モンスーン


モンスーン

アジア大陸とインド洋との特殊な関係から、太陽が赤道を北に超えてよりまた南に超えるまでの夏の半年は、南西モンスーンが陸に向ってふき、冬の半年は北東モンスーンが海に向ってふく。

モンスーンは季節風である。が、特に夏の季節風であり、熱帯の太陽から陸にふく風である。だからモンスーン域の風土は暑熱と湿気との結合をその特性とする。

モンスーンにおける「湿潤」

私たちは、モンスーンの湿気を「湿潤」自身から理解する事ができる。湿気はもっとも耐え難く、またもっとも防ぎ難いものである。にもかかわらず、湿気は人間のうちに「自然への対抗」を呼び覚まさない。その理由の一つは、陸に住む人間にとって、湿潤が自然の恵みを意味するからである。が、理由の第二は、湿潤が自然の暴威をも意味する事である。それは人間をして対抗を断念させるほどに巨大な力であり、したがって人間をただ忍従的にするのである。

砂漠の乾燥は死の脅威をもって人間に迫るとしても、人間を生かすその力によって人間に襲いかかるのではない。人間は己の生の力によって死の脅威に対抗し得る。忍従はそこでは死への忍従である。よって湿潤なる自然の暴威は横溢せる力(生を恵む力)の脅威であって、自然の側に存する「死」の脅威ではない。忍従はここでは生への忍従である。この意味においてもそれは砂漠の乾燥の相反にほかならない。

かくて、我々は一般にモンスーン域の人間の構造を受容的・忍従的として把握する事ができる。この構造を示すものが「湿潤」である。よって、南洋的人間がどうして文化的発展を示さなかったかを理解し得るのである。南洋の風土は人間に対して豊かに食物を恵む。人間は単純に自然に抱かれておればいいのである。しかも人と自然との関係は、あらゆる移りゆきを含まないものである。人間はその受容的・忍従的な関係において固定する。

インド

インドはモンスーンのもっとも型通りに現れる土地である。季節的には単調であるが、しかし南洋に比べれば寒暑の変化がはるかに多い。したがって常夏の国として南洋的な生の横溢をもつとともに、南洋的な生の固定から脱する機縁もまたあるのである。

インドの人間の受容性

インドの人間の受容性を活発ならしめる第一のものは、モンスーンによる雨季である。インドの人工の三分の二以上をしめる農民は、モンスーンに頼って耕作する。したがって、モンスーンの遅延、中断、雨量の多い少ないによって家庭の食糧や家畜の飼料にさえ困るほどの凶年になってしまうのである。この種の凶年のたびごとに昔は飢饉が起こった。そこで人々は栄養不良に陥り、身体の抵抗力を減らし、疫病の流行を引き起こしたりする。死者750万人をだしたスペイン風邪などがその例である。現代においてさえもインドの人間をかかる生の不安から解放するような、自然への対抗的方法はないのである。インドにおける自然とは、人々に生を恵むとともに、また生を脅かすものなのである。

南洋に於いてはこのような危険はなかった。人は単純に受容的であり得た。しかし大陸的なインドに於いては受容的な関係がつねに不安や動揺を含まねばならない。受容的であってしかも動くという事は、受容性を活発にする事、すなわち感受性の敏活である。

インドの神々

インドの人々の神への関係は、恵美に甘える関係であって、砂漠的なる絶対服従ではない。神への祈りも砂漠におけるごとく魂の奥底から湧き出るのではない。むしろ「神々とむつまじい」のである。彼らは神への服従を誓い神の命令に従う事によって救いを求めるのではなく、ただ神々を詠嘆する事によって地上の富の恵まれる事を期待する。彼らは神を恐れてはいない。恵美に抱かれるというのが彼らの信仰の態度である。

インドの哲学

私たちは、ギリシア初期の自然哲学とウパニシャッドの哲学との間に多くの類似を見出すであろう。両者はいずれも世界の統一を予想している。そうして「初め」に何があったかを追求する。そこで答えられるのは「水」であり「火」でありあるいは「無」であり「有」である。

しかし見落としてはいけないことがある。ギリシアの哲学者は彼に対立する世界の「初め」を求め、それを論証の道によってとらえようとしたのである。このような対立関係はインドの哲学者は持ち合わせていなかった。彼が求めたのは彼自身をも包む一切の「初め」である。だから「初め」「有」があり、「有」が「火」となり「水」となり「大地」となると説く前に、この「初め」はすでにアートマン・ブラフマンである。すなわち「識るもの」であり「我」である。


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