込商店会事務局を担当していた植松利治氏(権現堂在住)に手伝って貰っていた。
 しかし、三重県桑名市の駅前再開発事業を視察したときの課長の言葉を分析、論議する中で「専任による強力な事務局体制をつくれば、この難局は乗り切れる」という判断のもとに、適任者を人選することになった。
 まず組合設立のための事務処理から始まって、高度化資金借入れのための手続きや診断事務など事務に精通している者。次に実際に事業を執行するに当たって相応の指導力のある者、さらに事業の性格上、行政関係機関とつながりのある者、等々、条件は厳しかった。
 これらの条件に合った人物として選ばれたのが本間徳衛氏(前山在住)であった。本間氏は、昭和48年4月佐久市の消防署長を最後に定年退職し、当時は民間企業に勤めていた。その彼を昭和49年12月に事務局長として迎え、直ちに組合設立準備と高度化資金借入れのための事務に取り組んで貰った。本間氏は、さすが事務のベテランであった。就職後わずか2ヶ月ほどで組合設立のための一切の手続きを終え、翌50年2月15日には総会を開き、中込商店街協同組合の設立に漕ぎつけた。組合設立後は、もっぱら前年度方式よる高度化資金借入れのための実施計画書の作成事務に追われる一方、事業計画策定など本間局長は残業をしない日はなかった程である。 このためさらに事務局体制を強化するため、51年4月には飯田小夜子さんを、52年7月には私を含め、時に応じて臨時職員を採用した。
 私は、専務として主に渉外関係や権利調整に当たるほか、事務局全般について統括することになった。私は、本間事務局長と同じく昭和48年4月に佐久市役所の総務部長を最後に定年退職したあと、佐久市土地開発公社の常務理事を4年間勤めていた。私は総務部長当時から、地元ということで中込商店街建設委員会のメンバーとして近代化計画に参画していた。土地開発公社の常務になってからは、区画整理事業の減歩率軽減のための用地買収についてもその掌にあたっていた。これにより、私、本間事務局長、飯田事務職員という体制ができ上がり、これを軸に近代化事業が堆し進められることになった。
 事務局は、組合総会や理事会の議に従って、組合運営全般から事業執行に至るまですべての業務を処理するところである。
 組合の機構上からは、組合の最高議決機関は総会であり、理事会は執行機関である。しかし、理事はすべて1国1城の主であり、自ら陣頭に立って商売をしなければならない人達であるため、組合運営や事業執行は、どうしても事務局主導の形で進めざるを得なかった。
 それだけに事務局の責任は重かったし、苦労も多かった。
 また、組合事務局は中込商店会からの委託を受けて、商店会の事務や事業も担当することになっていた。組合設立当時は、組合の臨時職員が兼務の形で商店会開係の仕事をしていたが、その職員が辞めてからは飯田さんが、組合事務の傍ら担当することになった。
 商店会の仕事は、会費の徴収や会計薄の整理などのほかは、同会主催による販促イベントの計画・実施が主なものであった。特に販促イベントについては、協同組合で行なうものは組合構成員が近代化区域内だけであったために、その回数、規模、内容とも限定されていた。従って全町的なイベントは、ほとんどが商店会が主催して行なうという形であった。(経費については協同組合も相当分負担)
 飯田さんは、商店会のイベントのほか、協同組合主催の販促イベント、また毎年8月15日に行なわれる野沢・中込両町による千曲川納涼花火大会の事務局も担当していたのでその忙しさは大変なものである。
 組合または商店会が行なう大きなイベントは年に6回ほどあるが、いずれも2ヶ月ぐらい前から準備に取り掛かるので、1年中イベントに追い廻されているというのが実状であった。
 イベントは事務と違って、机の上だけで処理できる仕事ではない。対外的な折衝もあれば、大勢の催事担当役員を動員して、会議を開いたり、作品づくりもしなければならない。そんな裏方の仕事を女手一人で切り盛りしながら、本番ともなれば自ら先立ちでコマネズミのように飛び回り全体のまとめ役を果たしてきた。口も八丁、手も八丁、今では組合にはなくてはならない1人になっている。
 昭和61年9月に本間局長が退職してからは、私と飯田さん2人だけの事務局になり現在に至っている。


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