介護3
介 護 日 誌 その3
(平成14年後半)
岸辺マツ
明治三十八年生まれ
夫、長男、次男を亡くして、一人暮らし・ ・ ・
近くに亡兄の長男あきら(私、昭和七年生まれ)が住んでいる。
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二〇〇二年(平成十四年) 2002年7月 平成14年 マツの入浴再開に備えて退蔵は風呂の電灯を付け替えておく。 マツは食欲もありお元気に過ごしていた。 「わて若い時からお魚好きやねん。魚ならなんでもオッケー!」」 煮魚の骨を上手に取りつつ、うれしそうに食べていた。 「魚の歌知ってますか?今はやってますでしょ・・・」 ヘルパーさんが少し歌うと、マツはしばらく大笑いして聞いていたが、やがて自分でも、♪サカナ、サカナ、サカナ♪と節をつけていっしょに歌い出した。 五日から、朝のヘルパーさんに浴槽に湯を沸かしてもらって、昼からの看護師さんに入浴介護してもらう段取りとなった。 前日ぐらいからマツも半年ぶりで入浴することを楽しみにしていた。 いよいよ当日、朝のヘルパーが風呂に点火するのも初めてなので、退蔵が立会いに出かけて行った。浴槽に四十二度の湯を沸かしてくれて準備完了。 ケアーマネージヤーの南さんも準備状況を視察に出掛けた。昼過ぎ彼女から退蔵に電話があり、シャンプーがないとのこと。礼子がスーパーに走り、新しくシャンプーとリンスを買ってきた。 昼から看護師がやってきた。 浴槽の出入りがマツに少し難しく、看護師とケアマネージャーが二人でマツを抱えて風呂桶に浸けた。久し振りの入浴だったので、マツも少し不安だったようだが、何回か行い、慣れてきたらスムーズに出きるようになるだろう。洗髪もしてもらってサッパリしたようだ。 入浴後はマツはお茶と礼子の用意したメロンを食べ、満足気にうちわであおいでいる。 朝、ヘルパーが訪問すると、線香が煙っていて、マツが仏壇におまいりしていた。新聞と蒸しタオルを持っていくと、 「ああ、気持ちええ。ありがとう。すっきりした。」 お盆が出してあったので、また出前かしらとヘルパーがマツに何度も尋ねたが、違うと言う。清拭のあと急いで食事を出す。マツは箸をとり、魚もきれいに食べ、玉子豆腐も好きなようで全部食べた。マツの朝食が無事終わっただけでヘルパーはほっとした。 お隣さんから生湯葉を頂いたことをヘルパーがマツに伝え、食事に添えると、おいしそうに食べていた。 この頃は魚の煮付けがあるせいか、出前の回数が減っているようにヘルパーは感じた。マツは煮魚に満足しているようだ。特にハモは好物とのことだ。 「祇園祭の頃にはいつもハモを食べたなあ。」 と回想する。 流しの横の引出からゴキブリが出てきた。 マツは大変眠そうで、看護師が血圧を測っている最中もうとうとしていた。 「今日は浴槽に浸からず、髪と身体を洗うだけにしときましょう。」 でもお風呂場へ行って髪と身体を洗うと、 「やっぱり少し浸かろうかな。」 とマツが言う。 「それじゃ少しだけ・・・」 看護師が手を貸そうとすると、 「一人で出来る。だいじょうぶ。」 浴槽への出入りは時間をかけて一人で行った。入浴後はお茶を飲んで、 「ああ、ええあんばいや。とろうーとしてきた。」 マツは横になり、はやうとうとした。 夕方、ヘルパーが訪問すると、マツは昼寝から目を覚ましていたので、すぐに熱いタオルを渡した。 おいしそうなうなぎを目の前にして、 「好物やから、あとで食べよ。」 子供のように目を輝かせ、ヘルパーも笑ってしまった。マツは肉厚のうなぎに満足したようだった。 別に嫌いなわけではないが鶏茄子は残した。 「一人ぼっちでもしかたがない・・」 独り言をつぶやきながら食べていた。 どこからか暑中見舞い状が一通入っていた。 祇園祭の話題に持ち込もうとヘルパーが努力した。 「ああ、そうか。」 話を聞いているのかと思ったら、何かしきりに感心しながら新聞を読んでいる。 「ふううん。」 ヘルパーが思わず、 「なんですか?」 「西京極に新しいプールが出来たんやてえ。大きいなあ。広いなあ。」 ヘルパーが訪問時、すでに起きていたが、新聞が休みだと伝えると、マツはがっかりしていた。朝食後テレビを見ていても面白くないようで、電気を消して間もなく眠ってしまった。 初音学区の社会福祉から昼食におこわが配られてきた。 今日は暑くてなにも欲しくないとのこと。「冷たいもの」を欲しがったのでヘルパーがソフトクリーム買ってくると、すぐにその半分を食べてしまい、 「あと、冷蔵庫にしもといて。」 食欲のないのは、昼に配食されたおこわを食べたせいかもしれなかった。 看護師の検診で、熱が三十七・一度あった。冷房が二十五度に設定してあり、少しマツの声がかすれている。看護師は二十八度に設定しなおし、コップ三分の一ほどお茶をマツに飲んでもらった後、再び熱を計ると、三十六度八分で少し下がっていた。 両足の甲にむくみがあったが、倦怠感の訴えはない。 夕方のヘルパーが少し早めに訪問したところ、マツは居間に座って、 「お腹すいたねん。」 冷蔵庫の中をを探していたらしく、冷蔵庫の扉が開いていた。お腹が空いたにしてはそれほど食欲がなく、デラウェアをおいしいと言った。 「あっさりしたのがええ。」 と、なすときゅうりを食べていた。 「二月生まれやさかい、暑いのは苦手や。」 熱を計ろうとヘルパーが体温計を探したが見当たらない。今のところは元気そうなのそのまま引き上げた。 夕方のヘルパーが声を掛けると、 「もうそんな時間か?」 と目を覚まし、気分よく話していた。食事もしっかり食べ、よく笑って元気を回復していた。 夕方、ヘルパーが訪問すると、マツは居間に来て、すいか一切れとアイスクリーム一カップを食べ終わった後だった。さらにソフトクリームの残りにも手を付け、その上夕食もちゃんと食べた。「暑い、暑い!」を繰り返しうちわを使っているが、元気そうだった。 夜、マツから退蔵に電話が掛かってきて、暑いので扇風機を出してほしいと言ってきた。退蔵がすぐに叔母のうちに出かけて、二階から扇風機を下ろしてきた。 「こんなええのがあったか?」 とわざとらしく退蔵にほほえみかけ、 「やっぱり扇風機にはかなわんなあ。うちわでは凌げん。」 朝のヘルパーが桃を買って来たら、今すぐ食べたいとマツは五切れをぺろりと食べた。 昼から、礼子がすいかを一切れ持っていったが、これも、「おいしい。」とぺろりと食べた。 どうもクーラーの効きが悪い。退蔵がクーラーのネットを掃除をしたら、少しはましになったようだ。 礼子が羽毛の掛け布団を片付けて夏蒲団と替えた。 看護師が来た時も、 「暑い、暑い。」 ベッドに座ったマツが言い、どうもクーラーが効いていないようだ。設定温度を変えても温風が出るのみ。脱水予防のため看護師がお茶をセットした上で、クーラーの様子を見てくれるように退蔵に電話してきた。 すぐに退蔵は寺町の電気店に相談に行った。とりあえず明日に見に来てくれることになる。 翌日ニノミヤ電気店が見には来てくれたが、時節柄仕事が手一杯で、少し時間が掛かるとのこと。 夕方のヘルパーが訪問時にも、クーラーが効いてなくてマツが、「暑い、暑い」を連発。 急いでヘルパーがマツにアイスクリームを食べさせた。 「修理の方が来られるまで待っててくださいね。」 うちわを持って横になっているマツにヘルパーはそう伝えるしかなかった。。クーラーの効きが悪く、設定は二十度になっているが、汗をかくほど暑かった。 「まだまだ大丈夫。がまん出来る。」 夕方十八時三十分に修理屋がクーラーの修理に来てくれた。庭側の排気ボックスのコンプレッサーが不良と分り、部品の取り寄せに二三日掛かるとのことだった。出きるだけ早くと退蔵は依頼した。 「アイスノン」(冷やし枕)を冷凍庫に入れおいてマツに使うように指示する。 昨夜からのお茶がそのまま残っていた。水分があまり摂れていない。 ヘルパーが、マツの目覚めに冷たいジュースを飲ませると、 「あーおいしい!」 いかにも潤った声を上げた。 アイスノン枕はヘルパーが協力して取り替えてくれている。 夕方のヘルパーが来ると、マツは電灯を消して暗い中で、うちわと扇風機の両方を使っていた。 それでも鯵の塩焼きをきれいに食べた。 「お魚大好き。」 「お魚食べてると痴呆になりにくいのですよ。」 「そうか、やっぱり。おいしいなあ。」 クーラーは音ばかりで全然利いてない。 暑さのためかマツの体温が高く、看護師の入浴介護も、今日は髪と身体を洗うだけとなった。 「脱水になるといけないので、多めに水分補給をお願いしますよ。」 とマツに言い聞かせた。 「暑い暑い」と言いながらもマツは元気で、入浴後にオレンジジュースを少量ずつ数回に分けて飲んでいた。看護師はアイスノンを交換し、寝室と居間の間の戸を少し開けて帰った。 夕方のヘルパーが訪問すると、マツは部屋を真っ暗にして休んでいた。やがてチャンネル変える音がしてテレビを見ている。ヘルパーがすぐ熱いタオルを持っていくと、 「ああ暑い。辛抱できへん。」 マツはうちわを盛んに使っていた。 ヘルパーが冷蔵庫のよく冷えたお茶を出す。 「それがええ。生き返る!」 待ちに待った修理屋がやっと来てくれた。クーラーの修理を始めて、二時間後の十七時に完了。 クーラーが直って、マツは気持ちよさそうに掛け布団にくるまっていた。ヘルパーが熱いタオルで清拭後、食事を運ぶ。鰈の煮付けをおいしそうに食べた。 クーラーも効いて快適な様子。元気に笑いながら話す以前のマツに戻っていた。 表情も穏やかで、 「少ししんどいけど、体操もせなあかんなあ。」 と自らリハビリする姿もみられた。 暑い日が続いていて、マツの食欲は少し落ちているようだが、果物は、桃、巨峰をおいしいと食べた。ジュースもオレンジが飽きたと言うので、ヘルパーがスプライトを買ってきたが、「やっぱりオレンジがええ。」とのことだった。 2002年8月 平成14年 マツは入浴してさっぱりした。 脱水予防のため、看護師が入浴前後に少量ずつ数回お茶を飲ませている。 マツの背中に汗疹のような発疹があったので、看護師がシッカロールをはたいてくれた。 昼過ぎ礼子がメロンを一切れと、「かぼすゼリー」を岸辺に持っていって両方とも冷蔵庫に入れておいた。気配で目を覚ましたマツにそのことを耳に入れると、 「今日はわてなんかぼーっとしてるわ。私、ぼけてる。今日何日え?」 新聞を手に取り、花火の記事を見つけてやっと頭がはっきりしたようだ。 看護師が訪問すると、マツは部屋を真っ暗にして寝ていた。「眠たい」と、なかなか目が覚めないようだったが、手浴するとやっと、「目が覚めた」と言い、足浴、更衣、リハビリをしてもらった。 「冷たいものが食べたい。」と言うので、冷蔵庫からよく冷えたかぼすゼリーをお出ししたら、 「おいしい。なんぼでもはいるわ。」 と喜んでいた。 部屋の電気をすべて消し、よく眠っていた。 ヘルパーの気配でマツは目を覚ました。 「暑うて目が覚めた。」 と言ったが、部屋のクーラーはよく効いていた。 「なにか冷たいもんが欲しい。」 冷蔵庫にメロンがあったので、ヘルパーが切って一切れ持っていった。 「ああこれ稲さんがくれはった・・稲二郎はわての弟やねん。」 ヘルパーは、これは沢村の奥さんがもってこられたと言った方がいいのか迷った。口ごもっている間に、マツは嬉しそうに「おいしい」と食べてしまった。 入浴したあと、マツは、 「すっとした」と喜んでいる。シッカロールを顔につけ、真っ白くなって、 「岸辺さん舞妓さんみたい!」 とヘルパーに囃されると、 「ほんまかあ?そらまあ昔やったらなあ・・・」 とマツもまんざらでない。 まぐろの造りはマツの大好物だった。 「ああおいし。たんとよばれた、ああしんど。」 でも、その三分の一くらいを食べて、 「ああおいしかった。お腹いっぱい、満腹や。ありがとう。おかずがようけあるねん。もうそんなに食べられへん。」 マツの声が小さくなり、 「ああしんど、食べ過ぎた。もうなにもはいらん。ほんま、ああ、おいしかった。たんとよばれた。」 そしてベッドに横たわり、たちまちすやすやと寝息を立てた。 お盆間近で、礼子は叔母のとこの佛さんが気の毒になり、桃を持っていって仏前にお供え、拝んで帰ってきた。 鯵の開きをマツは「おいしい」と言った。骨があるのに、きれいに食べていた。 「お魚大好き。あてお魚に目も鼻もない。」 「今日はお風呂はいらん。寝てたい。」 初めのうちマツは言っていた。浴室の入り際も、 「足が思うように動かん。」 とややいらいらした様子だったが、結構スムーズに移動していた。浴室では自分で洗面器でお湯をあび、入浴後にはサッパリしたと喜んでいた。 看護師が冷蔵庫のお茶を少しずつ、何回か飲ませ、アイスノンを交換してくれた。 昨夜、スイカ八分の一切れを全部食べたようで、マツの枕元に皮が置いてあった。 ヘルパーの訪問時マツは仏壇の掃除をしていた。 「二月生まれの岸辺さん、夏が苦手のようですが、今日は少し涼しいですよ。」 台風の影響で外気が涼しいことをヘルパーが話したが、この部屋はクーラーがかかっているのでマツには関わりなかった。 いつの間にかマッチを探し出しマツは仏壇にお線香を上げていた。 「ボケてないのは、お父さん(亡くなった夫)が守ってくれてはんねんなあ。そうでないと長生きも値打ちがない。」 昔の話をするとマツの目がキラキラ輝き、声も自然と大きく力が入ってくる。 「色艶がええのは鰻のお陰ですね。色白はご飯かな?」 とヘルパーがおだてると、 「あんたうまいこと言うなあ、ほんまやなあ。」 とマツは涙を流して笑っている。 入る前は「まだ眠い。」とややご機嫌ななめだったが、入浴してさっぱりしたマツは、風呂上りにメロンを食べオレンジジュースを飲むと笑顔に戻った。 昨日、岸辺の筋向いの奥さんが救急車で運ばれ、やがて亡くなったとの報せを礼子が受けた。そのことを叔母に知らせるかどうか退蔵と相談したが、いずれ分る事だし思いきって話すことにした。礼子が昼過ぎメロンを持って行く時叔母に話すつもりで行ったが、ちょうど看護師が来て風呂に入れてくれるというので話す機会をなくした。 夕方、退蔵が行ってマツに、向かいのMさんのお婆さんが亡くなったことを思い切って知らせた。感傷的にならないよう退蔵はなるべくあっさりと言い切った。その上で、 「お供養や思て、鯛のお刺身しっかり食べや。」 退蔵が努めて明るくマツの肩を叩いたが、ちょっと冗談が過ぎたかもしれない。当面はショックだろう。マツが百歳まで生きるとすれば、まだまだ通りぬけねばならない道だと退蔵は自分に言い聞かせた。 夕方、ヘルパーがやってきた。 近くの友人が亡くなったことはマツにとってかなりなショックだったようだ。マツより十歳ほど下だという。 「もう食べへん、いらん。」 と、好きな鯛の造りも残っていた。 「もういらん。いらん。」 退蔵の言葉が反動となってマツは子供のように我を張った。 食事の後も、いつものようにテレビを点けることもなく、活気が見られなかった。ヘルパーが慰めると、その後少し気を取り直したが、ショックはかなり大きかったようだ。ヘルパーには聞き取れない独り言が目立った。 翌朝のヘルパーが訪問すると、 「お腹空いたなあ。」 といつもの顔でマツが言った。すぐにヘルパーが熱いタオルで清拭してくれ、彼女がお膳を運ぶと、マツは雑炊一膳とカットしたえびカツをしっかり食べた。 「おいしく頂きました。」 「ご近所の仲良しの方が亡くなられたんですねえ。」 「そうなんや。」 とヘルパーに、婦人会の旅行にもいっしょに行ったことを、あれこれ話した。 「お名前は?」 マツは憶えてなかった。ただ一言・・・ 「コロッと往くには、長生きしなあかん。」 「食欲がでない、食べる気いしいひん。全然食欲が出えへん、なんでやろ。おかしい。食べられへん。不思議や。全然食欲がない。おかしい。」 かれいの煮付けは四分の一、ほんの少しずつおかずに手を付けていた。ヘルパーが梨を剥いて出すと、それはおいしいと食べた。 「うちはまだ下界にいるけど、何年か後に会うし・・」マツが独り言を言っている。「お父さん助けて。」 それから繰り返し南無妙法蓮華経を唱えていた。 お地蔵さん(京都では八月下旬に子供のお祭として地蔵尊を祭る行事がある)だったと、町内の当番さんが色々お供え物の配分や当て物の賞品を持ってきてくれた。マツは、 「こんなたくさんいただいて!」 とびっくりしていた。ケーキ、水羊羹箱詰め、ジュース、パイナップル缶、梨三個、洗剤、牛丼パック、くるっとパックン、六穴コード、おかき。今日は食欲も出てマツは大分元気を取り戻していた。 夕方ヘルパーが訪問すると、 「分からへん、わからへん。」 枕元に知らぬうちにお菓子が置いてあったとマツがしきりに疑問を呈し混乱していた。お向かいの古い友達が亡くなって寂しさのせいか、マツはいつもより饒舌だった。 夕方ゴミ袋を回収に退蔵が行くと、 「なにか沢村さんに尋ねたいことがあるそうですよ。」 とヘルパーがマツを指差すので、 「どうしたの?」退蔵が尋ねると、 「この枕元のお菓子どうしたんやろ?」 「これは地蔵盆のお下がりを町内から持って来やはったんやがな。」 説明はすでに聞いているはずなのに・・・ 夜九時半ごろに退蔵にマツから電話が掛かってきた。 「部屋に長いコードが巻いて置いてある。電気も灯ってて、これなんやろ?」 退蔵が見に行くと、長いコード付きの六個口のコンセントだった。地蔵盆のくじ引きの賞品だと説明するが、まだ不審そうだったので、退蔵が貰って帰ることにした。 あじの干物はすでになく、どうやらマツがおやつに食べてしまったようだ。そのくせ冷蔵庫のシフォンケーキは食べないから処分していいと言った。洋菓子はさほど好きでないらしい。 ヘルパーが先日マツに頼まれたウニを買ってきた。とても喜んで、 「おいしいなー」 を繰り返して食べていた。夕方までマツのお腹が持たないだろうと、ヘルパーさんが梨を剥いてマツの枕元に置いてくれた。 ヘルパーが帰るとマツはそれをすぐ全部食べてしまった。 「お魚好きやけど、毎日やったらやっぱり飽きるわ。そんなん言うたらバチが当たるやろか。おいしいことはおいしいけど・・・」 そう言えばこの頃、魚の煮付けはいつも半分残っている。目先の変わったのがいいのだろうか。ウニは最近喜んでいる。 「ちょっと変わったもん、食べたいんや。」 2002年9月 平成14年 震災記念日の今日、日本中で防災訓練が行われていた。京都の空にもヘリコプターが縦横に飛び、模擬訓練のため旗を担いで避難場所に向かう群れに出勤途上のヘルパーが出くわした。 「ほんまかあ?、そら常々から訓練しとかな、いざという時に間に合わへんし、ご苦労さんやなあ。」 ベッドの中のマツが言った。 朝のヘルパーが訪問すると、玄関が開いているのにマツは電灯を消して寝ていた。理由は分からなかった。 朝食後マツは新聞を読みながら、 「こんなことは、うちらには分りません。」 などと独り言を言っていた。 アイスノン枕をマツが自分で冷蔵庫に入れ、冷えたのと替えていた。 「みんな平らげた。おいしかった。」 うにをきれいに瓶の中をさらって食べ尽くし、 「もうお腹いっぱい。ごちそうさん。後口は梨がええ。」 ヘルパーが梨を半分皮をむいて差し出すと、「梨は入るところが違う、「ああおいしい。」 そしてふいに、 「人の親切が嬉しいて・・・」 とマツが涙ぐんだ。 看護師が訪問した時マツはちょうど昼寝から目覚めたところだった。 「寝てる間に誰ぞ来て、おかき置いていかはった。」 とビックリしていた。 「おかきのこと、ほんとに覚えてませんか?」 と看護師が念を押しても、分らない様子。レシートを探したが、今日のヘルパーの買物の中にも含まれていない。やはり誰かが尋ねてきて枕元に置いて帰ったのだろう。マツの記憶は半分合っている。 「岸辺さんはご飯がお好きですね。」 「そうやねん。お米の力て、すごいと思う。」 と今日も食欲モリモリだった。 「今、長寿のお祝いを持って来てくれはった。恐縮しているところや。」 マツは這って行ってその包装ケースを仏壇に供えた。 しかし一時間後、気になったのか、仏壇からヘルパーに祝い品を下げてきてもらい、包み紙を解いた。お祝いの箱の中身はずいぶん大きなバスタオルだった。 「どなたからもらったの?」 マツにはそれが分からなかった。 「多分敬老の日のお祝いですよ!おめでとうございます。」 ヘルパーの推理は恐らく間違いないだろう。 「なにを食べてもおいしいし、こんなに長生きさせてもろて。ありがとう。」 「食欲の秋ですね。マツさん。」 マツは鮎をいの一番に食べたが、 「おばあさんになって初めて経験することやけど、すぐにお腹が空いて、すぐにまた大きいなってしまう。ご免なあ。」 と箸を置いた。 昨日あんなにたくさんあった巨峰が冷蔵庫にもうない。果物なしの夕食になってしまった。 拉致事件の記事を読みながら、 「しかたがないなあ。どうしょうもないなあ。わてにもどうしたげようもない・・・」などと言っていた。 今日も変わらず、 「おいしい、おいしい。」 と釜揚げをご飯にまぶして食べていた。 「尾頭付き何匹食べた事になるんでしょうね。」 とヘルパーが水を向けると、 「そらわての歳ほどや。」 とマツが大笑いしたのであたりにご飯粒が飛び散った。 マツから高野豆腐の注文がありヘルパーが買って来た。夕食には一個つけようと盛り付けていたら、側からマツが二個ほしいと言った。 夕食時、盛り付けてある高野豆腐をマツが全部食べたので、ヘルパーがまた冷蔵庫から鉢のまま出すと、それも四個ほど食べた。 「あーおいし、これもう一つ食べよ。」と五個になった。「もう一つ。」と六個目を食べ終わり、 「ああおいし、満腹、ぎょうさんよばれた。ありがとう。」 魚は大好きで、とくに鰈の煮付け、「おいしい」の連発だ。以前好物だった鯛の造りは、近頃は、「噛みきれへん。」とつぶやきながら食べている。さんまは骨が恐いと言いながら、猫のようにきれいに背骨を残して食べ切った。 少しずつ涼しくなってきて、マツはクーラーは切ってから寝ると言っており、「まだ自分で判断できる。」と自負を示した。 ヘルパー訪問時、マツは電灯を消して布団にくるまっていた。 「こうしてる方がぬくとうて、ええ気持や。」 「今日は富士山に初雪がちらついたとのことですよ。そろそろ風邪など引かぬよう気をつけてくださいね。」 マツ自身はむしろ、 「暑いよりは寒い方がましや。わては二月生まれやから・・・」 と、これからの季節を楽しみにしているようだった。 涼しさと共に食欲も戻りつつあるようだ。さば寿司と巻き寿司を、「どっちにしようかな。」と言いながら、「やっぱりこっち。」とさば寿司を食べている。量は少な目だが白和え、茄子も気に入ったようだし、みそ汁も「おいしい」とお替りした。 今朝も布団にもぐって休んでいた。目覚めるといつものようにニコニコと機嫌もよかった。 「外は雨が降り始めましたよ。」 ヘルパーが話しかけると、 「そうかあ。久し振りの雨やなあ・・・」 退蔵がやって来て、 「寒ないか?冬布団出そか?」と尋ねた。 「まだ寒ない。」 押入れに厚めのお布団が入っていることを退蔵はヘルパーに教え、様子を見て出してくれることを頼んで帰った。 夕方、礼子が岸辺を訪れて、布団を厚めのと替えようと押入れから出してみると、カバーがねずみの糞でずいぶん汚れていた。とりあえずカバーなしで冬ぶとんを使ってもらい、カバーは洗濯のため持ち帰った。 テレビの裏、テーブルの隙間から、使用済みテッシュが山のように出てきた。恐らくねずみの仕業だろう? 夕方、ヘルパーが訪問すると、マツはぐっすり休んでいた。声掛けで起きてもらい、すぐに熱いタオルで清拭させる。 雑炊は一膳、鮭一切れはきれいに食べた。連絡帳に書かれた夕食メニューの茄子のごま和えを探したが見つからない。 「ぶどうが食べたい。」 とマツが要求したが、これも探してみたが見つからなかった。昨夕は一箱そっくりあったのに・・ヘルパーがもう一度念のため方々を探してみたが結局出てこなかった。 テレビの裏、茶箪笥の隙間から今日も五つほどテッシュが出てきた。使用済みだからねずみの仕業に相違ない。 2002年10月 平成14年 台風が来ていたがどうやら近畿は逸れそうだ。テレビの台風情報をマツは真剣に見ていた。 「京都でのうてよかったわ。こわい思いせんでええしな。」 明後日から退蔵は一泊旅行に出かけるので、夕方叔母に告げに行った。 「あては大丈夫。楽しんどいで。そやけど台風大丈夫か?」 とマツは笑っていた。 「もう過ぎたやろ。」 マツが台所まで這って出てきて、冷たい飲み物を要求した。ヘルパーが、 「すぐ食事にしますから・・・」 と急いで用意をし夕食を出した。 「朝は、なにを召し上がりましたの?」 ヘルパーが聞いてみたところ、マツは答えられなかった。マツはそのことでひどくショックを受けたようで、 「明日からは気を付けて憶えておこう。」 と自分に言い聞かせていた。 焼き魚はおいしかったのかきれいに食ベていた。 左腰部の虫刺されはよくなってきているようだ。足浴中も自ら気持よさそうに足指足首を動かしていた。 「おかずが多過ぎるわ。」 とマツが言った。うなぎとご飯とみそ汁で充分とのこと。それでも、おいしいおいしいと満足の様子だった。 ヘルパーが買物に行く時マツはアイスクリームを買って来てほしいと頼んだ。今日も三個買ったが、秋口というのにマツは、「毎日食べても飽きない。」と笑っていた。 お隣からマツにとお花が届けられた。 「きれい、きれいやなあ!」 マツが寝ているベッドの、足側の棚の下、使用済みのティッシュ十五個もあった。ねずみの仕業のようだ。ときどき二階あたりで ねずみがどたどた走る音がする。 目覚めさわやか。マツは新聞を読んでいたが、やがて、 「こんなに人殺して、なんのためやろ。恐ろしい。自分の子供も信用できひんなあ。親が一生懸命子供のこと思て育てたのに・・・」 マツの目から涙がこぼれた。 ベッドの横に枝と皮のみ残されたぶどうの空パックがあった。昼間五時間の間に食べつくしたのだ。急須のお茶は全然飲んでいない。ヘルパーがお茶を勧めても一日一回くらいしか飲まないようだ。 「食べるもんがおいしいし、嬉しいしね。楽しい。」 とマツは看護師に笑顔で話す。ベッドに腰掛け、足をさすりながら、 「膝を曲げて寝るさかい固まってるなあ。」と一生懸命膝を伸ばそうとしている。 「いいこともあるからがんばって!ねえマツさん。」 「一人で寂しいようやけど気楽でええわ。テレビもあるし。」 「そうですよ。」 「頭はボケてへんし、これが何よりや。時々甥の嫁がおいしいもんも持ってきてくれはる。結構なことです。」 と始終笑顔だった。 二階で何かが走る大きな物音がした。ねずみにしては大きいようだが。マツは気付いていないようだ。 なにか食べるものを漁ろうと、マツが這って出てきていた。ヘルパーの顔を見てすぐにベッドに引き返す。ヘルパーは急いで清拭して、夕食を運んだ。 鯛の煮付けをまず食べてもらおうとヘルパーが高野豆腐を手控えていたが、今日は魚に手を付けないので、仕方なく高野豆腐を温めて出した。 退蔵が、強力粘着ねずみ取り二枚を持って来て、寝室ベッドの足側棚の下に一枚と、台所の冷蔵庫の下に置いて帰った。 看護師が訪問した時マツはまだ眠っていた。お風呂を促して起きてもらったが、案外機嫌よく入浴してくれた。少し足のむくみが残っている。 パンツとシャツに便の付いたものがあり、看護師はハイターに浸けておいた。下痢便のように見えた。 退蔵がねずみ取りをもう一枚持ってきて、テレビの後のテーブルの間にも置いた。 ねずみは台所にも出ているようだ。ティッシュなどが冷蔵庫の横で見つかった。 夕方、 「今日は間食をしなかった。」とかで、食欲もあり、量もちょうどいい具合だった。ご飯、みそ汁、魚、野菜煮、漬物、くらいが適量のように思う。 台所の冷蔵庫の横に仕掛けておいたねずみ取りに子ねずみが一匹かかっていたので退蔵が処分した。 看護師訪問時よりマツは「寒い寒い」と言い、 「お風呂は入らなあかん?やめてもええ?」 秋になって初めて入浴を嫌がった。熱もなく、下肢のむくみなどもないが、ただ布団から出ると寒いとのこと。看護師は手浴と足浴をし、エヤコンの設定を二十八度に設定し直した。全身清拭もマツが、「カンニン」と手を合わせたため、無理には出来なかった。 ) 朝のヘルパーが訪問したら、ガスが点かないとマツがウロウロしていた。「下ん町」に電話をしたとのことで、退蔵がすぐ自転車で駆けつけてきた。ガスの元コックが切れていたのですぐに復旧する。マツはガスストーブが点くと急に涙を流して誰にともなく感謝していた。 夕方、ヘルパーが訪問すると、マツは子供番組を見ていて、 「小さい子がかわいい。」 と微笑んでいた。 仏壇にお供え物があることに気付き、 「眠っている間に来客があったようやけど、誰やろなあ?」 と首をかしげた。 「お礼の言いようがないなあ・・」 としきりに気にしていた。 2002年11月 平成14年 朝のヘルパーが訪問すると、玄関の鍵が開けてあり、マツはガスストーブを点けてテレビを見ていた。 アイスクリームを買ってくるとさっそく一個を、「おいしい、おいしい。」と食べていた。 「胃の調子がもう一つ悪い。あんまりいやしんぼして食べ過ぎるさかい。少し食べるの控えたら直る。」 看護師にマツは自分から言い、入浴はしないと拒否した。清拭には応じ、足浴をしてもらっている。終わった後、「すつとしたわ。」と喜び、また、お金を包んで看護師に渡そうとしたので、看護師はマツのさいふに無理やり戻した。 「ほんならまた次の時までとっとくわ。」 とマツは残念そうな顔をした。 ますます寒くなってきて、ふとんをすっぽり被りストーブを点けて寝ていた。ヘルパーが声を掛け、すぐに清拭して食事してもらう。「食べ過ぎ」と自分で言いながら、枕元には相変わらず草餅、たこ焼、巻き寿司があった。「ごちそうさま。ありがとう。」 「気ままな事いうてごめんね。夕食ご飯用意してくれているけど、ウナギが食べとうなったさかい注文した。」 五時十五分前にヘルパーが来ると・・・空の盆が二つ置いてあった。うなぎ定食にお造り付きの豪華なご馳走だった。うなぎが食べたかったと独り言をつぶやきながら、ご飯を黙々と食べていた。 賞味期限切れの巻き寿司とケーキをヘルパーはマツの同意を得て処分した。 「あんたとわてはよう気が合うなあ。同級生のような気がするわ。」 「ちょっと待ってください、マツさんは私の二倍以上も歳が違いますよ!」 「あははは、だいじょうぶ!あははは・・・」とマツが大笑い。ヘルパーもしかたなく同じように笑った 「九十七年間やったら何日やろう?何時間やろ?」 突然マツがヘルパーに尋ねた。 「え?ちょっと待ってくださいよ。」 広告の裏に、九十七年×三百六十五日×二十四時間で計算してみて、その数をマツに告げる。 「八十四万九千七百二十時間・・・」 「へえ!そうかあ!想像でけへんなあ・・・それにしてもあんた頭ええわ。」 そして・・・ 「年いくとなあ、初めて分ることがようけあるんや。こうやって皆が来てくれはることがどんなに嬉しいか、人の情けがよう分る。」とマツはしみじみ話した。 看護師が二時頃訪問したところマツは寝ていた。声を掛けると、「眠とうて・・」とのことで一度出直し、三時半に再度訪問した。風呂はやはり寒くて嫌とのことだった。暖かくなったらまた入る、ということなので、無理強いしないで清拭、足浴、手浴など行った。 「ストーブ点けたいけど、点かへん。」 ヘルパーが試みると一応点いた。 「点きが悪いのやなあ。」 とマツはもうひとつ心細げだった。 寒くなったのでと、礼子が電気敷き毛布と電気掛け毛布を押入れから出してきて、敷き毛布のみをマツのベッドに敷いた。 ヘルパーが新聞が休みと伝えると、ずいぶんがっかりしていた。 消防署の職員がパンフレットを置いて行った。 「火事を出さんようお婆さんによう言うといてくださいね。」 とヘルパーに伝言を頼んだ。 「そらそうや。火事はこわい。わてはよう逃げんもんなあ。火の用心。なんみょーほーれんげきょー、なんみよーほーれんげきょー・・・あんた、助けてや。」 マツは最後にいつも財布からお金を出してきて、「世話掛けてすまんなあ。」と渡そうとする。ヘルパーはもちろん丁重にお断りしてマツに返すのだ。 「お風呂は嫌。」とマツが言った。浴室の電球も切れていたので、看護師は今日は清拭に変更しておいた。 彼女が退室しかけると、いつものようにマツがお金の包もうとする。「やめてくださいよ。」と断ってもマツが涙目で、すがるように渡そうとするので、 「それじゃせっかくやし・・・」 とみかんみかん一個を貰って帰った。 朝、マツは起きていたが、電気ストーブのみが点いていて、「寒い、寒い」と言っていた。まもなく布団にくるまって再び寝てしまった。ヘルパーがガスストーブを点け、朝食を勧めると、ごそごそ起き出し、「やっと暖こなった。」と言った。 枕元の封筒を見つけて、 「これ何やろ?」 ヘルパーが見ると区役所からの通知だった。 「沢村さんにお渡ししたら?・・・」 「そやなあ、わてには分からん。」 と言いながらまた枕の下にしまってしまった。 夕方、ヘルパーが訪問するとマツは眠っていた。部屋は暖かく、声を掛けると目を覚ました。 「来てくれたんかあ。」 とマツは大喜びの表情をして、ヘルパーにみかんを差し出した。ちようどいい機会だとヘルパーが思い、マツの顔を覗き込みながら話して聞かせた。 「岸辺さん、気持はとっても嬉しいんだけど、これとかお金とか、いただいたら私は会社をクビになっちゃうんですよ。」 「えっ、ほーかー。」 「そう、私たちは物やお金をもらったらいけないんですよ。せっかくやって来て、仲良くなったのに、来れなくなったら悲しいでしょう。だからマツさんが、『ありがとう、うれしいなあ。お金でもあげたいなあ』と思ってくださる気持ちは充分感じているので、クビにしないでね。」 「そらそーや。知らんかったなあ。そんなことになったらいかんわ。やめるわ。」 とマツは一応理解しているようだった。 「みんな、あんじょうしてくれはるさかいなあ。わてはうれしいんや。そやけど、あんたの言うことはよう分る。ありがとう、ありがとう。」と涙を流した。 退蔵も以前から何度か繰り返しマツに注意していて、「知らんかった」ということはないはずだった・・ 夕食もいつも通りしっかり食べた。 「動きもせんのによう食べるわ。」 「マツさん、車もガソリン入れな動きませんし、岸辺さんもご飯食べなお便所にもいけませんよ。」 とヘルパーが言うと、 「お腹痛いわ。」 とマツが笑った。 マツは電灯を消して十時過ぎまで眠っていた、目覚めた時寒かったのか、ガスストーブが点いているにもかかわらず、畳を這って行き電気ストーブを全開で点けた。ちようどヘルパーがお茶を沸かし、電子レンジで調理中だったので電気ブレーカーが飛び停電した。暗がりで寝ていたマツは気付かなかったようだが、台所は一時真っ暗闇になった。懐中電灯を頼りにヘルパーがブレーカーを回復した。マツに電気を多く使うとショートすることを説明すると、 「ああ、そうか、悪かったなあ。」 と笑っている。 電気ストーブ、ガスストーブのことも、そのつど退蔵からマツに言い聞かせていた。その時は、「わかった。頭に叩き込んどく。」と真顔で反省するのだが・・・ 庭の紅葉が赤く色づいてきた。ヘルパーが一枝を折ってベッドのマツに届けた。 「ああ、もうこんなに赤いんかあ。」 マツはもみじの枝を手に取り、あっち向けこっち向け眺めていた。 食事の中心はご飯とみそ汁だった。近頃魚は半分も食べていない。副菜はほとんど残っている状態だった。しかし食べる意欲だけはあるようで、表情の元気さは衰えなかった。 看護師が今日も全身清拭、下肢リハビリ、足浴をしてくれた。パンツが尿汚染していた。 下着の肩口がほころびており、マツが自身で縫っていた。動作もスムースで、きれいに縫えているのに看護師は目を見張った。 今日は例の物を何も出す様子はなく、ほっとして彼女は席を立つことができた。
2002年12月 平成14年 朝のヘルパーが訪問した時マツは熟睡していた。目を覚ましたのは十一時前だった。 「どんだけ寝ても眠たいわ。」 朝食の後に仏壇のお供えの柿をヘルパーが剥いて出すと、 「おいしい柿やなあ、おいしい、おいしい。」と喜んで食べた。 新聞にゴリラの赤ちゃんの写真が出ていた。「人間と一緒やなあ。」マツは何度も眺めて感心している。「どんなもんでも赤ん坊の時はかわいいもんや。」 ヘルパーが帰る間際になって、 「柿もええけど、みかんもさっぱりしておいしい。買うてきて!」 近所の誰かが菊の花を持って来れたようだ。マツはとても喜んでいたが、さて誰が持ってきたか退蔵が聞いても分からない。 看護師が来てもマツはなかなか起きようとせず、熱を計りながらまた寝てしまった。看護師が半分諦めていたところへ、ヘルパーがやって来て、 「さあ、夕ご飯よ!」 と声を掛けるとマツは別人のようにしゃんと起き上がった。 さわらの味噌漬けは、すでに「つまみ食い」したようだ。 新聞のどの記事を見たのか知らないが、 「人間はまっすぐ生きなあかん。」 と言った後、「ありがとう。」と、感謝の言葉を看護師とヘルパーに投げかけた。 今朝八時半から植木屋が来て庭の刈り込みをしてくれている。近頃シルバーセンターという現役引退した人達が割安料金で色々仕事を請け負ってくれる組織が出来た。家具屋も電気屋も、表具屋も植木屋もいるのだ。腕がよくて料金が安い。 紅葉や椿の木の枝払いをすると、正月を控えて見るからにすっきりした。枝葉のゴミは袋に詰めて持ち帰ってくれる。 庭側のガラス戸のカーテンを開け、 「すっきりしましたね。」とヘルパーがマツに話しかけると、 「庭が坊主になった。」 とマツが笑った。 ヘルパーが訪問時、マツはうつらうつらしたままいつまでも眠っていた。 ようやく起きてもらって朝食を出すと、それでもお茶碗一杯のご飯を完食。一昔前よりは少しずつ量は減ってきてきているが、まずまず体調は良好だ。 また例のお金を包むのでヘルパーはそれをマツの財布にそっと返した。 ヘルパーが訪問したらいきなりマツが、アイスクリームが食べたいと言った。冷蔵庫になかったのでとりあえずヘルパーが柿を勧めたら、 「ご飯がすぐなら待つわ。」 柿は朝食後に食べた。この冬の最中にアイスクリームを要求するマツの胃袋にヘルパーはびっくりした。 新聞が休みのためマツはテレビをずっと見ていた。枕元にはみかん三個とバナナ二本が置いてある。 夕方、ヘルパーが訪問するとガスストーブと電気ストーブの両方が点いており、寒かったのだろう。電気ストーブは点けないようにマツにお願いして、ヘルパーは炊飯にかかった。 マツが眠っている間にだれかがお菓子を届けてくれたようで、 「お礼の電話を入れたいけど、番号が分らない。」 とマツは困っていた。 朝のヘルパーが訪問時、ガスストーブと電気ストーブ両方を点けてマツはテレビを見ていた。買物に行く時にアイスクリームの注文があった。買って来るとすぐ、 「おいしい。」と食べ、「寒なってもアイスクリームはやめられへん。」と笑っていた。 礼子が台所用に暖かそうな冬用のスリッパを持ってきて取り替えた。こういう気遣いは退蔵にはまつたくできない芸当だった。 夕方のヘルパーが訪問すると、マツはベッドの上で起きてテレビを見ていた。すぐに清拭をし、夕食を出す。 「おかずがたくさんある。」 ヘルパーが帰りがけに、いつものお金を手に持って玄関まで這って行き、手渡そうとする。そのたびヘルパーは丁重に断るのだ。 夕方、マツがアイスクリームにかぶりついていた。ヘルパーが急いで夕飯を持って行く。マツがもくもくと食べ出したが、なんか変なのだ。よく見るとマツは入れ歯なしで食べている。ヘルパーがマツにそのことを注意すると、 「あんまりお腹が減ってて・・」と爆笑。 マツの足が冷たいので、ヘルパーの手をマツの足の甲に置くと、 「あーええ気持や。」とこたつ代わり。そのくせ靴下は不用だと冬でも素足のままだった。 食後にみかん二個とりんごを食べ、おいしいおいしいとニコニコしていた。 ヘルパーが訪問時、マツが冷蔵庫を開けて覗き込んでいた。 「岸辺さん。」とヘルパーが声をかけると、いたずらを見つかった子供のように、急いでベッドに戻った。 「えらいとこ見られてしもた。」 とマツは照れくさそうに笑っている。その後でヘルパーといっしょに大笑い。 「お汁からいただこか。おいしそうやなあ。」「ああおいし。」 「おいしい。お腹空いてんねんなあ。」 骨をきれいに取って焼き鰈を全部食べた。 今日も三千円をちり紙に包んで渡そうとした。ヘルパーは儀式のようにそれをマツの財布に戻して帰った。 造り、ご飯、みそ汁、ほうれん草全部、なすびの煮物二分の一。「なんとおいしいんやろ。お腹空いてんねん。ふーん。」と感心していたた。「おいしいお造りや。」 夕方、清拭後食事。マツは「お腹が一杯や」と言った。枕元を見ると、バナナの房のうち三本が欠けている。 「何も食べてへんねんけど食べられへん。」 「ほんと?」 「何も食べてへんけど食べとない。なんでやろ。」 「岸辺さん。バナナお食べになったのでしょう。」 ようやくバナナを食べたと認めたが、十分もするともう忘れてしまい、 「どこか悪いんやろか。なにも食べとないわ。」「なんでやろ。」「なんにもいらん。ありがとう。何食べようとも思わん。」 と言って夕飯を残した。マツがえらく心配するのでヘルパーが、 「バナナのせいですよ。」 と説明してなんとか納得させた。 看護師の訪問日。マツは少し咳をしていた。しかし肺雑音なし、熱なし、活気はある。 「年末やしなんとのうせわしないわ。」とマツは笑った。「わてはここに寝てるだけやのになあ。」 ベッドから起きて忙しそうに財布からお金を出したり包んだりし出した。金三千円をマツが看護師に差し出したので、彼女はそれを黙って財布に戻した。 「人の情けが身に染みる。ありがとう。ありがとう。」 まじめな顔でマツが繰り返すので、看護師は、 「そんなに、目上の人に何回もありがとう言うてもろたら私もよう染みます。染みて滴りますよ!」 ヘルパーの帰り際、またまたお金三千円を包んで、マツが彼女にすがりつく。 「どうしても貰うて。」と引っ込めようとしない。ヘルパーはやむを得ず、「ありがとう。」と受けて、帰り際台所のお盆の下に置き、メモを残して帰った。 「申し訳ないことですが、どなたかお財布に戻しておいてください。」 食後マツはテレビの番組をチェックしていた。社会福祉協議会から黒豆とタラが届いた。 マツは変わりなく気分もよさそうで、にこやかに過ごしていた。食事もおいしいとほとんど全部食べた。 ただ金銭感覚が大分判らなくなってきているように思えた。ヘルパーや看護師にしきりにお金を渡そうとする。よほど納得のいくように彼女たちが断りをしないと聞き入れてもらえない。 「お金の管理がそろそろご無理のように思います。なんとかよい方法はないでしょうか。」 とケアマネージャーが退蔵に相談の電話を入れてきた。 退蔵もお金包みについては繰り返しマツに注意しており、その時は、「よう分った、頭に叩き込んどく。」と答えるのだ。 なすのごま和えは大好き。お造りがほとんど残っている。ヘルパーは、漬物を持って行くのが早すぎたのかなあと思案する。お造りを食べてもらおうと高野豆腐も出さずに様子をみているが、口が肥えたのか、噛めなくなったのか、最近お造りの減りが悪い。 そのマツがいつも玄関までハイハイしてきて、ヘルパーにお金を包んで渡そうとする。 朝夕の食事もしっかり摂れているが、独り言が多く、少し弱気なことも言うようだった。 末娘が実家に戻っていたので、礼子が昼から二人でお花とお菓子を持ってマツを訪ねた。マツは目を覚ましていて、テレビも点けずベッドに横になっていた。お正月の花を一応マツに見せてから壷に挿し、居間は暑過ぎるので廊下に置いた。マツはすみ子と意気投合して楽しそうに談笑していた。 間もなく夕方のヘルパーがやってきて、すぐ食事が出される。さわらの焼き魚がおいしかったようだ。「ああ、おいし。」マツは何度も声に出して目を細めていた。。割合味の濃いのがお好きなようだ。なすの煮物はパスした。 いつも財布の中を眺めながら、お金を包んでいる。三つも四つもお金包みを用意して枕の下に仕舞った。それがマツの日課のようだった。 テレビが過去の紅白歌合戦の特集をやっていた。マツはそれをいつまでも楽しそうに見ていた。 礼子の作ってきた五目寿司はマツの好みに合ったようだ。 また財布からお金を出していた。マツが玄関まで這いながら出て来るので、ヘルパーはそれまでにさっと外へ逃げ出すべく帰り支度を整えねばならなかった。 朝、ヘルパーが訪問するとマツはすでに起きていた。ヘルパーが台所で調理している間、「ありがとう、ありがとう」と感謝の独り言が聞こえてきた。 マツは仏壇に線香を上げてからベッドに戻り、朝食を食べた。 今日はマツの女学生時代の話をヘルパーに聞かせていた。その頃のことは手に取るように逐一話すのだ。 マツのとこのおせちは生協に頼んであると退蔵が何度も何度も念を押しているのに、彼女自ら松前屋へ注文の電話を掛けている最中だった。ちょうどその場面に行き合わせたので退蔵が危機一髪でマツの注文を断ることが出来た。 「だれも来てくれへんとおもて・・・」 マツが仕出し弁当を注文した後だった。 「一人で食べて悪いなあ。同じのん注文しよか。」 とヘルパーにマツが気の毒そうな顔をした。「ご親切に。でもお腹一杯なんですよ。」 幕の内弁当を半分、「後で食べる。」とマツは残していた。寝室が暖かいので、ヘルパーは残りを蓋をして隣の部屋に置いて帰った。 ヘルパーが訪問時マツはまだぐっすり眠っていた。朝食の用意を先にし、熱いおしぼりを持って行ってマツを起こした。 「よう寝てしもた・・・」 と元気に目を覚し、テレビを点けてほどなくすると、 「そや、今日は大晦日やろ。忘れてた。」 正月用のお煮しめをどこかに電話で頼み始めた。 叔母のとこから帰ってきた退蔵が、 「えらいこっちゃ・・・。叔母さんが菊の井さんでおせち頼んで、もう持って来てある。」 やれやれ!・・・重なってしまった生協の分は沢村家で引き取って食べることにする。腹を立ててもしかたがない。なにしろ相手は九十七歳の年寄りだ。我々「足腰の達者なもん」に立ち向かいようがなかった。 |