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旅の記録
………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく
三方五湖(1999)
§ 琵琶湖周辺 三方五湖への旅
平成11年11月17日〜18日
参加者 韓郷社総代会〔原芳美、原一也、下平守、福田豊、(鈴川英人、下平好上)〕
[旅行概要]
11月17日 出発 飯田IC 養老SA 瀬田東IC 石山寺
義仲寺 日吉神社 白髭神社 中江藤樹 小川宿(まつのや)
11月18日 小川宿 小浜 今津 木の本IC
大垣IC (骨董屋) 飯田IC 小川到着
[感想]
韓郷社誌ができあがり、その労苦のねぎらいを含めて鮮魚料理を食べる旅に出た。まあ、趣旨はそんなところだったが、気楽な旅だった。計画や車の運転はみんな下平守さんがやってくれた。
石山寺は三回目になるが晩秋の風情もよかった。紅葉の葉は小さく深紅のわくらばとなっていた。義仲寺(ぎちゅうじ)は二回目だったが、彼の不運にはやるせなさが残る。
琵琶湖にまつわって思い出すのは、「近江八景」の新体詩である。
一 琵琶の形に似たりとて
其の名をおえる湖の
鏡の如き水の面
あかぬながめは八つの景
二 まず渡り見ん 瀬田の橋 瀬田唐橋
かがやく入日美しや
粟津の松の色はえて 粟津春松
かすまぬ空ののどけさよ
三 石山寺の秋の月 石山秋月
雲おさまりてかげ清し
春より先に咲く花は
比良の高ねの暮の雪 比良暮雪
四 滋賀唐崎の一つ松 唐崎老松
夜の雨にぞ名を得たる
堅田の浦の浮御堂 堅田落雁
落来る雁も風情あり
五 三つ四つ五つうち連れて
矢橋をさして歸り行く 矢橋歸帆
白帆を送る夕風に
聲程近し 三井の鐘 三井晩鐘
中学校に赴任してから六年目、神稲中学三年生担任のとき、旅行に関する調べをしていたとき、新体詩のメロディーで母から全部聞いたのである。母はそのとき五十歳ころだったし、こんな新体詩を口ずさむことなど全く知らなかった。昔のことで母は小学校六年までしか教育を受けていなかった。その母から近江八景すべて口移しで教えられたのである。忘れ得ない歌なのである。
さらに義仲で偲ばれるのは、哀調を帯びた義仲の歌である。ただ困ったことに、この歌はだれからいつ教わったのか、二番の歌詞はどうなのか全くわからない。
栄華の春も 移ろえば
雲北嶺に 群がりて
六波羅の夢 破れよと
荒ぶは木曾の 青あらし
今年(2004)になって、二番がわかった。戦前の高等小学唱歌に「薩摩守」という題で、三番か四番まであったという。二番は次のとおり。
雲井の空と 別れては
末八重潮の 浪枕
さだめの果を 行くわれと
悟れど悲し 歌の道
二番は薩摩守平忠度が都落ちしていくとき、夜半に師の藤原俊成に歌を託した故事として伝えられていることを述べたものである。
三四番はわかったときに付け加えたい。
義仲寺にしても石山寺にしても、歴史の由来からその中身をどこまで知ったらいいのだろうか。果てしもない時の彼方へ身をおくこともできず、適当なあたりの理解でいつも引き下がっている。なんとも言い訳がましい。
それから、昔の修身で教えられた近江聖人、中江藤樹の生地を訪ねることができた。儒学の中から、ことに生活のうえでの大切な心構えとして、忠孝を位置づけた人である。親に対する孝心は、ひとり藤樹のみではなく、人は誰しももともと承知しているところのものであろう。「親おもう心にまさる親心 きょうのおとずれなんと聞くらん」吉田松陰の気持ちも察するに余りある。
年老いて鬢に白髪を迎える頃には、ひとしお親が懐かしく、孝心到らざるを知るとともに、子孝行こそこれに代わるものと思いつくものである。巷の朝夕は個の自立の風潮に席巻され、孝心を説いた近江聖人の話とて知るものも数少ない。旅めぐりの計画の中へ、ここを入れるのもよい。
三方五湖の小川部落にある「まつのや」は漁師の民宿でその料理は逸品であった。民宿でこれだけ値打ちに夕食を出すのは珍しいのではないかと思う。
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