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旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


北陸の旅(2005)

§ 期日、メンバー、動機

期  日  2005年6月25…26日

メンバー  下平秀 下平好上

動  機   秀の叔父、朝倉正治さんは去年なくなった。朝倉の菩提寺は京都だという。日本のポンペイということもあって一度は朝倉氏遺跡を見たいと思っていた。それと車窓にみた丸岡城も旅心を誘っていた。そのほかの見学地は計画していてそれに組み入れたものであった。

§ 行程概要  …実動記録…

イ 出発 25日 5時20分
  飯田IC(5:32)
  養老IC(7:00)
  福井IC(8:20)
ロ 見学 
  一乗谷朝倉氏遺跡 (8:50)
    下城戸
    朝倉氏遺跡
    復元街並
    一乗滝
    上城戸
  永平寺見学 (12:00)
    七堂伽藍
    愛宕公園
    玲瓏の滝
    (昼食)
  越前竹人形の里 (2:00)
  丸岡城 (2:40)
  本光院 (4:00)
  称念寺 (4:35)
ハ 尼御前SA (5:40)
    (夕食・朝食)
ニ 見学
  安宅の関址 (6:20)
  多太神社 (7:00)
  仏御前 (7:30)
  那谷寺 (8:20)
  実盛首洗池 (10:10)
  実盛塚 (10:30)
  北前船の資料館 (11:10)
  (昼食)
  東尋坊 (1:10)
  滝谷寺 (2:50)
ホ 帰路
  丸岡IC (4:00)
  帰宅 午後 8時45分

§ 主な所見

【 2005/06/25 】

天候を気にしていたが、ことしは空梅雨で天気はよかった。朝4時に起きて準備をしたが出発したのは5時過ぎになった。時間が早いと自動車道はすいているのでドライブは快適であった。目的地まで予定していたとおり3時間でいくことができ見学を始めた。

イ 一乗谷朝倉氏遺跡

ここのデータは次のアドレスが詳細を極めていて、必須の参考資料にした(191頁中43頁に及ぶ)。

  http://okhome.hp.infoseek.co.jp/  <戦国大名越前朝倉氏(一乗谷朝倉氏遺跡)目次>

データによると、この朝倉氏遺跡は日本のポンペイといわれたそうである。このことはまったく知らずにいた。遺跡の復元町並入場案内所で頂いたパンフレットによると、朝倉氏の孝景、氏景、貞景、孝景、義景の五代103年間にわたって越前の中心として繁栄し、北陸の小京都とも呼ばれていたそうである。1573年織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼討ちにあい灰燼に帰したという。

遺跡の発掘調査は昭和42年に進められ昭和46年に一乗谷城をふくむ 278ha が国の特別史跡に指定されたという。そうしてみると400年の間に災害などのために埋没したまま、その遺跡は眠っていて陽の目を見なかったことになる。

静かに遺跡を見て回った。人はまばらで何人かの人に行き会っただけである。「湯殿跡庭園」は見事なものであった。足利将軍義昭を招いた観桜会がまぶたに浮かぶ。

『朝倉館と湯殿跡庭園』

       

パンフレットの写真や説明は簡にして明、要領をえていた。

宮本武蔵と剣技を争った佐々木小次郎が秘技「燕返し」を編みだしたという一乗滝へ行ってみる。昨年の福井豪雨災害の爪痕はひどい惨状を残していた。改修工事の最中であり、滝は昔のままの姿で見ることができたが、小次郎の像は傾いたそのままでいた。温暖化現象のためなのか、昨年は新潟と共に福井は大変だったことが見てとれた。

ロ 永平寺

一乗谷から364号線でトンネルをくぐって永平寺に出る。前に一度参詣したが、独自の教えをもっているこの寺の雰囲気はいいものであった。

  http://www.mitene.or.jp/~katumin/index.html <禅の里 永平寺へようこそ>

参考にするとすればこのホームページがいい。

   

この達磨の絵は吉祥閣で受付をすませて傘松閣へはいると正面にかけられている。目と口元に永平寺の無言の教えを伝え続けているような感じがする。案内のパンフレットにしたがって七堂伽藍を見学して廻る。

デジカメの写真はデジカメソフトにすべて収めた。旅行で撮ったものは133枚になっているから、それを見ればいい。修行僧が拭きこんだ床など当たり前のことながら塵埃とて少しもない。大庫院は炊事の建物でその廊下には大きな‘すりこぎ’が吊るしてあった。


  身をけずり人につくさんすりこぎの その味しれる人ぞ尊し


開祖道元から700年過ぎている78代住職は、栴崖奕保(センガイエキホ)という方で、100 歳過ぎのご年配の人である。TVでお話をお聞きしたことがあった。

寺を出てから山門に向かう石段脇の老杉をカメラに収めたり、愛宕公園の鐘楼で鐘を撞いたり、玲瓏の滝や偃月橋を写真に撮り、龍門まえの食堂でおそい昼食をとった。

ハ 越前竹人形の里

丸岡城へ行く途中にあるので立ち寄ってみた。<http://www.takeningyo.com/reimei.html>を開いてみると竹人形の由来が次のように載っている。


   竹人形の由来

 昭和27年頃、竹製花額を作っていた師田保隆と弟の三四郎が、
 竹の切端を利用して竹人形ができないものかと、
 色々試作研究し、永平寺雲水人形、勧進帳やおけさ人形、音楽人形などを作り、
 昭和30年5月には「全国竹製品展」に於て、最高の中小企業長官賞、また
 「全国新製品展」に於ては、農業経済局長賞を受賞するなど、福井県の新しい
 民芸品として誕生したのが越前竹人形のはじまりです。
 その越前竹人形を芸術作品として完成させたのが、師田保隆の長男である黎明です。

 平成4年  越前竹人形「ほたる狩り」日本商工会議所会頭努力賞 受賞
 平成5年  越前竹人形「豊穣の舞」全国土産品審査会運輸大臣賞 受賞
 平成5年  越前竹人形「ひぐらし」国際工芸美術展 入選
 平成7年  越前竹人形「亥」日本商工会議所会頭賞 受賞
 平成10年  越前竹人形「萌筍」新院展30回記念賞 受賞
 平成11年  日本文化振興会 国際芸術文化賞 受賞
 平成11年  福井県丸岡町表彰 芸術文化特別賞
 平成11年  越前竹人形「瑞光」第31回新院展特選 受賞
 平成12年  福井県知事表彰 工芸文化功労賞 受賞
 平成13年  日本文化振興会賞 受賞
 平成14年  モナコ公国名誉賞 受賞


ニ 丸岡城

竹人形の里の見学を終えて丸岡城へ向かう。列車の車中から何度かみて、いい城だなあと思っていた城である。昨年行く予定を立てていたが、城の修理のため延期していた。

   

丸岡城の伝説
城の別名『霞ヶ城(カスミガジョウ)』にちなむものでもともとこの城には守護神の大蛇が住んでいていざという時に、霞を吐いて城を包み隠すという。

丸岡君が以前、一筆啓上で投稿し入選したことは聞いていた。私が調べたのは http://www4.airnet.ne.jp/kmimu/で、このサイトがいちばん詳しかった。


古城・丸岡城(霞ヶ城)
―― 古式の天守を伝える城 ――

丸岡城は、丸岡の街の北東部、家並みを見下ろす小高い丘の上に残る平山城です。
丘は昔、継体(けいたい)天皇の御子椀子(マリコ)皇子がうぶ声をあげたという伝説にちなんで、椀子岡と名づけられ、いつの間にか、丸岡と呼ばれるようになったという。

丸岡城は、柴田勝豊(勝家の甥)が天正四年(西暦1576年)北ノ庄城(福井)の支城として築城したお城で(別名、霞ヶ城)、屋根が珍しい石瓦でふかれたこの現存する天守日本最古を誇っており、城郭建築史上の重要な遺構とされており、国の重要文化財です。

 ※次のような内容へジャンプできるようになっている。
 ◆丸岡城の概要  ◆丸岡城の城郭図
 ◆丸岡城の歴史  ◆丸岡城の歴代城主
 ◆丸岡城の遺構  ◆丸岡城への交通
 ◆丸岡城の構造  ◆丸岡城に関するwebページのリンク集へ
 ◆丸岡城の伝説  ◆丸岡城に関する参考文献、資料集


なるほど、小造りだがこじんまりしたいい城である。天守閣の手がとどくところに組んである梁は古風な武骨さを象徴していると思う。気に入った城である。

城の概要、歴史、遺構、構造、伝説、など見ていくと何とて内部には残っていないが、幾星霜を経てきた歴史の重みを感じざるをえない。


古城・丸岡城(霞ヶ城)の歴史

今から400年以上前、わが国の戦国時代といわれる頃、北陸地方には、武士・郷士・僧兵の間に永年騒擾(そうじょう)が続けられていた。

天正3年(1575)織田信長は、これら北陸地方の一向一揆を平定すべく、大軍をこの地方に動員して当時丸岡の東方4キロ余の山中にあった豊原寺を攻略した。この時、幾多の寺坊は悉く兵火により焼失してしまった。

信長は、この恩賞として柴田勝家に越前(現在の福井県北部の嶺北地方)を与えて守護職とし、北ノ庄(今の福井市)に築城を命じた。
勝家は、その養子で甥に当たる伊賀守勝豊を豊原に派遣して、この地に宮城(みやしろ)を構えさせた。
が、柴田勝豊は交通の利便性などから、翌天正4年(1576)豊原より丸岡に移り築城した。

これが現在の丸岡城である。

丸岡城は、その昔、戦があるたびに大蛇が現れ、一面に霞を吹いて城を隠し、敵の攻撃を免れたという伝説により、この城を一名「霞ヶ城」とも言われている。

天正10年(1582)の本能寺の変後、勝豊が江州長浜へ移ると、城主は安井家清・青山修理亮・忠元・今村盛次と代わり、慶長18年(1613)本多成重が4万3,000石で入城した。

成重は、“鬼作左”の名で知られる三河三奉行の一人、本多作左衛門重次の嫡男である。

重次が陣中から家族にあて、『一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥せ』と書き送った手紙の話は有名だが、その文中の”おせん”は、幼名を仙千代といった成重のことである。

本多氏は、4代重能の元禄8年(1695)、お家騒動に因を発して除封となり、かわって有馬清純が5万石で入部、8代、160年間伝えて、明治維新に及んだ。


お城の伝説 <http://www4.airnet.ne.jp/kmimu/kasumi/densetsu.html>にでている‘人柱お静’の『蛇の井』や『墓』がある。『蛇の井』はまた『霞の井戸』として知られ立札にその由来がしるしてある。

この井戸の由来

天正三年(1575)織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝家の甥、伊賀守勝豊が豊原からここに移り築城した。豊原は一向一揆の最後の根拠地であったため、この地に築城後も一揆の残党が攻撃をしかけてくることもしばしばであった。しかしそのたびごとに、この井戸の中より大蛇があらわれ、城に“かすみ”をかけて城の危機を救った。
この伝説が別名『霞ヶ城』と呼ばれる所以である。現在も春先などに、すっぽりと“かすみ”に覆われた『霞ヶ城』を見ることができる。


ホ 本光寺

霞山の丸岡城を見てから、慶長18(1613)年に丸岡城の城主となった、本多成重(鬼作左の嫡男)が創建したという『本光寺』へいった。寺の横手の墓地に父の本多重次以下本田家累代の墓があった。

ヘ 称念寺

つづいて、丸岡城とはまったく関係のない新田義貞の墓へいった。ここはわかりやすい場所だった。楠正成とともに北朝方の武将であった。燈明寺畷(ナワテ)(福井市)で戦死し遺骸をこの寺に埋葬したという。

【 2005/06/26 】

ト 安宅の関址

尼御前SAで早朝食事を済ませて安宅の関址へでかけた。

安宅住吉神社の駐車場へ車を止めてまず参拝する。境内の右側に弁慶像がある。 義経一行が奥州へのがれる途中に関守の冨樫左右衛門泰家とのあいだにおこったトラブルの地である。歌舞伎の『勧進帳』や能の『安宅』となってこの物語が今日まで演じられてきた。

  <http://ataka-no-seki.or.jp/next.htm>
 詳細はこのサイトをみるか、検索で‘安宅の関’を調べればよい。

  http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/ben/ben1.html
 <弁慶物語>も参考になる。

地図ではもっと広いのかと思っていたが歩くのに苦はなかった。

チ 多太神社

ここには実盛塚に関係している実盛の兜がある神社で、連絡してなかったので境内まで行っただけで立ち寄らなかった。

リ 仏御前の里

   

朝早く連絡もせずに林さん宅の玄関に立った。 家人も驚いたらしく、どこから来たかと聞く。長野県からと答えると、写真のおばあちゃんに説明するかどうか聞いてくれた。おかげに気持ちよく受けてくれた。

調べるには次のサイトがいい。祇王に関係するサイトには詳しくでている。

http://www.yoshitsune.org/yoshitsune_densetsu/hotokegozen/index.html


    君をはじめて見る折は 千代も経ぬべし姫小松
    御前の池なる亀岡に鶴こそむれゐてあそぶめれ

 仏御前は時の最高権力者、平清盛に白拍子としての技を見てもらおうと会いにでかけました。都で評判だったとはいえ、一介の白拍子、最初は会おうとしなかった清盛ですが、当時、屋敷にいた同じ白拍子、祇王のとりなしで会うことになりました。「君をはじめて見る折は・・・」、美しい声で今様を歌い、舞う仏御前。その非凡な才能は清盛の心を揺り動かし、彼の愛を一身に受けます。そして祇王は屋敷を追い出されることになりました。 


 萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはではつべき…


 春に草木が芽を吹くように、仏御前が清盛に愛され栄えようとするのも、私が捨てられるのも、しょせんは同じ野辺の草、白拍子なのだ。どれも秋になって果てるように、誰が清盛にあきられないで終わることがあろうか。祇王が襖に泣く泣く書き付けた一首の歌に、仏御前は無常を感じ、やがて祇王を追い、出家の道を選ぶのでした。


  http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/gio/gio.html
 <祇王>のサイト

林美江おばあちゃんからお話をお聞きしてから仏御前を荼毘にふした裏手の山にもいってみてきた。鬱蒼とした杉林のなかに小さな五輪の塔と墓がある。

街道沿いには仏御前屋敷跡が残されていた。

栞には次のようなことがのっている。


仏御前の生涯と尊像の由来

原町は昔、韓国(百済)から渡ってきた白狐が僧に姿を変え阿弥陀経を誦じていた霊地として、弥陀ヶ原とよばれていました。

花山法皇(第65代天皇-在位984〜986)が那谷寺に参詣されたとき、その由来に感動されて、ここに五重塔を建てられたので塔ヶ原とよばれていた時期もありました。

仏御前は永暦元年(1160)塔守白河兵太夫の娘として生まれました。幼児より深く仏法を信じ『仏』とよばれていました。

承安二年、十四歳の春京都に上り、叔父白河兵内のもとで白拍子になりました。

天性の美貌の上に優れた歌と舞はたちまち京都中の評判となりました。

    君を初めて見るおりは
      千代も経ぬべし姫小松
    御前の池なる亀岡に
      鶴こそ群れ居て遊ぶめれ

と今様を歌う仏の非凡な才能はついに清盛の目にとまり、その寵愛を受ける身となりました。

栄枯盛衰は世のならい

    萌え出づるも枯るゝも同じ野辺の草 いづれか秋(飽き)にあはで果つべき

一首の歌を清盛の館に書きのこして、嵯峨野の奥に世を遁(ノガ)れた先の白拍子、祇王の心情に『仏』は世の無常を悟り十七歳の秋に、長く美しい髪を切りおろして、湛空上人のお弟子となりました。

報恩尼と名乗った『仏』は祇王・祇女親子とともに仏道に精進しました。

安元元年の春、故郷の空が懐かしくなり美濃国(岐阜県)穴馬谷を越え、白山の麓木滑を経て原の里に帰った『仏』は余生を感謝のうちにすごし、治承四年八月十八日(1180)若くしてこの世を去りました。

村人は来集した近郷近在の人々と近くの山に廟をたて、生きている人に仕えるように尊崇しました。このことを伝え聞いた祇王親子は『仏』が形見にと残してきた乾漆の座像を原村に送ってきました。
(仏御前略縁起より)


やんぬるかな昔の女性!

ヌ 那谷寺

那谷寺は仏御前の話とつながりをもっていた。百聞は一見にしかず。

  http://www.natadera.com/<那谷寺>
   生きとし生けるものは 自然より生れ自然に帰る

高野山真言宗別格本山となっているから、この寺は真言密教である。けれども那谷寺の由来をみても『人は生まれながらにして仏である』という発想や空海とのつながりが述べられていない。花山法皇が参詣したのは事実なのだろうが、法皇が感動して仏御前の里へ五重塔を建てたという中味はしっくりこない。

まあそれはそれとして、ジャンプしてみるとよい写真がふんだんに使われていて感心するし、思い出のきっかけにはとても参考になる。

庭園は特別拝観になっているが、これは見ないてはない。立派なものである。宝物館になっている普門閣はその建物の雄大さは北陸随一といわれているものだそうで、これも見落としてはならない。


普門閣

この建物は、ここから三十キロ離れた白山山麓、新保村にあった春木家の家屋をゆずりうけ、昭和四十年に移築したものであります。

同家の祖先、性善坊は親鸞聖人の諸国遍歴にしたがったのち、大日山麓に道場をひらき、子孫は江戸時代、白山西谷五ヶ村の庄屋となりました。

家屋は永平寺再建にあたった棟梁が、弘化四年から三年がかりで完成させました。欅造りで、雄大さは北陸随一といわれております。 云々


境内案内図を見ながらゆっくり見ることができた。

ル 実盛塚・首洗池

   <http://www.yoshitsune.org/yoshitsune_densetsu/sanemori/>


実盛物語
武士の意地か、老木の花か。 篠原に散った斉藤別当実盛

『老木に花の咲かんが如し』、世阿弥があらわした能の奥義であり、まさに実盛の姿でもある。
平維盛が木曽義仲に破れた篠原の合戦で、老武者・実盛は退却もせず、ただ一騎奮戦するも、木曽方の手塚太郎光盛と組み、討死。

大将かと見れば続く軍勢もなく、侍かと思えば錦の直垂を着け、決して名を明かさない。不思議な武者と思った光盛は義仲に首を差し出す。

実盛を知る樋口次郎は、ただ一目みて「あなむざんや」。白髪まじりの髪を染め、前主君・源義朝に拝領した兜を付け、現主君・平宗盛に許された出で立ちで故郷に錦を飾った実盛。

かつて命を助けた義仲の情にすがらぬ、けなげな最期に芭蕉も嘆く。

◆斎藤実盛(?〜1183)
代々越前に住んだが、武蔵国長井(現・埼玉県大里郡妻沼町)に移り、源為義、義朝に、後に平維盛に仕えた。維盛に従って義仲を討つ折、鬢髪を黒く染めて奮戦し手塚光盛に討たれたという。別当とは役職の名称。

多太神社の芭蕉句碑

   

 むざんやな 甲の下の きりぎりす

「奥の細道」で芭蕉も詠嘆。白髪を染めて実盛、討死する。

実盛の首を確かめた樋口次郎は、ただ一目みて「あなむざんや、斎藤別当で候ひけり」と涙はらはら。実盛の討死から500年後、芭蕉が訪れ「むざんやな」の句を詠む。

小松市多太神社が収蔵する木曽義仲奉納の実盛の兜は820年の時を超え、色あざやかに堂々と、その姿を保っている。宝物館の扉を開けば、暗闇に眠る兜が光を受け、往時の輝きを見せる。

『目庇より吹返しまで、菊のから草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり』と芭蕉が賛美した。中央には八幡大菩薩の神号が浮かびあがる。

兜はかつて仕えた源義朝より拝領の品。平宗盛に許された錦の直垂姿も華やかに、死出の旅へと赴いたのである。


●首洗池

 <http://www.yoshitsune.org/yoshitsune_densetsu/sanemori/index2.html>

   

那谷寺から柴山潟の右を走って源平橋を渡ってすぐ右側に『首洗池』がある。写真の右手には説明板、芭蕉句碑、嘆き悲しむ義仲の像などがある。

  大河ドラマのせいなのかぽつぽつ人が訪れている。こうしてみると昨日多太神社の兜をみておくとよかったなと思う。データの写真を見るとかなり立派なもので重さ4.4kgあるという。  

●実盛塚

見学を終わってから新堀川沿いから20号線へでて、実盛塚へ向かった。なかなかわかりにくかった。やっとわかったが、標識がわかりにくかったからだ。

<http://www.yoshitsune.org/yoshitsune_densetsu/sanemori/index3.html>

   

ヲ 北前船の里資料館

 <http://www.city.kaga.ishikawa.jp/administ/gide/705.htm>

実盛塚から瀧谷寺へ移動する地図の途中にこの資料館があることを知り、寄ることにした。はじめてみる北前船主の豪勢な暮らしぶりがわかる。

『駕籠に乗る人かつぐ人、そのまた草鞋を作る人』子供のときに母親から聞かされた言葉である。この家を見ると、昔の千代村野池の通称‘酒屋’の大平さんの屋敷など比べるすべもないようである。私の少年時代の暮しから見ればまさに雲泥のちがいがある。

それはそれとして、これまた一見したことはよかったと思っている。旅はいいものだ。人々の千変万化の生活の様子を目にすると、形の上からも中味の心情の面からも人間理解の深さが増そうというものである。


北前船の里資料館

日本海のロマンを語る豪壮な北前船主邸  北前船の里資料館は、橋立町の旧北前船主・酒谷長平氏が明治9年に建てたもので、昭和57年11月に加賀市が譲り受け、北前船の専門資料館として一般に公開するものです。

酒谷家は江戸時代から明治時代にかけて、大阪と北海道を結ぶ北前船の経営にあたり巨万の富を築きました。30畳の大広間を含め部屋数は17室、土蔵・ 物置が8棟、風呂場、便所も2ヵ所ずつ設けられ、座敷部分床下の各柱は銅板がまかれ腐食しないように工夫されています 。

30畳大広間の柱には欅の八寸角、梁には巨大な松、座敷に通じる正面大戸には秋田杉の一枚板が使われており、財力に任せて産地から直送させたものと思われます。北前船主の豪勢な暮らしぶりを、この建物をとおしてうかがい知ることができます。


ワ 東尋坊

通り道なので寄ってみた。いつも賑やかである。

カ 瀧谷寺

那谷寺は(ナタデラ)というし、瀧谷寺は(タキダンジ)という。面白い言い方である。ともに真言宗の寺である。

 <http://www.takidanji.or.jp/>

このサイトのトップページにある“境内”をクリックし‘もっと詳しく見る’を開いていくと、素敵な画像と説明を見ることができる。

だが、なぜか私の心に響くものはなかった。疲れていたからかもしれない。この寺を見つけ出すのにも苦労した。

以上で北陸の旅の所見を終わる。

※ 25日の 朝倉氏遺跡、永平寺、丸岡城、本多家の墓所・本光院、新田義貞の墓所・称念寺、
  26日の 安宅関址、多太神社、仏御前、那谷寺、首洗池実盛塚、北前船資料館、瀧に寺、
  よく廻ったものと思う。

  時間は午後4時、帰路についた。


     凡欲と仏性を秘めてあわせもち 草・虫の相(スガタ)独り愛で果つ……


ゆらゆらと川のながれに身をまかせ、もろもろのよに遊びたわむる


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