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旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


東北旅行(2002)

§ 東北旅行

第1日目 8月3日

人物   石川啄木    宮沢賢治      野口英世
歴史   毛越寺・平泉  盛岡城  青葉城  鶴ヶ城・飯盛山
文化   地方文化
景観   岩手山     裏磐梯五色沼

1 日程概略

[第一日目]平成8年7月31日

マイクロ 松川IC 高井戸IC 川口JCT 一関IC 平泉前沢IC 滝沢IC 盛岡IC
喬木村役場出発
毛越寺:中尊寺見学
啄木記念館など見学
盛岡角屋ホテル  *盛岡市南大通 1-13-14 TEL0196-24-2632

[第二日目]平成8年8月1日

マイクロ 盛岡IC 花巻南IC 仙台宮城IC 福島西IC 裏磐梯
宮沢賢治生家・記念館・羅須地人会跡地見学
青葉城見学
磐梯檜原湖畔ホテル  0241-33-2341

[第三日目]平成8年8月2日

マイクロ 裏磐梯 磐梯山ゴールドライン 磐梯高原IC 郡山JCT 那須高原SA
     高井戸IC 松川IC 喬木村役場
五色沼見学
鶴ヵ城見学
飯盛山見学
野口記念館見学

2 経費の概要

  [支出]
  ・ 燃料代 : 通行料金及び駐車料
  ・ 入場料 : 食事代 : 車内飲食物 : 宿泊費
  ・ お土産 : その他
  [収入]
  ・ 個人負担額          40000円
  [精算報告] 後日、会計責任者からお願いします。

3 諸係分担案

  ・ 総責任者    座光寺 厚  安全・快適に配意すること 村長連絡
  ・ 会計責任者   多田  昭  公正・確実に処理すること 領収箱準備
  ・ 時間責任者   下岡 米男  指揮・統率に留意すること 記録準備
  ・ 庶務責任者   下平 好上  雑務・案内に奔走すること 飲食準備
  ・ 運転責任者   湯沢 俊和  安全・迅速に配慮すること 体調留意
  ・ 助言代行者   原  俊道  助言・代行に努力すること 全般助言
  ※ 分担はしたが、皆で話合いながらうまくやっていきましょう。

4 原案修正、決 定について

5 今後の計画

6 資料

@ 良  寛  (1758-183174才歿)

[清貧の思想]
中野孝次はまえがきの中で、話を求められる度にいつも「日本文化の一側面」という話をすることに決めてきた、と述べている。話の内容は−西行・兼好・光悦・芭蕉・池大雅・良寛など−を引きながら、日本には心の世界を重んじる文化の伝統があったこと、現世での生存は能う限り簡素にして心を風雅の世界におく文化の伝統があったことを中核にしているようである。

(その中での良寛の解説)
越後五合庵での良寛 (国上山中腹国上寺境内に再建された五合庵がある)
  生涯懶立身  生涯 身を立つるに懶く 立身出世など考えもせず、
  騰々任天真  騰々 天真に任す    万事なるがままに任せてきたのである。
  嚢中三升米  嚢中 三升の米     そしてその結果たる
  爐邉一束薪  炉辺 一束の薪     現在の草庵の暮らしで、
  誰問迷悟跡  誰か問わん 迷悟の跡  それに満足し
  何知名利塵  何ぞ知らん 名利の塵  「雙脚 等閑に伸ばす」
  夜雨草庵裡  夜雨 草庵の裡     これ以上ない至福の心持でいる。
  雙脚等閑伸  雙脚 等閑に伸ばす   というのである。

 たくほどは 風がもてくる 落ち葉かな
   長岡藩主牧野忠精侯が、国上寺に参拝し、ついで良寛をその庵に
   訪ねたという。逸話では、城下の長岡に寺を建立するので、良寛
   にぜひ住職になってもらいたいと依頼した。しかし良寛は、
   「たくほどは風がもてくる落ち葉かな」
   と発句を示しただけで、その申し出を断わったという。

[百科事典解説]
江戸後期の禅僧・歌人・書家。本名山本栄蔵。諱は大愚。
越後出雲崎の名主兼神職の家に生まれたが18才で出家、曹洞宗に帰依した。
備中円通寺の国仙和尚に師事、さらに諸国行脚して1799年郷里に帰る。
国上山の五合庵から山下に、さらに島崎村の能登屋に移り住み、風流無欲な求道者の生涯を草庵で閉じた。
かゆを煮るのも手足を洗うのも同じ鉄鉢ですませたという。
独自の風格ある書体や万葉調の詩文が高く評価され、歌集『蓮の花』(貞心尼編)ほか後人の手になる選集も多い。五合庵(分水町)山下(和島村)能登屋(出雲崎町)

※ 参考になる本
  「良寛の詩歌 百選」 谷川敏朗 (新潟日報事業社)
  「清貧の思想」    中野孝次 (草思社)

A 弥 彦 神 社 西蒲原郡弥彦村

 一般には弥彦神社とよばれる旧国幣神社、祭神は天香山命で天照大神の曽孫にあたり、神武天皇の東征に従って功をあげた後、当地に漁耕製塩の法を教えて民利をはかったと伝えられている。越後の国の一宮で、5月14日の例祭日のほか年頭の献鳥神事、7月24日の灯籠神事に近隣の人が集まる。
 弥彦山は日本海がわに聳える火山で638m、山頂には新潟平野を見渡す展望台があり空中ケーブルの便がある。

B 鶴 ヶ 城 会津若松市  桜名所百選

[戊申戦争]
明治1年、戊申の年に起こった朝廷側と幕府側との内戦。大政奉還・王政復古後も薩摩・長州などの討幕派諸藩は武力による旧幕府側の勢力の討滅をはかった。明治1年1月3日の鳥羽伏見の戦いを契機として2月15日に東征大総督有栖川宮熾仁親王による江戸進撃となった。江戸攻防戦は西郷隆盛・勝海舟らのあっせんにより避けられ、4月11日に無血開城となり、上野の彰義隊の抵抗も5月15日には壊滅した。しかし、薩長の専横に憤激した会津・庄内・仙台などの東北諸藩は閏4月20日奥羽列藩同盟を結んで抗戦したが、薩長兵を主力とする征討軍は錦旗を擁して戦いを有利に進め、北越では7月27日長岡城の、東北は9月22日会津若松城の落城となり、27日には奥羽越諸藩は降伏した。また幕艦8隻を率いて江戸を脱走した榎本武揚らは10月25日五稜郭・箱館を奪って箱館戦争を開始したが、翌明治2年5月17日には屈伏するに至っている。こうして討幕派は旧幕勢力を明治政府から締め出して、薩長藩閥を中核とする雄藩連合政権を確立し、絶対主義的政権確立への道を開いたのである。

[会津戦争]
新政府の東北征伐軍は白河口・越後口からすすみ、8月若松城を囲んだ。このとき、白虎隊の自刃などがあり、会津軍は籠城を続けたが、米沢・仙台藩の降伏を聞き、9月20日ついに降伏し、22日城を明け渡した。

C 飯 盛 山 

白虎隊19士の墓・白虎隊記念館・白虎隊引揚げの洞門・さざえ堂

[白虎隊]
会津の少年決死隊。同藩は明治1年戊申戦争に際し軍制改革をおこない藩士を年齢で、白虎(16〜17歳)・朱雀(18〜35歳)・青竜(36〜49歳)玄武(50歳以上)の4隊に分け、さらに身分で士中・寄合・足軽の三つに分けた。うち白虎2番士中隊(37名)は保成峠の戦闘で戦死したものが多く、重囲に陥った20名は間道から若松城にはいろうとして飯盛山に上ったが、城が火災に包まれるのを見て自刃した(1名は蘇生)。

D 野 口 記 念 館

[野口英世](1876-1928)細菌学者。
 幼名清作。郷里の高等小学校を終え、開業医術試験に合格したのち伝染病研究所に入り、北里柴三郎に師事。さらにペンシルバニア大学、デンマークの国立血清研究所などで細菌学を研究後、ロックフェラー研究所細菌部長。蛇毒の研究や、スピロヘータの培養などに業績を上げた。大正2年から黄熱病の研究に着手したが、昭和2年、アフリカのアクラに出張して研究中、みずからも黄熱病に感染して倒れた。3歳のとき囲炉裏に落ち、火傷によって不具となったが、小学校を終える直前に手術を受けて人並みになり、それを動機に医学に志した話は有名である。
 野口シカがアメリカにいる英世にあてた手紙は、谷川徹三が近来にみる名文と推すものである。シカが文字を教わったお坊さんの寺は近くの長照寺で、寺の墓地に英世の墓がある。昭和29年、沼田文夫という彫刻家が涙を流して案内してくれた。野口シカ女の手紙が手に入ると思う。
伝記を一読するのも参考になる。

[猪苗代湖]
一名、天命鏡とも呼ばれているだけあって、104平方に及ぶ湖水の広大な美しさは、東北特有の豊かな静けさを漂わせている。

E 裏 磐 梯 高 原

[五色沼]
耶麻郡北塩原村にある小湖沼群。明治21年の磐梯山大爆発により北麓一帯に溶岩流が大量に流下し、檜原川・長瀬川などをせきとめてできたもので、火山噴出物の鉱石の作用で、緑・朱・藍など鮮やかな色彩をおびるのでこの名がある。毘沙門沼・弁天沼・瑠璃沼・青沼などがあり、猪苗代駅からバス40分。

[裏磐梯]
磐梯山北麓一帯の呼称。磐梯山は南麓からみるときは端麗な円錐火山だが、北麓側は明治21年7月の大爆発によって破壊された。このとき山の岩くずが泥流となって流れ、檜原川・長瀬川などの渓谷がせきとめられて、檜原・小野川・秋元の三湖および五色沼など大小100余の湖沼群が生まれた。これが「裏磐梯」と呼ばれて磐梯朝日国立公園に含まれている。

F 青 葉 城

[青葉城]
仙台城の別名。広瀬川に沿った青葉丘陵に位置し、慶長7年(1602)伊達政宗が本丸を完成して以来しだいに拡張され、明治維新にいたるまで伊達氏62万石の居城であった。本丸・二の丸・三の丸の曲輪があり、城下町仙台の中心をなしたが天守閣は築かれなかった。明治維新の戦火と昭和20年の戦災で木造部分はすべて焼失し、今は広大な石垣を残すだけである。

[伊達氏]
   伊達氏には 陸奥国(宮城)仙台藩主 
   伊予国(愛媛)宇和島藩主
   伊予国(愛媛)吉田藩主  の三家がある。
 仙台伊達氏は藤原北家山蔭の後裔と称し、鎌倉時代に高松院非蔵人朝宗が頼朝の奥州征伐に大功をたて、陸奥国伊達郡を与えられ伊達氏を名乗った。その子孫行宗は南朝に属して奮戦し、九世の孫政宗は会津を征服し仙道七郡を支配下においた。関ヶ原の役には東軍に属して上杉景勝の軍を破り、仙台城を築いて1603年(慶長8年)これに移った。子孫は62万石を世襲し明治にいたり伯爵に列せられた。
 宇和島藩主伊達氏は、政宗の庶長子秀宗が1614年(慶長19年)伊予国板島において10万石を与えられたのにはじまる。
 秀宗の五男宗純が1657年(明暦3年)3万石を分封され、吉田に住したのが吉田伊達氏のおこりである。両家とも子孫が世襲して明治に至った。

[八木山の藤村の詩碑] 草枕の一節 (75調の新体詩)
     心のやどの みやぎ野よ
     乱れて熱き わが身には
     日かげもうすく 草枯れて
     荒れたる野こそ うれしけれ
        独りさみしき わが耳は
        吹く北風を 琴ときき
        かなしみふかき 吾眼には
        色無き石も 花と見き
[仙台の七夕祭り]
8月6日から3日間、豪華な薬玉や短冊が商店街を飾る有名な七夕祭りは、東北三大祭の一つである。
東北大学・東北学院・宮城学院大学東北薬科大学など教育機関も多い。

G 松 島

 牡鹿半島に抱かれた仙台湾の中央部、さらに入り込んだ松島湾の一帯には、緑の松をいただいた小島が点々と浮かび(俗に808島という)その一つ一つが変化に富んで美しい姿をみせている。探勝には開城を舟で周遊するほか、松島の四大観といわれる展望台からの眺望が圧巻だが、松島タワーからの展望も捨てがたい。松島海岸での見所は、瑞巌寺・五大堂・観瀾亭などである。
[瑞巖寺]伊達家の菩提寺で奥州随一の禅寺といわれている。その盛時には13の塔頭が中門と大門の間に甍をならべ、70余の末寺があったという。現在残るのは本堂・御成門・中門・庫裡・回廊(いずれも国宝)などで、その数も少なくなったが、政宗が力をいれただけあって、装飾、絵画、彫刻などに桃山時代の神髄をうかがうことができる。

[五大堂]
海岸通りの東、五大堂島にある。島は橋で陸地と地つづきになっている。大同2年(807年)坂上田村麻呂が東征の際建立した毘沙門堂だが、後に五大明王を安置してから五大堂というようになった。現在の堂は慶長5年(1600年)に政宗が修営したものである。
[観瀾亭]伊達政宗が豊臣秀吉から与えられた伏見桃山城の茶室で、忠宗(二代)の代にここに移したものである。書院造り、柱に四方柾、鶯張り廊下など数奇をこらしている。

[奥の細道−松嶋]
 抑ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥じず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮をたたふ。嶋々の数を盡して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉潮風に吹きたわめて、屈曲おのずからためたるがごとし。其景色よう然として美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を盡さむ。

H 毛越寺・中尊寺

[毛越寺]
平泉町にある天台宗の寺。850年(嘉祥3年)円仁の創建と伝えられ、12世紀中頃奥州藤原氏二代の基衡が金堂(円隆寺)を中心に講堂・常行堂などを造営。三代秀衡のときには根本中堂(嘉祥寺)など堂塔40、僧房500を数え、その規模の雄大さは中尊寺をしのいだ。
 1225〜26年間(嘉祿年間)野火のため焼失し、現在は大池を中心に南大門・金堂・根本中堂などの遺跡(特別史跡)や平安時代のおもかげをとどめる庭園(特別名勝)だけを残す。

[中尊寺]
平泉町にある天台宗の寺。1105年(長治2年)藤原清衡が造営したもので、堂塔40余・僧房300余を数えたといい、二代基衡の毛越寺、三代秀衡が 宇治平等院の鳳凰堂を模して建立した無量光院とともに、奥州藤原氏の栄華を物語る大寺であった。
 1189年(文治5年)4代泰衡が源頼朝に討たれて以来衰え、1337年(建武4・延元2)野火のため金色堂(国宝)・経蔵だけを残して焼失した。
 藤原清衡以下三代の奉納した紺紙金字一切経や一字金輪座像(人肌大日)など数多くの国宝・重文を蔵し、東北地方随一の古美術の宝庫となっている。
 金色堂は1124年(天治1)の造立で、光堂ともいわれ、三代の遺骸を納め、阿弥陀三尊その他を安置している。方3間(約5.3m)宝形造のいわゆる阿弥陀堂形式で、内外に漆を塗って金箔をおいたものである。堂内部の蒔絵・螺鈿による装飾は他に類がなく、平安時代工芸の粋を集めたものである。

[奥の細道−平泉]
  三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有り。
  秀衡が跡は田野に成りて、金鷄山のみ形を残す。 
  先高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。
       (高館=源義経の居館だった所。一名、判官館)
  衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。
  康衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。
  偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。
  「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷きて、
       (「国破れて=杜甫の詩「春望」の一節。原詩は「草木深シ」)
  時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
    夏草や 兵どもが 夢の跡
    卯の花に 兼房みゆる 白毛かな   曽良
  兼ねて耳驚かしたる二堂開帳す。
  経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。
       (三将の像=実際は 文殊菩薩・ 優堯大王・善哉童子の三像)
       (三尊の仏=阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩)
  七宝散りうせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽ちて、
  仏教でいう七種の宝。金・銀・瑠璃・玻璃・槇遙・赤珠・瑪瑙。
  既に頽廃空虚の叢と成るべきを、四面新たに囲みて、甍を覆いて風雨を凌ぐ。
  暫時千歳の記念とはなれり。
    五月雨の 降りのこしてや 光堂

[前九年の役]
平安時代、陸奥(明治1年に分かれた、磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の五地方の総称) の豪族阿部頼時が租税を納めず、雑徭にも応じず反抗した戦い。
 阿部貞任は攻め立てられて、ついに衣川の館に放火された。さしもの貞任も守りかね、馬に乗ってその裏門から逃げ出した。すると源義家も旨煮またがってこれを追いかけながら近寄って、弓に矢をつがえた。これを放てば貞任の命はないのであるが、義家は試みに大声あげて、
    衣のたては ほころびにけり
と、和歌の下の句を詠みかけた。
 貞任もさるもの、これを聞くや後を振り返り、声高らかに、
    年をへし 糸の乱れの くるしさに
と、上の句で応じた。義家はつがえていた矢を弦からはずし、追撃をやめて、ことさら貞任を逃した。

I 石 川 啄 木(1885-1912)

 岩手県生まれの明治の詩人・歌人。本名 一
 盛岡中学在学中から『明星』派の詩歌に親しみ五年生を中退して上京。三か月で帰郷したが与謝野鉄幹や金田一京助らのはげましを得て、明治38年詩集『あこがれ』を出し若き天才といわれた。同年、堀合節子と結婚。渋民村で代用教員をしながら小説『雲は天才である』などを執筆したが、家庭の苦境から逃れて新聞記者として北海道を転々とし、41年再び上京した。『スバル』の編集をする一方で評論『食ふべき詩』(明治42年)・『時代閉塞の現状』(明治43年)を発表し、社会主義的傾向を明らかにした。初期のロマン主義から転換するこの時期の歌集『一握の砂』(明治43年)により歌人として名声を確立したが、焦慮と窮乏のままに45年、27歳で病死した。著書は前記のほか詩集『呼子と口笛』、遺歌集『悲しき玩具』がある。

 昭和29年友人と宮沢賢治、石川啄木、奥の細道を尋ねて旅行に出たことがある。その時啄木が下宿をしていたという渋民村の斉藤さぞうさん宅に立ち寄った折の、斎藤さんが涙ながらに語ってくれた啄木の話が記憶に新しい。
    やわらかに柳青める北上の
         岸辺目にみゆ 泣けとごとくに
 これは北上川にかかる鶴飼橋を見下ろす公園に建つ啄木の歌碑に刻まれていた。公園の地続きのとうもろこし畑で、二人の老婆が頬っかぶりをして夏のさなかに草をとっていた。その光景がいまでも網膜にやきついている。
    故郷の山にむかいていうことなし
         故郷の山は ありがたきかな
 これは斎藤さぞうさん宅の家の前に一尺角の二尺ほどの高さの花崗岩に、例の活字体の文字が刻まれていた歌碑のうたです。石をもて追われるごとき啄木が父母とともに故郷に寄せるおもいが胸をついた。
    人がみなわれより偉くみゆる日よ
         花をかいきて 妻としたしむ
 やまいがちな啄木の、優しく飾り気ないすがたを髣髴させる歌である。歌をうたうときはこの三つを愛唱していた。

J 宮 沢 賢 治(1896-1933)

 花巻生まれ、詩人・童話作家。
 盛岡高農卒業。中学時代から文才を見せ、また法華経への信仰があつかった。
 大正13年、詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を出版。
 この間、万人共栄の理想を掲げ、農村指導や宗教・文芸活動を通じてこの実践をはかったことが注目される。音楽的措辞や新鮮な造語による独自の作品世界をひらき、『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』『グスコーブドリの伝記』などを書いた。
 『永訣の朝』『雨ニモマケズ』などの詩や農民劇も知られる。死後、草野心平編集で禅宗が出され評価が高まった。

[何故、今、宮沢賢治か]
 時は川の流れのように移り、流れに浮かぶ泡はかつ消えかつ生ずる。
 価値観も川の流れのように移り、流れに浮かぶ泡のように生滅する。
 緩急の流れに身をゆだねるのみでなく、その源と大海の輪廻を熟視して、
 エネルギーと大自然の摂理に添う。
 そのとき、宮沢賢治の息吹がある。

      早 春
    黒雲峡を乱れ飛び
    技師ら亜炭の火に寄りぬ
    げにもひとびと崇むるは
    青き Gossan銅の脈
    わが索むるはまことのことば
    雨の中なる真言なり

 昔の二人旅の折に、生家に立ち寄った。弟の清六さんが後をついでいた。冷たいカルピスを馳走してくれた。この早春の詩にでてくる Gossan がわからず、月山なのかとも考えたがどうも納得いかい詩だった。訪ねたときにそのことをお聞きしてみたら「露頭」のことだと説明してくれたのでなるほどと納得できた。賢治はエスペラント語を支持していたことにも敬服する。なおこのとき「世界中の人が幸せにならなければ自分の幸せはない」という言葉をハンカチ大の布に絵の具のチューブを搾り出して書いて染めたものを頂いてきた。昔の思い出である。

K 盛岡市

明治22年市制。東北本線が通じ山田・田沢湖線が分岐する。
北上川と中津川・雫石川の合流する河岸段丘上にある。
南部氏20万石の城下町。現在、岩手公園になっている花崗岩台地に不来方城を築き、「盛り上がり栄える岡」の祈願をこめて盛岡という嘉字に改められた。
重臣屋敷のあった内丸通りは、高層ビルの官庁街、東北本線開通後発展した大通りと肴町が中心繁華街である。
国立岩手大学・岩手医科大学・東北農業試験所などがある。
南部鉄器・紫紺染は特産品。
原 敬の出身地で、原敬記念館がある。
                     

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