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旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


須坂の田中家本家(2005)


豪商の館…須坂の田中家本家

2005年7月15日に訪問。テレビでも紹介されていたが、百聞は一見にしかず、一見の価値がある。

まず事前に調べたのは、次のサイト

基本データ


  http://www.tanakahonke.org/index.htm<豪商の館‥信州須坂田中本家

 これはプリントして目を通しておいた。


それから、帰ってきてからまた、参考になりそうなデータを調べてみた。これは次の内容である。

その一


  http://www.shinshu.co.jp/museum/tanaka.html<田中本家>

《田中本家》

 初代新八は、35歳で穀物や菜種油、たばこ、綿、酒造などの商売をはじめ、その後、須坂藩御用達商人となり、田中家の基礎を築いた。2代目新十郎は家訓家定書を定め、家人にものを大切にする心を説き、さらに問屋としての基盤を確かなものとした。その財力は須坂藩をもしのぐものだったという。

 この博物館は、「田中家の生活文化を見てもらおう」と平成5年4月15日にオープン、年間15万人もの来館があり、今年の5、6月ごろには通算で100万人を超えそうだ。

 当時の面影をそのまま残す屋敷構えは豪華なもので、20の土蔵で囲まれた3千坪の土地の中に、四季折々の美しさを楽しめる日本庭園、生活を伝える客殿、主家などの建物があり、現在は土蔵5棟が展示室として使われ、そのほかは散策して回れる。

 常設展示コーナーは、実際に使用されていた江戸から昭和までの調度品、陶磁器、漆器、衣装、おもちゃなどを展示。収蔵品は全部で約5万点、どれも非常に良い状態で保存されており、家訓の言葉を代々守り続けてきた姿がうかがえる。注文書や領収書、古文書も数多く、中には未解読ものもあり、今後の調査結果が楽しみだ。また、年に5回は特別企画展が開かれている。 企画展示室では、4月12日(月)まで「お雛様展」を開催中。江戸中期から昭和にかけて田中家に伝わるひな人形や、着せ替え遊びの市松人形などを展示している。ひな祭り料理の再現会食会もある。4月15日(木)から6月14日(月)までは「五月人形展」を予定、以後も随時企画展を開催する。

 軽食喫茶室では、江戸時代の古文書から再現した「山鳥の雑煮」や「御膳しるこ」が味わえる。4月末ごろまでは特別メニューの「もものおかしと抹茶」もある。お土産品は、お菓子、陶器、漆器、ハンカチ、スカーフなど、展示品からデザインしたオリジナルなものがあり、通信販売も行っている。

 春は桜、夏は沙羅(夏椿)、ヘブンリーブルー(朝顔)、秋はもみじなど、庭園を彩る草花も見所の一つだ。

〈入館案内〉

開館時間…午前9時〜午後5時(4月〜11月)、午前9時半〜午後4時半(12月〜3月)
入館料…大人600円、中高生300円、小学生150円(特別展は別料金)
休館日…毎週火曜日(祝日の場合は翌日)、12月27日〜1月4日、12日、17日
問い合わせ…豪商の館 田中本家博物館
 須坂市穀町476
 TEL026・248・8008


その二


  http://www.museum.or.jp/IM/report/museum_report/tanaka/tanaka.html<豪商の館 田中本家博物館>

豪商の館
田中本家博物館

長野県は北信濃にあたる須坂市。江戸時代後期、ここに今でいう総合商社のような豪商「田中本家」があった。その後、明治・大正・昭和と経て11代。10年まえ、土蔵の整理がはじまり5万点を越える、まさに“近世の正倉院”というべき品々が発見された。平成5年には、それらの収蔵品と屋敷、庭園をいかした「豪商の館 田中本家博物館」がオープンし、同時にすべてオリジナルグッズでそろえた“豪商”の名にふさわしいミュージアム・ショップも生まれたのである。ハンカチ、スカーフ、陶器、さらに漬物、お菓子と品良くそろえた当ミュージアム・ショップ、さらに運営について、ビジネスマンから転身した館長の田中宏和氏に聞いた。

□ 田中本家博物館 

館長の田中宏和さんは、当家12代目にあたる。

土蔵の整理がはじまった10年まえは大手食品会社に勤めるビジネスマンであった。しかし、母堂が整理をはじめた生家のおびただしい文化的価値のある品々を目にしていくうちに、博物館にしなければ、との思いを強くする。やがて、父親である11代田中太郎さん(当時 須坂市長)の決断を得て、博物館開館へと進める。ふるさとに戻ったビジネスマンは、ミュージアム人となったのである。

ミュゼ 開館して3年目になるわけですが、ミュージアム・ショップは最初から考えていらしたのですか。

田中 博物館にしようとした時に、まず、いわゆる“民俗資料館”のような、ただ古いものが並んでいるだけというところにはしたくなかったのです。また、ふるさとであるここ須坂に帰ってみましたら、地元の人たちがいいお土産がないって話されてるんですね。
ですから、田中本家の博物館にきていい思い出ができたな、信州の須坂にはいいところ、いいものがあるんだなと感じていただけるような博物館にしたかったのです。

ミュゼ 須坂のお土産としてのミュージアム・グッズとなりますが、でも、ここのショップの雰囲気はいわゆる観光土産物屋ではありませんね。

田中 私は、職員に「うちは3つの展示室はあるけど、ショップは第4展示室、もう一つの展示室なんですよ」といっています。ですから、商品であるミュージアム・グッズはすべてがオリジナルですし、販売員にも展示室としての対応ができるよう話しているんです。つまり、所蔵品と商品の関連ですとか、所蔵品そのものの説明ですよね。販売はしてますけど、やはり知っていただくこと、見ていただいたものを理解し楽しんでいただくということが博物館には大切なように思うんです。

  ショップのスペースは約33平方メートルと、そう広々としているわけではない。
  松の大木を縦半分に割ったような大きな椅子が目をひく。そしてすべてオリジナル
  という商品は、布もの、陶器、お菓子、食品、小物、絵はがき、書籍と大きくわ
  けられる。

  ミュゼ ミュージアム・ショップが展示室の延長であることの実際的な部分ですね。では、もっと気になるところで、ミュージアム・グッズの開発についてですが。ハンカチやスカーフの柄がとてもすてきです。大判で、しかも少し薄手のようです。

田中 絵柄は所蔵品の着物や皿、帯、掛け軸の絵からとっています。ハンカチは多くの色を使っていきますので、その版代が開発費にかかっていますね。多い物で15色以上です。でも所蔵品の良さを表わすには、その方がいいと思いました。1枚1100円で、やや高めですが、鳳凰に桐、桜といった縁起がよく華やかなモチーフが使われていて、しかも大判(48cm×48cm)ですので和服でのおめでたい席に「お膝かけ」としても利用されるようです。 特別な作り方のものには、それなりの場があるということでしょうか。ハンカチも手を拭く、汗をぬぐうといった実用だけではない、見せるためのものが存在するわけです。

ミュゼ お菓子や佃煮、おそう菜缶詰といった食品もオリジナルなんですね。これは田中本家がお殿さまから接待を申しつかったり、お忍びでおいでのお殿さまになにかお出ししたりという事実にもとづくのでしょうが。

田中 田中本家の古文書には、確かに献立表が多く残っています。その再現の一部はミュージアム・ショップ隣りの「お休み処」での「お殿様が食べた山鳥のお雑煮」や「お汁粉」ですが、お菓子については着物の柄や庭園の木々にちなんであらたに開発したものです。お休み処も、展示品に関するもの“和”にこだわるという考え方を取り入れています。また、お抹茶をお出しする時には、召し上がるお菓子をいくつかの中から、お客さまに選んでいただくサービスをしています。

ミュゼ まあ、よくホテルとかのティールームで、ケーキはどれにしますか?とワゴンで運んできてくれますが、選ぶ楽しみがあっていいですね。それにお店としてはいろいろな種類があることをお知らせすることもできます。ところで、これらの製造は地元である須坂の業者さんにお願いされているのですか。

田中 それは理想ですが、実際はいろいろなところの方にお願いしています。でも、逆にこだわらないほうが地元の方に刺激になっていいのではないでしょうかまた包装には必ず「信州須坂」の文字を入れて、須坂の名前を広く知っていただけるよう心掛けています。

    「お休み処」。店内に流れる音楽は作曲家・杉山公章さんに館のイメージにあわせて
  作っていただいた曲で10曲以上ある。

    豪商の館 田中本家博物館では、平成6年から専用のパンフレットを、つくって通信
  販売もしている。そこには「時を越えてなお鮮やかに息づく文化の香りと歴史の美を
  お手元に…」とキャッチフレーズされている。

ミュゼ 通信販売もされていますね。

田中 買い求めていかれたお客さまから、電話での再注文が多くなりましたので、2年目より通信販売をはじめました。

ミュゼ 通販といいますと、だれにお送りするのか、その名簿も重要になりますね。

田中 来館された方に住所を書いていただいてますので、名簿そのものを購入することはしていません。再注文をいただいた方を中心に、今、通信販売の名簿を整理・拡張しているところです。またお買いあげいただいた方には、通信販売のカタログをつけてお渡ししております。

ミュゼ 博物館には、さまざまな目的や機会で訪れているわけですから、帰ってからじっくりと選ぶというのは博物館のサービスの一つかもしれません。もちろん、販路を広げる意味でも重要ですけど。ありがとうございました。
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 松を割った大きな椅子があり、一冊のノートが用意してある。訪れた人々が、思いおもいに感想をしるしているのだ。そこに20代前半の女性が「この博物館を見て、ものを大切にしなくてはいけないということを学びました」と記していた。田中家の掟である「家訓家定書」には「ものを大切にする心」がうたわれており、それは展示品にあらわれている。豪商とはいえ芸術的に価値のあるものから、雑誌の付録におよぶまでと。ミュージアム・ショップにも、そういう“ものを大切にしたい”気持ちが流れているように思えた。
 田中館長に「ビジネスマンが館長に転身ですね」と申しましたら、「そんなとらえ方したことなかったなあ」、とおっしゃって照れられていた。でも経営センスがいきてますよね。う〜ん、やっぱり豪商だもの!!

             <まとめ・ミュゼ編集長 山下治子>

MUSEUM SHOP-DATA 豪商の館 田中本家博物館

   [オープン]        1993年4月15日
 [運営機関]        財団法人 田中本家博物館
 [面  積]        33平方メートル
 [ひとりあたり単価]    2,000円 
 [年間入館者数]      22万人(平成5年度)、17万人(平成6年度)
 [オリジナルグッズの割合] 100%


その三


  http://blog.livedoor.jp/abyssinia/archives/5776779.html<Abyssinian Life Diary>

故郷自慢

私の故郷、須坂市には、日本の滝百選に数えられる「米子大瀑布」があります。

駐車場から1キロほどハイキングコースを歩くと、高さ85m、滝口4.5mの不動滝、それから高さ75m、滝口5mの権現滝を見ることができます。滝は迫力があり、八月の暑い日でしたが、水しぶきが冷たく寒いくらいでした。

ここは根子岳、四阿山、奇妙山に囲まれ、米子不動尊がまつられており、平安時代より山岳信仰が盛んであったようです。

迫力ある水音とその景観はまさにドラマチックで、デートコースに最適かも!?

ついでに地元須坂市自慢をしちゃうと、江戸中期より豪商であった田中本家があり、当時の生活の様子などを見ることができます。立派な庭もあり、ヘブンリーブルーの青の朝顔が綺麗に咲いていました。

一緒に行った友達が田中本家についての記事を書いています。


その四


  http://www.tsuno.org/mt/archives/2004/08/post_16.html<近況 by nishi makoto>

2004年08月12日
§須坂の豪商 [リポート]

長野市から見て千曲川を挟んだ対岸に、須坂市があります。ここに滞在した折りに、田中本家博物館を訪れました。田中本家は、須坂の町で江戸中期から続く豪商です。

パンフレットによれば田中本家は、享保18(1733)年に「穀物・菜種油・煙草・綿・酒造業など商いを始めて以来、代々須坂藩の御用達を勤めると共に名字帯刀を許される大地主へと成長し、幕末には士分として藩の財政に関わる重責を果たし、その財力は須坂藩を上回る北信濃屈指の豪商になった」そうです。

田中本家の財力は、大正から昭和初期に至っても健在だったようで、当時の子供服や玩具の展示が目を惹きます。可愛い洋服や帽子、クレヨンなどは、すべて東京三越の通信販売で取り寄せたものだそうです。ほかにもセルロイドの金魚とか、西洋風のミニチュアの食卓、それに東京で出版された子ども向けの雑誌などがあって、もし東京の子どもたちと遊んでも、話が合わないということはなかったでしょう。

田中本家の商売はのちに没落したため、荒れかけていた旧宅を改修して、現在のような博物館にしたのだそうです。展示室をでると、京都から職人を呼び寄せて作らせたという庭園があります。この美しい庭園は、天明の飢饉のあと救荒を兼ねて造営したということです。

天明の頃の須坂の農民の暮らしがどんなだったか、不勉強で知りませんが、同じ信州でも新潟県境に近い秋山郷などは、かつて天明・天保の飢饉で三つの集落が滅んだといいます。焼き畑や平家伝承で知られる秋山郷は、いわゆる「山の民」が拓いた地域だということです。


心に残るもの:考えさせられるもの

それぞれのデータには見事な写真や解説がついているのでそれを参考に見るとよい。次の二枚は私が撮ったデジカメ写真で、田中本家の顔になる表門と須坂藩主の句を刻んだ石碑の映像である。



         表門



         須坂藩主の句

  春雨や 田中栄える 種おろし
      
 この句は須坂藩六代藩主堀直寛公の直筆を当家の初代が賜ったものです。
 初代田中新八の生誕三百年を記念し先祖へ感謝の気持ちをこめてこの句碑
 を建立致しました。
       平成11年5月26日 十一代当主  田中太郎

基本データの解説には次の説明がある。


江戸中期・享保18年(1733)初代新八は、現在の須坂市穀町で穀物、菜種油、煙草、綿、酒造業などの商売を始めました。

代々須坂藩の御用達を勤めるとともに、名字帯刀を許される大地主へと成長、3代と5代は幕末には士分として藩の財政に関わる重責も果たし、その財力は須坂藩をも上回る北信濃屈指の豪商となりました。

当時の面影を伝える屋敷構えは、約100m四方を20の土蔵が取り囲む豪壮なもので、内部には天命年間(1780年代)作庭の池泉廻遊式庭園のほか、客殿や主屋などの建物が軒をつらねており、四季折々の散策が楽しめます。


百聞は一見にしかず、その通りなんです。ヘブンリーブルー( heanenly=【形】天国のように;素晴らしい)の朝顔、沙羅(春椿)、色とりどりの蓮の花、それに人になれたカルガモ、池の鯉なども目をひくが、なんと言っても3000坪に及ぶ広い敷地の、建物や庭それと石や水の配置は、気持ちをゆったりさせてくれる。

この屋敷を築き上げていくまでに、何人の職人の人たちの努力があったことか。家具や調度品など収蔵品目が5万点というが、作った人たちが何人かかわったことだろうか。見ているときには目の前にある品物そのものに鑑賞の心がむけられる。作った人たちの生活とか思いなどは目に写らない。

仏像に向かって合掌するのは、釈迦の教えを自分から実践しようとするものが、真剣に立ち向かって像を刻んでいたその心根に向かって手を合わせるものなんだ、と教えられたことがある。

目に写ることにのみ心を奪われてはいけない。その通りである。昔からの教訓である。

それはそうとして、ともかく素晴らしい遺産には目を見張るものがあったことは事実なのである。


栄枯盛衰という無常相は何故生ずるのだろうか。人の心は勤勉と怠惰が輪廻するからであろう。安堵感が満ちてくると怠惰の性が動き始めるからであろう。


人は一代かぎりの中で、この勤勉と怠惰が輪廻してゆく。人の本来の性としか言いようがない。

何らかの特性を何代か継続しようとするならば、しかるべきバトンタッチの方法を必要とする。それは〔家訓〕にほかならない。

〔家訓〕のない家庭での栄枯盛衰、紆余変転は常である。

人は後姿を見て育つという。けれども一理はあっても常ということはない。勤勉怠惰の輪廻より次元が低い。

さっこんの時流に流れていく風潮を見ていると、ことにこの感じが深い。

田中本家に伝わってきた六巻の「家訓家定書」は、この点において意味を持つこととなる。

私たちはこの点に目をむけなければならない。

●家訓について

手元にはもとめてきた「田中家家訓家定書」がある。出版のいわれが、第十一代当主 財団法人 田中本家博物館理事長 田中太郎さんによって書かれている。

「田中家家訓家定書」そのものは、初代新八翁の長男新蔵氏(二代新十郎、信房)によるものである。

この本は「田中家家訓家定書」六巻の古文書の写真と、読み下し文と、現代訳という三通りの文書に接することができる。「家訓家定 二」には “昼夜心懸くべき大事” にかかわって今日の私たちにとっても大事なことが書かれている。

また「豪商の館 信州須坂田中本家」という本の「第四章田中家を支えた人々」をみると、初代新八は元禄十二年四月八日、仁礼村の農民田中伝右衛門の次男として生まれたという。さまざまな苦労を重ねて38歳で現在地に三百坪の屋敷を買い、独立して商売を始めたのが始まりで260年ほど前になるという

つづいて二代新十郎信房について古文書を担当した田中淳さんは筆を進めている。この新十郎の名前は代々襲名されて大正時代まで続いたという。

彼は父親の後姿から勤勉さを学び取り、よく父を助け家督相続のあともますます業績を伸ばし、59のときに「家訓家定書」を著わしたという。

おもだつ「家訓家定書」の内容は、同書80頁からもまとめられている。

<当日の写真はデジカメソフトに収めてある>

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