旅行2

 

 

 

 

 

 

2003.4.17更新 

ヨーロッパ横断

 

ドイツロマンチック街道

 

平成九年(一九九七年)

一月十八日 (土曜日)

出端のミス。私ははるかの発時間を三十分間違っていた。八時十五分のところを四十五分となぜか思い込んでいた。気の付いたのが七時半。慌てて御池通りにタクシーを拾いに行き、家の前で荷物を積み込んでいたら、二階の窓から末娘が眠そうな顔を覗けて「いってらっしゃい」と手を振った。

はるかにはなんとか間にあった。関空に九時半に着き、余裕があるつもりが、集合場所にはもう人の列が並んでいる。ようやくカウンターにたどり着いて、驚いたことに、この前オーストラリアで添乗してくれた逸見さんが目の前にいた。

「奇遇ですね。こんなの私も初めて。」

という。ところが、私たちの引替券を見て、

「あれ、残念。方向は同じやけど、川村さんはお隣のグループやわ。でも行き先は同じだからちょくちょくお目にかかると思います。」

とのこと。我々のクルーはSさんという独身女性の添乗員で、総勢二十六人。ちなみに逸見さんのグループは四十一人とか。

十時三十五分、オランダ航空KL868便がいよいよ離陸した。ベルトを外すと間髪を入れず飲み物サービスが廻ってくる。ビールとトマトジュースを戴く。ところが肝心の昼食は十四時になってようやく配られた。サーモンとビーフの蒸し煮。

私と同年配の男性が飛行機酔いで通路にぶっ倒れ、一騒動があったが、それも間もなく座席に戻っていった。日本時間の十五時ごろ、眼下はシベリアの原野で、大河が凍っているのか灰色ににぶく光り、S字に大きくくねっていた。

日本時間十九時、焼きそばとちっぽけなお好み焼きの軽食が出る。地平は太陽が沈みかけては顔を覗け、なかなか暮れてこない。西に向かって進むので、現地時間ではいつまでも十六時台なのだ。日本時間で二十時になると、逆にだんだん明るくなってきて、日が照り出した。さらに一時間後にはすっかり昼間に戻ってしまった。

日本時間二十三時にもう一度カップラーメンが配られる。

八時間の時差がある現地時間で十六時二十三分、オランダアムステルダム空港に着陸する。辺り一面のもや。そこで、予定でも三時間の待ち時間があったが、乗り継ぎの飛行機ユーロウィングが延着して、結局二十時五十分にようやく再出発する。機内で味もそっけもないまずい軽食。二十二時にドイツのシュツットガルト空港に到着し、そこからはバスでハイデルベルグに向かう。レガホテルに着いたのは二十四時だったから、日本時間にすれば朝の八時である。その時間まで皆ほとんど寝ずに徹夜したのだから、時差ぼけどころか寝不足の塊だった。それでも部屋は心地よく、バスルームも大理石が敷き詰めてあったので、疲れていたが一風呂浴びる。

 

一月十九日 (日曜日)

昨夜遅かったにも関わらず五時に目覚め、起きて梅干茶を飲む。七時には階下の食堂でコーヒーとパンだけの朝食をとるが、ここら辺りではこれが当り前らしい。すぐ部屋に取って返して、トランクに鍵を掛け、チェックアウトする。ところが、何もないはずなのにクラークが「テレホンテレホン」と慣れぬ英語で喚くので、ガイドさんに掛け合ってもらったら、昨夜娘に国際電話したが、外出中で繋がらなかったのに、それでも回線使用料のようなものを一マルクばかり支払わなければならないらしい。

八時にやってきた迎えのバスに乗って市内観光に出る。道路の両側には雪が残っていて、十五分ほどでハイデルベルグ城に着いた。幾多の戦争で外壁だけの残骸もあった。「騎士の足跡」というのは、なんでも浮気な騎士がいて、王様の留守に姫君の部屋に忍び込んだが、王様が突然帰ってきて、慌てた騎士が四階の窓から中庭に飛び下りた時にめり込んで出来た足跡だという。また、二千二百リットル入りの世界一大きな白ワインの樽を、梯子に登ったり下りたりして見学した。九時ごろ、旧市街の「古い橋」からもう一度ハイデルベルグ城を眺め、カメラに収める。このところで、ちょっぴり小雨がぱらついた。ささやかな商店街の中に四百年前に建てられた古い建物があって、それも観光ポイントの一つである。「なかむらショップ」という日本人経営の土産物屋でアイスワインを試飲する。この甘い味は確かカナダでも試した覚えがある。妻が金のブローチと絵葉書を買った余勢で、トイレを借りたいと申し出ると、ドイツ人の使用人が片言の日本語で店の隣に案内してくれて、大きな鍵を渡された。隣は倉庫のような空き地のようなところで、その奥にWCと書かれて大きな南京錠の掛かった薄汚ない便所があった。

十時過ぎ、またバスに乗り込み、ロッテンブルグへ向かう。二時間半バスにゆられてようやくロッテンブルグの小さな町に着く。オフシーズンということもあり町並はひっそりとしているが、各ショーウインドウには精一杯に可愛らしい飾り付けがしてあって、それが古い建物と調和してなんとも言えない雰囲気があった。町の中心どころのレストランで昼食をとる。ソーセージとスープとヨーグルト。パンとコーヒーはなぜか付いていない。

二時ちょうどになると、猫の額ほどの広場に面した市庁舎の二つの窓に総督と市長さんの人形が現われる。と言っても特に芸をするわけでもない。ただ現われて五分ばかりでまた窓が閉まるだけの仕掛けである。これには謂われがあって、昔、この町は他国の占領下にあり、ここの市会議員らを皆殺しにするために総督がやってきた。時の市長が総督にこんな提案をする。「この大きな器にワインをなみなみと注いで下さい。私が一気呑み干してみせますから、成功しましたらどうぞ私たちを助けて下さい。」総督はまさかそんな大杯が呑めるとは信じられなかったので、約束する。市長は総督が見守る中、ぐいぐい呑み干してしまい、お陰で町は救われたという話である。

小一時間の自由時間で私たちは聖ヤコブ教会を見物する。歴史を物語るような荘厳な内部だった。受付の牧師さんが日本語の案内書をくれる。

町の地図で「てんぐの鼻先」に当たるところの、公園に足を伸ばすと、シジュウカラやゴジュウカラらしきのやら、ベニマシコもどきなど、いい声の小鳥が雪をかぶった樹の枝を飛び交っていた。

十五時。いよいよロマンチック街道に足を踏み入れ、三時間かけてミュンヘンへ。ホフブロイハウスというレストランでの夕食は、大ジョッキ一杯のドイツビールと若鳥丸ごと一羽がテーブルにどんと出てきた。大ホールがすべて日本人客で埋っていて、正面でのヨーデルやドイツ民謡、大小のベルを巧みに操っての素晴しい演奏などを土地のお客が覗き見にくる有様だった。テーブルの間を我々の顔写真を撮って廻る爺さんのカメラマン。撮った写真は直ちにキーホルダーにして、売りにくる。私にも、「シャチョウ!」とか片言で呼びかけて撮ろうとする。それを逆手に私は自分のカメラに収めた。

二十時半にミュンヘンのクイーンホテルに到着する。ここも、テーブルに植木鉢など置いて、なかなか雰囲気のあるいい部屋だった。明日がまた早いので早く寝る。

 

一月二十日 (月曜日)

五時に起きて荷物の整理をし、毎朝欠かさない日本茶を沸かして飲む。

七時に部屋の外にトランクを出してから食堂に下り、七時半にはもう出発だった。二時間後に、ワーグナーの歌劇に出てくる架空の城を実現したという白鳥城(ノイシュバンシュタイン城)の麓に到着する。晴れてはいないが降ってもいない。そんな天候の雪解けの残った小広い山道を二十分ばかりかけてお城まで徒歩で登る。「おとぎ話に出てくるような」お城の外形がだんだん目の前に迫ってくる。シーズンオフに関わらず、なかなかの人出で見学に列が出来ていた。玄関ホールからもう圧倒される華やかさ。丸天井は天空を現わしそこから鎖に吊り下げられた豪華なシャンデリアが見事だった。壁画で囲まれ贅をこらした寝室は、時代がかって少し陰気くさく思えたが、ルードビッヒ二世が湯水のごとくに国税を浪費してお城の建設に没頭したというだけのことはある。厨房のオーブンが、そのころでは画期的な全自動グリルとのこと。読書用の椅子の置かれた窓からは山肌や谷間やその向こうの空が見え、折しも雲が切れて冬日がさんさんと部屋に差し込んできた。

帰り道の途中の食堂で昼食をとる。チキンハンバーグだったが、この日までの食事のうちで一番おいしかった。

十三時二十分、再びバスに乗り込みリヒテンシュタインへ向かう。ここは別段入出国の関所もないが、れっきとした「国」なのだという。小さな土産物屋に立ち寄ったら切手シートを売っていたが、これが名物とのこと。一面の雪原の中を分けるようにして街道をバスは走る。窓の外は雨だった。まるで日本でなら他県に踏み込む程度の感覚でオーストリアをかすめ通ってスイスに入る。そこでも、田舎のガソリンスタンドで給油でもするふうに、ドライバー(女性)だけが下りて入国手続きをしてくれる。それもほんの十分ばかり待たされただけである。やがて、道路はしだいに高台へと登って行く。山中を迂回して、すっかり暮れかかったころ、スイスアルプスの麓ユングフラウ地方インターラーケンの小さなホテル、クリスタルホテルに到着する。赤いカーテン、赤いランタンの付いた可愛いこじんまりした部屋にチェックインし、その三十分後、十九時半には食堂に下りるが、窓際の二人席にはろうそくが灯り、空席だったので私たちはそこに陣取った。メニューはスープにチキンとスパゲッティー。

二十一時半、娘に再度電話する。ところが時間を読み違えていて、日本時間は朝の五時半だった。まだ寝ているところを起こしてしまい、「今着いたん?」とゆき子の寝ぼけた声が受話器の向こうで聞こえた。

 

2003.4.27更新 

スイス アルプス

 

一月二十一日 (火曜日)

五時十五分起床。荷物を出すと同時に食堂に行って朝食をとる。八時にバスに乗り込んだころは小雨が降っていた。今日だけは晴れて欲しかったが、天候はままにならない。

「アルプスは六日に一度しか晴れませんから、たいていこうなんですよ。」

とガイドの佐藤さんが言い訳するが、皆の顔付きはやはり相当がっかりしていた。十五分たらずで登山電車の駅ラウターブルンネン(796m)に到着する。雨は止んでいたが空は一面灰色で山の輪郭などはとんと見当たらなかった。それでも予定に従って九時発の電車に乗り込み、勾配を電車が登っていく。十分ほどすると、空の様子が少し変わってきた。灰色一色だったのが、雲が形を成してきて、やがて奇蹟が起こった。雲が切れて薄日が射してきたのだ。ほんのちょっぴり青空さえ覗いて見える。あっちこっちから歓声があがった。アルプスの峯々が姿を現わし始めたのだ。一時間ほどで乗換え駅クライネシャイデック(2061m)に着いたころには、もう辺りの雪に日差しが照り返し、「晴れている」と言っていい状態だった。そして、メンヒ、アイガー、ユンクラフを始め自然の驚異が我々をぐるりと囲っていた。皆の顔は悦びと感動で輝いている。「アルプスの少女ハイジ」に出てくるのとそっくりの大きな犬が人気を集め、記念写真を撮りたがった。

十時二十分、再び電車に乗り継ぎ、長いトンネルの途中の駅で一時降りて小窓から外をのぞくが、もやがかかって何も見えない。その辺りは気圧が低くて、走りなどするとめまいがする。三十分かけてユンクフラウコッホ(3454m)に到着する。その駅から山をくり抜いた長い道が二方向に通っていて、一方はスフィンクスと呼ばれる展望台に通じている。そこで眺望を満喫し、手すりのふわふわの雪を一口食べてみる。まるで水っぽさを感じない。もう一方は突き当たりに「氷の宮殿」と名付けられた万年氷を彫刻した幾つかのブースがあって照明で美しく照らし出されていた。中央には食堂あり、売店あり、エレベーターあり、とてもアルプスの山中とは思えない。富士山と提携しているという郵便局の前には日本の赤い郵便ポストが置かれていた。

再び電車に乗り、クライネシャイデックに戻ってきたのは十二時四十分。そこの賑やかな大食堂でスープとソーセージの昼食をとる。あたりに、くちばしの黄色い小がらすが何羽も遊んでいる。店のガラス窓にも絵になっているのでなじみの鳥なのだろう。戸外の裏庭で桂子がイワヒバリとそっくりな鳥を見つけた。

土産店で孫にお揃いのトレーナーを買う。辺りの景色はカメラをパノラマに設定してもとても入り切らない。

十五時過ぎに麓のインターラーケンにたどり着く。素晴しく晴れている。広い芝生の向こうに、三百六十度のアルプスの峰々が白く輝いて連なっている。ここの店で二人の叔母にスイス民族人形を一つずつ買った。

十六時。信じられないほど澄みきった青空の下をバスはジュネーブへと向かう。

しかし、大きな湖畔を通り過ぎたころから、しだいに曇り出し、たちまち辺りがもやってきた。天候の変化はめまぐるしい。視界二十メートルもないハイウエーを太った女性のバスドライバーは見事なハンドルさばきで突き進んだ。

十九時。ジュネーブの街中、ホテルドベルンに到着する。

夕食をとり部屋に戻ったが、疲れていて明日はまた早朝の出発ということで、外出してジュネーブの夜の街を散策することもなく、浴槽につかり、そのあとすぐに寝てしまった。

 

2003.5.7更新 

パ  リ

 

一月二十二日 (水曜日)

六時半には部屋を出て、各自紙袋に入った軽食を貰いバスに乗る。コルナバンという駅まで十五分ばかりで到着、フランスフランに両替をしたり、ここがまだスイス領にも関わらず、フランスへの通関手続きをしたりした後、七時三十四分発のフランス新幹線TGVに慌ただしく乗り込んだ。

新幹線が出発するなり、座席でさっそく携帯朝食を取り出すが、薄い乾パンのようなトーストとまずいホットドッグをオレンジジュースで流し込むように食べる。直径が普通の半分くらいの小さなりんごもナイフをトランクに仕舞い込んでいたので剥けなかった。列車はだだっ広い農村地帯をいつまでも走り続けた。時速三百キロというが、それにしても日本の新幹線に較べかなり揺れる。十一時近くになって、どんより曇っていた空の一端から陽がさしてきて、さっと虹がかかった。これはもうフランスの虹なのだろうか。やがてトンネルを二つ抜けると、そこは晴天だった。

まだまだと思っていたら十一時十分、パリ市内のリオン駅に到着する。私の勘違いもあって、慌ててコートを着て荷物を担ぎホームに降り立った。駅を出ると空は真っ青で、暖かい。迎えのバスに乗り込んでから、市内観光に付き合ってくれる男性のガイドさんが、「フランの両替をまだの方、今から車内でしますよ。」と言ったので、はっと気が付いたが、コートに入れていた小銭入れが見当たらない。列車を降りしなにコートのポケットから滑り落ちたのに違いない。替えたばかりの硬貨が入っていたので、チップなどにもう一度どこかで替えなければならなくなった。しかしまあ落したのが札入れの方でなくてよかったと思い返す。

十一時四十五分、まずバッチホールというところで昼食をとる。白身魚にご飯が付いていた。しかしタイ米のようなぱさぱさで、まずくて食べられたものではない。十三時、いよいよ市内観光に出発する。ノートルダム寺院の前の広場でバスを降り、現在表構えの一部が修理中のその前に立つと、五年前、末娘を伴って訪れた当時のことが思い浮かぶ。その折りは近くのカフエでコーヒーを飲んだが、どこだったか、周りを見渡すがしっかりは思い出せない。寺院に入り、内部のあの北側のステンドグラスの素晴しさは変わらなかった。

そのあと、セーヌ川の河畔を通り、ルーブル、コンコルド広場、シャンゼリゼ、凱旋門、エッフエル塔と見て廻った。この前来た時のエッフエル塔は寒い夜だったが、今日はむしろ春先の陽気だった。そしてこんな広々とした展望の中に塔がそびえていることを初めて知った。

十六時過ぎ、宿舎のフランツール・ベルティエ・ブローシャンホテルに到着する。立派な名前のうえ、表構えも大きいので、どんな素晴しいホテルかと期待したが、まず地下の団体客用玄関に通され、粗末なフロントでこそこそとチェックイン。専用の「Bエレベーター」で登り、部屋に入ると、これはまたトランクを広げるスペースもないほど狭い。浴槽だけはかろうじて付いていた。

今夜はオプションがあり、私たちは参加しなかったので、夕食は持ってきた小型どんべいを二個ずつ食べて済まし、あとは外出もせずに、睡眠不足で妻は八時過ぎに寝てしまい、私も明日のフリータイムのコースを一通りメモに書き出してから九時に寝る。

真夜中、目を覚ましてカーテンの隙間から空を眺めると、満月に星影さえちらほら見えていた。

 

一月二十三日 (木曜日)

七時に食堂に下りて朝食をとる。ハムは十六フランだったが、昨夜の「どんべい」の記憶から豪勢な朝食に思えた。

九時前、ホテルを出たところで、同行のKさん夫妻に逢う。いっしょに行きたそうだったが、「私たち、ブローニュの森へバードウォッチングに行きますから」とはぐらかし、地下鉄でルーブル美術館へ出かける。モナリザ、ミロのビーナス、ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルドダビンチなど大急ぎで見てから、セーヌ河畔から懐かしいチュイルリー公園の片側を歩いてオペラ座通りへ出る。そこの「らーめん亭」で、五年前も食べた満腹定食を注文する。帰りに紹介状を貰ったので、筋向かいの「やまなか」という免税店へ立ち寄り、少々買い物をしたら、おまけの香水をくれた。雑貨屋で一・五リットル入のエビアンを買い込んで、それを片手にまた地下鉄に乗る。ブローニュの森の突端の駅で降り、地上に出た辺りからは凱旋門と新凱旋門が前後に見通せた。森と言っても落葉樹の林で、しかも、公園の中を縦横無尽に車が突っ走り、あまり雰囲気はなく、京都御苑の方がよっぽどまとまりがあった。もっと奥までいけば、森らしいところがあるのかもしれないが、時間もない、第一公衆便所が見当たらないのでいい加減で戻ってくる。ただ、あちこちでカササギ枯れ枝に止まっていたり、奇麗なブルーの長い尾を振りたてて飛び交っていた。

十六時に一旦ホテルへ戻り、テレビを点けるとなんと「大相撲」の中継をしている。一服したのち、再び外出して、近くの繁華街で缶ビール二本、パン、バナナ、みかん、ケーキを買い込んで、部屋で味噌汁を作ってつつましい晩餐の宴を張ったが、結構満腹して、ケーキはもう食べられずに残してしまった。

明日の出発の準備をして、九時には電気を消してベッドに入る。

 

2003.5.17更新 

ロンドン

 

一月二十四日 (金曜日)

枕チップの十フランと、別に十六フラン取ってあったので、朝食に昨日と同じハムを一皿別注文する。

やはり地下の団体用フロントデスクからチェックアウト。なんだか差別されているような気分だ。

八時にパリの北駅に着き、一時間ほど待っていよいよ話題のユーロスターに乗り込む。九時十分、パリ発。昨夜飲み残した缶ビール一本を開け、食べ残したケーキを食べる。途中なぜか、あたりに建物の影さえ見当たらない小さな駅に数分間停車したが、あとは曇り空の下を走り続けた。しかしドーバーに近づくにつれて晴れてくる。十時四十分、ドーバー海峡の下の海底トンネルに突入したようで、三十分かけてイギリス側に出る。要するになんのへんてつもない長いだけのトンネルであった。ただ、フランス側が高架だったのに、こちらは在来線と併用の平地を走る。経済力の差なのか、物の考え方の違いなのか、スピードはぐんと落ちた。左右は「霧のロンドン」という言葉がぴったりの湿った光景である。木々の肌がみなグリーン色をしている。そういう木の色かと思ったが、やはり霧の日が多く、木肌に苔が生えているのだ。

日本との時差をさらに一時間戻し、計九時間となる。旅行を通じてそうだったので、今度もきっとそうなると信じて疑わなかったら、まさにそうなった。ロンドンに近づくにつれて霧がはれ、青空が一杯に広がってきた。十一時四十三分、ロンドン ウォータールー駅に到着する。ウォータールーと言えばイギリスがナポレオンと戦って勝利した古戦場である。ここをユーロスターの終着駅とすることにフランス側は、始めのうち大分抵抗したそうだ。

駅前にまたバスが待っていてくれた。ここでのガイドさんは自称「ロンドンの泉ピン子」と名乗るMさん。この人が最初から早口でよく喋る。正午ちょうどにバス出発。まずウエストミンスター寺院。ビッグベンとも呼ばれる国会議事堂。それをテイムズ川の対岸から見渡しての見物である。晴れ渡っていて皆ぱちぱちと記念写真を撮っていた。そのあとトラファルガー広場に廻って、中華料理屋で久しぶりの飲茶料理を食べる。これは大好評だった。それからバッキンガム宮殿、ロンドン塔と廻り、十六時二十分、キングスクロス駅の近くのライアンホテルにチェックインする。Kさんが寄ってきて、「明日はバッキンガムに行かれるんですか?」と聞くので、「いっしょに行きますか。」とつい言ってしまう。横から桂子が「私らは大英博物館とかも行きますよ。」と牽制するが、「お願いします。」とにこにこするので、「そんなら十時にここで待ち合わせましょう。」と約束する。

ここの部屋は、広くはないが、飾り付けがいかにも可愛く、センスのいい部屋で、パリのあの粗末な部屋に比べ、心の和む思いだった。しかも朝食はルームサービスということだ。

ただし、夕食はフリーだったので、十七時半ごろ外出する。このあたり、駅裏というか、中心街から遠く、通りは寂れていた。飲食店を探したが、大したところはなさそうで、しかたなく、通り掛かりの「カフェエキスプレス」という小さな店に入る。名前の通り品物はすぐに出てきた。それは若鳥一羽の丸煮とじゃがいも、空豆の付け合わせで二ポンド九九ペンス。約六百円である。

夜中にゆき子に電話するが、外出中で出てこなかった。

 

一月二十五日 (土曜日)

朝食を七時に頼んでおいたら、その時間にきっちりルームサービスを運んできてくれた。パンが旨かった。十時まで間があるので、駅前まで朝の散歩をすることにする。キングスクロス駅は随分りっぱなゴチック建築物である。ついでに地下鉄の一日利用カードを買って帰る。一旦部屋に戻って、九時四十五分にロビーに降りてきたが、Kさんは見当たらない。十時になっても来ないので、フロントで部屋に電話をつないでもらう。ところがもう出かけたらしく、応答がない。仕方なく、十時五分過ぎに我々も出発することにした。地下鉄に乗ってグリーンパークで降り、広場を歩いて、バッキンガムに近づくにつれ見物客が増え、土曜日と言うこともあって、宮殿の前は随分の人出だった。十一時十五分ごろ、ようやく楽隊の響きが聞こえてきて、やがて、騎馬の兵隊を先頭に五十人ばかりの連隊が行進してくる。冬とは思われない、さわやかなロンドンの朝、「衛兵の交代式」を私たちは特等席でまともに見ることが出来た。

そのあとハイドパークに行こうと思ったが、パリのブローニュの森の印象があるので、またかなり時間を食いそうだったので、諦めて取り合えずピカデリーサーカスに行き食事を済ますことにする。広場のど真ん中に「うどん」の赤堤灯を釣った「ほてい屋」で、にぎり寿司一皿と幕の内を食べる。そのあとトラファルガー広場まで歩き、ネルソン提督像といっしょに写真に収まり、近くのナショナルギャラリーに入る。モネ、セザンヌ、ルノアール、アカグルなどさわりだけをざっと見て、四十分ばかりで外に出る。

ピカデリー広場まで戻って、そこから地下鉄でホルボーン駅で下りた。地上に出て道も分からないまま持参した磁石をたよりに方向を決め、地図に従って歩き出す。通り掛かりの人に尋ねるが、相手も旅行者だったりしたもう一つ要領を得ない。少し道をずれてしまった。また通り掛かった黒人系の女性に片言で尋ねる。小柄な若いその女性は、そちらの方向へ行くから付いてきなさいというようなことを言ったのだと思う。百メートルばかりをいっしょに歩いてくれて、大英博物館のすぐ側でそこだと指差してくれた。「ユウ ベリーカインドネス!」私も精一杯の片言で礼を述べる。その時十五時。昨夜書いた予定表からすると三十分超過していた。見る時間も三十分以内と桂子に言い渡しておく。場内は沢山の観客で溢れていた。ここも、先ほど見たナショナルギャラリーも無料というのがまず驚きだったが、その上カメラ撮影もOKなのだ。エジプト館を主に見たが、中でもロゼッタストーンが一番の目玉だった。しかしいくら急いでも三十分では無理で、外へ出た時はもう十六時近くになっていた。ベンチで次のマダムタッソー館までの道順を地図で確認していると、

「川村さん、朝は申し訳ありませんでした。」

頭の上から声がする。顔を上げると、Kさんが深々と頭を下げていた。彼はくどくどと弁解したが、要するに手近の連中と先に出かけてしまったのだ。いいかげんにあしらって、我々は先を急ぐ。またまた安物のコンパスが役に立って、なんとか元の地下鉄ホルボーン駅にたどりつき、そこから一旦グリーンパークに逆戻りしてから、別の線に乗り換える。ここら辺りは昨夜予習しておいたのでてきぱきといった。ベーカーストリートで降りてすぐのところにちょっと風変わりな建物が目に付き、それがマダムタッソー館だとすぐ分かった。切符売り場がまた行列していた。ボードを見ると大人七・九五ポンド、子供四・九五ポンド、そしてシニアというのが六・七五ポンドとなっている。窓口の間際になって現金を調べると、たっぷりあると思ったのが、小銭を含めて十六ポンドに若干足りない。困った。でもここまで来たら仕方がない。全部叩いて並べて見せた。すると相手の女性がおもむろに小銭の一部を押し戻してくる。そして、なぜかシニア六・七五ポンドの券を二枚くれたのである。訳が分からず(というのは、私は日本流にシニアとは中高生のことと解釈していた。)案内されるままエレベーターに乗る。それも待っている子供連れを制して一番に乗せてくれたのだ。ひょっとしたらシニアとは「老人」のことなのだろうか?それとも小銭のたりない外国人を気の毒に思って、とっさの機転をきかせてくれたのだろうか。今だに分からない。エレベーターを降りると、出会う人物がなま身なのか人形なのか戸惑ってしまう。ぼっと立っていたら、私をも人形と間違えたのか、日本人の若い娘が、身体を動かす私を見て笑い転げていた。皆ベンチに腰掛けた有名人の横に座って記念撮影をしている。私たちも二三スナップを撮った。それだけで終わるのかと思ったら、ロンドン名物オースチンタクシーの形のゴンドラに乗せられて、拷問や首切りの刑などの怖い中世の場面から現代までを放浪するという趣向である。終点の軽食堂では、みんなほっとした顔で旨そうにハンバーグをほおばっていたが、われわれは一文なし。桂子の悲しそうな顔を横目にさっさと外へ出る。出たところに両替屋が並んでいたので日本円の五千円札を両替して、またピカデリーへ戻り、昼と同じほてい屋に入る。そこの店員が顔を覚えていて、「また来ましたね。」と笑った。にぎり寿司を一皿づつと、カレーライスを一人前注文する。カレーライスは塗りのお盆に入れて持ってきた。両側からスプーンで食べっこしたが、久しぶりでそれが旨かった。

途中缶ビールを買って十九時半にホテルに戻り、残りのどんべいで日程終了の乾杯をする。二十一時就寝。

 

一月二十六日 (日曜日)

五時起床。五時四十五分には、頼んでおいたルームサービスが届けられた。持って行けるようにパックにしてあったが、封を開いて部屋で食べてしまう。六時四十五分、フロント集合。Kさんが近寄って来て昨日のことをまた詫びる。

ここでもゆき子への留守電の手数料を八十ペンスばかり払わされた。七時ホテル発。三十分ばかりでロンドンヒースロー空港に到着。かなり厳重な出国手続きの後十時三十五分、離陸、直後にサンドイッチが配られる。一時間、時差調整のため腕時計を進める。

十二時二十分、アムステルダム空港に着陸。空港内で三時間ばかりの時間待ち。その間、残ったポンドで娘にスカーフを買う。小銭を叩いて、コーヒーを飲む。これですっからかんになり、さっぱりした。

予定より三十分遅れで、オランダ航空KL八六七便は十五時三十分離陸、とうとうヨーロッパを離れ帰国の途につく。しばらくしたらドリンクが出た。缶ビールを貰い、一本だけ開けて、二人で飲み、時差八時間を進めて、日本時間の真夜中十二時に合わした。

  

 

次は5月27日に更新します。