旅の記録へ


旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


沖縄旅行(2002)その2


★守礼門



沖縄の首里城の顔といえば守礼門であろう。中国式の門である。この門を見ただけで沖縄は大陸文化を多分に吸収してきたものと判る。
ともかく「中国風だなあ」とすぐ感じた。美しい門だ。
昭和8(1933)年に国宝に指定されましたが、沖縄戦で完全に破壊されたので昭和33年に復元されたという。4本の丸い柱で門を支えておるのだが、女性的なエレガントな佇まいだ。

★首里城正殿



正殿までには守礼門、歓会門、瑞泉門、漏刻門、奉神門が独自の味をもって構えている。
年表を見ていくと南北朝時代に「明国に進貢船を送る」とあり「明朝国名を琉球と命名」と明記されている。沖縄は独自の文化を育んできたのである。
現在は基本的に日本語を使っているのだが、独自の言語文化を形成していたと思われる。沖縄の歴史や海底遺跡など調べて見ると、またまた興味にとりつかれる。
  http://www.okinawainfo.net/iseki.htm

★首里城右掖門の石畳と城壁



正殿から出ると裏口通用門としてこの右掖門がある。石畳の坂道を登ったところにあり、格好のよい門である。
ここの城壁でやっと気づいたが、石はみんな沖縄石灰岩で島そのものがそうなのである。ですから、あちこちに穴があって水が湧出したり洞窟があったり絶壁があったりする。
写真では判らないが、沖縄戦の艦砲射撃で城壁は崩れ落ち、修復した境の所に銅版をはめ込んで判るようにしてある。

★斎場御嶽



案内の石柱、同行の奥山夫妻と秀。このあたり一面の道は珊瑚礁の小指大の破片と、沖縄石灰石のバラ石である。記念として持ち帰った。
ここは沖縄の始祖といわれるアマミキヨが造った七御嶽の一つといわれ、聞得大君(キコエノオオキミ・琉球王朝最高の神職)の就任式が行なわれていました。
旅人でここに来る人も多いと思われるのだが、道も案内も整備されておらず、御嶽がとうとう判らなくて帰路についてしまった。ちょっぴり残念である。

★沖縄本島最北端の辺土岬に建つ祖国復帰闘争碑



闘争という字は好きではないが、長く占領下におかれ戦時中からの辛酸は当地の人々でないと判らないだろう。闘争の碑も意味のないことではない。暗雲棚引く明け方の空のもと、波浪の音は東シナ海の風に運ばれて耳をうつ。
「ワァー、すごいー」本島北端辺土岬に建つこの碑を訪れたときの雰囲気だった。
石碑に刻まれた言葉そのままの状況だった。
浮かれたような気持ちは一瞬にして吹き払われる、そんな空気に満ちている。 凄い場所だ。

この『祖国復帰闘争碑』の台座の碑文は次の通りである。

  全国のそして全世界の友人へ贈る

  吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
  権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ
  打ち寄せる 波涛の響きを聞け
  戦争を拒み平和と人間解放を問う大衆の雄叫びだ
    鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は
    米軍占領に引き続き 1952年4月28日
    サンフランシスコ「平和」条約第三条により
    屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
  米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
  祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた
  われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
    しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
    全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
  見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
  二七度線を断つ小船は船出し
  舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
    今踏まえている 土こそ
    辺土区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ
  一九七二年五月一五日 沖縄の祖国復帰は 実現した
  しかし県民の平和への願いは叶えられず
  日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された
    しかるが故に この碑は
    喜びを表明するためにあるのでもなく
    ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
  闘いをふり返り 大衆が信じ合い
  自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり
    人類の永遠に生存し
    生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
    生きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある


★ヤンバルクイナ展望台から辺土岬を遠望する景観



天然記念物の野鳥ヤンバルクイナの鳴き声はとうとう聞けなかった。クイナが生息しているというくらいだから、山の中には違いなかった。ここでの景観は写真の通りである。

百科事典で調べてみると、おおよそ次のように記載されている。

ツル目クイナ科の鳥。沖縄本島の特産種で、本島北部の山林に留鳥として生息している。ヤンバルはこの種が発見された本島北部の国頭地方の別名。全長約30cm。山林や湿地近くの茂みのなかに単独かつがいですみ、ほとんど地上で生活しているが、夜は木の上にとまって眠るといわれている。この鳥は飛翔(ひしよう)力がほとんどないらしく、かなり大きな翼をもってはいるが、飛ぶのを見た人はまだいない。
ヤンバルクイナは1981年に新種として記載されたが、日本国内で新種の鳥が発見されたのは今世紀になって初めてのことである。そのため大きなニュースとして扱われ、一躍有名になった。現在天然記念物などに指定され、保護されているものの、生息数は多くなく、生態の解明と保護が重要な課題となっている。

★茅打ちバンタから西海岸を望む



写真左海中に突出しているものは宜名真(ぎなま)漁港の防波堤で、前方海岸線に白波が続いていた。海岸は総じて2〜3mの深さの遠浅で、深海に落ち込む線に白波が見えている。

この茅打ちバンタは100mの断崖絶壁になっており、茅を投げても風に吹きあげられてバラバラになることからこの名がついたという。バンタとは崖の意味だという。

★万座毛の異様な絶壁



何回も書くのだが沖縄全島が石灰石でできておるため、西海岸は東シナ海の波浪の影響を受けて侵食し、このような断崖は各所に見ることができる。観光客も多い。

★今帰仁城跡



「いまきじん」と読みたいのだが、「なきじん」と読む。
城壁はすべて石灰岩で白く、延々と続くさまは万里の長城のようだ。大小8つの城郭からなる連郭式山城で、城へゆく道は石段でできていたが、7段続いてちょっと平らで次は5段の石段また平らで、次は3段の石段という粋な道つくりの方法であった。「いち、にい、さん、しい、…」と数えている高校生に問うたところ、バスガイドに聞いたという、そんな答えだった。

★こじんまりとした勝連城跡



小粋な城跡、ここは訪ねたい城である。
沖縄情報IMFの勝連城址をみると次のような情報が得られる。

勝連半島を海中道路に向かっていくと、途中の左側に古城の跡が見えてきます。北山として栄えていた勝連城の跡です。

今からはるか昔、1309年に英慈王の弟、勝連王子が勝連城主として即位、勝連按司10代目・阿麻和利の時代になると勝連は最盛期を迎えます。
奄美大島、さらに中国や朝鮮との交流も盛んに行われていたようです。中城との間に交易権問題がおこって、中城城主の護佐丸と争いがおこり、その後中山軍に滅ぼされてしまいました。
沖縄の現存最古の歌集「おもろさうし」で謳われているように、地元の勝連では領民の信望も厚く、「きむたかの(気高い)あまわり」と呼ばれて、英雄として慕われていたようです。
現在は大部整備されて見学しやすくなっています。順路はほとんど上り坂。がんばっていくと、井戸の跡や建物の礎石の跡がはっきりと残っています。
一部の石組みは新たに改修されていますが、昔からある石組みの方が、格段に技術が優れているのが、見比べてみるとわかります。
色々な遺構には、わかりやすい説明のプレートがつけられていて、とてもわかりやすくなっています。
一番高い所に登ると、ここからの景観は格別。平安座島に続く海中道路、勝連町の町並み、青い海が一望で見渡せます。
観光できている時には、伊計島に行く途中で通り過ぎられる事の多い場所ですが、少しだけ時間に余裕を取って、こんな歴史の足跡に立ち寄ってみるのも一興ではないでしょうか。

沖縄情報IMFの勝連城址は次のように調べました。
  http://www.okinawainfo.net/index.html

★金武大川(ウッカガー)の湧水



新沖縄観光名所100選に選ばれた湧水で、1日1000トンもの水が湧くという。金武町は沖縄県下での琉球石灰石が広大に分布する台地であるため、地下水が豊富でいくつかの横井戸が発達している。
この大川は昔も今も変わらず、地元民の生活に密着しており、遠くからわざわざ水を汲みに来る人も多いという。

★姫百合の洞穴



昭和20年6月の沖縄戦の際に、悲劇的な最期を迎えた「ひめゆり学徒隊」の洞穴があるところ。
従軍看護婦として動員された彼女たちは沖縄師範学校女子部の生徒・職員であった。
なんと悲惨な出来事だろうか。国のためとはいいながら、戦争はふたたびやってはいけない。

★聞くだに悲しい喜屋武岬



この断崖から身を投じた女の人たちを、TVの映像で見た人もいるでしょう。私たちは早朝道に迷いながらも、とうとうこの絶壁の上に立った。
なんとも語る言葉とてなかった。ただただ人知れず涙をのむばかりでした。
戦争の悲劇、ここに極まる。合掌!

旅の記録へ