― 蟲 毒 ―




 真弓は暗い納屋の片隅に、日がな一日息を潜めて蹲っている。

 こんな所に一人で閉じ篭もっているのは恐ろしくないのかと問うたが、返ってきたのは恐ろしいが嫌いではないという気怠い応えであった。
 転がり込んできてからしばらくは、母屋に住まわせていたはずだが――そもそも他のどこへ置くというのか――、時折の来客や垣間見える隣近所の目を嫌い、真弓は早々とそこに引き篭もってしまった。
 夜にはそろりと這い出るように母屋へ上がり、湯を使うこともあるようだったが、憲実が在宅の折は、ほとんど己から出てくることはなかった。
 人に面倒を見てもらおうかと思いもしたが、食事さえ憲実が運ぶものしか口にしない。まるで狷介な動物でも飼っているようだと嘆息して、その飼うという言葉に己が憮然とする。
 己こそどうなのだ――飼い棄てられ、仕方なしに生きているような日々であるのに。


*  *  *


 陽射しが夏のそれになって、熱く降り注ぐようになった頃、彼の人は失踪した。前触れなく、何の痕跡も残さず、――そこにいたという証拠さえ拭い去っていくような鮮やかさで、忽然と。
 ……時を同じくして、あの薄気味の悪い教授(要の手前、何も言わずにいたが、結局のところその印象が覆ることはなかった。いや、事の後はなおのこと)も。
 その前後にこれといって大きな変事があったわけではなかった。……いや、なかったと言い切ることも出来ないが、要が姿を消さねばならぬようなことではなかったはずだった。

 ――それは無論のこと、月村教授が連れて行ったのだろう。何処へか。他に如何なる故があろうか。

 憲実の牙を抜いたのは当の要だったが、何故命じられるまま大人しく身を伏せていたのか――最も警戒すべきものが、常に主の傍にあったというのに。
 駆けずり回り、しかし実を結ばず、歯噛みして立ち尽くした憲実に、声をかける者があった。

「最初から最後まで、要さんに関わっていたのは月村先生だけだったんじゃないかな」

 何を、と言いかけてやめた。その言葉の意味を正しく理解できたのは己と相手のみで、相手――真弓は淡々と、それまでに知り得たことを整理して話す。

「そう、そもそもの“最初”からだ。要さんをあの深淵に引き込んだ手は、先生の――」

 言葉にもならない怒りと、何故、という思いが胸を占めた。
 何かの予兆のように、事が起こるより前からあの男は危険だと感じていたのではなかったか。それは結局その通りで、憲実の見る目自体に間違いはなかった。
 ただ、要は信じていたのだ――無心に、欠片ほどの疑いもなく、恐れつつあれほど捜し求めた“花喰イ鳥”こそを――


 あの異様な夏の記憶には、後々に至っても説明のつけ様のない重苦しさが纏わりついた。理解し難い、あたかも不気味な粘着質の何かが、要を絡めとって逃げ去ったかのような――(それは全て、当人同士にとっては愛という言葉に集約できたかもしれなかったが、憲実はそれだけは頑なに口にしなかった)
 どこを探しても見つからず、行方の手がかりすらなく、彼が残したはずの物すらどこへともなく片付けられており――ようやくそれに気づいた時、憲実は一気に虚脱した。
 表向きはそれなりに振舞ったが、すぐに気力が尽きた。人目のない場所へ這う如くにしてようよう辿りつき、樹下に四肢を投げ出して呆然とする日々が続いた。
 ――真弓がそれについて来るようになったのがいつからだったのかも、はっきりとは覚えていない。もしかしたら始めからだったのかもしれないが、記憶には残っていなかった。それほど迷情に囚われていたのか。
 膝の上にぞろりと重いものが圧し掛かり、ふと目を開けた。
 舞い散る枯葉の黄金の中に、白い蛇が影を揺らめかせている。口元から赤い舌を覗かせ、憲実の体に乗り上げていたのだった。
「――先輩」
 唇の端から顎の線を辿るように、真弓の舌が這う。
 冷たい手が頬を包み込んで、逸らさせるまいとしている――華奢だがそれなりに硬い感触の、少年から脱却しかけた手。
「先輩」
 もどかしく摺り寄せられる躰を、不意に押しのけた。「止せ」と低く恫喝した。
 拒否に備えてなどいなかった真弓は簡単に転げ落ちて、枯葉の中に尻餅をつくような姿勢で、立ち上がった憲実をきょとんと眺め上げた。
 そのまま踵を返そうとした、彼を捨て置いて。だが、目を背けた途端、子供のような声がした。
「いや」
 声だけで縋りつく如く、真弓はそこに座り込んだままだった。
「いやだ」
 ――今まさに棄ててゆかれる者の怒りと不安に揺れた目が、憲実を凝視していた。
 暗く一瞥すると、真弓はぎゅうと眉間に皺を寄せた。
「要さんがいなくなったからって、僕も棄てて行くのか」
「――……」
「あの人の言いなりになって僕を自分のものにしておいて、自分が棄てられたら僕も棄てるのか」
 それは激怒の顔だった。
 常の彼の、おとなしやかでひっそりとした風情のそれは、真弓が長年培った己を守る術に過ぎない。
 何ともなれば牙を剥き出しにするのだった、敵うはずのない相手に対してまでも。
(どうしろというのだ)
 声に出したか、あるいは己も激するままの表情で睨めつけたか、よくはわからない。
 ぐずる幼子のように、座り込んだまま両手を差し伸べていた真弓は、くしゃりと顔を歪めて、己の喉元に噛み付いた憲実の頭を掻き抱いた。
「置いていかれたんだから仕方ないじゃないか」
「……っ……」
「僕は先輩がいないともう駄目なんだよ。先輩だって」
「――黙れ!」
「先輩だって要さんに棄てていかれたんなら、手元に残ってるあの人とのよすがは、僕とのことだけじゃないか!」
 枯葉の中に諸共倒れこみ、元より胸まで肌蹴ていた真弓の服を、裂けよとばかり毟り取った。
 下敷きになった真弓の制服の黒が、肌の白さと身の細さを尚更際立たせる。

 ――そもそもの意に反して堕した闇の中に、無造作に置き去りにされてしまったのだった。二人。
 追うことも出来ず、元の己に戻ることも出来ず、途方に暮れながら、その場に座り込むしかなかった。いつか主が戻ってくるのではないかと。あり得ぬこととは悟りながらも。

「んん」
 真弓が苦しげに喘いだ。押し広げた足が胸を圧迫するやら、時折身を捩るのを、その都度肩を掴んで押さえつける。
 ――愛撫とも言えぬ愛撫だったが、潤んだ目はどこか恍惚として宙を見つめていた。

 乞われて抱いたことは幾度かあった、やはりこの場所で。想いの先が己でなくとも、そうして腕に擁きとめられるならそれで良いのだと。
 ……真弓が真実欲したのは、真弓を傷つける者から守ってくれる庇護者(そしてそれに象徴される愛の様々)であって、新たな暴君ではなかったはずだった。
 時折ぽつぽつと語った亜弓という女とのことを聞いてからは、確かに要の言った通り、懐の内に入れておく気にもなった。それは愛というには程遠かったが――

 さしたる慰めもなく割り開いたそこに、真弓の細い指が絡みついて擦ったそれを当てがった。
 真弓の唇が声にならない呻きを漏らす。躰も――怯えにか期待にか――跳ねるように震え、首筋に腕を絡めてきた。
「先輩」
 耳元で蠱惑する声は、歓喜に潤んでいる。
 真弓は如何に焦らされても、己の手で己に触れることはしなかったが、ただ、迎え入れて後は両脚を憲実の腰に絡みつかせ、奥へ、奥へ、と貪欲に求めた。
 楔をきつく締め上げながら蠢く胎に、じんと痺れるような波が来る。
 打ち付ける度に仰け反る真弓の顔も、紅潮しながら次第に理性を失っていく――折々に噛み付くような口付けをして、開き放しになった唇がだらしなく濡れていく。

 これまで一点の曇りもなかった、それが突如茫洋としてしまった世界の中で、放り出された己が果たして腹立たしいのか、あるいは心細いのか、それすらわからないでいる――わからなくなっていこうとしている。
 ただひとつ手の中に握っていたのは小さな雛鳥、己次第でどうとでも出来る、か細いもう一つの手だった。

「あうう」
 強く揺さぶられ、胎を掻き回された真弓が、感極まったように喘ぐ。
 背中に爪が走る感触と、一瞬遅れて鋭い痛みが来る。頭を打ち振り、真弓は大きく仰け反った。
 その仕草の直後、下腹が生暖かいもので濡れた――かまわず揺さぶり続けた。
 脱力しながらも、真弓のその腕は奇妙な力を持って憲実に絡み付いている。否、全身を以って離れ難く。
 ふと人外のものと交うような、背徳の恐れとも言うべき戦慄が背筋を這ったが、今更それが何か、と尚更きつく突き上げた。赤く濡れた唇から漏れる喘ぎは、もはや押し出されるままの、怠惰な唸りのようだ。
 ……愛ではない。欲情ですら。
 ただ縋り付き合うためにそうしているのだと、全てを真弓に押し付けながら――


*  *  *


 庭木の新緑が眩しく光っているのを見上げ、憲実は目を眇めた。
 未だ本土には戦火も及んでいなかったが、それも時間の問題であるように思う。
 昨夜せがまれて、真弓の肌掛けの上に海軍の白い制服を被せてきてしまったので、今朝はまずそれを取りに行かねばならなかった。

 卒業後、何事もなかったかのように憲実は士官学校へ入った。真弓がそれを「まるで素知らぬ顔をして」と揶揄するのを、苦笑いして。
 その真弓は三年に進級した直後に退学して、何処へか姿を消していた。あずさにさえ、一切の行方を知らせずに。
 その間のことは今でも黙して語らないが、ただろくでもないことをしていたのだと口角を歪めて笑ったことがあった。

 納屋の中は、板張りだった床の上に畳を敷いてやって、そこそこ居易いようにはしてやった。
 雑多ながらくたと布団に埋もれて、真弓はまだ眠っている――女のように伸びた髪が、布団の上に散らばっているのが見えた。
 肩に手を掛けると、濁った目が幾度か瞬いた。
「――持って行くぞ」
「もう行くの」
「ああ……」
 今日、再び戦地に赴くべく出立するのだ、とは告げてあった。
 粗末な暗い小屋に閉じ篭もり、長らく――世間には其処にいることさえ知られていない有様で、真弓は隔絶された空間に浸り込んでいる。
(あんた以外のことに拘うのはもういやだ)
 ひどく厭世的な(――というより、むしろ己が己たることすら拒否し始めていたのかもしれなかったが)台詞を吐いて、その身が壊れるほど擁きとめよと、憲実の胸に縋った。
 滑らかな肌は吸い付くような柔さを増し、闇の中で貫かれる快楽に溺れる様には白蛇の恍惚が見える。
 未だそれを愛しているとも想うとも言えずにいて、ただ共存しているのだった。
 外へ出かけてゆけば厳しい軍規と現実の中で生きているというのに、一度自宅に戻れば異界の徒の冷えた肌に狂おしい熱を与えている。淫毒の染み込んだようなそれに幾度となく口付け、己自身この小さな寝床の中だけで終始できるような錯覚を覚える。

 簡素な家屋には大した道具もなく、やってきた知人達の一人がふと庭先の納屋に目を留めて、あれには何を仕舞っているのだ、と問うたことがある。
 ――何も、と言いかけて、憲実は頭を振った。
(化生を飼っている――)
 酒の勢いで巫山戯た別の一人が、ではそこを開けようと言い出した。――言い出しただけで為さぬまま言葉を途切れさせた。
 後日、問うた知人の言うことには、化生よりも貴様の眼を見ゆる方が余程恐ろしかった、と――

 未だそれを愛しているとも想うとも言えず、ただ共存している。
 それは憑かれていると言うんですよ、と当の化生が薄笑って言った。

 最後だと思うのならそうしてくれと、ずっと以前から真弓が切望していたことがある。
 おそらく今度がそうだ、と告げると、では必ずと念を押された。
 指先の引き攣った足を掴んで強引に揺さぶりながら、懐の中のものを思う――其処にそれが在るのを、真弓は疑ってすらいなかった。


 子供の頃に聞かされた、恐ろしい妖の話がある。
 土中の甕に閉じ込められ、おぞましいそれに生まれ変わる――





 雑多ながらくたと布団に埋もれて、真弓は今か今かと待ちわびている。精に汚れたまま。


 身なりを整えて外に出た憲実は、手の中の錠に視線を落とした。
 太い掛け金は、とてもではないが千切れなどすまい。扉にそれを仕掛け、鍵を引き抜く。
 その小さな金属音に、真弓は耳をそばだてていることだろう。

 もはや中から扉を開けて出ることはかなわず、外からも錠を取り外すことは容易でない。
 真弓の世界は閉じて、二度とくだらぬ悪戯に煩わされることもないのだ――憲実がおらずとも。
 そして安堵の微笑を浮かべ、そろそろと寝入るだろう。いつ目覚めるか(あるいは正気に)は知れぬが、もう二度と――

 憲実は小さな鍵を見つめ、息を吐いた。
 化生を飼っているのだと漏らした自らの言葉を思い出し、ふと、もしやという予感を覚えた。
 戸板一枚向こうの異界は、それでもその気になれば簡単に破壊され得るもののはずだった。
 そうだ、まさか、と呟きながら、鍵を握り締める。心の内には、むしろそうであることを信じている己がいるのだった。この国が火に飲まれても、そこでいい子にして待っていると言う、真弓の狂気が現実であるように――
 幾許かの躊躇に立ち止まっていた憲実の耳に、母屋から時計の鐘の音が聞こえた。そろそろ行かねばならぬ時間だと。
 後はもう大した支度も残ってはいなかった。母屋の其処此処を、長の留守の為に閉めておく他は。
 辺りを見回し、適当な茂みを目に留めた憲実は、無造作に鍵を投げ込んで母屋に上がった。