― 火浦家婦道記 ―




「真弓さん。あっちのほうはどうなの。大丈夫なの」
「ねえさまあっちっていうのは…」
「そんなはしたない事いえるわけないでしょう」
真弓は巾着の紐を握り締めた。
『ねえさま…今度は何』
 火浦の家は商家だということもあり、亜弓達の祖父がやたら縁起を担ぐひとだったこともあって、易やらお祓いやらを生業にする人間が昔からよく出入りしていた。そのうちの一人に幼かった亜弓を占せたところ「4000年の歴史を持つ国の皇子と同じ星生まれ。王になるべく星の流れうんぬんかんぬん…」と。真弓自身は易に対しては当たらぬも八卦くらいの気持ちだが、姉さまがぽっと言い出したことが、商いの大事になったり、思わぬ幸せをもたらす事は一度や二度ではなかったので、世の中には運の流れを呼び寄せやすいひと、姉さまのような人がいるのだということは信じていた。
 父が憲実に手に入れた日本刀を披露するというと『私達はお庭でも見てきますね』と庭に引っぱりだされたときから、よもやま受け止めるべき難題があるのだろうとは思って覚悟はしてたけども。
 自慢の庭も、初夏の一歩手前では枯れた紫陽花の切り落とされた株くらいしか見るものがない。華やかさのない庭の隅を数歩下がってうつむきながら真弓は義姉の後に続いた。
「土田さんににまかせっきりなのね。どうなの」
 あっち…閨事のことは任せるも何も自分がどうこうするものなのだろうか。真弓は静かに自分の布団に憲実がやってくるのを待つだけだ。昨晩もそうして…と慌てて淫らなことを考えた自分を真弓は叱る。
 姉さまはさっきはしたないって言っていたのに自分には言えというのか。目の周りがじんじんしてくる。
「そうです…」
 泣きそうというか泣きたかった。
「真弓さんは黙って土田さんの言いなりなのね」
「…そうです」
 泣きたい。
「それでは駄目なのよ真弓さん」
 姉さまは振り向いて真弓の手を巾着ごとむんずと掴んだ。
「外国のご本で読んだのだけども、良人に尽くすのが妻の至上の勤めというのはもう古い考えだそうよ」
「はい」
 …へんな話からそれてほしいというのが真弓の今一番の願いだった
「言いなりになるのと、よい妻であることはいっしょではないのね。妻も良人に積極的にこころ配ることで、二人の間も滞りなく、しいては良人の成功にもつながるそうよ」

 最初に憲実の家の敷居をまたいだ時に、この人のためなら自分の持てるものは全て捧げようと誓った真弓だったが、火浦家を辞す時に姉さまに耳元で小さく「がんばってね」囁かれたときはへなへなにくたばってしまいたいと心底思った。

 着替えの為の衝立の向こうで、真弓は何回も帯を解きなおしては別なものに替え、また結んではを繰り返していた。
 姉さまの言ったことなぞ新聞の人生相談で読んだ嫁入り前の心得にはなかったから、ほとほと困ってしまって、腰紐をぶらんとたれ下げたまま終いには座り込んでしまった。
 憲実は烏ももう少しのんびりだろうと思うほど、湯を使うのが早い。もうそろそろ湯殿から出てきてしまう。そのまま体を丸めて額を畳に擦り付けた。
 わざわざ寝巻きも一番生地の薄い白いものにかえ、香まで焚き染めた。襟の抜きを大きくしてみようかと思ったが、枕でつぶれてしまうので意味がなかった。仕方ないので首の後ろに一はけ薄く紅など施した。

 からからと湯殿の引戸をあける音がした。
 帯を解き、寝巻きも脱ぎ去って、真弓は自分の布団に潜り込んだ。

 隣で布団を捲くる気配がする。
 見えないとわかっていても、硬い綿の肌触りととても破廉恥な事をしているという思いが真弓を落ち着かなくさせる。
 裸で布団に潜るなど、なんて馬鹿なことをしたのだろうか。
 姉さまはああ言ったけれども、自分はやっぱり自分のやり方でにこの人に尽くそうと思った。寝静まった後気付かれぬようについたての向こうへいけばいいだろう。
真弓は布団をあごの下までしっかり引っ張りあげた。

「起きてるか」
 隣から声がかかった。
「はい」
 闇になれた目に大きく盛り上がった布団が見える。
「今日亜弓さんが面白い事をいっていたな」

(ねえさま…まさか憲実さんにも…)
 真弓は暑くもないのにじっとり汗をかき始める。布団をぎゅうぎゅう握り締める。

「おまえに家の財布を預けろと」

 真弓は木下のおじ様おば様からの大切な預かり物だったから、商いの家に育ったのに珠算も帳簿のつけ方も教えずに、大事たいじに育てすぎた。慌しくあなたのところにお嫁にやってしまって、夫に内緒の内金の作り方も教えるのを忘れてしまった。あの子があなたに言えないお金の使い方をするとは思わないけれど、懐にそれがあるとないのでは何かあったときの心持ちがちがうのですよと。よその御家のお金の事に口をだすなどはしたないけれど、真弓のためですから。

 そんなことを姉さまは憲実に言ったらしいが、安堵でしっかりとは聞いていなかった。いくら姉さまでも人の閨の事までは口にするわけないのに…まして嫁入り前だ。馬鹿な早とちりをしたものだ。笑いたくなるのを我慢して裸の膝をこすり合わせるとなんともこそばゆかった。

 今日父に見せてもらった刀や帰り際に食べた安倍川餅の話などしていたらころに唐突に
「ところで」
 と憲実が話の腰を折った。





「そっちに行ってもいいか」





しまい