■硝子絵 (1) 宵っ張りの人たちや朝風呂の習慣を持った人たちにとって、風呂が24時間営業なのはとても便利なシステムだ。朝の修練の後、汗ばんだ体を流せるのはありがたいことだ、とマイクロトフはしみじみ思う。 現在時刻、午前五時四十五分。風呂に自分以外の人影、当然なし。 「風呂を自分ひとりで使えるというのも、なかなかいいものだな。」 今度、カミューにもこの楽しみを教えてやろう。そうすれば、あいつも朝の訓練をバカにしなくなるだろう。 フェミニストとして名高い元赤騎士団長が、女性と過ごす夜のひとときを朝風呂と天秤にかけるかどうかは置いておいておこう。何はともあれ、マイクロトフは非常に機嫌が良かった。 湯の中で腕を伸ばし、ゆっくりと息を吸い、そして吐く。全身の力を抜いて湯船に肩までつかれば、それだけで疲れがお湯に溶けていくような気さえする。 「ふぅ…。」 十分ほどお風呂に浸かった後、マイクロトフは深々と息を吐いた。体も温まったし、そろそろあがろうかな、と彼が考えたそのとき。 からからから・・・。 引き戸を遠慮がちに開ける音で、心臓がどきりと跳ね上がる。この時間に風呂で誰かにかち合うなんて、悪いことなど何もしていなくてもドキドキするじゃあないか。 誰もいないと思って、歌を歌ったり独り言をいったりしてなかったろうな? ついついそんな馬鹿みたいな心配もしてしまったが、そんな心配が無用だったことはマイクロトフにもすぐわかった。 「あ…失礼いたします。」 マイクロトフを認めると、律儀にお辞儀をしたのはクラウスという、先頃本拠地に加わったばかりの青年だった。 「いつも朝風呂に?」 「朝練で汗をかきますので。」 「そうですか。」 会話が続かない。マイクロトフという人物は愛想の良すぎる相棒と違い、よく知らない相手に親しく話しかけられるほど社交的な性格でないし、そもそも、このクラウスという青年は、本当につい先頃本拠地に加わったばかりの元ハイランドの第三軍軍師ときている。つまり、少し前までは敵として殺し合いをしていた相手、というわけだ。 その彼の境遇は、剣を捧げた主君を裏切り、騎士の名を捨てたマイクロトフとよく似ているように思える。 好奇心を押さえきれず、マイクロトフは密かに風呂につかるクラウスの様子をうかがった。 色が白くて華奢なのは、彼が事務官だからなのだろう。19歳にしては落ち着いた印象を受ける。下手をすれば、マイクロトフよりもずっとしっかりしているのではないだろうか。 ”密かに”うかがうと言ってもマイクロトフの”密かに”である。男の視線に、その訳に気づかぬはずもなかろうが、クラウスは相変わらず無表情のままで風呂につかっていた。 「あ…クラウス殿?」 「はい?」 男にしておくには惜しいほどのクラウスの白い肌。その首筋に、マイクロトフは小さな赤い跡を見つけたのだった。虫刺されの跡?しかも、一つではない。 「首に虫に刺された跡があります。」 「ああ、これですか?」 首に手をもっていった青年は口元を歪めた。あまり感じのいい笑い方ではない。 「大丈夫です。たいしたことありませんから。」 「しかし…。」 たかが虫さされと侮って、病に倒れた騎士をマイクロトフは知っている。不潔な虫の運んでくる恐ろしい伝染病や破傷風。それらは“たいしたことない”では片づけられない。クラウスも、軍人とはいえまだ若い。戦場での経験も少なかろう。だからそんな甘いことが言えるのだ。 「!?」 マイクロトフがよくよく見やれば、手首の周りにも痛々しい赤いみみず腫れがあるではないか。一体、どうやったらこんな怪我をするのかは知らないが、放っておくのはよくない。せめて消毒くらいはしておくべきだ。 「手も怪我をなさっているようだ。」 「大丈夫ですよ、マイクロトフ殿。」 それでも青年は平然と笑っている。元々、あまり気が長いとはいえないマイクロトフだ。明らかに自分の言葉を真剣に捕らえてない相手に、次第に苛ついてきた。このまま言葉を交わしていても埒があかない。 「クラウス殿、ちょっと待っていて下さい。」 言うが早いか、マイクロトフは湯船から飛び出した。 日頃の訓練の賜物であろう。風呂場から疾風の如く飛び出したマイクロトフが、再度戻ってくるのに十分とはかからなかった。湯船の中で素直にマイクロトフを待っていたクラウスは、マイクロトフの姿を認めると、物言いたげに小首を傾げる。 「これを使ってください。」 マイクロトフの大きな手の中では、小さく見える半透明のガラス瓶。 「薬です。」 「薬…?」 「虫さされにも怪我にもよく効きます。寝る前に患部に塗ってください。」 「は…はぁ、ありがとうございます。」 有無を言わさずそれを手渡されたクラウスは、喜ぶとも困るともつかない曖昧な微笑を浮かべた。だが、そんな青年の様子には全く気づかないマイクロトフは、ようやく笑みを見せる。 マチルダ騎士団を抜けてから、物資も事欠くような戦場に赴くこともなかったので、この薬ももう使うこともないだろうと思っていたが、意外なところで役に立ってよかった。ああ、本当によかった。 「マイクロトフ殿は…。」 「?」 「優しい方なのですね。」 「はい?」 いや、そんなことはありません、と俯いてしまう。あまりにも聞き慣れない言葉で、一体どんな顔をしていたらいいのか判らなかった。鬼団長だの、堅物だの、そういった評価は数知れず受けてきたが、マイクロトフの人生経験上、自分のことを”優しい”と評価してくれたのは、クラウスが初めてではないだろうか。いや、そもそも軍隊とは、そういった個人の優しさを評価される場所ではなく。寧ろそれは唾棄すべき甘さとして評価され、切り捨てられてしまうもので。それなのに、この青年は素直に評価してくれたのだ。単純明快なマイクロトフにとって、それはとても嬉しくも恥ずかしい。 ふ…とクラウスが笑ったようにマイクロトフは感じた。青年が湯船から上がり、 「お薬、ありがたく使わせていただきます。」 一礼してマイクロトフの脇をすり抜け、風呂場から出ていく。 「あ…。」 呼び止めようと思ったが、言葉にならなかった。呼び止めたところで、かける言葉は何もない。クラウスの傷跡、最初に見た笑顔と自分を”優しい”と評価した時の微笑みは違うモノであるような気がしたこと。その秘密を解き明かすことは、自分には無理であるような、放っておく方がいいような気もした。 ――カミューに相談してみよう。 いつの間にかすっかり冷めてしまった体を再び湯船に沈めながら、マイクロトフは自分よりも世慣れた親友を思い出していた。 寝起きのところをマイクロトフに踏み込まれて、軍服に着替える暇も与えられずに、マイクロトフの言うところの”ちょっと気になること”を持ちかけられたカミューは、不快な顔一つ見せずに親友の話を黙ってきいていた。一部始終を話し終えたマイクロトフが口を閉じると、 「まあ、座らないか、マイクロトフ。」 勧められるままに、マイクロトフは彼のベッドの上に腰掛けた。寝間着の裾をなでつけると、カミューはマイクロトフと向かい合う。 「…。」 カミューに対する信頼の念を隠そうともせずに、マイクロトフは親友をじっと見つめる。カミューなら、きっとなんとかしてくれる。いや、なんとかできなくても、自分に納得のいく答えを与えてくれるはずだ。 今までもそうだった。これからもきっとそうなのだ。 だが、笑みを崩さないカミューの口から出たのは、マイクロトフの欲しい”答え”ではなかった。 「…で、マイクロトフ。おまえは一体どうしたいんだ?」 「どうしたいって…。いや、それは…。」 思いがけない返答に、マイクロトフはぐっと言葉に詰まる。 ―――どうしたい?いや、自分はカミューにどうすればいいかを聞きたいのだ。クラウスに対してどうするのが一番いいのか、それをカミューに教えてもらいたい。だがしかし、何故俺はそんなことを思ったのだろう。クラウスは何も言わなかった。助けを求められたわけでも、つらい様子をみたわけでもない。クラウスは笑っていただけだったのに。 「俺は…?いや、しかし…。」 ”大丈夫です”、”たいしたことはありません”そう微笑っていた。なのに、どうして、 ”優しい方なのですね。” あの言葉だけが、寂しげに響くんだろう。マイクロトフはそれが知りたかった。 ハイランドの軍人だったクラウスも、今や同盟軍の副軍師としてみなに受け入れられている。そうマイクロトフは思っていたのだが、もしかしてそれは彼の単なる思い込みであったのかもしれない。そんな疑いがふと頭を掠めて、マイクロトフは顔を歪めた。 ハイランドは敵で、クラウスは剣を交えていた相手だった。係累をハイランド軍に殺された者も、ここには少なからずいるのだ。捕虜としてならとにかく、副軍師として迎えられた彼の存在を面白く思わないものもいるに違いない。軍略に通じているとはいえ、弱冠19歳の青年だ。暴力や中傷に抗する術もないだろう。 「彼が・・・もし・・・・・・。」 「お前は何をするつもりだ?」 カミューは、いつもどおりの平静さを崩さない。言葉に詰まるマイクロトフに、カミューは尚も、 「クラウス殿がお前に助けを求めたわけでもない。苦境に立っていることを訴えられたわけでもない。ましてや、彼がどういう立場にいるか、はっきりと知っているわけでもないだろう。」 「それは…その通りだが、しかし…。」 「例えば、クラウス殿が厳しい立場にいるとしよう。だが、お前が何かしたことによって彼の立場がよくなるとは限らないんだぞ?」 かつて”敵”であったものを受け入れるのは難しい。クラウスが同盟軍において、重要な地位にいることを面白くなく思っているものは少なくない、と、淡々と語るカミューにマイクロトフは一言も言い返せなかった。 「私は深入りしないほうがいいと思う。」 「だが…!」 激情のまま立ち上がろうとするマイクロトフの手に、カミューのそれが重ねられる。暖かなぬくもりに宥められて、マイクロトフは深々と息を吐き出した。いつも、カミューの言うことは正しい。彼の言葉は、何より自分のことを思いやっての言葉であることを、誰よりマイクロトフ自身が知っている。 「マイクロトフ。」 「判ってる。」 友の気持ちを無駄にしたくない一心で、マイクロトフは短くそう答えた。納得できないのはカミューにも伝わったはずだが、もうそれ以上、友は言葉を重ねない。 下腹に嫌な思いを抱えたまま、マイクロトフは唇を噛み締めた。 自分に何が出来るか?なんて、わかるわけもない。だが、もしクラウスが誰かの手を必要としているのなら、その手の一つになりたかった。 もう一度、クラウスに会わねばならない。 唐突に――マイクロトフとしては至極妥当に、――その結論にたどり着く。 が、マイクロトフが毎朝風呂に通い詰めても、あの黒髪の青年軍師の姿が風呂場に現れることはなく。文官と武官の立場の違いから、職務中にクラウスとマイクロトフが顔を合わせる機会も殆どなく、あったとしても極めてデリケートな話題のため、人前で口に出せるはずもなくて。 マイクロトフのモヤモヤは解消されるはけ口を見つけられずに、時間だけが無為に過ぎ去る。 気が付けば、2ヶ月の月日が流れていた。 |