旅行4
2003.7.7更新 オーストラリア東岸 ブリスベン・ゴールドコースト 平成七年(一九九五年) 十二月三日 (日曜日) 家を出て、タクシーで京都駅まで行くが、下りる直前に、財布を忘れてきたことに気付き、どっきり。でも桂子が余分に現金を持ってきていたので、まずいことにならなくて済んだ。 「はるか」の車中で持参のサンドイッチを食べ、十七時半に関西空港に着く。集合まで時間がなくて、トランクに名札も付けず鍵をかけ忘れたまま渡してしまって少し心配だった。 二十時過ぎ、われわれのアンセット八八〇便は離陸した。添乗員はTさんという若い女性である。 二十一時ごろドリンクのみが出る。みんなお腹をすかしているみたいだが、我々はサンドイッチを食べていたので、まだしも耐えられた。二十二時にやっと夕食が出る。ビーフランチのビーフが固い。 十二月四日 (月曜日) うたた寝をしかけた二十四時ごろ、アイスティックが配られる。そして、ろくろく寝てもいないのに、翌朝二時半にいきなり車内点灯、スチュワーデスが右往左往し出し、三時に朝食が配られた。ただし時差を修正すると四時である。 現地時間五時五分、ブリスベンに着陸する。空港ロビーで米ドルTCをAドルキャッシュに両替する。 我々エコノミークラスは案外少なく、総勢十名が迎えのミニバスに乗り込んで、Kさんというピチピチギャルのガイドさんの案内で市内に繰り出した。それにしても暑い。冬の国からいきなり南国へ来てしまったわけで、座席の後ろで私は上半身裸になり、半袖のTシャツに着替える。天候もよかったが、紫外線が強く、皮膚癌の発生率は世界一らしい。道筋に時々高床の木造住宅が目に付くが、一昔前まで毒蜘蛛が多くて、その侵入を食い止めるための生活の知恵だったとか。街路はユーカリの並木が続く。 やがて山道を登り、標高二百メートルのマウントクーサの展望台にたどり着いた。ブリスベン川が蛇行し、街が一望にできた。いい声に誘われて木の枝を探すとムクドリに似た鳥があちこちにいた。声はムクドリやヒヨドリより余程いいが、日本のカラスのように何でも食べ荒すので、ここでは嫌われ者らしい。 そのあと、オーストラリアンウールシェードでユーモラスな羊の毛刈りショーを見、続いてコアラをだっこしての記念写真。来年あたりには動物保護条例が改正されて、これも今年かぎりとか。カンガルーに餌をやっているところもパチリパチリと写真に撮る。 再びバスを走らせゴールドコーストへ向かう。この国道一号線は総延長一万七千キロに及び、関西空港からブリスベン九千キロの倍近くあるという。けた外れに壮大な国だ。海岸線の断崖は「カンガルーバー」と呼ばれ、昔原住民がカンガルーをここへ追い落として狩りをした場所とのこと。 とある海岸、アンザックパーク・サウスポートで小休止。と思ったら、ちゃんと写真屋さんが待っていた。長椅子に並んで記念撮影する。ここでは「チーズ」の代わりに、「バンジー!」「オージー!」を習う。確かに「チーズ」では口元がにこっとはならない。 十一時半、サンルームのような、冷房のきかない海の見えるレストランで、オーストラリアンビーフの大きなステーキを食べる。そこから歩いて、免税店デューティーフリーショップ(DFS)へ立ち寄り、さらに歩いて、宿舎ビーチコマーにチェックインする。十四時だった。二十一階の窓からエメラルド色のビーチが見えた。角部屋だから明るい。風呂に浸かり、半時ばかりうたた寝してから、十六時半ごろから外出して、海岸線を散歩、若者がサーフィンをしているのを見物する。「泣き砂」だというので、妻が少し袋に採集していた。街の中も少し歩いてみる。歩行者天国が様々な国の観光客で溢れている。さっき教えられたスーパーが見つからないので帰ってくる。 六時前にロビーに集合して、みんなで歩いて、シーフードレストランへ行き、鱈のムニエルを食べた。ここで我々クルー十人の自己紹介があった。一番の年長が七十三歳と六十八歳のご夫婦。二番目が我々である。その次のご主人は私より二つ下で、同じ京都の宇治にお住まいと言うことだ。若い方の二人連れはまだ独身、といっても三十五六か。この二人が一番の外遊歴があり、いかにもタフにがめつく旅行している感じである。我々はたまたまデラックスのグループと席が一緒になったので、そちらの二三人とも顔なじみになった。 近くでマネーチェンジしてから、スーパーでミネラルウォーターを仕入れ、向かいのDFSで、孫にミッキーの縫ぐるみを買う。またホテルの近くの酒屋で缶ビールを買って帰り、部屋で乾杯する。旅行案内ではBクラスに載っていたが、小さなキッチンや、バスルームには洗濯機乾燥機も備わっていて、なかなか居心地がいい。 十二月五日 (火曜日) 昨日飛行機の中でほとんど寝られなかったのに、今朝は四時に目が覚めた。三十分ほどベッドで過ごし、カーテンを明けると、薄明りの海岸にもう人がまばらに歩いていた。 六時半に降りて朝食を食べ、その足で海岸を散歩する。今日も快晴で、日差しは朝からぎらぎらと滑らかな砂に反射している。スズメやメジロに似た鳥がいるが、少しずつ日本のと違うようだ。 八時にホテル前からバスで出発する。公園の林に大コオモリが黒い果実のように無数にぶら下がっているのが見えた。やがて海岸線に出て、バスの窓から、クレーンで釣り上げてもらってバンジージャンプに挑んでいるのが遠くから見えたが、挑戦者はほとんどが日本人だそうだ。 小一時間でカランビン野鳥園に到着する。入るやいなや、そこは別世界だった。数十羽のレインボーロリキートという鮮やかな色のインコが、ちょうど餌付けの時間で、襲い掛かるように飛び回っている。蜂蜜のかかったパン片の入った皿を片手にささげると、そこに群がり、頭や肩にインコが止まるのだ。 園内を走る可愛い列車に乗ったり降りたりして、広い園内を見て回ことができた。池にはカルガモやバンに似た水鳥、日本では珍鳥のアイビスという名のクロトキが人を恐れずうろうろしている。丘の林の中にも、野性のコアラ、ウオンバット、犬とそっくりのディンゴ、カンガルーを小型にしたワラビーが顔を出す。小さなダチョウ、エミューが芝生をのこのこ散歩していた。樹木の影に色とりどりの変わった鳥が飛んだりはばたいたりしている。限られた時間ではとても見尽くせないのだが、急いで後戻りして、ペリカンとカワウが仲良く共存しているのを尻目に、心残りのまま出口へ向かった。 バスに戻り、長いゴールドコーストの海岸を再びひた走ることとなる。延々と続く美しい砂浜だが、この辺り、犬の臭いにサメが寄ってくるという理由から犬の散歩は禁止されている。 昼前、シーワールドに到着し、中華レストランで飲茶の昼食をとった後、海水を引いた人工池で水上スキーショーを一時まで見物する。最後に水飛沫が前列の見物人にざんぶりとかかるが、誰も怒らない。 私たちは一人九十ドルを支払ってヘリコプターに乗り込んだ。数分間だがゴールドコーストの端から端までを空から見下ろすことができるのだ。四人乗りで相乗り客も日本人の夫婦だった。四人のうち一人だけが助手席に座れるのをじゃんけんで私が勝ち取った。いずれにしても素晴しい眺めである。海の色は正にエメラルド、街は迷路のように張り巡らせた水路に沿って住居が立ち並んでいる。これは地上にいては想像もつかない見事な図柄だった。 あと、売店でアイスクリームを食べ、モノレールで園内を一周する。 十五時に帰路につく。 十八時に、近くのステーキハウスの前に集まり、厚さ三センチもある黒焦げのステーキを食べる。 十九時過ぎ、オプションを申し込んでいたので、バスでコンラッドジュピターズホテルへ出かけ、甘ったるいオーディーカクテルを飲みながら、ミュージカルや曲芸を鑑賞した。皆さん今夜はそのために少し正装で来ていたのに、私だけは半袖のTシャツ姿で、それは別によかったのだが、お陰で冷房が少し寒かった。 ショーのあとは一階のカジノを覗く。日本語の説明書を貰っても、ゲームの仕方が分からないまま時間が経ってしまった。 二十時半帰りのバスに乗り込むが、他のツアーの新婚さんが乗り遅れて困っていたのを、我々のバスに拾い上げてホテルまで送り届けた。そこはデラックスクラスのツアーが泊まっている一廓だった。いくらデラックスか知らないが、街からはずれて寂しいところに位置し、エコノミーの我々の方が何かに付けて便利で繁華街も近くてよかったように思う。 2003.7.17更新 メルボルン 十二月六日 (水曜日) 六時半、トランクをドアの外に出し、そのあと手早く朝食を済ませる。 七時半にビーチコマーホテルを後にして、九時、ブレスベン空港に到着、元気溌剌のKさんにここでお別れして国内便に乗り込んだ。十時三十五分離陸、メルボルンへと向かう。メルボルンは夏時間なので、さらに一時間針を進ませないといけない。日本との差が二時間となる。その十一時半ごろ、小さなピザのような機内食が出る。 十四時前にメルボルン着、今度はベテランらしい中年のガイドさんに迎えられて、小型バスに乗り込んだ。彼女は、派手な服装と髪をブロンドに染めているので、てっきりハーフかと思ったら純粋の日本人なのだ。相変わらずの快晴である。しかし路は少し濡れていて昨夜は雨が降ったらしい。バスの窓から見える茶色の立派な高層マンションは「ベトナム難民アパート」との説明だ。居心地がいいのか、その周辺はベトナム人街に化しているとのこと。十五時ちょうどに、郊外にある白亜二階建てのコモハウスに到着。百五十年前に建てられた金持ち貴族の屋敷跡である。調度品が面白い。口髭を載せる出っ張りの付いたティーカップや、庭にやって来る小鳥の羽根で作った花模様の額。暖炉の前に置かれた小旗は、女性の化粧を熱から守るためのものらしい。呼び主により音色の違う呼び鈴が召使の居間に通じていて、今だれがお呼びかが瞬時に分る。電気のない頃の手回し式洗濯機、ミシン、アイスクリーム製造器と、当時の最先端機器が揃っている。庭の古びた馬車置き場には一九〇六年製のクラシックカーが置いてあった。 次に市内に戻り、フィッツロイ公園の中の海洋探検家キャプテンクックの家を見学する。といっても彼の叔父の家をイギリスから移設したもの。ただ一つ、クックの持ち物という旅行鞄が二階に展示してあった。窓が小さくて少ないのは、当時「窓」に税金がかかったからだという。すぐ近くの小さな温室で色とりどりのアジサイなどの花にうずもれて写真を撮る。そもそもここに限らず、メルボルン市の四分の一が公園で、いたるところに緑がある。 十七時ごろに免税店に立ち寄り、あと一旦ホテルへ戻り小休止ののち、十九時ごろにイタリア料理店へバスで移動、牡蛎と白身魚の夕食をとる。昼の機内食がささやかだったので腹も減っていたが、白ワインががよく合い、なかなか旨かった。外に出てもまだ真昼間のように明るい。 二十時過ぎにホテルに戻る。十六階の窓からは真正面にはビル群が見えるが、見下ろすと、汚い空き地が見えたりした。部屋は、ビーチコマーより狭いが、調度品はこちらの方が新しく奇麗である。 二十一時になってもまだ薄明るく、夏時間としてもまるで白夜である。外出して、明日乗るつもりのトラムの駅まで歩いてみるが、外気は事のほか冷たくて、急ぎ足でホテルに帰る。 十二月七日 (木曜日) 朝食後、部屋に戻って娘に電話してみる。日本は六時過ぎのはずだが、彼女は眠そうな声で出てきた。 午前中フリータイムなので、九時ごろから外出し、カールトンガーデンを双眼鏡片手にバードウォッチングして回る。池のほとりでカルガモの親子が泳いでいたが、家内が持ってきたカステラをやると、人懐っこく陸に上がって寄ってきた。スズメも来るし、ユリカモメも来る、そのうちカラスまでやってきたが、そのカラスの目を見て驚いた。外人さんのようなブルーの瞳なのだ。色々毛色の変わった鳥がいる。ツバメもどことなく違う。くちばしが白く身体が黒白のムクドリのようなの、大型のウズラのようなの、奇麗なさえずりに引かれて梢を探すと、頭が黒く身体が白い、尾が長くて時々扇子のように開く、コマドリのようなやつだったり!・・・。 いい加減に切り上げて、トラムに乗り込む。トラム、すなわち市電だが、車体がチョコレート色のトラムに乗るとわれわれのような旅行者は無料。市内の外側を四角く回ってくれる。辻ごとに停車するのでどこで乗り降りしてもよい。半周回って、スワントンという駅で降りてみる。ここがやはり中心地区らしく郊外電車のターミナル駅もあり、乗り降りが激しい。案内地図をたよりにアレキサンダーガーデンへ向かって歩いた。果てしなく緑の公園が続いている。ここの池にもバンがいて、カステラをやると食べにきた。しかも雄が鼻を鳴らしてカステラを催促し、そのくせ自分は一切れも食べずに側の雌にすべて与える。 歩けども歩けども地図に書いてある植物園にたどり着きそうにないので、引き返して再びワインカラーのトラムに乗った。前の座席の若い女性が「ジャパン?オオサカ?」と声を掛けてくる。キョウトだと言うと、英語で、自分は十才まで大阪にいた。懐かしいが、日本語はすっかり忘れてしまったというようなことを喋る。私もいい加減な片言で多少応答すると、それを桂子が感心して聞いていた。 十二時にホテルに帰ると、もうフロントにみんなが待っていた。歩いて和食の店「六羅里来(ムラサキ)」へ行き、幕の内を食べる。豆腐の味噌汁が旨かった。 十五時過ぎに聖パトリック教会に着く。ゴシック建築の中に入ると、周囲にキリストの生涯を十二の場面に描いたステンドグラスが目に付いた。 いよいよバスが郊外に向かう。二時間ほど走って、十七時半ごろ、打ち続く牧場の最中に、奇妙な建造物が近づいてくる。巨大なみみずの形をした「ジャイアント ウァーム館」つまり巨大みみずの展示館である。そこでもウオンバットも抱かしてくれる。またバスが広い原野を突っ走る。 「ちょっと脇道に逸れましょう。ひょっとしたら野性のコアラに出会えるかもしれないから。」 とガイドさんが了解を求め、ユーカリ林に入る。前にも一台バスがいて、十五分ほどゆっくりと梢を注意しながら走る。そして前のバスが止り乗客がぞろぞろ下りだした。見付かったようだ。木の上の方にコアラが一匹眠そうに座っていた。 十八時半、レストランに到着。大皿に一杯のロブスターを堪能する。 そして二十時きっかり、目的地フィリップ島に到着、持ってきたコート、マフラー、など防寒着を重ね着して身を固め、ホカロンまで腰に巻き付ける。ホテルで借りた毛布片手に海岸まで歩く。観覧席の最前列に陣取ることができたが、まだ明るいのに、なるほどすでにうすら寒い。一時間ほど待ったと思う。ようやく辺りが暮れかかってきた。白い波頭のまにまに小指の先ほどのペンギンらしい群れが見え隠れする。海水と岸辺を行きつ戻りつしながら、やがて先頭のペンギンがひょこひょことこちらに向かって歩き出す。それに続いて次から次から浜に上がってくる。一群れごとに一団となり、仲間を間違えたペンギンが大急ぎで波打ち際に駈け戻って行くのも愛らしい。まるで幼稚園児のように可愛い。 まだまだ見たかったが、私たちは、ガイドさんに注意されていたので、いい加減に切り上げ、大勢の見物客を尻目に大急ぎでバスに駈け戻る。 二十一時半に、バス出発。闇の中をメルボルン市内に向かってひた走る。窓の外の月は満月である。そのためか期待した南十字星は見えなかった。クルーの十人ともホテルに着くまでほとんど眠りっぱなしだった。二十三時二十分、ホテルに帰館する。その晩は風呂にも入らずにすぐに寝た。 2003.7.27更新 シドニー 十二月八日 (金曜日) 十時半、バスでホテルを発ち、十一時にはメルボルン空港に到着。 予定では十二時に飛び立つはずの飛行機がいつまで経ってもゲート番号が出ない。理由も分からない。 とうとう十三時になって空港のレストランで昼食が出た。機内食より豪勢だと喜んでみたが、飛行機は飛び立ちそうもない。ここの天気はいいし、シドニーが悪天候とは考えにくい。ようやく機体の故障、代わりの飛行機の回しがきかないらしいという情報が入ってくる。やがて搭乗券が回収されて、新たにもう一度配りなおされた。 十五時半にようやくゲートが開いて、十六時、予定より四時間遅れで離陸した。十六時半にホットドッグの機内昼食が出る。左右の客は、だれも手を付けようとしない。多少食べたのは私くらいのものである。 十七時半、シドニー空港着。予定の市内観光は明日に振り代わり、出迎えのバスで一路ホテルサザンクロスへ向かう。十八時半ホテル着。 四〇三号室のキーをもらい部屋に入るが、そのあとすぐ、鍵を開けてSさんが入ってくる。なるほど彼も同じ四〇三号室の鍵を持っている。私はフロントへ走り、コンダクターに事情を話すと、私たちは四〇三で間違いなく、阪本さんが四〇四だった。フロントの鍵の渡し違いである。部屋に帰ると、家内は荷物を持ってまだ廊下に立っていた。 「どうしますか?」 という曖昧なコンダクターの問いかけに私は少し気を悪くし、 「元どおりにしましょうや。そうでないと勘定がややこしくなっては困るから。」 とSさんに出てもらった。 着替える間もなく、十九時にフロントに集まり、バスで出発する。シドニーブリッジとオペラハウスが見えてくる。シドニー湾の観光船クルーズに乗り込むが大変な盛況で、椅子の間隔も狭くて窮屈だった。チキン、ステーキ、魚のチョイスでチキンをもらう。ドリンクは注文しないと水も出てこない。やがて前方の舞台でショーが始まるが、それより船外の夜景の方が素晴しい。橋とオペラハウスがライトアップされ、数発の日本製らしい花火が上がった。 十二月九日 (土曜日) 五時半に起床。空は薄い雲に覆われている。妻は、部屋に干した洗濯物がメルボルンより乾きが悪いと言う。 七時に朝食に下り、ついでに近くを一回りしてみる。南の外れらしく、場末の雰囲気だったが、ホテルはLランクということで、部屋は広く、家具も奇麗だった。ただバスルームの前廊下の奥が鏡になっていて、いつもそこでぎょっとさせられる。 飛行機の延着で今日に回った市内観光をこなすため、八時にバスが来る。 マッコーリー総督が奥さんのために岩を削って作ったという、ミセスマッコーリーポイントからシドニー湾を眺める。展望台のタッチ式声の案内も日本語と英語の二か国語が組み込んである。引き続きオペラハウスへ出かけるが、まだ朝が早くて中は見学出来ない。ロックス地区はシドニー発祥の地で、古めかしい家並が続いており、ベランダの鉄格子はアイアンレースと呼ばれる独特の代物である。 シドニーは五年後にオリンピックを迎えるが、その会場と市内を結ぶ吊り橋が十二月三日に完成したばかり、そこを渡って市内とおさらばする。バスは一路ブルーマウンテンへと向かう。曇り空には変わりない。今まで天気に恵まれ過ぎていたのだから仕方がない、山は雨だろうと観念する。ところが山道にかかるにつれて嘘のように雲が切れ、青空が広がっていった。まるで奇蹟のようだった。 そもそもなぜブルーマウンテンがブルーに見えるかというと、ユーカリのシネオールというアルコール成分が青以外の光線を吸収するのだそうだ。またこのアルコールのせいで山火事はしょっちゅう。道端のユーカリの幹があちこち黒ずんでいる。 十一時、標高千メートルのカトンバの町に着く。マウンテンのイメージから程遠い観光町である。ほんの二分間ばかりのロープウエイに乗り、続いて傾斜角度五十二度世界一急勾配のトロッコで谷を下る。下りた所から見える三つ並びの奇岩は「スリーシスターズ」と呼ばれ、原住民アボリジニの伝説を宿しているのだとガイドさんが話してくれた。昔、三人の娘と魔法使いの父親が住んでいたが、ある日父が所用で下山した留守に悪魔がやってくる。気丈な姉が足元の石を悪魔に投げつけるが、石は悪魔を恐れて谷底に落ちてしまう。その物音に悪魔は怒り、娘達の方へ一歩また一歩と進んで来た。所用を終えて帰路途中の父親が遠くから見付けて、とっさに三姉妹を岩に変える魔法をかけたのだ。悪魔は今度は父親に向かって来る。父親は自分を鳥の姿に変えて難を逃れた。ところがその時魔法の杖を谷間に落としてしまった。岩と化した三姉妹は父が魔法を解いてくれるのを何時までも待っており、鳥となった父親は魔法の杖を探して谷を飛び回っているのだという。 その伝説の谷間で、私達は、白くはばたいて飛ぶ黄色い冠羽のキバタンを目撃した。 「エコーポイント」の展望台もまた観光客で賑わっている。「ヤホー!」とか叫んでいる人もいた。どこもここも人、人、人・・・ 山を下り、十二時にミカドという日本語名のレストランで昼食をとる。 十四時半ごろダウンタウンにたどり着き、再びロックス地区を通って免税店へ。この辺り、壁に窓の絵を描いたところがあるが、やはり窓の数で課税された時のなごりだそうだ。 免税店で一旦解散して、たまたま土曜日で店を連ねるフリーマーケット(露天)を見て回る。次にオペラハウスに出かけたが、もう一つ方向が分からず、タクシーを呼び止めて乗るが、タクシーはどんどんオペラハウスから遠ざかるように迂回して走った。七ドル八十セントもとられる。時間がないのですぐに引き返した。私が歩いて帰ると言うのを桂子はそれでは時間が間に合わない、それに方向が違うと言い出す。私は意地になって歩く。最後に駅前の売店で聞いてみる。間違ってなかったし、待ち合わせ場所のDFSはすぐそこだった。着いたらまだ時間が余って、道端のベンチで風に吹かれて休息した。 十七時に迎えのバスに乗ってホテルへ帰る。 十八時に再びバスに乗って、シドニータワーへと出かける。このタワー、海抜三百メートルの高さを誇り、エレベーターを乗り継いで回転展望のレストランに入る。山ほどの料理、デザート、果物が食べ放題。うんざりするほど食べて、十九時半、下界へ戻る。コンダクターに従って総勢十人が、モノレールでハーバーサイドへ出て、そこらあたりの夜のショッピングセンターをうろつき、二十時半、まだまだ遊びたいというSさんとTさんを残して、残り九人はモノレールに乗った。なぜか団体割引をしてくれた。ワールドスクエヤで降り、そこから歩いてホテルへ戻ったが、みんな意気投合して陽気で和気藹々だった。 明日はいよいよ帰国なので、冷蔵庫のビールを飲み、少し早く寝る。 十二月十日 (日曜日) 早朝に起き出したが、曇っていた。夜中に雨が降ったらしく道路が黒く濡れていた。七時に朝食をとり、早々にホテルを発つ。 八時十分、シドニー空港に到着した。飛行機に乗り込むと窓に雨粒がついていて、昨日までの天気が嘘のようだ。十一時十分、いよいよオーストラリアからおさらばだ。そして急に日が差してきた。上空からシドニー湾が見えてきた。シドニーブリッジとオペラハウスが、そしてシドニータワーがはっきりと見下ろせる。 機内昼食後、時計の針を二時間戻し日本時間に合わせる。うたた寝したり映画を見たりして時間を費やす。 十七時、今度は紀伊半島の夜景が近づいてきた。 次は8月7日に更新します。 |