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旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


白川郷(2004)

§ 世界遺産;白川郷

日  時  6月14日

メンバー  下平好上、下平秀

行程概要  自宅、飯田IC、東海北陸道荘川IC、国道158-156号線、
      白水湖、白水滝、帰雲城址、城山展望台、明善寺郷土館、
      明善寺、どぶろく祭りの館、白川八幡神社、国重文和田家
      焔仁美術館、国道156-158号線、高山市、国道41号線、下呂、
      国道257-256号線、中津川IC、飯田IC、自宅
主な所見

6号台風が来るというので天候がぐずつくし、農作業も一段落したのでかねて準備していた白川郷へ行くことにした。 準備の資料は次のものである。

@ MapFan.net による地図
A  http://www.shirakawa-go.org/heritage/world.html
B  http://www.shirakawa-go.org/tourism/aji.html
C  http://www.geocities.jp/psgifu/
D Googleで‘帰雲城’を検索
  http://www5.ocn.ne.jp/~tenpoint/(内ヶ島氏の謎):(帰雲研究所)
  http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/oscilloscope.htm(帰雲城埋没地)
  http://www.shirofan.com/index.html(お城)-(帰雲城)
  http://www.kanamori-sennki.jp/(飛騨の城)-(帰雲城) その他

ことにCは豊富なデータが参考になった。

朝、3時半に出発した。ジャンクションから東海北陸道へ入った。‘ひるがの高原SA’は雲が下がっていて見晴らしは利かなかった。ここは牛の放牧で知られており、赤目四十八滝の店でも‘ひるがの牛乳’の宣伝があった。 ともあれ荘川ICを出て白川街道を北進、御母衣湖を過ぎてから大白川を遡った。迫り来る谷あいの路はカマボコ状で、車の腹を何回かこすりながら8〜9`走って、やっと白水湖に到着した。



           白水湖                    白水の滝

白水湖を目にしたときに、悪路を走破してきた甲斐があったと思った。みごとな景色である。 滝があるというが大したことではないという気がした。だが、これも写真を見てわかるように天然が生み出した荘厳な景観であった。画像拡大、いいことができたものだ。

白川郷へ来てよかったと、内心満足したほどである。

湖畔の嵌めこみ解説版には次のようなことが書かれていた。


白水(しらみず)の滝と白水湖の歴史

落差72m、絶壁を下る白水の滝はどのようにできたのでしょうか?
今から約3000年前、現在の御前峰周辺の噴火により大量の溶岩が噴出しました。その溶岩は剣ヶ峰の山頂を形づくるとともに、山を下って大白川を埋めました(白水滝溶岩流)。そのとき一時的に水がせき止められ、現在の白水湖の位置に湖ができました。
やがて時とともに水は溢れ出し、谷を削り始めました。そして長い年月をかけ現在の白水の滝を作り、それとともに湖は消えました。しかしその後人工のダムが作られ、白水湖ができたというわけです。
白水湖は大白川ダムの建設によってできた人工の湖です。白水湖の水が白みがかったエメラルドグリーン色なのは、温泉の成分が含まれているからです。
白水の滝は絶壁となった溶岩流の谷を削って落ちる壮大な滝です。ダム建設後は、白水湖の水量を確保するため白水の滝に流れる水は時間により調節されるようになりました。


心満ちて庄川まで下り、白川街道を進んでいくと、砂利プラントに続いて“帰雲城趾”があった。



観音様の像がたっていたので、なんだろうかと思って車を止めて立ち寄った。 ここへ立ち寄ってよかったと思う。

帰ってきてから〈帰雲城〉を検索してみると、たくさんの資料が出てきて驚いた。


寛政5年(1465)に内ヶ島為氏によって築城され、三代にわたり内ヶ島氏の居城となった帰雲城は、天正13年11月29日(1585)の暮れ、夜中に大地震がおこり、帰雲山が崩壊し、該地方で勢力を誇っていた内ヶ島氏理、主従1千余人を山頂の城と山麓の城下町を一瞬にして地底に飲み込み滅亡させた、というのが概略です。


さて、いよいよ合掌造りの集落へ入った。展望できる場所として荻町城趾へ直行する。
夜明けには曇っていた空には雲ひとつなくなって夏の暑さになった。



同じ映像が二枚だが、城趾の周囲は木が茂ってきておりこんな写真しか撮れなかった。近くの旅館だかその建物の二階なら、商工会のホームページのような写真が撮れたはずだ。

中央やや上で、左から四分の一あたりに見える青木が立っている家が、国指定の重要文化財になっている和田家である。



荻町城趾には、祠と、世界遺産の指定をうけてイベント記念として設置された石碑があった。 荻町城については次の解説が参考になる。


世界遺産白川郷で有名な荻町集落の小高い岩山にある荻町城は築城時期は不明ですが内ケ島氏の支城で、城主は家老の山下大和守氏勝とされています。氏勝は、有能な人物だったのか内ケ島家滅亡の後に尾張徳川藩に再仕官しています。氏勝は名古屋城築城を献策した人と言われています。城は北・南・西は絶壁となっており、攻めるには困難です。東側は土塁と空堀で防御されており小規模ながらも要害さを充分感じさせます。基本的に岩山なので腰曲輪を配置する必要もなく飛騨においては珍しい形の縄張りの城です。現在、先端部に社がありますが、この付近に物見台があり本丸曲輪のみの館形式の城です。また城の頂上から見る白川郷の景色は絶景で見る人に感動を与えます。この眺めを見ただけでもわざわざ来た甲斐があったというものです。デートスポットにもお勧めです。
(http://www.kanamori-sennki.jp/sirodata/ogimati/ogemati.html)



荻町城趾展望台からの眺望をおえて、なんとか車を狭い駐車場へ置かせてもらい、見学に移った。



まず、合掌造りの明善寺郷土館と明善寺へ足を進めた。


〈合掌造り〉とは、木材を梁(はり)の上に手の平を合わせたように山形に組み合わせて建築された、勾配の急な茅葺きの屋根を特徴とする住居です。
こうした建物はほかの地方にも見られますが、白川では〈切妻合掌造り〉といわれ、屋根の両端が本を開いて立てたように三角形になっているのが特徴で積雪が多く雪質が重いという白川の自然条件に適合した構造に造られています。
また、建物は南北に面して建てられおり、これは白川の風向きを考慮し、風の抵抗を最小限にするとともに、屋根に当たる日照量を調節して夏涼しく、冬は保温されるようになっています。
(http://www.shirakawa-go.org/heritage/world.html)


合掌造りは火に弱いから‘火には殊に気をつけよ’という意識は村中に行き渡っているようだ。家の中は薄暗い。柱や階段など考えてみれば雪の重量を予想して頑丈なものになっている。当然のことなんだが、入ってみて実感できる。上記の説明で白川の人たちの合理的な結論に達したことが納得できる。
この建物はお坊さんが住んでいたのでしょう。家続きにお寺の本堂がある。その須弥壇は見事なもであった。

なお、世界遺産については http://www.shirakawa-go.org/heritage/world.htmlを見ると、上掲〈合掌造りとは〉に続いて、〈世界遺産〉として‘現在の世界遺産’‘日本の世界遺産’が出ています。


         日本の世界遺産

・法隆寺地域の仏教建造物  1993年12月
 (奈良県、世界最古の木造建築など)【文化遺産】
・姫路城  1993年12月
 (兵庫県、5層6階の天守閣、17世紀初め完成し別名白鷺城)【文化遺産】
・屋久島  1993年12月
 (鹿児島県、樹齢1000年以上のヤクスギなど多様な植物群)【自然遺産】
・白神山地  1993年12月
 (青森、秋田県境に広がるブナ原生林でクマゲラ生息地)【自然遺産】
・古都京都の文化財  1994年12月
 (京都、宇治、大津3市の神社、寺院など17ヵ所)【文化遺産】
・白川郷・五箇山の合掌造り集落  1995年12月
 (岐阜、富山に残る合掌組み民家)【文化遺産】
・広島平和記念碑(原爆ドーム)  1996年12月
 (広島県、核兵器の惨禍を後世に伝える原爆ドーム)【文化遺産】
・厳島神社  1996年12月
 (広島県、厳島神社と前面の海および背後の原始林)【文化遺産】
・古都奈良の文化財  1998年12月
 (奈良県、東大寺・興福寺・春日大社・春日山原始林
  元興寺・薬師寺・唐招提寺・平城宮跡)【文化遺産】
・日光の社寺 1999年12月
 (栃木県、ニ荒山神社・東照宮・輪王寺)【文化遺産】
・琉球王国のグスク及び関連遺産群 2000年12月
 (沖縄県琉球王国のグスクなど9遺産)【文化遺産】

世界遺産条約締約国数 125カ国 (2003年7月現在)
文化遺産      582
自然遺産      149
文化・自然複合遺産  23
合  計      754


続いてすぐ近くにある〈どぶろく祭りの館〉へ行った。白川八幡神社の境内にある。




白川郷に伝わる"どぶろく祭り"を、人形や模型を使って再現した展示館。
重要な資料や遺物が大切に保存展示されています。(冬季閉鎖)



どぶろくの由来

かつて白川郷は、平家の落人のかくれやと言われ、古くから外との交渉の少ない土地柄であったため、村人の心をいやすものは酒以外にはなく、粟・稗の雑穀類で地酒をつくっていました。年代は明らかではありませんが相当古くから〈どぶろく〉が祭礼に用いられていたと思われています。
明治元年、会計宮布達による濁酒免許(100石につき金20両の税金)。明治4年免許制度(許可料金5両)が施行されましたが、神社祭礼用については、慣習により無税で濁酒をつくっていたと記録されています。
昭和23年に酒税法が改正され、神社の〈どぶろく〉にも、酒税が課税されることになりました。税金はアルコール度数13度未満の物に対し1キロリットルあたり98,600円を基準にして、度数が1度増すごとに8,220円ずつ加算した額が課税されます。昭和37年より酒税法が一部改正され製造限度量が7キロリットル(38石8斗8升)になりました。
〈どぶろくづくり〉は、古くより受け継がれた独特の技法をもって、雪にうもれた一月下旬に、神社酒蔵で造りこまれます。どぶろくは祭礼用として独特に許可されたもので、境内からの持ち出しはできません。


合掌造、国の重要文化財の指定を受けた和田家を見学する。
建築後約300年を経過した今も、住宅として生活が続けられている合掌家屋。
そのドッシリとした重厚な造りは、時代を耐え抜いてきた風格と、威厳を漂わせている。
 (http://www.shirakawa-go.org/tourism/aji.html)



内部は五階造りになっている。棟下は住む場所ではない。障子が見えるのは四階までであり、二階は物置に使われていると思われた。

家の左のほうに、拡大してみると小さい尖った屋根がある。 これは何処にもあることに気がついたが、これこそ白川独特の消火栓を設置している施設である。聞いたわけではないが、消火栓に違いない。

帰りに御母衣ダムサイトで休んだ。土留めのダムである。



ホームページでは次のように説明している。


高さ131m、提の長さ405m、こんな大きなダムがロックフィル式といって石と粘土だけでできています。
御母衣ダムの建設過程や発電のしくみを紹介している〈御母衣電力館〉と、巨大ロックフィルダムの絶景を眺めながら飛騨の味覚を堪能して頂ける〈お休み処 白川の里〉があります。


さて、最後の映像は御母衣湖湖畔にある荘川桜である。
  http://www.jpower.co.jp/sakura/
このHPを開いてみると、荘川桜に秘められた歴史がクッキリ浮かび上がってくる。



御母衣湖は昭和35年に庄川の流れをせき止めて出来た人造湖で、人造湖とは思えない美しさです。

故郷を偲ぶ歌を刻んだ石碑が立っていました。

  ふるさとは 水底となりつ 移り来し
          この老桜 咲けとこしえに

また写真の歌は、こう詠んでいる。

  御母衣なる 碧き湖水に 花散らす
          桜のこゝろ 誰かしるらん(桂月)

御母衣湖には樹齢450年の2本の老桜がありました。……

水没した中野地区の照蓮寺、光輪寺の庭にあった巨桜を移植したものです。 重さ40トンはあったと言う巨樹で当初は移植は無理と考えられたが庭師の熱意により成功したそうです。 今は両寺の境内にあった時の様に美しい花を咲かせています


岐阜県大野郡荘川村。 ここに、二本の老いた桜が、生きている。
樹高、約二十メートル。
幹周、約六メートル。
樹齢、四百五十余年。

四方を山に囲まれた御母衣湖畔にたたずむこの桜には、奇蹟のものがたりがある。御母衣ダム建設にともない、光輪寺と照蓮寺が、湖底に沈むことになった。そこで春になると村人の眼を楽しませていたのが、二本の老桜であった。

美しい桜が水没することを憂えた男が一人、移植のために奔走した。そのひたむきな思いに、「桜男」と呼ばれた人物が共鳴した。世界の植樹史上、いまだかつて例のない巨桜の大移植。多くの人々の気持が、奇蹟を生んだ。

この「荘川桜」の運命が語るもの。それは、自然のちからづよさと、そして、自然をいとおしむ人間の真心。

桜は現在も、いにしえと変わらず壮大に、咲き誇っている。


これで白川郷訪問の旅を終わる。帰りは下呂を経て帰った。

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