4.農業倉庫移転と公会堂の新築
中込農協の農業倉庫移転と公会堂の移転新築とは、一見商店街近代化事業との係わりはないように見えるかも知れないが、実は大きな役割を持っていたのである。
当時の農業倉庫は、現在の橋場公会堂と第2駐車場(公会堂の周り)のところに位置していた。約1,988m2(601坪)の敷地に、鉄筋コンクリート2階建と木造平屋建の倉庫2棟(米俵約1万5千俵保管)、農協橋場支所、選果場、精米所、住宅(1部店舗)が各1棟ずつがあり、換地後面積は1,720m2=(520坪)であった。(43街区全部)
2階建コンクリート倉庫
平屋建木造倉庫
選果場及び橋場支所
一方、中込公会堂(佐久市所有)は、現在の工藤旅館や源氏車のあるブロック(27街区)から成田公園の一部にまたがる約3,180m2(961坪)の千曲川堤防に添った敷地の中にあり、構造は木造2階建1棟(639m2=193坪)と平屋建の付属建物であった。
取り壊し前の中込公会堂
敷地は、佐久市所有分が2,590m2(783坪)、中山富太郎氏分(佐久市が借地)が590m2(178坪)で、両者の境界に川が流れていた。また、この敷地内には、佐久警察南部派出所の警察官の官舎も建てられていた。当時この公会堂には佐久商工会議所のほか、青年会議所及び中込商店会、中込商店街協同組合の事務所が入っていたため、一般住民の利用度はある程度制約されていた。
この公会堂が区画整理事業によって換地された位置は、現在の中沢家具センターの真横、相生町道路から30mほど中へ入ったところで、面積は佐久市分が429m2(129坪)中山富太郎氏分が536m2(162坪)合計965m2(291坪)であった。
さて、中込農協の農業倉庫のあった位置は、(マップでは現在の公会堂・第2駐車場の位置) 45ページを見れば分かるとおり、Cブロック、グリーンモールの真正面に位置していた。 そこで、商店街近代化事業の一番最初の発想では、ここへ農協資本により建物を建てて貰い、1階をバスターミナル、2階以上に核店舗を入れ、ここを拠点として中込駅との間の回遊性を図る、という計画であった。
コンサルタントを含め商店街協同組合の役員が、農協(当時は植松正徳組合長)と折衝に入った。しかし、この構想は前述のとおり実現を見るに至らなかった。
このまま農業倉庫が残るとなれば、これは大変なことになる.グリーンモールは整備されて立派な商店街に生まれ変わっても、正面の突き当たりが、夜になると真っ暗な倉庫では、折角の近代化も台無しになってしまう。何とかしなければ・・・。という考えは、商店街のみんなにあった。
そこで浮かび上がってきたのが、公会堂の移転新築という考え方であった。それは、「農業倉庫を全部取り壊して貰って、その跡地へ公会堂を持って来よう」という発想だった。「そんなことは無謀に近い発想だ」と言われたこともしばしばであった。 第一、公会堂となれば商店街の考え方だけで決められる問題ではなく、橋場区民全体の理解がなければできない。農協倉庫の移転にしても、何百人という農協組合員の理解を得なければできない仕事である。しかも、いずれも莫大な費用がかかる仕事でもある。難問は山積していた。
まず、公会堂移転問題については橋場5区の区長に理解と協力を求めた。昭和55年7月に、各区長が中心になって、中込地区内各種団体(16団体)を網羅した「中込公会堂移転新築期成同盟会」(会長は橋場地区区長会長の大工原周治氏)を設立した。事務局は商店街協同組合が担当した。
当時の区画整理事業では、公会堂は換地した場所へ曳き移転する。そのうえで市は1,600万円ほどかけて内部改造や補修をするということであった。これに対し、期成同盟会は、
(1)公会堂(集会施設)というものは、住民が最も利用しやすい位置にあるべきである。しかし、換地された位置は街の西北端であり、しかも道路から30mも奥に入った所で、まことに不適当な場所である。
(2)建物は既に60年以上も経っており、老朽化も甚だしく少し位の改修や補修では間に合わない。(一部雨漏りしている所があった)
(3)建物の構造上、思い切った改造ができないため利用度が制限されてしまう。
などの理由をもって、橋場地区100年の大計に基き、「より理想的な位置に、より近代的にして、より利用度の高い公会堂を市費で建てて欲しい」と陳情書を市長と市議会に提出した。その結果、市では議会の議決を経て、次のような方策を打ち出してくれた。−−他地区の公共施設との均衡上、市費で建設することはできない。しかし、中込公会堂が今日まで果たしてきた社会的な貢献度あるいは、地域住民の物心両面にわたる寄りどころとしての感情、等々の特殊事情を考慮して次のように措置する−−
1.現公会堂の建物は、無償で期成同盟会に払下げる。
2.特別補助金として1,650万円を補助する。 ただし、この予算執行は期成同盟会が具体的な建設計画を市に提出し、 これを市議会全員協議会が了承するまで保留する。
3.佐久市公共施設事業補助金交付要項による補助金は交付しない。
4.敷地について
イ)市有地(換地後面鏡429m2≒129坪)は、不動産盤定士の鑑定価格をもって期成同盟会に譲渡する。
ロ)市借用地(地主 中山富太郎氏)については、市は地主に返還するが、期成同盟会が引き続き借地できるよう地主に依頼する。これは、即、移転新築を意味するもので、その移転先は農業倉庫のある中込農協所有地を想定していた。 しかし、これには前提として橋場地区住民の理解と協力、さらには中込農協との折衝という大きな問題が横たわっていた。
まず、橋場区民の理解と協力を得るために、趣意書を全戸に配布して趣旨の徹底を図るとともに、区長が中心になってそれぞれの区ごとに区民総会を開き説明会を持った。その結果、一部の区から反対運動が起きてしまった。反対の主な理由は、「今まで公会堂があったことによって、多くの恩恵を受けてきた料飲店街がサビれてしまう」ということのほか、「この計画は、ある特定の人の利益のための仕事だ」という根も葉もない噂が流されたことも原因の一つであった。しかし、大方の区民の賛成が得られたことから、55年11月21日に公会堂取り壊しのための修祓式(おはらい)を行ない同30日取り壊しは完了した。この公会堂取り壊しについても反対があった。移転新築について区民はまだ認めていない。移転先も決定しないうちに取り壊ししてしまい、もし、中込農協との話しがまとまらなかったらどうするのか。その時は、指導者はどう責任を取るのか、などさまざまな抵抗があった。
反対運動の反面、区画整理事業によって公会堂の跡地へ換地された人達からは一日も早く取り壊して欲しいという強い要望もあった。結局、取り壊してしまったということが一つの契機となり、移転新築という気運は急速に高まることになった。
(次ページへつづく)