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旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


薄墨桜・他(2002)

§ 薄墨桜と根尾谷断層・墨俣城と桜

日  時  4月6日

メンバー  下平とみ子 下平秀 下平好上

行程概要  飯田IC、多治見IC、258号線美濃加茂、関、418号線薄墨桜、
      根尾谷の断層現地、地震断層観察館、157号線岐阜、墨俣城、
      岐阜羽島IC、飯田IC

主な所見

イ〔淡墨桜〕

★『淡墨桜』



今年は陽気のせいで開花は一週間くらいはやい。 根尾村役場へ電話してみると、開花予想は一日で見頃は五日から十日頃だという。それで七日に出かけた。

岐阜県の北西部に位置する根尾村は、四方を山に囲まれ、中央に根尾川が流れる自然美豊かな村である。 この「根尾谷の淡墨桜」は国指定の天然記念物で、樹齢は1500余年、幹周囲9mの巨木で、この時期だけで桜見物に訪れる人は、25万人にもなるという。

桜が散るときに透き通るよな淡墨の色を帯びることから、淡墨桜と名づけられた。昭和23年には枯死寸前となったが、238 本の根接ぎをするという大手術によって蘇生した。

★『桜の根元』



  http://www.neomura.jp/index.htmlを開いて“淡墨桜の特徴”を見ると、目通り 9.91m(平成3年測定)となっている。とにかく太い。

同HPの“再生保護について”“根接ぎの概要とその成果”“宇野千代と淡墨桜”を読んでみると古きものの歴史と人々の努力に頭が下がる。 桜の木肌を見ると1000年余の風雪を感ずる。

  ★『東北東から見た淡墨桜』



昭和24年に続いて、同43年、平成元年以降と、何回かに渡り養生や保護管理をつづけて今にいたっている。BR>
この一本の桜のため、人また人の波である。写真には時間が早かったせいもあり人はまばらであった。 手前二人は下平とみ子さんと秀である。

見たい、見たいと思っていたがとてもよかった。 この位置からの撮影が最もいいように思う。

これらが目当ての淡墨桜である。ヒガンザクラだが、やはり赤みを持っているからいい。桜の根元をみるとその巨大さに驚嘆する。BR>
資料としては次のものがいい。BR>
【根尾村】
 このホームページには「淡墨桜の特徴」「淡墨桜の伝説」「更生保護について」「根尾谷断層」
 その他菊化石や土産などが紹介されており参考になる。「淡墨桜の伝説」には継体天皇御手植桜
 といわれる伝説がくわしく書かれている。「更生保護について」は宇野千代女史とのかかわりが
 説明されている。
【根尾谷の淡墨桜】
【根尾谷の薄墨桜】
【桜】
CD版「世界大百科事典」【サクラ】

開花時期を根尾村に問い合わせたところ、四月一日開花予想だからえ5日〜10日が見ごろだと教えてくれた。

●好天に恵まれて6時出発。多治見ICをでて258号線では通勤の事情なのか渋滞にあった。関では刃物会館へ寄ったが、時間前で開店しておらず通過した。「寺尾ヶ原千本桜」への案内がなかったのか見落としたのか、通過してしまったため尾根谷の淡墨桜へ直行することとなった。

駐車場の案内のものものしさに驚いたが、観光客が桜の時期には25万人となるというから無理はない。事実その日にも10台まりの観光バスがいた。広い地域ではないから人でごった返すのではないかと思う。

淡墨桜は山梨の神代ザクラに次ぐ日本第二の桜の古木だというだけに、養生も大変だったそうだが見ごたえのある古木だった。桜が植えられている区域はせいぜい3000坪位のものだろうか。

ロ〔根尾谷断層〕

★『天然記念物根尾谷断層』



乗用車が見える場所は前々掲の断層観察の駐車場となっている。この石碑は道路が下がり始めた路傍に建てられていた。

静かな山間で、青葉の色合いと鳥の鳴く声も聞こえ、ここの人たちの素晴らしい故郷である。 ここへ来たのは四月七日だったが、四月上旬に訪問する場所として推薦できる。

多治見IC、関市、根尾村、のコースをとったが、午後から岐阜、墨俣城をまわって岐阜羽島ICに入って帰宅することにした。明るいうちに家に着いた。

★『今も残る地震の現場』



1891(明治24)年10月28日午前6時38分,岐阜県地方を未曾有の大地震が襲った。内陸の地震としては歴史上最大の規模の濃尾地震である。マグニチュードは8.0,有感の範囲は,北は仙台から南は鹿児島まで及んだ。この地震の震源となったのが,総延長80kmにも及ぶ根尾谷断層である。指定地での断層は,左横ずれ成分をもった正断層で落差は6mに及ぶ。この断層地形は,地震から100年以上を経過した現在でも鮮明にみることができる。

この現場に立ったとき想像を絶する大災害の感情に圧倒された。 全家屋1319戸の内たった 8戸を残してほぼ全壊したという。「地震断層観察館」にはその資料が掲示されていた。

★『地震断層観察館』



画像を消去してしまったが、前掲画像の右続きの左側にこの建物がある。断層がそのまま保存されているし、資料も豊富にあった。 地球は生きている。 昔、雌阿寒岳山頂で活火山の火口を見たときに感じた気持ちが再びよみがえった。

この濃尾地震の上下のズレ6mが目で確認できる。

参考資料

<http://www.neomura.jp/>【根尾村】

このホームページには「淡墨桜の特徴」「淡墨桜の伝説」「更生保護について」「根尾谷断層」その他菊化石や土産などが紹介されており参考になる。「根尾谷断層」では「地震断層観察館」や「断層説明図」も用意されている。

●次に明治24年東海地方を襲ったという濃尾地震の震源地、根尾谷の地震断層現地へ行った。 なんにも知らずにいたが、これは凄かった。

10月28日朝6時37分地震発生というから、起きぬけの朝餉支度の最中に違いない。1319戸の家屋が8戸を除いてほぼ全壊したというから、すざましい惨状だった。

断層の上下ズレ6メートル、横ズレ3メートルの直下型地震であった。濃尾地震100周年記念事業の一つとして地震断層観察館が建設されて断層上に建てられている。

地震当時の資料も展示されており、生きものとしての地殻変化を学ぶ貴重なものを与えてくれる。 地震発生当時の壮絶な有様を思うと、ゾッとする。とにかく凄い。一度は見ておきたい。

●見学を終わってから、岐阜城へいった。長良川を渡って金華山麓までいったが、時間の都合もあって下流にある墨俣城へ直行した。

ハ〔墨俣城〕

★『墨俣城』



岐阜は岐阜城の麓を通って墨俣城を見ることにした。 金華山頂の城は見学を省略し、墨俣城に直行した。 城巡りで一度見たとき桜がたくさん植えられていたから、ここへ案内した。桜の見頃だったので、とても賑わっていた。

ここの駐車場は河川敷を利用しており、市民の憩いの場として格好の場所である。 桜の花見客でいっぱいの人であった。

堤防沿いに何百本かの桜が植えられており随所に花見客がいたが、人出の割には混雑した感じではなかった。
拝観料を支払って天守閣まで登った。昔の一夜城は今のものとは違っていたに相違ないけれど、史料をよく整えてあって感心する。

参考資料

【墨俣城】

このほかで調べたいことがあれば、各種検索で探すとよい。

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