旅行1

 

 

 

 

 

 

2003.3.7連載開始 

ヨーロッパ西部

バルセロナ

平成四年(一九九二年)

二月十二日 (水曜日)

小鳥に十日分の餌をやって、三人でばたばたと家を出る。

十二時四十分に伊丹空港に到着したが、搭乗券をもらうと後は用事もなく、それから交代で空港の中をうろうろして時間をつぶす。ようやく十五時、大阪を飛び立ち、まず東京へ向かった。曇っていて富士山は見えなかった。

羽田に着いたが我々の乗る飛行機はここにはない。リムジンバスで成田空港に向かう。腹の立つことに、バス代は旅行費用とは別に自前で払わないといけなかった。

二十時、イベリヤ航空八九六便いよいよ離陸。早速二十一時になると、ビールジュースのサービスがあった。

二十時三十分、機内食が出る。肉巻き野菜サラダと寿司の献立である。

日本時間で二十一時頃、窓の下に流氷が見えてくる。アンカレッジで一旦給油。現地時間は午前八時、まだ夜明け前である。

空港内の売店でアイスクリームを食べ始めた頃ようやく白々と夜が明けてくる。

現地の九時半、アンカレッジ発。日が昇り光が溢れてきた。

二時間あまりうとうとする。窓外は再び闇の世界。奇妙な時間の逆流だった。

 

二月十三日 (木曜日)

狭い機内で体をよじるようにしながら、どれだけ寝ただろうか。

ヨーロッパ時間に腕時計の針を合わす。四時、朝食が出る。オムレツ、チキンなど。

五時三十分、バルセロナ空港に着陸する。迎えのバスに乗り込み、六時、クリスタルホテルにチェックインする。

部屋で荷物をほどき、九時過ぎ、ガイドの松下さんに案内されて、まず銀行でペセタに両替したのち、バスで市内観光に出かけた。グエル公園、聖家族教会でガウディーを目のあたりにする。

例によって民芸店に立ち寄り、用もないのに三十分も狭い店に閉じ込められた。

ようやくバスが動き出し、コロンブスタワー脇を通り、バルセロナ港を見下ろすレストランで昼食。食後、完成したてのオリンピックスタジアムを、鉄柵の外から覗き見てから、クリスタルホテルに帰着する。

午後四時ごろ大阪の娘に国際電話する。日本は夜中の零時で、眠そうな声で婿が応対してくれた。

こちらはまだ夕方、デパートに出かけて幾ばくかの両替する。意外なことに銀行より率がよかった。

タクシーを呼びとめ、運転手にホテルでもらった市外図を示し、あとは手話でピカソ美術館へ出かける。

八時にホテルへ帰り、夕食。

 

2003.3.17追加更新

ローマ

 

二月十四日 (金曜日)

七時半にバスでホテルを出発し、一時間ほどで空港へ到着した。

九時四十五分バルセロナを離れ、ほどなく機内食が出る。

十一時二十分にはもうローマに着いた。日本でならちょっと北海道といったところに隣国があった。

十三時ごろ市内レストランで、山盛りのスパゲッティーと、こうしの白ワイン煮の昼食を食べる。

そのあとホテルにはチェックインせずに、その足でガイドの千葉さんに案内されてバスで市内観光に出かけた。

写真で見た通りのコロッセオ、古代凱旋門、猛獣と奴隷を戦わせたというあの競技場を次々と回り、その後ベネチュアガラス製品の店に寄る。我々のクルーで買っている人はほとんどなかった。

サンピエトロ寺院は団体の見物に時間制限があり、ガイドさんが我々の尻をたたいた。でも立ち止まらずにはいられない大きさ、荘厳さだった。入口近くに有名なミケランジェロのピエタ像があり、人だかりしていてじっくり見られない。

次にトレビの泉へと廻る。楽しそうに皆がやっていたのでもちろん妻と娘も泉に後向きになって小銭を投げ入れた。私は何もせずにその水の底を透かしてみたが、相当の小銭が溜まっているようだった。

十七時にジェノバホテルに到着する。

夕食はオプションなので、我々は持参の即席赤飯と味噌汁を部屋で暖め、つつましく済ました。

 

二月十五日 (土曜日)

六時に起きて、ホテルの食堂で朝食をとる。

今日は自由行動なので、九時きっかりにホテルを出て、地下鉄でオッタビヤ駅まで行く。

バチカン宮殿に着いたのは十時ごろだった。天井、さらに側面、全体がこれ壁画という趣きである。二時間ほど見て歩いたが、くたくたに疲れる。

出たところでピザ店のちらしを手渡され、ちょうど昼時だったので、見取り図をたどってその店に行きついた。あまり客は多くなかった。チラシを指差して見せて定食を注文したはずなのに、次々にカルトを持ってきてチョイスさせられる。生のヒレ肉なぞは確かに旨かったが、途中で疑問を投げかけるにも言葉は通じず、はらはらしながら勘定書を見てびっくり、十一万九千リラも取られてしまった。

昨日ツアーで団体見学したのだが、もう一度見たくて、昼からサンピエトロ寺院を徒歩で訪れる。今度はピエタ像もじっくり見られた。見事な大ステンドグラス、昼食の腹立たしさも忘れてしまった。

十四時半ごろ、地下鉄でスペイン広場へ向かう。あの「ローマの休日」の石段に大勢の観光客が肩を寄せ合い座っていた。私たちもいっしょに腰掛け、ロマンチックな気分に浸る。その視線の前方には有名ブランドショップが軒を連ねる小広い一区画があり、ウインドショッピングの客で溢れていた。長々と見て歩いたのち、とある店で娘に水色のコートを買ってやる。クレジットカードを使ったが、店の主人が奥で処理したので不安が残った。

疑い深くなり、辺りを見回し、安心マークのマクドナルドでジュースを飲む。

十八時半、ホテルに帰り着いた。今夜も持ってきた即席カレーライスを作るが、ご飯が旨くできず、惨めな思いをした。

 

2003.3.27追加更新

パ リ

 

二月十六日 (日曜日)

五時二十分に起床。ばたばたと支度をして、直ちに出迎えのバスに乗り込む。バスの中で紙袋に詰まった簡単な朝食を摂り、一路空港へ向かった。

九時十分ローマを後にする。十時には、機内朝食が出た。

十一時二十分、パリ、ドゴール第二空港に着陸する。

バスに乗り込み、十二時半ごろ、都心のこじんまりしたカレイホテルに着いた。部屋はそれほど悪くない。

十四時に外出して近くのレストランでスープと豆の煮込みの定食を注文する。どんぶり鉢一杯のグリンピースが出てきた。

一旦ホテルに戻って、十五時半再度外出し、手許の地図に従ってパリの街並の中を歩いた。難なくルーブル美術館へ辿り着いたが、大変な数の展示品だ。駆け足で見てまわったのに、十八時前には閉館のベルが鳴った。

木枯らしが吹く最中を、コートにくるまって三人とも行程も分からぬまま歩け歩けで、コンコルド広場に至る。そこからいよいよシャンゼリゼである。夢でなく我々は大通りを歩いていた。

十八時半ごろ、あたりはすでに冬の夜の景色である。明るくて大きなビルに吸い寄せられるように入ると、ファミリーレストランと思しき一角があり、腹をへらしていたので、なんとかなるだろうとグリルドビーフ定食を注文する。なんと!安くて旨かった。

凱旋門にやっとの思いでたどり着く。そこでしばらく、寒さに耐えながら立たずみ、十九時半ごろ、地下鉄でホテルに帰着する。

 

二月十七日  (月曜日)

八時半に一階の食堂で朝食。少しは贅沢をと、ハムオムレツをカルトでとる。

九時半、ホテルを出て肌寒いチェルリー庭園を 三人が寄り添い早足で歩く。それでもパリの朝はすがすがしい。

庭内の端に位置するオランジェリー美術館に入ると、可愛らしい幼稚園の園児たちが、先生に引率されて見学に来ていた。大きな睡蓮の壁画の前でわいわいがやがやとさわぎ、敷き詰められたじゅうたんに寝っ転がったりして遊んでいた。

そこを出ると、さらに歩いてオペラ通りを進む。

とっかかりの「ラーメン亭」で昼食をとる。日本人客が多く、ラーメンに白いご飯、すぐきの漬物まで付いていた。

お土産屋の連なる大通りを人波に押されながらオペラ座まで歩く。

そこからまた地図を頼りに地下鉄を乗り継ぎ、とある駅で下りる。英語の片言に手ぶり身振りをまぜて、出会い頭の修道尼僧に聞きながら、坂道を登ったり下りたり歩き回り、やっとの思いでギュスタブモロー美術館を尋ね当てた。ゆき子と私はぐったりして、館内の長椅子にへたり込む。しかし、桂子はお目当ての美術館ということで、一人で三階までくまなく見て回っていた。

次はふたたびノートルダム寺院まで地下鉄に乗る。少し乗り降りも慣れてきた。広場の、雰囲気のあるカフェーで、コーヒーを飲む。回りのテーブルは会話がはずんでいたが、われわれは黙って座り、パリを満喫した。

ノートルダム寺院内部の目のくらむようなステンドグラス。荘厳さについ十字を切って礼拝していた。

ホテルまでセーヌ河畔ぞいに歩いて帰る。これがまた長い道のりだ。相当疲れた。

ホテルへ帰って一服する間もなく、十九時に再度出かけ、とりあえずコンコルド広場の近くで両替を済ます。

地下鉄に乗って、午後八時ごろ、夜寒のエッフェル塔にたどり着く。皆が食べているのに釣られて求めた売店の即席ピザ、固くてまずいのにがっかりする。

エッフェル塔は二階まで一人三十四フラン。寒くて身体の芯まで凍えた。

 

二月十八日 (火曜日)

七時半に起床。朝食は昨日と同じハエッグを注文する。

九時半にホテルを出て、まず隣の銀行で両替する。

サンラザール駅は日本のいわゆる「改札口」がない。切符を買うとホームまで誰にとがめられることなくすいすいと通れた。十時二十五分発の国鉄でベルサイユへと向かう。

十一時ごろ着いたが、ちょうど駅の近くで朝市が店開きをしていて賑わっていた。二十分ばかりの距離を歩いて宮殿に着く。入場にかなりの長い列が出来ていた。

十二時半ごろ中に入れたが、とりあえず、地下の食堂でセルフサービスの昼食をとる。割高かと思ったらそうではない。肉料理がどっさり食べられた。久しぶりに皆満腹していた。

「宮殿」内部は絵葉書を生の目で撫でるように神々しい。一時間あまり歩き回って、十四時ベルサイユ発の電車で帰路に着く。十四時半サンラザール帰着。そこから地下鉄でアルマへ。昨夜みんなで充分作戦を練っていた。

アルマの船着き場から、十五時十五分発のセーヌ川遊覧船に乗り込む。セーヌ河からルーブルやノートルダム寺院を眺め、十六時三十分にアマルに舞い戻った。

さらに高速RERでオルセーへ。旧い駅舎を改造したというオルセー美術館を駆け足で見学する。

十八時ごろ、地下鉄で今度はモンマルトル。なんという強行軍だろう。

五十メートルほどのところをケーブルで登ると、目の前にサクレクール寺院が見えた。丘の上のしゃれたレストラン「ル・コンシュラ」で夕食をとる。午後八時になるとピアノの生演奏。シャンソンや、われわれが日本人だと分ると日本の曲を弾いてくれる。小一時間いい気分で夜のモンマルトルを過ごし、腰を上げて勘定を済ませ、「メルシー!」と挨拶すると、「アリガトウ。」と日本語で返してくれた。店を出てしばらくしてから気が付いた。我々はピアニストにチップを渡さなければいけなかったのではなかろうか。ちょっとくやまれた。モンマルトルの丘に満月が登っていた。石段を徒歩で降りる。

二十一時ホテルに帰着。

 

2003.4. 7追加更新

マドリード

 

二月十九日 (水曜日)

六時、モーニングコールで起こされる。

急いで朝食をとり、七時半はもうホテルを出発した。バスでオルリー空港へ直行。しかし、マドリードが悪天候のため、随分待たされる。今までが順調過ぎたので、ちょっとびっくりする。十三時半、三時間遅れでやっと離陸したが、マドリードに着いたのは十五時半だった。

十六時、出迎えてくれたガイドさんに連れられて、道路脇に雪の残る街へ観光に出る。彼の話ではマドリードでは七年ぶりに降った雪らしい。

プラド美術館でエル・グレコ、ベラスケス、ゴヤを、また別館では、あの、画集でしばしば見たピカソのゲルニカに対面する。そのあとレティロ公園からスペイン広場へ。ドン・キホーテの像の前で記念撮影。とにかくマドリードへの到着が遅れた分を取り返そうと大急ぎで廻ってくれるのだ。

十八時、ホテルフロリダノルテに着く。小雨が降り出した。

夕食は部屋でカップヌードルや天そばの整理をする。

夜、近くの店でサンド、缶ビール、水を買い込んで、最後の晩餐に三人で乾杯した。

 

二月二十日 (木曜日)

七時に起床。窓の外は雪である。

いよいよ帰り支度を始める。八時半、食堂でコンチネンタル朝食をとる。

九時半になって支度も一段落したので、ちょっと街に出かけようと妻が誘うが、娘はとうとう弱音をはいて、留守番に回った。我々は傘をさして外出した。スペイン広場からグランビル大通りまで歩く。玩具屋で、叔母たちと観音寺の母へのお土産にフラメンコ人形と扇子を買い、時間がなくて、タクシーでホテルに戻る。

十一時半ホテル出発。十二時には空港着いたが、悪天候のため十三時二十五分発のところ、いつまでも出港が遅れ、その間、機内食の代わりに空港のレストランでハムステーキの定食が出る。

十五時四十五分、ようやく離陸。窓の外に雪のマッキンレー山脈が見下ろせた。快晴だった。

 

二月二十一日 (金曜日)

アラスカ時間で十五時四十五分にアンカレッジ着陸する。

昼下がりである。快晴。ヨーロッパの曇り空が嘘のようだ。

休憩中に大阪の長女に国際電話する。

現地時間で十六時四十五分にアンカレッジ発。やがてまた夜が戻ってくる。日本時間に時計を合わせる。(ヨーロッパ時間より八時間進ませる。)機内ランチ。鮭とライスのバター炒め。食欲はほとんどない。

時計がアンカレッジ発時間と同様の十六時四十五分となり、またまたサンドイッチの機内食。なにがなんだかわからない。十七時三十五分、成田に着陸。機内から拍手が湧いた。 

 

次は4月17日に更新します。