― 夏 日 ―




その日は倉庫に行ったら、もうそいつが定位置にちゃっかり座り込んで本を読んでいたのだった。
「・・・・・・早いな」
「ああ」
声をかけると、読んでいた本からついと顔を上げてため息を漏らした。
「先生が急用で最後の授業がなくなったんです」
せっかくあの膨大な課題を仕上げたのに、とぶつくさ文句を言う彼の隣に腰を下ろした。
「また読んでるのか、今度はどれだ」
「これ」
背表紙をひょいと俺のほうに向ける。
ああ、それかとため息を吐いた。それはついこの間読み終えたばかりの探偵小説で、評判が良いというので買ったのだが、謎解きはともかく性描写が妙にお粗末で、途中で気分が萎えてしまったのだった。
「つまんないですけどね」
「だろうな。俺も失敗だったと思った」
真弓は小馬鹿にしたようにふふんと鼻先で笑い、ぺらぺらと貢をめくる。
「だいたい何なんですかこの陳腐な描写。どうせ書くならもう少しねっとりしたものを書いてくれりゃあ、少しはマシになるってものを」
「まあ異論はないが・・・ねっとりってなんだ」
「ねっとりです」
ちらりとその横顔を盗み見る。普通にしていれば穢れない無垢な子供のようにも見えるのに、その小生意気な口調と口元を歪める笑いはもはや小悪魔のようにしか映らない。文句を言いながらそれでも貢をめくり続けるのを横目で見て、自分も読みかけの小説に手を伸ばした。


そうしてどれくらい読み耽っていたのだろうか、気付けばすっかり外は暗くなっていた。真弓のほうはしっかり本を読み終えたらしく、読みかけならば何時も挟んでいる栞は閉じられた表紙の上に伏せられていた。当の本人は、というと壁に身体を凭せ掛けたまま、すうと寝入っていた。それは先ほど悪態をついていた人物と同一だとは信じ難い。寝てると起きてるとでは大違いだ。
ふう、と軽く息を吐いた。読んでいるときは気にしなかったが、日が落ちているのにも関わらずべとつくような空気がまとわりついていた。
「さすがに、暑いな・・・」
傍らで寝込んでいるもう一人も、さすがにうっすらと汗をかいているようだった。学生服の上着はとうに脱いでいたが、それでも暑いだろう。
おい、と声をかけようとして―――――――、やめた。
薄闇の中にぼんやりと。藍色に光って見える髪と。陶磁器のような肌と。暗がりに。
じっとその貌を見つめた。時々生気を欠くその表情。
しかし今は、其処にひっそりと息づいていた。
そっと口付けようとしたそのとき。

・・・・どおん。

「おわっ!?」
突然鳴り響いた音に、思わず真弓の前を飛び退った。真弓がはっと目を見開いた。何が起きたのかわからないと云った体できょろきょろと周りを見渡す。
「・・・・・・え?何ですか、今の・・・」
・・・鈍く響く音。

・・・・・・どん、どおん、・・・・・・

『あ』
二人は同時に声をあげた。聞き覚えのあるその音。夏に、毎年聞こえる、その・・・
『花火!』


近くの公園で、どうやら花火大会が始まったらしい。そういえば去年もこの時期に、学生が行くの行かないのと大騒ぎしていた気がする。遠くで僅かに喧騒が聞こえた。
示し合わせるでもなく倉庫を出た二人は、林の向こうから頭を出す花火を見つけた。
「・・・ここからじゃ、あまり見えないな」
「そうですね」
「・・・・・・近くまで行ってみるか?」
そう窺うと、真弓は静かに首を振った。
「いい。近くに行くと、煩いし・・・」
「・・・・・・音がか?それとも」
・・・人がか。口に出さずに尋ねると、真弓は薄く笑った。
「いいんだよ、ここで」


どおん、どおん、どおん


「もうこんなに暗くなってたんだ・・・」
「そりゃぐっすり眠ってたからな」
真弓はむっとした顔をしたが、・・・ふと、何かに気付いたようにこちらを見上げてにやりと笑った。
「・・・・・・なんだ」
「先輩、寝込みを襲うのは少々趣味が悪いんじゃないですか」
「なっ」
かあっと顔に血が上るのがわかった。寝ていたはずなのに、何故。
狸寝入りだったとでもいうのだろうか。しかし。
「簡単なことですよ。僕が起きたとき、先輩僕の正面に居たでしょ」
「・・・・・・・」
「普通なら僕の隣で壁に背を凭せ掛けるとか寝っ転がるとかして本読んでるでしょう」
「・・・・・・・・・・ああ」
そりゃそうだ。起きたとき相手が自分の真正面に居たら。狭い密室でもあるまいし。ああ。頭が痛い。
「危ないところだったなあ」
「あのな」
ふふふふ、と笑うその顔はすっかり小悪魔に戻っている。眠っているときは可愛らしかったのに、あっという間にこれだ。
「・・・・・・でも案外襲って欲しかったんじゃないのか?」
「!」
仕返しとばかりに言い放つと、今度は真弓が顔を赤くする番だった。
「そんなことあるわけないだろ!まったく、自惚れも大概にしときなよ」
「自惚れねえ」
「そうに決まってるだろ!?誰があんたなんか、と」
ぐい、とその腕を引いて唇を重ねた。


どおん。どおん。


「挑発に乗りすぎ」
唇を離して耳元でそう言うと、ぎっと睨まれた。
「・・・・・人のこと言えるんですか?いつも大人気ないことばかりする癖に」
「それはお前に合わせてやってるんだよ」
「おやそれは不思議ですねえ。僕も貴方に合わせて差し上げてたつもりですけど?」
ああ口の減らない。
でもその頬が赤いのは、花火が映った光ではないことを、二人とも知っている。
「・・・・・・先輩、これからあの倉庫では寝ないよう、せいぜい気をつけることですね」
「・・・・・・ああ」
光の散り終わった暗闇で、真弓はひらりと蝶のように腕から離れると、恐ろしく綺麗な相貌でにやりと笑ったのだった。