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旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


鎌原訪問(1995)

§ 鎌原訪問概要

一 日 時  平成七年六月三日
二 参加者  奥山 忠重  奥山 好子
       下平 好上  下平  秀
三 出 発  午前五時 朝食持参
四 行 程 (往路) 五・〇〇〜九・〇〇
       鞍馬辻  松川IC  岡谷IC  和田峠  笠取峠  芦田
       滋野  湯の丸高原 三原  鎌原観音堂
      (帰路) 
       鎌原観音堂  三原  鳥居峠  菅平高原  真田城跡  滋野
       芦田  白樺湖  諏訪IC  松川IC  鞍馬辻
五 摘 要  見るところ
       ・東部町の景観と湯の丸へ行く途中の百体観音
       ・鹿沢温泉郷とスキー場
       ・鎌原 鎌原観音堂 昭和五四年「十日の窪」地籍発掘の出土品
        (裏表紙綴じ込み地図参照)
        毎月八日供養の「浅間山噴火大和讃」録音
        古老からの聞き取り、大笹部落の長左衛門
        干俣部落の小兵衛・大戸部落の安左衛門
           天明被災者の供養碑
           「十日の窪」発掘跡の現地視察
           復旧後の村の現状視察
           旧城主、鎌原家
       ・菅平高原の景観
       ・真田城跡
       ・白樺湖畔
六 その他  録音機、写真機、撮影機、飲食物
       温泉は時間の様子で入湯、夕食(はばきぬぎ)
       会計係=下平  運転手=奥山、交替要員下平

  鎌原訪問の旅会計

 一 通行料  松川−岡谷           一六〇〇
        新和田トンネル          六一〇
        鬼押し出し−三原         三五〇
        三才山トンネル          五〇〇
        松本トンネル           三〇〇
        松本−松川           二一五〇
 二 昼食代                  二七〇〇
 三 飲み物                   八〇〇
 四 燃料代                  三九七八
 五 自動車代                一〇〇〇〇
 六 合計                  二二九八八
                 (分担額  一一四九四)
 七 過不足 奥山(出一四七七八)(超過額   三二八四)
       下平(出 八二一〇)(不足額   三二八四)
 ・ 脛巾脱ぎは会計外とする。

    ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

§ 鎌原訪問 資料

・天明三年旧暦七月八日:新暦八月五日真夏の昼時(一一時頃)
・昭和五三年より発掘開始
・発掘場所(観音堂の下石段下:十日の窪:延命寺跡)
・標高九〇〇mの宿場
・無量院「住職手記」
・三三回忌 観音堂内の供養碑
・熱泥流 八五%死去(四七七人)    生存( 九三人)
・観音堂下の石段 一五段
・現在の子孫は爆発後 六〜七代目
・現在の鎌原地区 二八五世帯一〇〇〇人 再建=道路の両側間口一〇間に一軒
・村教育委員 鎌原さん 戦国時代の初代鎌原城主より四一代目
・昭和五一年三月一四日 「十日の窪」台地隣接の崖下造成中、親子二遺体発見
・観音堂内の現在の遺品=昭和五〇年三月、老人クラブ「十日の窪」発掘、中止命令
・「幸八」は過去帳から一一人の大家族の戸主の独身の弟
・命日の八日、先祖供養の「浅間山噴火大和讃」 
     ついに八日の巳の刻に
      天地も崩るるばかりにて
     噴火と共に押し出し
      吾妻川辺銚子まで
     三十二ヵ村押通し
      家数は五百三十余
     人間一千三百余
      村々あまたある中で
     一のあわれは鎌原よ
・群馬県渋川村では  (渋川まで四〇km=鎌原より一時間)
 「八日昼どき頃、山の手の方より真っ黒なるものの中に火の如くぴかぴか光候もの押し来り候ゆえ、これは駕籠などの通り候やと驚転し、表へ出て見るに、直ちにどっと流れ参り、川筋一面に真っ黒なる中に、火燃えながら押し通り候」
 そしてその後七日間というもの
 「(流れて来た)石にたばこ吸い付け候えば火出で候」というもの凄さだった。
・九日、江戸の名主勘蔵は代官所へ報告 (渋川より一五〇km=鎌原より二六時間)
 「九日八ッ(午後二時)頃より、江戸川の水、泥の様に相成り、いずれより流れ来候や、根つきの立木、打ち折れ候様に相成り、人家の道具、材木、川一面に押し流され参り候。人の死骸、馬など切れ切れに見え、おびただしく流れ通り候」
 遺体は東京・小岩の善養寺に葬られ、一三回忌の折、供養碑が建てられ現存
・伊香保温泉からの帰途、深谷で止宿した江戸の青木九蔵は
 「雨は降り申さず候に、空は一面に赤く、この節は雷(浅間の爆発音)の響き強く駕籠かき驚き駕籠を落とし申し候。九ッ半(午後一時)ごろより誠に真の暗にて手さぐりにて歩きと申し候」
・火山灰=武州(埼玉県)鴻巣、上州(群馬県)甘楽郡、群馬郡一帯で六〜九cm所により四〇cm
・各地で農産物は全滅。死者二〇万人という天明の大飢饉の幕開けとなった。
・家族再編問題 三ヶ月後、涙の七組の再婚式 幕府の意をうけて近隣有力者は献身的救済に当たった。この三実力者をはじめ近郊近在の分現者、富豪たちの救援活動は目覚ましかった。その年の暮、三組の挙式。
・廃墟の上に「骨肉の血族」の村造り
 中央には南北に通ずる用水、両側に道路、道路に面して、間口一〇間の敷地、間口五間×奥行二間半の家、今にその様子を伝えている。
・一日前に、溶岩流が噴火口から踊り出て鬼押し出しの奇景をつくり山林を焼いているが、降灰や山林にじゃまされて視界がきかず、加えて七月以降の昼夜をわけず大爆発をうけ村民は夜も眠れなかったに違いない。
・火砕流の唯一の前例は、弘安四年の異常噴火で、ずっと西よりのコースで今の大笹 や大前あたりで八〇平方kmの広範囲で平均八mの堆積であった。当時は人家はなかった。
・「浅間山は田沼意次を失脚させ、マリー・アントワネットをギロチンにかけた」
・「天めいの生死をわけた十五段」二人の遺体は四十八〜五十段付近。石段は全部で五十段程度。群馬大学法医学教室の鈴木教授の鑑定では「頭骨の構造からみて二人はウリ二つといっていい。母と娘か年齢がやや離れた姉妹か、山間の村里にはそぐわないほど品がよく、きっとたいへんな美人だった」と指摘している。

      浅 間 山 噴 火 大 和 讃

帰命頂礼鎌原の 月に七日の念仏を
由来を委しく尋ぬれば 天明三年卯の年の
四月初日となりければ 日本に名高き浅間山
俄かに鳴動初まりて 七月二日は鳴り強く
夫れより日増に鳴りひびき 砂石をとばす恐ろしさ
ついに八日の巳の刻に 天地も崩るるばかりにて
噴火と共に押しい出し 妻川辺銚子まで
三十二ヶ村押通し 家数は五百三十余
人間一千三百余 村々あまたある中で
一のあわれは鎌原よ 人畜田畑家屋まで
皆泥海の下となり 牛馬の数を数うれば
一百六十五頭なり 人間数を数うれば
若男女諸共に 四百七十七人が
十万億土へ誘われて 夫に別れ子に別れ
文目もわからぬ死出の旅 残る人数九十三
悲しみさけぶあわれさよ 観音堂にと集まりて
七日七夜のその間 呑ず食ずに泣きあかす 
南無や大悲の観世音 助け給えと一心に
念じ上げたる甲斐ありて 結ぶ縁もつき果てず
隣村有志の情にて 妻なき人の妻となり
主なき人の主となり 細き煙を営みて
泣く泣く月日は送れども 夜毎夜毎の泣き声は
魂魄この土に止まりて 子供は親を慕いしか
親は子故に迷いしか 悲鳴の声の恐ろしさ
毎夜毎夜のことなれば 花のお江戸の御本山
東叡山に哀訴して 聖の来迎願いける
数多の僧侶を従えて 程なく聖も着き給い
施餓鬼の段も設ければ 残りの人々集まりて
皆諸共に合掌し 六字の名号唱うれば
聖は数珠を爪ぐりて 御経読誦を成し給う
念仏施餓鬼の供養にて 魂魄無明の暗も晴れ
弥陀の浄土へ導かれ 蓮のうてなに招かれて
心のはちすも開かれて 泣声止みしも不思議なり
哀れ忘れぬその為に 今ぞ七日の念仏は
末世に伝わる供養なり 慎み深く唱うべし
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
   明治初年 滝沢対吉原作 鎌原司郎補正


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