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旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


開田高原(2006)
木曽義仲・開田高原を訪ねて


実施日時 7月11日 午前6時発 午後3時半帰宅
家内と二人
どんよりとした天候で、12時頃県宝に指定されている山下家を見学しているとき、霧雨ながら30分ほど雨に出会った。これ以外雨にはあわなかった。

この記録のほかブログ-天竜川にもプロログを載せてある。



権兵衛トンネル

この四月、361号線の権兵衛トンネルが開通した。上伊那地方と木曽谷を結ぶ重要な路線だったから、関係者の喜びは格別のものがあったと思う。

説明を見ていると一時間半かかっていたのが三十分で行けるというから、ありがたいに違いない。写真の権兵衛トンネルはおよそ4.5kmで地図上では権兵衛峠を越えて木曽側へ顔を出していることになる。

権兵衛トンネルに続いて番所、羽渕、姥神のトンネルが続き、姥神の出たところは神谷川で標高差が大きいのでS字形の変形ループ線になっていた。

旗挙八幡宮
19号線に出て左折し、橋を渡ってちょっとした登り道となるが、平になってからすぐ道路の右側へ入る道があり、そこを入ると「木曽義仲館跡」と「旗挙八幡宮」がある。



写真正面が旗挙八幡宮でその左奥には樹齢1000年といわれる大ケヤキがドッカと根を下ろしている。掲示板には次のような説明がある。

『この御神木である大欅は、かつては胸高周囲約十二メートル、樹高約三十メートル、樹齢約八百年とされる古木(支柱のある部分、農学博士であり樹医である浜武人氏の平成十四年の調査による)でした。当地日義村内には古くから『義仲の七本欅』とよばれるケヤキの巨木があり、現存するのは当旗挙八幡宮境内のこのケヤキのみです。
旗挙八幡宮の所在するこのあたりは源木曽義仲公が館を構えたところであり、この地において高倉宮(以仁王)の令旨を賜り平氏打倒に挙兵したものであります。今から約八百年前の治承四年(一一八〇)年のことです。このケヤキはその樹齢が約八百年といわれていますので、この頃に植えられたものと推定され、また義仲公の元服を祝って植栽されたものともいわれています。
しかし平安時代末期から生育する木曽義仲公ゆかりのこの大欅は落雷・台風の被害により手前の幹は折れ、近年その樹勢が衰え、残りの幹もその姿をとどめておくことが困難であることがわかり、より永い延命と保存のためにその生命力を枝一本にかけることになり、現在の御姿にかわることとなりました。平成十四年三月のことでした。
      平成14年6月吉日              旗挙八幡宮  』

デジカメ撮影位置の左方向に「木曽義仲館跡」の石碑が建っている。

その昔、義仲がこの谷合で成長し、源氏再興の令旨におうじて挙兵し、倶利伽羅峠の戦に大勝し平家を追って京都へ攻め上り、京都での悪評もあって源氏の頼朝に討たれることになろうとは……。

  栄華の春も 移ろえば
  雲北嶺に 群らがりて
  六波羅の夢 破れよと
  荒ぶは木曽の 青嵐

琵琶湖畔にひっそりと佇む義仲寺を訪れてみると、木曽の武将の最後がいかんとも哀れである。

義仲の略歴

1154年 生まれ。幼名「駒王丸」。父義賢、母小枝(さえだ)義賢の次男として誕生。
1155年 8月16日 2歳の時、悪源太義平により父親が大蔵館にて殺害され、母は
      駒王丸をつれて逃走。斉藤別当実盛・畠山重能の計らいによって、佐久(長野県)
      の矢田義清の居城「大崖城」に逃れる。
1156年 木曾の中原兼遠のもとで養育される。
      兼遠は駒王丸を文武両刀、気は優しくてちから持ちをモットーに育て、実際
      そのように育った。
1166年 京都石清水八幡宮で十三歳で元服し、木曾次郎義仲と名乗った。
      清盛が太政大臣に任命されるのはその翌年。
1170年 海野兼保(兼遠の兄)の娘 山吹 と結婚
1173年 義高誕生
1180年 以仁王の令旨を受け挙兵。北陸・信濃で勢力を拡大、上京をめざし固く準備
      をする日々をすごす。この年、義高元服。
1183年 3月 義仲の叔父 新宮十郎行家を匿ったとして、いとこの頼朝と険悪なム
      ードに。義高を大姫の婿として鎌倉へ。それにて、とりあえず鎌倉は黙らし
      たものの、いざ入京するとそこは飢饉の真っ最中。馬に食べさす草もない。
      そんで、ちょいと人に黙って田んぼの青葉を食わしたりしたから、都の人は
      かんかん!みるみる評判は低下、結局頼朝軍に追われるはめに。
1184年 1月20日、琵琶湖南岸粟津河原にて兼平より一足お先に没。

木曽義仲年表
西暦年号月日.
1154久寿元.義仲(駒王丸)生まれる。
1155久寿二8/16義仲の父義賢、武蔵国比企郡大蔵館で甥の源義平に討たれる。
...義仲(駒王丸)木曽に逃れ、中原兼遠に養育される。
1156保元元7/11●保元の乱始まる。
1159平治元12/9●平治の乱始まる。
1160永暦元.●源義朝殺され、源頼朝伊豆に流される。
1166仁安元.義仲元服。
1177治承元6●京都・鹿ヶ原の陰謀発覚。
1179治承三11/15●平清盛クーデターを起こし、後白河法皇を閉じこめ院政を停止する。
1180治承四4/9●源頼政、以仁王から平家追討の令旨を得て、諸国の源氏に伝える。
..5/26●以仁王、源頼政、義仲の兄仲家ら敗死。
..6/2●清盛都を福原へ移す。
..8/17●源頼朝伊豆にて挙兵。
..9/7義仲挙兵。
..10義仲、上野国に入り12月信濃に戻る。
..12/28●平重衡、東大寺、興福寺を焼く。
1181養和元6/13,14●平家方の城氏、越後より信濃へ攻め入る。義仲これを横田河原(長野市)に
...迎え撃って大勝する。
..9/4●平家軍、義仲の軍と越前水津に戦い、敗退して京都へ退く。 『吾妻鏡』
1182寿永元.●この年凶作。義仲、頼朝、平氏の三勢力対峙する。
1183寿永二3義仲、頼朝と不和となる。義仲、長子義高を人質として送り和解する。
..4/17●義仲追討のため、平経正・通盛軍、北陸道へ進む。
..5/9義仲兵を進めて、越中盤若野に平軍を破る。
..5/11●越中砺波山の東に陣をとり、夜に入って平維盛の大軍を大いに破る。『平家物
...語』
..6/1●さらに平軍を追って加賀篠原に破る。義仲の武将手塚光盛、斎藤実盛を討つ。
..6/10義仲、越前の国府に入り、覚明に延暦寺へ牒状を書かせ僧徒を誘う。
..7/25延暦寺、義仲の求めに応ずる。
...義仲、京都に迫る。平家、安徳天皇を奉じ京都を逃れる。
..7/28●後白河法皇、一時延暦寺難を逃れる。『玉葉ほか』
..8/10義仲、行家京都へ入り、後白河法皇に拝謁。平家追討の院宣を受ける。
...義仲は従五位下左馬頭兼越後守に、行家は従五位下備後守に任ぜらる。
..8/15朝日将軍の称号を賜る。
..9/20義仲、伊予守に任ぜらる。
..10/1義仲、平氏追討のため播磨へ向かう。
..11/19義仲軍、備中水島の戦いで平軍に敗れる。
..12/15義仲、法住寺殿を攻め法皇の近臣らを解官する。
1184元暦元1/10●法皇、藤原秀衡に頼朝追討の院宣を下す。『吉記』
..1/20義仲、後白河法皇より征夷大将軍に任じられる。
...●源範頼・義経の軍、勢多・宇治で義仲軍を破り京都へ入る。
...義仲、近江の粟津に戦死する。今井兼平、根井行親らも戦死。
..2/7樋口兼光も京都で斬られる。
..2/19●一ノ谷の合戦。
..3/24●屋島の戦。
..4/21●壇ノ浦の戦。平家亡ぶ。
1185文治元5/1義仲の長子義高、鎌倉を脱出するが4月27日武蔵国入間河原で討たれる。『吾
...妻鏡』
...●源頼朝、木曽義仲の妹宮菊を鎌倉に召し、美濃国遠山庄内の一村をあてがい、
...信濃の御家人小諸太郎らに扶持させる。

義仲の仲間たち   <詳細はここをクリック>
○幼少からのお付き合いの人々・木曾の人々

  今井四郎兼平   義仲の生涯のベストフレンド。
  中原兼遠     兼平の父親。義仲の養父。
  樋口次郎兼光   兼平の兄。木曾四天王の一人。
  巴        兼平の妹。義仲のスペシャルガールフレンド。
  落合五郎兼行   兼平の弟。義仲にとっても弟分。

○人生の出会い・旗揚げからのお付き合いの人々

  大夫房覚明    京都から逃げてきたお尋ね者のボウズ

○特別なご縁の方々 <ウィキペデア「斉藤実盛」>

  斎藤別当実盛   幼い義仲を助けてくれた人の一人

巴ヶ淵



 木曽三川 三十六景の一

義仲とともに幼少を過ごし、生涯をともにした巴の名にちなんで巴ヶ淵とよばれる。木曽川が山吹山を迂回して形づくる深い淵に、神秘さを感ずる。

   【伝説の残る巴が淵】

伝説には、この淵に竜神が棲み、化身して権の守仲原兼遠の娘として生まれ、名を巴御前といった。義仲と戦場にはせた麗将巴御前の武勇は、痛ましくも切切と燃えた愛の証でもあった。巴御前の尊霊は再びこの淵に帰住してと言う。法号を龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓が苔むして並ぶ。絶世の美女巴は、ここで水浴をし、また泳いでは武技を練ったという。そのつややかな黒髪のしたたりと乙女の白い肌えには、義仲への恋慕の情がひたに燃えていた。岩をかみ蒼くうずまく巴ヶ淵、四季の風情が魅する巴ヶ淵、木曽川の悠久の流れと共に、この巴ヶ淵の余情はみつみつとして、今も世の人の胸にひびき伝わる。

   蒼蒼と巴ヶ淵は岩をかみ
      黒髪愛しほととぎす啼く
                            日  義  村
                            日義村観光協会

徳音寺
巴ヶ淵を見てから徳音寺へ向かった。広い駐車場には人の気配はない。お寺の若いお大黒さまが庭の掃除をしていて、見学してもいいかと尋ね、許可をえて見学した。

山門[徳音寺] 徳音寺境内入口に立つ鐘楼を兼ねた山門は享保8年(1723)に犬山城主の成瀬公から寄進され、木曽大工により建立されたといわれる。木曽八景「徳音寺の晩鐘」とはここの鐘のことで、日の入り時に鳴り響く荘厳な音色は往来する旅人に昔から親しまれてきた。

この山門をくぐり寺前の巴の騎馬銅像を見て、左の方「宣公郷土館」に拝礼し、裏山へ石段があって義仲の墓があった。義仲の墓は中央一段と高い場所にあり、データにもあるように一段下の左に龍神院殿と刻まれた巴の墓石があった。

  歴史は長し 七百年
  興亡すべて 夢に似て
  英雄墓は 苔蒸しぬ    合掌!

なお、ここの鐘楼(山門)は木曽八景の一つである。 木曽八景   徳音寺の晩鐘(日義村・徳音寺)     日義村の木曽義仲の菩提寺、晩秋の夕暮れに撞く暮れ六つの鐘の音は有名である。     ・遠近は 聞もさためる 山風の  さそふままなる 入相のかね   駒ヶ岳の夕照(原野・道の駅)     三岳・王滝・開田村にまたがる古くからの信仰の山、御嶽の五・六月頃の残雪が     薄紫色の山肌に美しい模様を描き情緒がある。     ・志なのちや むかはぬ不二の おもかげを  ここぞみたけの ゆきの夕はえ   御嶽の暮雪(開田・地蔵峠)        桟の朝霧(上松・木曽の桟)   寝覚の夜雨(上松・寝覚ノ床)   風越の晴嵐(国道19号・滑川付近)   小野の瀑布(小野の滝)   与川の秋月(南木曽・与川古典庵) 木曽観光協会のHP、木曽義仲の中に「徳音寺」の紹介がある。

  仁安3年(1168)、義仲が母小枝御前を葬った寺で、一族の菩提寺。境内の墓所には、
  義仲の墓を中心に、右側に母小枝御前と今井四郎兼平、左側に巴御前と樋口次郎兼
  光の墓碑が並ぶ。木曽七福神毘沙門天霊場、中部四十九薬師二十二番札所としても
  知られる。
  徳音寺の境内にある、昭和43年に建立された「宣公郷土館」には、義仲の守り本尊
  (兜観世音菩薩)をはじめ、義仲愛蔵の品々が展示されている。
  また中山道の宿場町として栄えた「宮ノ越」に残された文化財を見ることができる。

木曽義仲については次のデータが参考になる。

   <木曽義仲のホームページへようこそ>

    次の内容があるから必要なところへジャンプすること
    ビギナーさん この時代についてもよく知らない方へ
    木曽 義仲  このHPの主人公 大特集です!
    義仲の仲間  共に戦った義仲の仲間たちをご紹介
    義仲の親族  源氏義仲の親族関係をご紹介
    戦マニュアル 義仲が繰り広げた戦の詳細
    義仲BOOK 木曾義仲関連書籍のご紹介
    義経伝説   イトコ義経のアヤシイ北の国伝説
    志水物語   息子義高と、大姫の悲恋の物語
    古典の扉   「平家物語」の原文と我流口語訳を紹介
    歴史の扉   義仲周辺の歴史年表や歳比較など
    大河の扉   大河「義経」視聴者への当サイトご案内
    義仲の旅 義仲伝説を追って、旅してみませんか


   <木曽義仲・巴御前墓所 徳音寺>の徳音寺も参考に見るとよい。

   <ぼくたちが歩く中山道>の「宮ノ越」も開いてみるとよい。

開田高原

国道を南下して木曽八景の一つ「駒ヶ岳の夕照」の場所になっている原野の道の駅に立ち寄る。曇っていたから駒ケ岳は勿論見えない。丈夫な竹篭や檜笠があった。

木曽福島にある興禅寺と山村代官屋敷(木曽町観光協会(>文化・歴史>福島宿を開く))を見る予定であったが、今回は省いて木曽福島の町へ入る手前の木曽大橋を渡って開田へ向かった。

開田高原を調べるのには次の二つがよい。

<木曽町観光協会>
   ガイドの項目は下の通り

   イベント情報
   味と工芸
   いろいろ体験コース
   観る・歩く……開いて参考になる
   食べる
   遊ぶ
   文化・歴史……開いて参考になる
   泊まる・温泉

       上の項目ガイドの他に、合併前のホームページが
       始めの頁右側に LINK として載っている。

<開田高原>
   開田高原  満喫ガイドの項目は下の通り

   乗馬・そば打ち体験……開いて参考になる
   温泉につかる
   歴史にふれる……開いて参考になる
   味・工芸品
   遊   ぶ
   開田高原はどこにある?
   食  べ  る
   泊  ま  る
   花  図  鑑
   ハイキングコース……開いて参考になる
   リ ン ク 集

@ 唐沢の滝

  県名: 長野県木曽郡木曽福島町
  滝名: 唐沢の滝
  落差: 100メートル
  撮影: 2004/09/03
  特徴: 国道19号線で塩尻市に向かって走り、木曽福島町に入ってから、国道361号線を進。地蔵峠に差し掛かる手前に滝が落ちている。滝つぼまで行けそうだが道路からの撮影とした。滝の上に道路が見えるが多分この道路の工事のため、滝の落差が縮まったのだろう。

掲示板

  唐沢の滝 Karasawanotaki Waterfall           木曽福島町

正面に見える滝が「唐沢の滝」で、木曽福島から飛騨国高山に通ずる飛騨街道の名勝の一つになっていました。
旧道はこの滝の右斜面を登り滝の上に出ました。
高さは七十五間(135メートル)、四段の滝でしたが道は度々改修され、滝の落下地点もそのために低くなりました。現在の滝の高さは約100メートルです。
明治には、黒川八景に数えられ、また、寝覚の床、王滝の氷ヶ瀬と共に、木曽三勝といわれました。
                                

この滝を見ることと地蔵峠からの景観を見るために、361号線の旧道を走った。滝壷からはかなり距離があって落差が100mあるとは思わなかった。だが夏見るのには気持ちよい景色であった。

A 地蔵峠 1335m 木曽八景の一つ「御嶽の暮雪」

雲が低迷していて御嶽の山は見えない。

B 開田高原観光案内所開田高原の地図を参照

出発時に地図やデータをうっかり忘れてきてしまったので、先ず記憶にあった案内所を見つけて知識を仕入れることにした。探していると苦労もなくわかって、地図をもらったり観光したらいい場所を教えてもらったりした。パンフレットに載っていた冷川渓流の写真撮影の場所も、後になってみたら、間違いのない教え方をしてくれて大変ありがたかった。こんど行ったらお礼を言っておこう。

ともかく、必要事項を確認しておくためにも、ろいろと情報を手に入れるためにも、こうした案内所には立ち寄ることがベターである。

ここで開田高原の行き先と順序が決まった。

C 木曽馬の里と一本木亭(そば道楽体験道場)

木曽馬の里
木曽馬を見ると、ア〜ァッ、木曽へきた!という感覚になった。

なんと、長閑なのであろう。

画像の縁は BORDER="3" として普段と違えたが、この縁取りの世界を一幅の別世界と見れば、忽ちにして長閑な別世界となろう。これで雲雀でも鳴いていれば言うことはない。

人間社会のアクセクした世界から完全にはなれた世界だ。杜甫の「春望」の詩がいろいろの思いで回想される。

  国破山河在  国破れて山河在り
  城春草木深  城春にして草木深し
  感時花濺涙  時に感じては花にも涙を濺(ソソ)ぎ
  恨別鳥驚心  別れを恨みて鳥にも心を驚かす
  烽火連三月  烽火(ホウカ)三月(サンゲツ)に連なり
  家書抵萬金  家書萬金に抵(アタ)る
  白頭掻更短  白頭掻けば更に短く
  渾欲不勝簪  渾(スベ)て簪(シン)に勝(タ)えざらむと欲す
写真の右手にちょっと白く見えているのは、直ぐ右にいる母馬の子が気持ちよく寝ている。すぐそばまで行って声をかけたが、一向に起きようとはしなかった。わァ〜ッ!すごい! 平和そのものだと思った。

<開田高原>の中の‘歴史にふれる’を開くと「木曽馬について紹介」が載っている。一時は7000頭もいたというのだから驚きである。「よく粗食に耐え従順である」と一口に聞いてもいた。競馬に使えなくても人を和ませてくれる優しい馬なのである。

◆ 一本木亭(そば道楽体験道場)

西野地区に「そば製粉製麺工場」があって、そこは製粉製麺専門にやっており、ここでは、そのそば粉その他の売店と食堂をしている。よほど「そば打ち道場」をお願いしようと思ったが、一人だけだし予定もしてなかったのでお願いしなかった。昼食にはまだ時間があったから、そこを後にして冷川渓流の写真を撮りに行くことにした。

D 冷川渓流

旧開田村は木曽馬以外にはめぼしい産業がなかったから、それだけに、観光案内に関してはとても進んでいたと思います。A4版の8枚のアート紙(というのか)の印刷も編集内容も一流の配慮がいきとどいている。これはパンフレットを手がけた人にとってはすぐに気のつくことであろう。

◆ ガードレール左下の冷川渓流
御岳山とか冷川渓流の写真はすばらしい。私は最初からここを狙っていた。

だから観光案内所でお聞きしたとき、カーブミラーが左側にあることと右側がナマコンの噴きつけ壁ということと、ガードレールがちょっと切れていること、この三つを指示してくれた案内所のお姉ちゃんにほとほと感心した。

というのは道の案内も的確であったが、渓流の入り口がわからずに下流のほうの十字路へきてしまった。あっ、見落としたぞ、と思って、前の三つの指示を思いだして注意しながら上流へ戻っていったのである。そしたら、言われたとおり三つの条件はぴたり揃って現実にあったのである。

それで、私は道案内の上手な仕方に感心をし、感謝したのである。

渓流へ降りる道はわずかであったが露にぬれたが、すぐ同じ景色が目に飛びこんできた。嬉しかった。渓流は霧っぽくガスがかかっていたので、パンフのような出来ばえとはならなかった。だが、この景観には多分に満足したのである。

E 長野県宝 山下家住宅・開田考古博物館

◆ 山下家住宅
開田にこんな住宅があるとは想像もしなかった。ここを訪問したときちょうど霧雨に出あった。前庭の木や草花は楚々として美しく気持ちよく客人を迎えてくれていた。

本棟づくりの玄関を入った左側は馬屋になっており、右を見ると二つの囲炉裏がある豪壮な間取りが目に入る。う〜ん、凄い! 奥さんに言われるままに家の中を見てまわる。階段や調度品の戸棚は昔造りの品格があった。

中ほど左側にある若夫婦の部屋、本棟二階正面の家主の部屋、しっかりしたものである。囲炉裏を切った二つの大部屋の奥に並んだ部屋には山下家の古い文書がいろいろと掲示されたり展示されていた。馬の医者としてTVに出てくるような薬草分類引出箱もある。山下千助の医師免許には長野県の大きな朱印が押されていた。

調べたデータは、実生活の中に現存していたのである。

<開田高原>の中の‘歴史にふれる’を開くと、江戸時代には、庄屋、鍛冶屋(蹄鉄鍛冶屋と思う…下平)、村の三役、を勤めた大馬主で、最盛期には250頭の親馬を所有し、年に100頭の仔馬を売ったという。

月曜日休館で、入館料金は400円、パンフレットをくれるが、それに詳しい説明が載っている。

当時、仔馬1頭の代金の半分で、普通の農家が一年暮らせた時代だという。これらの収入は勿論生活にも使われたでしょうが、昔の素封家は民百姓ではできないことのためにお金を投入することが多かったから、おそらくは、開田の灌漑や道路整備、公共事業など村の発展に役立てたと私は思います。

平等不平等だけの論理だけでは割り切れない歴史の足跡を、歳を重ねてから感ずるようになってくるのです。

開田考古博物館、ここはよく整備されていた。もっと時間をかけて見たかった。時間をかける値打ちは充分あるだけの整備をしてある。 腹がへったので昼食を急いだ。

F そば処まつば

さて、食堂は何処?と探すと、なかなか見当たらないもの。西野地区の山下家住宅から九蔵峠を越え、把ノ沢部落を過ぎて「そば処まつば」まで来てしまった。

ここで食べたソバは、誰が打ったかわからないが、まだ初心者が打ったらしいものだった。味はまあまあだったが………。

G 帰路につく

観光案内所で予定した場所はこれでおわった。自分のデータ集を忘れたのは大変な痛手であった。もう一度来ればいいのだ、という思いもあって時間は早かったが早めに帰ろうと考えていたので新地蔵トンネルを通って帰路についた。

木曽福島の興禅寺、山村代官屋敷を見る予定にしていたが、これも省略し権兵衛トンネルのコースで帰宅した。 時間は4時頃だっただろうか。

以上で木曽義仲・開田高原の旅記録は終える。

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