(倉庫移転と公会堂2)

 一方、中込農協との折衝であるが、商店街協同組合としては早くから接触を持ち、話し合いを続けてきた。農協でも、この土地の有効利用ということについては当然考えていたが、何分にも全部の建物を取り壊して移転するということについては莫大な費用がかかることと、農協組合員の了解を得なければならない、という大きな問題を抱えていた。

 なお、この過程で商店街協同組合としては、公会堂建設用地のほか、余った土地は商店街の駐車場用地として貸して欲しい、ということも併せてお願いしていた。
 当時、区画整理事業による建物に対する補償関係は、鉄骨コンクリート造りの倉庫1棟は曳き移転、他の倉庫1棟と選果場及び付属建物は解体ということであった。
 そこで、期成同盟会では、昭和56年8月農協(当時の組合長・小林五郎氏)に対し陳情書を提出した。

陳情書の要旨は
1)曳移転によって残されることになっている倉庫は取り壊して欲しい。
2)跡地の一部を公会堂建設用地として貸して欲しい。
3)残余の土地は、橋場地域発展のために寄与できるよう高度に利用して欲しい。(駐車場用地)
という3点であった。

 陳情書を提出してからの農協との折衝は激しくなった。特に事務局同士(農協・松井喬参事、期成同盟会・私)による交渉は10数回にも及び細部にわたっての話し合いが行なわれた。もちろん、この両者の話し合いの結果は、それぞれの役員会又は理事会に報告され、審議され対応策が検討されていった。
 昭和57年2月からは、農協役員、期成同盟会正副会長、各区長及び商店街協同組合の代表が一同に会し、協議することになった。(連絡協議会と呼称)この会議は公会堂建物請負入札までの6ケ月間に8回開かれ、ほとんどが夜、中込農協の本所で行なわれ、基本的な事項はすべてこの会議によって決められていった。

 その最終的な合意事項は
1)農業倉庫及び付属建物は、これを全部取り壊して更地にする.農協は、これらに替わる建物を新しい用地(現中込小学校北側)に建設する。
2)倉庫跡地のうち595m2(180坪)は、橋場公会堂用地として橋場地区へ貸与する。(ただし、賃貸借契約の当事者は、中込商店街協同組合とする。・・・契約書に橋場地区各区長が連署する)
3)公会堂借地権料として、期成同盟会は1,450万円を農協に支払う。
4)期成同盟会は、倉庫等の移転協力費として、1,500万円を農協に支払う。
5)農協橋場支所の建物は、橋場公会堂建物と共同建築する。
6)農協は、公会堂建物の中に多目的ホール(現農協ホール)をつくり、これを一般の利用に供する。ただし、維持管理は農協が行なう。(現在は、橋場公会堂運営委員会が行なっている)
7)公会堂敷地以外の土地(1,125m2≒340坪)は、駐車場用地とする。 (経営主体は今後協議して決める。・・・現在は中込商店街協同組合が借地して経営している)
 等々であった。

 この間、期成同盟会では委員会制を執り、役員全員をいずれかの委員会に所属させそれぞれの事項について専門的に取り組むことになった。
 総務委員会(委員長 黒沢勉第2区区長)->庶務全般及び契約事項について。建設委員会(委員長 石山盛夫東区区長)->公会堂の建物設計及び工事関係について.資金委員会(委員長 林茂只第5区区長)->寄付金に関する事。などを担当し、審議の頼果はその都度理事会に報告され、ひとつ一つが決められていった。 また、これらの仕事のほかに、市有地あるいは措地土地の買取り、この土地の売却、商工会議所立退料の交渉など関連の折衝や事務処理も並行して行なわれていったが、いずれも簡単に決まりがつけられる問題ではなかった。
 市有地と借地土地の買取り、売却については、期成同盟会が直接行なうことは、いろいろ疑念を持たれる原因になることと、多額な金額を動かすことによる金策などの関係もあり、佐久市土地開発公社に仲に入って貰って処理した。
 しかし、これに関しても批判はあった.「安く買って高く売る」(不動産鑑定士の鑑定価格で買って時価で売る)ということについては「土地ころがしだ」とまで言われたが、なるベく住民負担を軽減し、より立派な公会堂を建てるためには、やむを得ない苦肉の策であったのである。

 また、旧公会堂に入っていた佐久商工会議所の移転問題についてもいろいろな経過があった。
 佐久商工会議所は、佐久市発足後昭和45年4月に設立されたのであるが、事務所は会議所発足前の42年から中込公会堂の中に設置されていた。当時、この事務所の設置場所については岩村田や野沢地区から異論があり、調整の結果、将来は市の中心部へ会議所会館を新設する、ということで了解されていたと聞いている。 従って、中込で区画整理車業が行なわれることに決まったのを契機に、移転・新築の話しが持ち上がり、その気運は急速に高まっていった。
 これに対し、橋場としては、確かに公会堂の使用に一部不便はあったものの、事務所があることによる恩恵も決して少なくなかったことから、会議所移転について反対の意志表示をし存置運動を展開することになった。
 昭和53年に古屋猛氏を会長に中込地区の会議所会員による「商工会議所存置対策委員会」を設置した。委員会は粘り強く、会頭や役員あるいは会議所議員などに根廻しや説得に当たったが、結局大勢には抗し切れなかった。
 そこで、存置運動は諦め「立退料要求」に切り換え折衝に入った。その頃たまたま商店街協同組合の市川理事長が会議所の副会頭であったことも幸いして、立退料は最終段階で1,200万円と決まった。
 しかし、これは「立退料」という意味ではなく「会議所設置以来約20年間、橋場地域には大変お世話になったので、このたびの公会堂建設資金の一部として寄付する」というものであった。
 この対策委員会は、目的が達っせられたことから昭和57年6月19日をもって解散した。

(次ページへつづく)


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