■伝えられない
 フリージの居城に帰還したイシュトーを迎えてくれたのは、馴染みの老執事だった。甲斐甲斐しく、イシュトーの旅装と荷物を受け取ろうとする彼を制して、マントだけを手渡す。
「大丈夫だから…マントだけ頼むよ。」
 マントはとにかく、魔道書は重い。50の坂をとうに越えた相手には荷がきつすぎる。
「母上に帰還の挨拶をせねばな。何処におられる?」
「お部屋にいらっしゃいます。」
「…お一人で?」
 なんとなく嫌な予感がして、ついそう聞いてしまった。
「いえ…ティニー様と、何かお話があるようで。」
「そうか…ならば、急いでご挨拶をせねばならないな。」
 執事に向けた労いの笑顔とは裏腹に、心がぐんと重くなり、イシュトーは僅かに肩を落とした。

■□■


 しめ切った扉を越えて聞こえてくる母の声に、さらに疲れが増すように思う。不機嫌なのはいつものことだが、母のこの声は好きではない。そして、母の嫌みの対象が、常に同じ人物であることを知っているからなおさらに。
「母上、イシュトーです。入りますよ。」
 が、今更ひくわけにもいかない。ノックと同時に母の居室に足を入れた彼は、想像通りの光景を目にする。

 フリージの女帝に相応しい重厚な肘掛けイスに傲然と座る、フリージの女王にして母ヒルダと。怯えた小動物のごとくに彼女の前で俯き、小さくなっている少女。彼の従妹、ティニー。彼女が何をしたのかは知らないが、どちらにしろ大した理由がある叱責ではあるまい。要は、ティニーのことが気に入らないのだ。ティルテュ叔母の面影を残した、ティニーの存在が。
 不快を顔に出せば、更にティニーへの風当たりが強くなるのが判らないほど彼は愚かな人間ではない。険悪な空気に気づかぬふりをして、母の元へと歩み寄った。
「母上、ただいま戻りました。」
 胸に手を当て最敬礼をかえすイシュトーに、ヒルダは面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「えらく急に戻ってきたね。いつもならきちんと連絡をくれるのに。」
「いえ。すぐにメルゲンへと戻らねばなりません。今日は、ユリウス殿下より伝言を預かっておりますので。」
 足を進めたイシュトーはヒルダの前に立つ。ティニーの姿がヒルダの視線から消えるように。これくらいしかイシュトーには彼女にしてあげられることがないのだ。
「ユリウス殿下から?あたしにかい?」
「いえ。イシュタルにです。…ティニー、ちょっと頼みがあるんだが、いいかな?」
 後ろ手にかばった少女を振り返る。怯えた目に笑いかけると、笑顔が返ってきた。
「はい、イシュトー兄様。」
「イシュタルがおまえのことを捜していたようなので、部屋にいってくれるか?私も後から行くと伝えておくれ。」
 ちょっと急いでるから、と付け加えて、ティニーの背中を押してやる。
「お話中に申し訳ありません、母上。ティニーをお借りしても?」
 何も言わずに顔を背ける母にかまわず、イシュトーはティニーを部屋へと押し出した。ぱたぱたと廊下を遠ざかる足音を聞きながら、イシュトーは母に微笑みかけた。
「一ヶ月ぶりでしょうか?母上もおかわりなく。」
「一ヶ月やそこらであたしは変わらないさ。それよか、すぐに戻らねばならないって?」
 母の問いかけに、イシュトーは無言で頷く。
 反逆者シグルドの息子が生きていて、しかも、グランベルに対して軍を上げた。すぐに鎮圧できるだろうとのバーハラの貴族たちの予測を裏切って、セリスの軍隊は諸国の反抗分子を吸収しつつあるという。
 イザーク王ダナンが反乱軍によって倒された、との知らせにバーハラは騒然としつつあった。トラキアを任されたフリージのブルームの周りもにわかに騒がしく、イシュトーにしてもトラキアの要所メルゲン城を任されている。戻ってきている場合ではないはずだ。
 母がそう思っているのが判った。無論、イシュトーとて里心ついて戻ってきた、などという子供じみた理由でここに来たわけではない。
「実は…母上にお伝えしたいことが…。」

■□■ 

 部屋を訪れたティニーを、従姉は優しく出迎えてくれた。
「あら、ティニー。どうかしたの?」
「あ、イシュトー兄様が…。」
 ”イシュタルが自分を探しているから”というのが、あの場からティニーをだすための口実だったのは明白で。ティニーは次の言葉が続けられなくなってしまった。
「お兄様がお帰りになったようね。」
「あ、はい。」
「それじゃあ、二人でここで待っていましょう。きっとこちらに顔を出されるはずよ。」
 柔和に微笑む従姉の横顔は、グランベルでも一、二を争う美女と口の端に上るだけのことはある。彼女がトールハンマーの継承者だなんて、この笑顔からはとても想像できない。
 白い清楚なドレスを身に纏い、ゆったりとイスに腰掛けたイシュタルは、本当にまるで聖女のようだというのに。
 たった一度だけみたことのある、戦う従姉の姿をまざまざと思い出したティニーは、微妙に微笑んだ。

■□■ 


 部屋の扉を開けた途端に、笑い声があたりに弾ける。先ほどまではあんなに小さく見えたティニーは、イシュタルの隣ですっかり元通りだ。その笑顔に、イシュトーはようように安心した。小さな従妹、幼い頃に母親と死に別れ、兄と父親は消息不明。母がシグルド軍に加わっていたことで、ここでティニーがどんなに肩身の狭い思いをしてきたか、彼は知っていた。
 飾り気のない白を纏ったイシュタルはいつも通り、穏やかな表情を崩さず、兄を迎えた。それは、戦場での彼女を全く窺わせない。ティニーと並ぶ妹、二人はまるで本当の姉妹のようだ。悔しいかな、イシュトーよりもよっぽど血の繋がりを感じさせてくれる。
 だが、そんな気持ちも二人に笑顔で迎えられるとあっという間に消し飛んでしまった。
「お兄様、お帰りなさい。」
「お帰りなさい。」
「…ただいま戻りました。」
 イシュトーは心の底から思う。安心する場所を家だというのなら、イシュトーの戻ってくる場所はきっとここだ、と。
「お父様はいかがなさっておられますか?」
「お変わりなかったよ。早くこちらに戻りたがっていらっしゃる。」
「伯父様はいつ頃お帰りに?」
「うーん。まだだいぶ先のことになるだろうな。」
 …反乱軍を平らげるまでは、父もこちらに戻ってくるどころではあるまい。いや、もしかしたら、もう二度と戻ってこられない可能性もある。
 まさかそんなことを口にするわけにもいかない。聡い二人のことだから、薄々感じてはいるだろうが、戦況は芳しくなかった。
 グランベルがすべてを治めるには、ユグドラル大陸はあまりにも広い。元の王家をなくした大地を治めるために、アルヴィス国王が敷いた融和政策は実を結ばす、時をおかずして圧制へと変わった。そのことを非難するつもりはイシュトーには更々ないが、押さえる力が強ければ強いほど、反動もより大きくなる。今のこの状態がまさにそれで。だが、ここの戦いを乗り越えられなければ、グランベルに明日はないのだ。
 気を抜けば表に出てしまいそうな不安を押し殺して、イシュトーはあえて軽い調子で言葉を紡ぐ。
「そうそう、イシュタル。実はユリウス殿下よりお前に手紙を預かってきているのだけれど。」
「え?」
「荷物と一緒に部屋に持って行かれてしまったから、後で持ってくるよ。」
「お兄様。」
 妹の頬に僅かに朱が滲む。それを認めて、イシュトーは楽しげに微笑んだ。
「もしかして、自分で取ってくるとか?」
 答えのかわりにくるりと踵を返して部屋を出ていくイシュタルの後ろ姿を見送りるイシュトーは、一抹の寂しさを交えて仄かに微笑む。イシュタルとユリウス殿下が惹かれ合っていることは周知の事実。フリージの長子として、それは歓迎すべきことと判ってはいる。が、兄としては寂しさもあり、ユリウス殿下の性癖に対して一抹の不安も残っていた。たった一人の、血のつながった実妹。トールハンマーの継承者とはいえ、できるならば彼女には女性の幸せをつかんで欲しい。そんなことを思った。
「イシュトー兄様?」
 その呼びかけにイシュトーは我に返る。そうだ、大切な人はイシュタルだけではない。いつもティニーに笑顔でいてほしいのも、イシュトーの願いの一つだった。
 おどけた調子で肩をすくめたイシュトーは、
「おやおや、我が妹君は土産も受け取らずに飛んでいってしまった。」
 どうしようか?と大げさな手振りをしてみせれば、くすくすと返事がかえってくる。
「ま、イシュタルには私からの土産よりも、もっといいものを渡せたし、私も懐を軽くしないですんだし。」
「まあ、兄さま、そんなことを…。」
 非難めいた眼差しで睨まれても、ちっとも怖くない。望み少ない戦のことも、母への反感も、一瞬忘れた。
「ああ、そうだ。手を貸してくれないか、ティニー。」
 おずおずと左手を差し出した従妹のてのひらを、イシュトーは仰々しくとった。小さな手は、その白さに反して温かい。その手の中に指輪を握り込ませると、ティニーの大きな瞳がぱちぱちと瞬いた。
「…兄様?」
「お土産。メルゲンの城下で見つけたんだ。力の言葉が刻まれているから、きっとおまえを守ってくれるよ。」
 そして、そのまま悪戯っぽく微笑むと、
「ちょっとじっとして。」
 そのまま彼女の手のひらに、正確に言うと手渡した指輪に口づける。
「…裁きの力もて、天空よりきたるもの…。」
 トードの聖句と自分の魔力を指輪に注ぐ。元々の指輪の力とそれをあわせれば、戦場でも気休めよりはマシな効果を発揮してくれるはずだ。
 反乱軍を倒すまで、もう二度とここへは戻れない。そして、ダナンを倒した彼らは侮りがたい敵であり、自分の実力を客観的に評価すると勝算はかなり低かった。
 大切な二人の妹たちを、彼女らが生涯の伴侶に出会うまで守るのが自分の役目だと、ずっとイシュトーは思っていて。その役目が果たせなくなることを考えることがつらい。両親のいないティニーは、フリージの城で決して幸せではなかった。ティルテュ叔母が亡くなってからは特にそうだ。
 銀糸の髪を肩に流し、いつも悲しそうに微笑んでいたティルテュ叔母の横顔は、イシュトーの中で時にティニーとかぶるときがある。
 夫と子供から引き離されて、フリージの城で”保護”されていた叔母。保護とは名ばかりで、実際は幽閉同然だった。イシュトーの母は、反乱軍に身を投じていた彼女に対して決して優しくはなかったし、それはティニーに対しても同じで。
 母の行いには思うところがあったけれど、あからさまにティニーを庇えるほどにはイシュトーもイシュタルも、まだ力が足りない。回りくどいやり方でしかティニーを守れない。
「…その血をうくる者に、清冽なるトードのご加護のあらんことを。」
 指輪に宿った淡い光は、詠唱が終わると徐々に薄れていった。イシュトーが顔を上げると、大きな目を更に大きくして自分を見つめていたティニーとばっちり目があう。妹が頬を染めている理由に思い当たったイシュトーは、慌てて手を離した。
「す、すまない、ティニー。この手のパワーチャージは相手に渡してからじゃないと意味がなくて…、だから……。」
「…いえ…イシュトー兄様が謝ることでは…。」
「いや、違うよ。私が考えなしだった。」
 色恋に身を染めたことない妹に、何をやっていることやら。ティニーの動揺はイシュトーにも伝染してしまったようだ。
「でも。」
 何かに思い当たった妹の声は、突然平常を取り戻した。
「でも、イシュトー兄様。先ほどの聖句は…。」
 今、イシュトーが唱えた言葉は、トードの力を身に受けるもの。フリージでは戦場に赴くものに捧げられる力ある言葉だ。戦場はティニーとはもっとも縁遠い世界。ここにイシュトーが戻ってきたもう一つの理由、とうとうそれを彼女に告げなければならない時が来た。
「ティニー、実は私がここに戻ってきたのは…。」
 言いにくそうに言葉を押し出す兄の顔を、ティニーはじっと見つめていた。