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旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


犬山城・他(2002)

§ 犬山城から飛騨鍾乳洞

第1日目 8月3日

今回は一人旅。

行程概要  飯田IC、中津川IC、犬山城、岐阜城、墨俣城、養老の滝、小谷城址、
      須賀谷温泉、関が原IC、養老SA、美濃IC、八幡城、郡上八幡IC、
      ひるがの高原SA、飛騨清見IC、飛騨鍾乳洞、乗鞍スカイライン、
      松本IC、松川IC

主な見学地

    〔犬山城〕



山城は別名白帝城ともいわれ、木曽川べりにその優美な姿を見せている。明治4年成瀬氏9代目正肥のとき、廃藩置県で廃城となり天主を除くほかは殆ど取り壊された。

明治24年濃尾震災付櫓や城門が壊れたので、同28年旧犬山藩主成瀬正肥に、城を修理するという条件で譲られ、唯一の個人所有として現在にいたっている。

詳細は次のサイト

犬山城(別名・白帝城)
犬山城
犬山城

  〔岐阜城…稲葉山城〕



256号線を北上して金華山山麓の岐阜公園前の十字路交差点を渡って直ぐ左折してパーキングへの進入道路となる。駐車場がわからないときは聞くに限る。ロープウェイ乗車券の裏に簡単な散策コースが印刷されている。

戦国時代の武将斎藤道三は、信長の天下布武には必ず出てくる名前である。彼の居城を陥れ尾張から美濃へ歩をのばし自分の居城とした。急峻な山頂に築城することを思うとき、その労苦は如何ばかりであったことだろうか。

次のサイトを参照されたい。

岐阜城(別名・稲葉山城)
岐阜城小史
金華山にあるものいろいろ

    〔墨俣城〕



立秋まじかの暑い暑い一日だった。温暖化どころではなくまさに熱暑化である。砦であったに相違ないが、秀吉の具体的功績の第一歩には間違いないことだった。美濃攻め稲葉山攻略の拠点になったのは間違いない。城に入ったところに気の効いた二人の女性が、質問に対して親切に説明してくれた。一億円創生でつくったという。「前野家古文書」に基づいた資料は相当に詳しい。

次のサイトを参照されたい。

秀吉と墨俣城
長良川紀行墨俣一夜城
墨俣一夜城

    〔養老の滝〕



駐車場からだいぶ離れていた。滝壷のそばまで行けるので、叩きつけるように落下する水の音と涼風が印象的だ。道のりは散歩としては十分すぎるほどあった。

【伝説の話】

『むかしむかし、この美濃の国に貧しいけれど年老いた父をいたわり、それはそれは大切にしている樵がいました。

或る日。薪を採りに山に入りますと、苔むした岩間から、酒の香りがただよってくるのです。不思議に思ってなめてみますと、酒の味がするのです。喜んでその水をひょうたんにつめて持ち帰り、老父に飲ませますと、この上もないよい酒だといってたいそうな喜びようです。この父と子の笑いさざめく寿の声は、やがて奈良の都まで聞こえてゆきました。

時の帝、元正天皇は「これは孝行の徳を天地の神々がおほめになったのであろう。」とおおせになり、 天皇御自身こ多芸の野におこしになり、その酒になったという美泉を御覧になり「美泉は醴泉であり、若変りの水です。私自身若々しくなりました。」とおおせになり、このめでたい年を記念して、80歳以上の老人に授階や恩賜があり、孝子説婦を表彰され、年号を、わかがえりの年、即ち「養老」と改めたのです 』

    〔小谷城址〕



信長の妹お市の方が18歳で嫁いだという浅井長政の居城はどうしても見ておきたかった。山城としてもせいぜい4〜5百m登ればいいものと勝手に決めていたら、とんでもない山城で、全体を散策するならば一日の時間をかけなくてはならない。遺跡をみていると、まさに《兵どもが夢の跡》である。夕暮れに近かったから、何か亡霊がひしめく感じがした。浅井長政はじめ郎党あわせて800人ほどが死んでいる。

写真は山王丸跡で、大嶽城跡に続く山頂にある。

訪れる人とてたえてなく、郎党ゆかりの方で京都からきた夫妻二人に出会っただけである。奇しくも須賀谷温泉でも顔をあわせた。
参考サイトは次の通り。

小谷城の生き立ち・小谷城の七不思議
小谷城の戦い
小谷城

  実際には検索で「小谷城」を調べてみると、参考になるサイトが沢山ありますから、ゆっくり見ていくことを薦めます。 
この他、「合戦の現風景」とか、

姉川の戦い
姉川古戦場
二つの連合軍が激突
賤ヶ岳古戦場

「戦国の武将」、「戦国の合戦」など調べてみるといいでしょう。

戦国の武将
戦国の合戦

“数奇な運命をたどったお市の方”
仲の良かった兄から、政略結婚の相手として小谷城主浅井長政のところへ嫁しづいた。「お局屋敷跡」は「大広間」を過ぎた左下斜面にある。哀れをさそう。
彼女の長男「万福丸」は後に秀吉に殺され、長女「お茶々」は後に秀吉の側室「淀殿」になり、次女「お初」は従兄弟の京極高次に嫁して織田徳川の間で和議に奔走し、三女「お江」は二代将軍徳川秀忠の正室となりました。
彼女自身は小谷城落城の折、夫とともに自害しようとして長政にさとされ信長の元に戻った。本能寺の変後、柴田勝家に嫁して半年後、福井の「北の庄城」が秀吉に攻められ、三人の娘と別れ勝家に殉じて37歳の一生を終わりました。墓所は福井市西光寺にあるという。
参考サイトは次の通り。

戦国時代の女達

  第2日目 8月4日

  〔郡上八幡の八幡城〕



格好のいい城だ。実践的なことを考えないとすれば、城はこのくらいの大きさで、このくらいの高さで、このくらいの近さにあるといい。ただし、登り道がわかりにくいから、道行く人に訪ねるとよい。親切に教えていただける。ところが一方通行の登り道は狭くて、急な坂で、その上小回りで大変だ。

城には楓と椿がおおく、春秋の景観はすてきだだろうと思われる。会津の白虎隊と同じように少年編成の凌雲隊があり、姉妹提携のよしみで記念の松が植えられていた。時間が早かったので拝観できなかった。

〔ひるがの高原SA〕
SAとしては、とてもいい場所である。さわやかな高原で牛の放牧がなんとも長閑である。西のほうを見ると目の前に勇壮な大日ヶ岳がひろがり、夏の涼景としては満点の眺望である。梟のくりぬき彫刻を販売しているが、誰が作って出してあるのかな。記念の品になりそう。牛乳は美味い。

〔飛騨鍾乳洞〕
長い間、見たいみたいと思っていたところだった。昭和40年に発見したというのだから、地図にはでていても誰も見た人がいなかったのだと思う。飛騨の鍾乳洞は、今までに見た秋芳洞や竜臥洞などとは全く趣を異にしている鍾乳洞だ。
案内パンフレットをみると、「千変万化のヘリクタイト」の見出しで「左右にねじれながら垂れ下がっている鍾乳石をヘリクタイトと呼びます。学術的にも極めて珍しく、幽玄の極みといった奇観です」と表記しているように、神秘的な空間が目の前に現れてくるのである。
洞内の見学を終えて外へ出てくると、洞窟発見の場所という看板が絶壁にかかっている。白樺というお店で聞いてみると、次のような話をしてくれた。
この付近には洞窟があるということはわかっていた。昭和40年にその絶壁中腹の穴へ、色のついた水を注入したそうで、莫大なその水はちっとも流れ出てこなかったという。翌日になって、現在の入り口から流れ出ていることがわかり、とうとう発見されることになったという。そのことの詳細なデータは調べないとわからない。いずれにしても地域開発に貢献した功績ははかりしれない。
併設されている「大橋コレクション」は驚くほどの品物が展示されており、ドウシテ・・・どのように・・・収集されたのか疑問は尽きない。けちん坊な疑問だが、時価いくらになるのだろうか、見当もつかない。一見の価値がある。

§ 経費

中津川料金所 1450、犬山城入場料 400、金華山ロープウェイ 1050、岐阜城 200、
墨俣城 200、昼食 800、養老の滝駐車 300、須賀谷温泉 1000、夕食 945、
オイル 3150、ガソリン 3387、朝食 600、美濃料金所 1750、飛騨清見料金所 1650、
飛騨鍾乳洞 1000、飛騨鍾乳洞駐車 300、昼食 850、ガソリン 2304、
乗鞍スカイライン通行券 1570、松川料金所 2200

第1日目宿泊は養老SAで車中。朝方蚊が一匹侵入してなやまされた。
総額25106であるが、細かいものを含めると28000位かかっただろう。
自家用車関係の経費17461で、車以外経費は11000だから安いものである。

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