旅行3
2003.5.27更新 アメリカ東海岸 ニューヨーク 平成六年(一九九四年) 十一月一日 (火曜日) 妻は今朝方寝付かれなかったらしい。私は少し寝不足だとてきめんに応えるが、桂子はそれほどでもない。飛行機の中でまた寝るからとケロッとしている。 この前買った目覚しをテストしておこうとトランクを探したがどこにも見当たらない。小一時間も探した挙句、とりあえず別のを入れておく。 十一時ごろ、近所に住む一人暮しの叔母のうちに行き旅行のことを打ち明けた。叔母はすでに桂の叔父から聞いていたのか、しょぼんとして出てきた。出来るだけ簡単に何気なく告げてさっさと帰ってきた。 小鳥に八日分の餌をやり、庭に鉢を集めて、水をやらなくとも夜露でしのげる用意をする。たっぷり時間があるように思っていたらすぐに昼が来た。 一時半にタクシーで出かける。京都駅は改装中で、「はるか」のホームまで長々とトランクを曳いて行かなければいけなかった。十四時十六分はるか発車。車内は空いていた。乗り心地はいい。十五時半に関西空港に着く。巨大な人工島に巨大な建物。十七時まで待って、やっと受け付けてくれた。何人くらいの団体ですかと聞くと、「お宅らお二人だけです。」と済まなさそうに言う。へえ?! 荷物検査、出国検査を経て、十九時十分いよいよユナイテッド航空八十便発車。三十分後に「日本」を離陸した。やがて機内食が出る。中華風ビーフかタイ風チキンのチョイス。腕時計では二日の二時ごろにもう白けてくる。三時半に朝食。サンフランシスコに到着したのが四時三十五分のはずだが、ここではまだ前日の朝の十一時三十五分だった。何とも奇妙だ。小雨が降っていた。出迎えはAさんという年配のおばさん。 胸ポケットに入れていたのがいけなかった。入国検査で果物ナイフを取り上げられる。ガイドのおばさんが交渉してくれたが駄目だった。どう考えても内ポケットから取り出したのはまずい。アキさんは肝心の日程の話より京都の舞妓さんの話に熱中し、出発を一時間間違えて、昼食に行ってきたらと勧めるものだから、その気でレストランを探していたら、店の前の時計が一時十分なので、慌ててパンを買ってゲートに戻る。すでに改札が始まっていた。そこへ時間の教え違いに気がついたAさんが泡を食って戻って来て詫びてくれたが、間一髪、危ないところだった。 十三時四十五分、十人乗りの国内線でサンフランシスコ発。現地時間で、二十一時三十分にニューヨークに着く。出迎えはSさんという五十がらみの男性で、聞くと、昨日は一日どしゃ降り、今日も雨が午前中残っていたとのこと。今はいい天気だ。車で小一時間ほどの町のど真ん中、有名なカーネギーホールのすぐ側ににウエリントンホテルはあった。チェックインが長引いてると思ったら、ツインがなく、ダブルか、一日二ドル追加してツインのスイートかどちらかと言うので、たった二ドルのことでと逆に不審に思いながらスィートにする。 部屋は確かに二部屋続きで、片方が応接間になっていた。真ん中には小さな湯沸かし場と冷蔵庫もある。ただ景色はどちらの窓からもなにも見えない。トランクを開け、風呂に入り、持ってきた「天そば」を食べ、機内で貰ってきたワインの小瓶を半分明けて、ベッドに入ったのは一時過ぎだった。 十一月二日 (水曜日) 昨夜、チェックインの際に二ドルの追加金承認と賠責保証にクレジットカードのコピーを取られたのが気になって四時ごろ目が覚めて、そのまま寝られず五時半に起き出す。 トイレの水捌けが悪い。朝食に食堂へ行くが、予約を聞いてないからと断わられる。すぐ部屋に帰って、「定期観光」サンフランシスコ本社経由でSさんの自宅に電話を入れる。調査に手間取りそうなので、夕食までに解決しておいてくれるよう、トイレの修理も同時に頼んで電話を切る。とりあえず昨日のパンの残りで朝食を済まし、半日観光に出かけることとなる。少し風が出てきた。 クルーは六人で、それにHさんという二十年選手の運転手と若い女性のガイドが付く。市内を南に向かってジグザグに進行し、五番街、ワシントン広場、イタリヤ人街、チャイナタウン、ウォール街を経て貿易センタービルの見える再南端、バッテリーパーク(砲台)へ。突風がすごくかなり肌寒い。そこからフェリーに乗ってリバティー島にある自由の女神像を見学に行く。入口は、右がエレベーターへ向かい、左は徒歩で登る階段へ通じている。ガイドさんから「くれぐれも右」、と聞いていたので、我々はエレベーターで登ることが出来た。しかし台座のとこまでしか登れない。女神のスカートを見上げて、まさに仰天。下まで降りて像の周りを一周したが、回り終わったところで、時間がなくなり走り出した途端に、足を取られて前向きに転んでしまった。 下船後、再び車で市内を回る。魚市場のマーケット、国連本部内の見学を済ませて、一時半ごろ中華料理屋でやっと「やむちゃ」の昼食にありつく。 昼食後、我々の半日観光はこれでおしまいだったが、同乗の一日観光の一行とともにエンパイヤステートビルまで乗せてもらい、そこで自由行動に移る。エレベーター搭乗料は二人で七ドル。八十二階までは「特急」だからあっという間だった。しかし上は風があり寒かった。 そこからタクシーでスクエヤガーデンのチケット売り場へ行き、ブロードウェイの半額券を求めるために長い列を並んだ。いよいよ窓口に到達してから七十二ドル八十セントの現金が足りないことが分かり、がっかりして諦めかねていたら、一緒に並んでいた外人が寄って来て近くの両替所を教えてくれた。やっとの思いでシューベルト劇場の切符を手に入れることが出来た。 一旦ホテルに帰ろうと歩き出したが、簡単なようでなかなか方向が定まらない。何となく様子が違うと思ったら、いつの間にか、なるべく行かないようにと注意されていた八番街以西に踏み込んでいた。次第に時間がなくなり、ホテルへ戻るのを諦めて、そこからまたタクシーを拾い、メトロポリタン美術館に向かうが、車がセントラルパークに入り込んで停滞し、着いたら閉館五分前でタッチアウト。しかしトイレに行く道でギリシャコーナーを覗き見することができた。その筋向かいのグッゲンハイム美術館も閉館三十分前だったが、またもや現金不足で入場出来なかった。楽しみにしていた妻が可愛そうだった。 一旦タクシーでホテルに帰り、一寝入りしてから、今朝貰ったミールクーポンを示して食堂で夕食をとる。馬が食べそうな人参の丸炊き三本と煮込み肉が三切れ。時間もなくて半分食べ残す。歩いてブロードウェイのシューベルト劇場まで四苦八苦しでたどり着いたのが八時十五分だった。すでに始まっていた。前から五列目の左隅の席に案内される。題は「クレージーフォーユー」(君に夢中)。言葉も分からずどうなることかと思っていたら、案外雰囲気で理解でき、愉快な楽しいミュージカルを味わうことができた。 最後までは見ずに退席して、また歩いてホテルに戻る。十一時を回っていた。 十二時に部屋から娘に電話してみる。折よく在宅していてずいぶん間近に聞こえる。「元気か」と聞くと「元気」と答えた。日本は今、昼の二時だそうだ。 2003.6.7更新 カナダ ナイヤガラの滝 十一月三日 (木曜日) 五時起床。朝は日本茶を飲み梅干をなめることにしている。二ドルの追加料金でゲットした応接間はもっぱらお茶の間として使った。六時半に食堂に下りて行き、クーポンでアメリカンブレックファーストを食べる。六日の日曜日に行われるニューヨークマラソンの出場者が、表通りを練習の駆け足をしていた。七時十五分に迎えに来てくれたKさんの車でニューワーク空港へ。九時過ぎ、五十人乗りのプロペラ機で出発し、十時半にはバッファロー空港に到着していた。カナダに二十七年住んでいるというOさんに出迎えられる。今回もクルーはたったの六名で、われわれ夫婦とあとは若い女の子同士の二組だった。小型バスでナイヤガラへ向かう。途中、ナイヤガラ河のアメリカ側とカナダ側を隔てて架っているレインボウブリッジを渡った。橋の袂の小屋でカナダ側の簡単な入国手続きを受ける。 次第に近づく滝は壮観さを増していった。滝の一キロほど上流まで踏み込んだところでUターンして、アメリカ滝カナダ滝が見渡せるところでバスから降り、まず地上から見学する。今日は快く晴れていた。その上例年になく暖かく、シーズンオフには考えられないほどの快適さだとのこと。そのあといよいよ滝の真下に通ずるトンネルに入ることになり、貸してくれたビニールのレインコートを着て、湿った長く薄ぐらい地中を歩いた。ふいにぽっかり穴が明いて、しぶきのかかる滝壷から真近かにナイヤガラ瀑布を見上げることになる。凄い迫力だ。滝の真後ろにも道が掘ってある。歩く人の顔がトンネル内の黄色い照明で、どんな美人も土色の怖い顔に見えた。 地上に出たら少しの間耳鳴りがした。次にラマダルネッサンスという展望の店で昼食を取りながら、滝を見下ろす。これも素晴しい。同じクルーの女の子たちは買い物の話で夢中だった。ニュージャージーはブランド物が安いらしい。 食事の後に巨泉のOKギフトに立ち寄り、桂子は口紅とかマフラのお土産を買った。 再び六人でバスに乗り帰路に着く。世界一規模のモーゼス発電所にはナイヤガラ河の水量の五分の四が流れ込んでいるとのこと。 それに対比するような世界一小さな教会ウェイサイドに立ち寄る。とにかくどこを見ても絵のような景色で、紅葉真っ盛りな草原のハイウェーである。呆れるほど広々とした景色の中にぽつんと立っているワイン工場で、三百五十ミリリットルが四十ドルもするというワイン、「アイスワイン」を試飲する。ポートワインのように甘く、ちょっと口に合わない。 五大湖の中の一番小さな湖オンタリオ湖のほとりでしばし休息する。これでも四国全体に相当する広さだそうだ。むろん向こう岸は見えない。メイプルの落ち葉を拾って本に挟む。 オンタリオ郡の可愛い商店通りを散策する。少し冷えて来た。妻がウインドショッピングしている間、私はガイドさんと店先で熱いカフェオーレを飲んで過ごす。 十九時、バッハァロー空港を飛び立ち二十時にニューワークに戻った。 ホテル帰着後その足で近くの商店街へ行き、韓国人経営のコンビニで計り売りの夕食と缶ビールを買って帰り、部屋の「茶の間」で遅い夕食を摂った。 2003.6.17更新 ワシントン 十一月四日 (金曜日) 七時四十五分にKさんが出迎えに来てくれ、車でケネディー空港へ向かい、十時に、なんと三十人乗りの小型飛行機でニューヨークを発ちワシントンへ飛び立つ。 十一時十三分、ダレス空港着。そこにRさんという三十五歳の独身男性が待っていて大型のセダンに乗せてくれた。今日は我々二人だけのためのガイドを勤めてくれる。シーズンオフのためこんな結構なことになった。 空港からのハイウエイはまるで丘陵のなかを走っているような雑木林の連続だった。それが色とりどりに紅葉しており、その繁みの間に高級住宅群が点在している。 アーリントン墓地も、見事な芝生で整地された広大でなだらかな斜面にしつらえてあった。今日は快晴で雲一つない。暖かいのを通り越して暑いほどだ。Rさんの話では、この季節のこのような異常な暑さをインデアンサマーと呼び、数年に一度体験するらしい。たまらず妻は雨傘を日傘に転用する。私も急ぎトイレで下着のシャツを脱いでセーター一枚になってカンカン照りに対応する。 ケネディーとジャクリーン夫人の墓には左右に夭逝した二人の子の墓があり、その一人は水子だったとのこと。ロバートケネディーの墓は少し離れた場所に白い十字架が名も刻まれず立っていた。そこはまたワシントン市が望める絶好の台地だった。 市内に降り、ショッピングセンターのようなところでセルフサービスの昼食をとる。 リーンカン記念館では、教科書で見たことのあるリンカーンのでかい坐像を足元から見上げる。人工池にはワシントン記念塔が写るように配置され、リーンカン記念館、ワシントン記念塔、国会議事堂とが一直線上に並ぶように設計されている。要するにワシントンの街全体が計画都市なのである。芝生に野性のリスを見かける。 有名なポトマック河畔、日本から送られた桜の元木は数十本になってしまっているらしい。ワシントン記念塔、国会議事堂、ホワイトハウス前のゼロマイルストーンを見て、最後に国立美術館へ行く。ダ・ビンチの聖母子像、と印象派が家内のお目当てで、私はもう朝から眠くてしようがない。館内のソファーで居眠ってしまった。 外はそろそろ熱気も治まってきていた。やがてザモールのだだっ広い緑地の向こうの、玩具のお城のような建物に夕日が落ちかかる。 十七時半にディズインダウンタウンホテルにチェックインするが、ここでもミールクーポンでフロントと一悶着した。結局夕食はサインでチェックアウトの時に精算することになる。部屋はなかなかいい部屋だった。セミダブルベッドが二つ入っていて、もちろんスイートではなかったが、ゆったりして額も二面掛けてあった。 夕食は、メニューから蟹のグラタンをチョイスして、少し贅沢な気分に浸る。なかなかの雰囲気のある食堂だった。 明日は朝が早いので、少し早く十時に就寝する。 十一月五日 (土曜日) 六時起床。朝食はバイキング。 九時にホテルを出て、さほど遠い道のりではなさそうなので徒歩でホワイトハウスに向かう。もうかなりの行列が出来ていた。十時の開門になっても、二十人ずつぐらいしか入れてくれない。一時間ほど掛かってやっと入場にこぎつける。グリーンの間に始まってレッドの間、ブルーの間と、まるでどこかの国の国旗である。大した感動もないまま三十分ばかりで正面出口にたどり着いた。やはりこれは自国のおのぼりさん向きのコースである。 地図を頼りにスミソニアン博物館まで歩いて行くことにする。昨日の暑さからすると程よい気温で、歩いていてもそれほど汗もかかない。碁盤の目のような整然とした道路だが、それでも容易には目的地にたどり着けないものだ。 途中で風格のある建物に出くわす。オールドポストオフィス、つまり旧郵便局と書かれているが、なぜか若者がぞろぞろ出入りするので、それに釣られて入ってみると、なんと内部は楽しそうな店で一杯、大きなセルフサービスの軽食堂もあった。ちょうど昼前だったので、「ショウグン」という名の寿司店でにぎりセットを買って食べてみる。結構食べられた。 ようやく自然歴史博物館にたどり着く。恐竜と化石と宝石のコレクション。しかし私は眠たい。 家内がもう一度国立美術館に行きたがったので、再度訪れる。なにしろスミソニアン博物館とは広大な敷地に十四の施設を点在させた総称なので、ひとつ隣でもかなりの距離を歩くことになる。この辺りはザモールと呼ばれる大緑地帯で、とくに博物館の前の辺りには露店が出ていて、我々もベンチでコーヒーを飲み、私は芝生で十五分ばかりうたた寝する。 ダビンチのもう一つの作品と印象派を見て回っている間、私はまたもやソファーで居眠りする。 帰り道は中心街からはずれたので、道は相変わらず広くて整然としているのだが、人気が少なく、浮浪者がぼうっと突っ立っていたり、うすきみ悪い雰囲気だった。私が道を間違えたと妻はしきりに不安がったが、なんとか無事にホテルにたどり着くことができた。 一時間ばかり昼寝してから、ホテルの前からタクシーを拾ってMストリートウィスコンシンというワシントン一の繁華街まで走らせる。ワシントンは黒人が八割を占め、運転手はほとんど黒人だった。「カムフローム?」「カムフローム?」とどなるので、ちょっとたじろいで、ひと呼吸おいてから「ジャパン」と答えると、 いつ帰る、フライトは何時、とひつっこく聞くので、だんだんいら立ってきて、しまいに「アイドンノー!」と声を荒げてしまう。それからは目的地に着くまで一言も物を喋らなかった。あるいは日本人と見て話を盛り上げたかったのかな、とも思う。 結局聞いてきた三軒程の有名店を見て回っただけで何も買わず、スーパーで明日の朝のパンだけ買って、またタクシーで帰る。運転手は白人だったが、我々に断わりもなく、友達らしい女性を途中まで助手席に相乗りさせた。 ホテルでは今買ってきたパンと持ってきた「どんべい」で夕食を済ませる。 明日がまた早いので、今日も十時半に寝る。 2003.6.27更新 ボストン 十一月六日 (日曜日) 四時に起き出し昨日買ったパンとコーヒーで簡単な朝食をとる。六時三十分に迎えのジェイスンさんがやってきた。二十歳そこそこの若者で、車もぶっとばすような勢いでハイウエイを走る。後方の薄曇りの空の間に異常に大きくて真っ赤な太陽が昇ってきた。八時にダレス空港に着く。それでもトランクを二つ苦もなくひょいひょいと運んでくれるので助かった。日本語は片言だが、私の英語がちょっとまごつつくと、「モウスコシベンキョウシテクダサイ」と言われてしまった。 九時半発の五十人乗りの飛行機でボストンに向かう。 十一時十九分着の予定がずいぶん早く、十一時ジャストに着いてしまった。霧のボストンだった。出口で待つが迎えがなかなか来ない。緊急連絡の電話を掛ける寸前に、息せき切ってFさんという女性が駆けつけた。掲示板に到着のサインが出なかったので、ずっとゲートで待ってたらしい。二人の子持ちの若い奥さんだ。今日も我々二人きり。まるきりチャーター便である。 Fさんのガイドは流暢だった。ボストンは三分の二が埋立地で、山を切り崩して埋め立てに使い、残りの山も半分を切り崩し、その跡の小高い丘が有名なビーコンヒルである。ワンフロアーが一億円もする古めかしい高級マンションが立ち並でいるとか。 「牛が踏みならした道」と呼ばれる小道が入り込んでいる。ある坂道なぞは石ころのデコボコ道だが、市の道路補修の際、この保存に道脇の人達が金を出し合って元のままの「でこぼこ」を復元したということだ。それが今では観光名所になっているのだ。道路沿いにガス燈が点々としている。消したり点けたりが出来ないので一日中点灯しているらしい。たまたま今日の、もやの懸かった景色に映え、効果抜群だった。我々は天候に付きまくっている。 町中に出ると、金の丸屋根のステートハウス、ホーソンなんかが出入りした本屋さん、キングスチャペル、アメリカ第一号の公立小学校跡、独立戦争の発端、茶会事件の決行を話し合ったというオールドサルスミーティングハウス、独立宣言が読まれたオールドステーツハウスなどなど、どれをとっても歴史を目のあたりにする建物で絵になる場面だった。アメリカでは子供でも知ってるという英雄ポムルリビア像、ボストン湾の帆船をみる。この場所が例の茶会事件の現場である。クイーシーとかいうマーケットを見物。チョコバーのようなお菓子を少し買う。 昼食は中華街の中の日本食店「銀座」で「幕の内」を食べる。 トリニティー教会の中を見学する。ステンドグラスが素晴しい。パリのノートルダム寺院を思い出す。 ところどころの近代的な高層ビルも周囲とよく溶け込んでいる。昼下がりにもかかわらず、その頂上が、もやで霞む風景は今まで見たことがない、夢の中のような風景だった。 チャールス川を渡ったところにマサチューセッツ工科大学がある。河畔には貸ヨットが群れていた。次にハーバード大学の構内を見学する。愛児をある事故で失った母親が、その子がアイスクリームが大好きだったので、一年生すべてに一日一個のアイスクリームを食べさせてやってほしいと資金を提供、今だに実行されているとのこと。 三時過ぎにホテルミッドタウンにチェックインする。入り口に花の植わった二階建ての白い可愛いホテルだった。荷物を部屋に放り込んだなりにして、Fさんが朝の遅刻のお詫びにと、その足でボストン美術館まで車で送ってくれる。日本のコーナーは浮世絵の主力が貸出中のため大したことはなかったが、印象派のコーナーでは、モネの「夫人像」、ゴーギャンの大作「われわれはどこから来たか」などの作品が数々あった。 タクシーでデパートへ回る。妻が一度自分で買い物すると言うから、私は傍で見ていた。「エックスキューズミー」と店員に声を掛けると、「ハイ、ナンデスカ」と日本語が返ってきたのに家内は大よろこび。頼まれていた口紅なぞを買ったあとも、すっかり安心していろいろ質問を浴びせる。店員の方が逆に半分しか理解出来ず、辟易しながらトンチンカンな日本語の受け答えをしていた。 ガラスの回廊を渡るとそこは最近の名所になっているコプレープレイスショッピングセンターである。ビルの中の広い通路の両脇に高かそうな店が軒を連ねていた。 我々のホテルはこの近くなので、もう暮れかかった道を歩いて帰る。時しもホテルの前あたりにある総本山クリスチャンサイエンスチャーチからチャイムが流れていた。小さなショップで缶ビールを買おうとしたら、ここらあたりは清教徒の習慣で日曜日にはアルコールの販売はしないとのこと。 部屋で荷物を整理したあと、七時前に食堂へ行く。ところがまたまたクーポンで引っかかった。食堂の女性の責任者が「これは誰が払うんですか。受け付けられない。」と言う。フロントへ戻ってクーポンを示し、これがどうして使用できないのかと質す。いろいろ電話を掛けたりコンピューターを確認したりしていたが、最後に責任者の女のクラークが、とにかく明日チェックアウトの時までに解決して返金するから、今は現金で払っておいてほしいと言う。私も明日Fさんが来れば万事間違いなくやってくれるだろうと了解して食堂に戻る。スープとグリルチキンをとって豪華な夕食となった。勘定書を見ると二人で約六十ドル。チップを六ドル付けて支払ったら、チップ分は丸っぽ返金してきた。フロントから何か連絡でも行ったのだろうか。 十一月七日 (月曜日) まだ暗い三時半に起き出して帰国準備を始める。たっぷり時間があるはずが、お茶を沸かして飲んだりしていてたちまち六時になった。ようやく外が白けてくる。窓の外は大通りで、例の総本山のドームが目の前に見える。いい眺めだった。少し風があるらしく木の葉が舞っていた。 部屋を後にトランクを押してフロントに行き、ソファーで待つ間もなく、Fさんがやって来た。「さあ、出かけましょうか」 「その前に・・・」と私が昨夜の件を話す。Fさんがフロントと掛け合い出すが、なかなか埒があかない。やっとのことで、現金を返してくれる。六時半近くになっていた。Fさんもうんざりの様子だった。 ボストンリーデン空港はひどく混んでいた。荷物を送るのに長蛇の列で、出発五分前にようやく手続きを終わり、駆けこむようにしてゲートをくぐる。くぐりながら振り向くと、Fさんがほっとしたような笑顔で手を振ってくれていた。 七時三十五分、定時に飛び立ち、いよいよ帰路に着く。 幸いなことに飛行機は初めから最後まですべて窓際の席だった。しかし三人席の場合、家内も私もトイレが近いので、ことあるごとに「エックスキューズミー」と断わり、席を立ってもらわなければならなかった。今日は少し空席もあったのか、隣の外人さんが二度ばかり席を立ったり座ったりしたあと、前のほうに席を移ってくれた。 三時間時計の針を戻しロス時間に合わす。 ロス時間の十一時五分に定時より少し遅れて到着。ここでも時間がない。「もし乗り継ぎが出来なかったら次の便は翌日しかないのでロスに自費で泊まってもらうことになります。」Fさんの事務的なアドバイスが脳裏に大きく渦巻く。出国手続きをしてから、機内で前もって聞いておいたので、到着の71ゲートから74ゲートまで走る。これが結構長かった。免税店での買い物なぞ思いもよらなかった。機内に飛び込んでほっとする。 十一時三十五分、日本に向けて飛び立つ。しばらくしたら朝食が出た。 機内で免税品の販売をしている。実はこれもFさんに教えてもらったことだ。座席の前のサックにカタログが入っていて、スチュワーデスに注文すると現金でもTCでもよく、すぐに持ってきてくれた。懐具合のこともあり大した買い物は無論出来なかったが、カタログに釣られて私も、飲みもしない21年物のウイスキー「シーバスロイヤル」を一本買ってしまった。とにかく妻もこれで思い残すことはなかった。後は日本に無事着くことだけを祈っていればよい。 十一月八日 (月曜日) いつかの時点で日付変更線を通り越し、八日になっているはずである。 しかし辺りは何時までも出発時と同じで、南向きの我々の席の窓からは真昼間の陽が差し込んで、とても開けていられない。ずっと閉めっきりの状態にして、皆と同様に、うたた寝する。幸い乗客は半分ぐらいで、私の隣も空席だった。肘かけを折り畳んで席を広げ、二人が海老なりにではあるが横になれるようにして、本格的に寝ることにする。缶ビールを一本づつ飲んだせいもあって、やがて私の方が先に寝てしまう。二時間程寝た。家内もやがて寝てしまった。 目覚めたところで時計を七時間巻きもどす。日本時間の三時ごろに二度目の軽食が出る。妻は半ば居眠りながら食べていた。 それからまたうとうととした。 ようやく窓の日差しが少し和らぐ。窓を開けると陸地が見えていた。 着陸体制に入る。エンジンの喧しい音がなぜか快い。ドンと車輪が地面を打つ。無事日本に着いた。十六時五十八分。 簡単な入国審査の後、荷物を受け取りに行く。ところが何時まで待っても出てこない。人影がなくなったころ、ユナイテッド航空の係官が近づいて来て、「川村さんですか。すみません、あなたの荷物が手違いで一便遅れてしまいました。」と声を掛ける。私は疲れていたし、ほっともしたので、あとは係官の言いなりに書類にサインする。「荷物は宅配で送り届けます。ご迷惑掛けてすいません。」やっと相手は謝った。私はそれ以上文句を言う元気はなかつた。 しかし考えてみれば、荷物をチッキにしたようなもので、手ぶらで帰れるメリットもあり、荷物さえ無事に家に届けば、それはそれで申し分ない、と思った。 次は7月7日に更新します。 |