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旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


湖東三山の旅(2004)

§ 湖東三山の旅

【 01 】湖東三山の旅
★西明寺本坊内の「不断桜」

  

西明寺入り口を入って左側に「不断桜」が目にとまる。珍しいものだが、説明のないのがいい。秋、冬、春に開花する樹齢250年になる天然記念物に指定されていると言う。点々と咲く桜の花は、紅葉に映えて奇異な感じがする。
2001.11.15 山崎志朗夫妻と二夫婦で湖東三山へ紅葉狩りにでかけた。家を6時に出ると西明寺には9時半に着く。1時間半あれば見学は十分できる。
琵琶湖の西には比良山系がつらなり、東には鈴鹿山脈が背骨のように通っている。山系と山脈の名が示すように、前者に比べると後者のほうがはるかに険しく、奥が深い。鈴鹿の麓には多くの古刹が建っているが、中でも広く知られているのは、「湖東三山」と呼ばれる百済寺(ひゃくさいじ)と金剛輪 寺(こんごうりんじ)と西明寺(さいみょうじ)であろう。

★西明寺「蓬莱庭」

  

昔、三修上人が琵琶湖の西岸を歩いていたとき、東天に紫雲たなびき忽然として一条の光明がほとばしった。上人は直ちに「飛燕の術」を用いて琵琶湖を飛び越えて、現在の西明寺の地に飛来した。
上人が一心不乱になって祈っていると池の中から「薬師如来」が現われ「日光菩薩」「月光菩薩」「十二神将」を従えて現われたという。
故に、古くは池寺と称した。現在も土地の人たちは「池寺」と呼んでいる。清閑な池で「さるすべり」の古木も印象に残る。

★西明寺庭園内

  

よく掃き清められている手の行き届いた庭園だった。老婆が一人ゆっくりした動きで働いていたのが似つかわしかった。
木漏れ日の差す程度の小道だったのに、紅葉が美しい。
先にたっていく山崎氏と斉子さん、家内、ゆっくりした足取りで往時を偲んでいるのだろうか、落ち着いた雰囲気が旅心を慰める。
世界文化社の「湖東三山」からの引用…
『三修上人について私は無知にひとしいが、おそらく役行者(えんのぎょうじゃ)や行基と似たような山岳修行者で、「飛燕の術」を修したのをみると、シャーマンの一種であったことは疑いもない。最初は近隣の住民を救うために祈祷などを行なっていたのであろうが、それは純粋な仏教というより神仏混淆の思想によって大衆の信仰を深めたのではあるまいか。
いうまでもなく古代には「山」が信仰の対象であり、金剛輪寺の山中には、鎮守の社がわずかにその形跡をとどめているが、池寺の場合は、「水」を崇拝したのが最初の姿であって、灌漑用水に利用することで農民の生活を潤した。鈴鹿山脈の樹木が水をもたらしたので、本来、山と木と水はわかちがたく結びついていたのである。』
記憶していたものは不確かなものである。そうしたことから必要とする記録は活字として記録しておくこととする。

★西明寺「本堂」と「三重塔」

  

紅葉に彩られて平安時代の厳かな雰囲気を伝えていた。最澄によって開かれた延暦寺が隆盛を誇るようになると、西明寺も天台宗の修行道場として栄え、山内には諸堂17、僧坊300を有する大寺院となりました。
しかし、織田信長の兵火の後は衰微、荒廃の一途をたどります。再興の兆しが現われたのは江戸時代以降のこと、高僧天海大僧正が三代将軍家光に仏教の大切さを説き、慶安元年(1648)に寺領三十石の朱印を賜り、延宝年間(1673〜81)には、京都山科毘沙門跡久遠寿院公海大僧正が参詣され、全面的な復興が行なわれました。その後は代々の住職が寺院の保持と整備に努めています。

★金剛輪寺の三重塔

  

登り道の参道にはおよそ一千体の地蔵さんが寄進されており、樹の間の陽射しがあるすがすがしい道だ。
参道おわりの石段を登り二天門をくぐって正面に本堂天平大悲閣があり、左の坂道奥に三重の塔が見える。紅葉の色がすばらしく、殊に塔へいく途中の木漏れ陽の小径は将に錦秋そのものであった。
松峰山金剛輪寺は、嘉祥年間(848〜850)に入ると最澄の弟子・円仁(慈覚大師)によって中興され、天台寺院として発展した。鎌倉時代には近江守護職の佐々木頼綱も帰依し隆盛を誇りした。ましたが、織田信長の兵火に襲われ、本堂天悲閣、三重塔、二天門などがわずかに難を逃れま平大した。江戸時代以降は、天海大僧正の勧めにより徳川家康、井伊彦根城主が応援するとともに、歴代住持の努力によって修復が重ねられました。長らく荒廃していた三重の塔も昭和53年(1978)に修復を終え、本堂、二天門との伽藍配置が完成、現在に至っております。

★百済寺(喜見院の)庭園

  

この庭は昭和15年、「仁王門」傍から喜見院移築の際、拡大移築された庭園である。
百済寺一山本坊の喜見院は、もと千手坊と称していたが、寛永11年、大僧正天海の高弟、亮算が千手坊仙重の後任として入寺するや、千手坊を喜見院と改めた。
その後、元文元年、喜見院は自火により焼失し、元文2年、仁王門の傍に移転改築され昭和時代にいたった。(続く)

★百済寺(喜見院の)庭園

  

池泉回遊式の観賞式で旧庭園と同様に、山上眺望の見事な庭園です。
東方の山々を借景とし、その山林から自然に開けた山水で、庭石は旧庭園のものを移し、更に山内の谷川から運んだ巨石を組み合わせて作庭したもので、書院正面中央の池畔に置かれた平らな石を拝石とし、その正面の渓流の源に見える巨石が不動石である。
東の山の谷水が、この石間から流れ出て渓流となり、池に落ちて護岸の巨石や山影を映し、この池泉をめぐって歩を運び山に登って山頂に達すると、湖東の平野が眼下に展開し、遠くは比叡の御山に連なる湖西の山並みを眺望することができる。
写真ののような広い池面に遊泳する錦鯉見ていると、人の世を隔絶した生死の相を見る気がする。

★百済寺梵鐘

  

湖東三山の南に位置する最古刹で、推古14(606)年に聖徳太子の御願により創建された寺院で、太子自らが彫った十一面観音像が当初のご本尊でした。
平安時代以降、天台寺院として一時は「天台別院」「小比叡」と呼ばれるほどに隆盛を誇りましたが明応7(1498)年には自火により、文亀3(1503)年には戦乱により建築物の多くを焼失、元亀元(1570)年からの織田信長の焼討ちによって一山焼亡烏有に帰しました。
その後江戸時代に天海大僧正の高弟亮算が入山すると再興の勅許を仰ぎ、諸国に勧進して本堂・仁王門などを復興しました。参道を含め諸堂の整備も次々に行なわれたといいます。
平成12(2000)年には創建1400年を記念して石造弥勒菩薩半迦思惟像の建立も実現しました。
梵鐘をうって合掌しているのは、元飯田高校校長、山崎志朗氏である。

★永源寺の方丈から通ずる廊下と法堂と庭

  

永源寺は寂室禅師開山による臨済宗永源寺派の大本山である。
康安元(1361)年、近江の守護職佐々木氏頼がこの景勝地に伽藍を建て寂室元光禅師を要請して開山とし、瑞石山永源寺と号しました。
当時この山中に56坊の末庵をもち二千余の修行僧がいたと記されています。応仁の頃京都五山の名僧知識がこの地に難をさけ修行されましたが、明応(1492)永禄(1563)と度重なる兵火に堂宇を焼失し往時の面影もなく衰微しました。
寛永年間、一糸文守禅師(佛頂国師)が住山し、後水尾天皇の帰依を受けて再興し、法灯がふたたびこの地に輝いたのです。以来当山は、座禅研鑚、天下泰平、万民安穏を祈る道場となりました。
参道120の石段を登りつめた山際に自然石を刻んだ十六羅漢があり、山門までは紅葉の道が続いていた。さすがに臨済宗永源寺派の大本山の風格がある。愛知川の両岸は断崖となっており、景観もよい。

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