旅行6

 

 

 

 

 

 

2006.4.17更新 

中央ヨーロッパ

平成十八年(二〇〇六年)

出  発

四月十日(月曜日)

朝四時に起き出す。早過ぎたかなと思ったが、朝食を摂り荷物の点検作業をしていたらたちまち六時を過ぎ、六時二十五分には約束どおりMKタクシーが迎えにきた。市内を廻って私たちを含めて六人の合い客を乗せ関空へ向う。八時半に到着。少し早いと思ったが、ゆっくり構えてたらたちまち九時を過ぎ、受付けに行くとトランク検査に先に行くように指示され、そこで席割りの希望を言ってチケットを受け取った。

時間があったのできつねうどんとおにぎりを食べ、さらに機内用におにぎり四個とサンドイッチ二個を買い込んだ。

十二時過ぎ、日航エルフランス共同運航機が関空を離陸した。そこで空港で買ったサンドイッチをどこかへ置き忘れてきたのに気付く。そこから、長いうんざりする機内生活が始まった。用もないのに何度も通路を歩き廻り、身体をほぐさないと本当に病気になりそうだ。前の席に座る青年が座席の前に付いている小型テレビのカードゲームの遊び方を教えてくれた。時間をつぶすのにもってこいだが、これはこれで熱中すると肩がこる。

途中七時間時計を巻き戻し、現地時間で十七時半ごろパリのドゴール空港にやっと着く。乗り継ぐまでの時間がだいぶあった。

二十時十五分発のエルフランス機に乗り込み、しばらくするとまずい夜食が出た。

二十二時ごろ予定より少し早くブダペストに到着、バスでただちにホテルへ直行、チェックインする。ここで改めて添乗員さんの紹介を受ける。ちょっとフィギャーの金メタリスト荒川選手に似ている娘だった。

「人に言われませんか?」

と私が訊くと、

「うちのおばあちゃんがそう言うんです。」

とまんざらでもなさそう。歳はゆき子より二つ若いがしっかりしている。

七階の客室の窓からは電車のターミナルとサッカー場が見える。部屋は悪くはなかった。

風呂に入ってベッドに入ったらもう十二時近くだった。日本時間に直すと、翌朝の七時、もう起き出している時間だ。疲れた。

 

ブダペスト

四月十一日(火曜日)

モーニングコールが七時十五分に鳴るはずだったが我々は五時にすでに起きていた。七時から一階(R階)の食堂でバイキングの朝食。九時にはバスが出発した。総勢二十人。まだみんなよそよそしい。現地のガイドは四十五歳前後の背の高いハンガリー婦人だった。日本語は上手と言っていいのだろうが、日本にはまだ行ったことがないそうで、思い込みの日本語アクセントをかたくなに守っていた。友達に教えてもらったのだそうだ。

ブダペストは中央ヨーロッパ最大の街だという。街全体が世界遺産と言っていいだろう。戦中戦後の混乱を経ながらよくまあこれほど街を保存してきたものだ。整った中高層の古い家並みがどこまでも整然と続いている。大通りのみならず、どの小道を覗いても電柱が見当たらず、日本のあの蜘蛛の巣状の電線はきれいに地下にもぐりこんでいる。ただ、駐車制限がないのか、路上駐車は狭い道の両サイドを埋め尽くし、バスはのろのろ運転を余儀なくされている。それに大通りの建物の腰のあたりに落書きが目立つ、軒並みに、よくぞこれほど根気良くと思えるほど、切れ目なく書き尽くされていた。

水色のドーム型の屋根のある旧王宮。ライオンの銅像のある門をくぐって庭内を一周する。高台に位置するのでドナウ川の雄大な流れが見下ろせた。

王宮に隣接してネオロマネスク様式の尖塔と回廊の「漁夫の砦」があり、ここには入場して中を見学させてくれた。白い七つの塔が回廊で結ばれていてここの眺望もすばらしかった。

市内を一望できる「ゲレルトの丘」で記念の集合写真を撮るが一枚百六十フォリントだという。残念ながら背景のドナウ川もくさり橋も曇り空にモヤっていて、注文取りに手を上げる人が少ない。買う人がないと気の毒だからと桂子は一枚注文していた。

壮麗なゴシック様式の「マーチャーシュ教会」に立ち寄る。すばらしいステンドグラスにうっとりする。ちょうど二十人ほどの幼稚園児が先生に引率されて見学に訪れていて、いかにもかわいい。

昼食は市内のレストランで食べた。ぱさぱさのご飯に肉汁のようなものを掛けた、カレーでない薄味のカレーライスとでもいうか、初めて口にする料理だった。

昼からは自由行動で、オプションを選択した我々はまず西洋美術館を見学。エルグレコとベラスケスとゴヤの特別展が催されていた。それらの部屋が終わってほっとする私に、まだ常設の名画があるので時間内で案内しますとの親切は余計だった。広間の椅子に腰を下ろして立ち上がれなかった。桂子はもちろん出かけた。私の横にはグループの男性が同じように腰掛けた。この           このBさんの息子さんが東京で絵の勉強をしているらしく、時々息子さんに連れられて海外旅行するらしい。

そのあと、三時発のドナウ川遊覧クルーズに乗り込む。グラス一杯の白ワインが振舞われ、国会議事堂はじめ覚えられないほどのきれいな建物が次々と目に入ってくる。カップコーヒーを勧められ、

「ノーサンキュー」

と断ったが、みんな飲んでいるようなので、改めて注文すると、なかなかおいしいコーヒーだ。

「ハウマッチ?」

「ノーノー」

とウェーターが手を振った。どうやら飲み物付きのクルーズだと判った。

上陸後、そろそろ夕刻時、薄ら寒い街角の聖イシュトバーン教会に立ち寄り、中を見学させてくれた。

ホテルに戻り七時過ぎに食堂で夕食を食べる。最初にサラダ、そして小さなチキンフィレが出た。

 

四月十二日(水曜日)  

今日は昨日よりさらに早く六時四十五分のモーニングコール。宿舎がウィーンに移るのでスーツケースを朝食に出かける時にドアの外に出しておく。

八時半にバスでホテルを出発。ウィーンに向う途中で、ドナウベント地方を代表する芸術の町センテンドレに立ち寄り一時間ほどを過ごす。土産屋が立ち並ぶかわいい町だが、これといった物がなくてうろうろするのみ。広場の木にクロウタドリが止まっていていい声で鳴いている。ここらあたりではスズメの数より多く見慣れた鳥なのだろうが、私には珍しくデジカメで追っかけていくつか撮る。後は寒くて添乗員お勧めのカフェに入ったら添乗員さんとガイドさんもコーヒーを飲んでいた。

さらにハンガリーカトリックの総本山エステルゴムに三十分ほど滞在する。図書館の雰囲気がいかにも歴史を感じさせられた。

昼は河畔の小さなレストランで、魚のローストと「名物ハンガリーグャーシュ」。これは昨日の昼食で食べたのとよく似ている。たぶん同じなのだろう。

再びバスに乗り込みバンノンハルマへ向う。世界遺産でもあるベネディクト会修道院を訪れる。これは世界最古のキリスト教教会だそうだ。

やがてハンガリーとオーストリアの国境を越えるが、高速道路の料金所のような簡素な平屋立ての小屋が検問所だった。添乗員の話ではさっと通れるはずだったが、我々の前にイラン人がいて、なにか手間取っていて、そのお陰で我々も三十分ほど待たされた。

国境を越えても何も風景は変らない。

ウィーンの手前の国鉄の駅でガイドさんがお別れの挨拶をした。ここで電車に乗ってブダペストに戻るのだそうだ。くせのある日本語だったがなぜか名残惜しい。

ウィーンのホテルに着いたのはもう十九時を回っていた。部屋に入り、トランクを置いて靴も脱ぐ間もなくフロントに集まり、バスに乗り込み近くのレストランへ出かける。「名物ウィンナーシュニッツェル」をいただいたが、名物にうまいものなし程度のものだった。

九時ごろホテルに帰ってくる。私はもうくたくたで風呂にも入らずベッドにもぐった。

 

ウィーン

四月十三日(木曜日)

今朝は七時十五分にモーニングコールが鳴った。食堂は一階(E階)。朝食はどこともおいしかった。フロントで九時にバスがホテル前を出発する。直前にトイレチップが要ると聞いたので十ユーロ札を一ユーロコインに両替した。

ヨーロッパ有数の美しい街といわれるウィーンの観光に出る。

最初に、王家の夏の離宮で世界遺産の「シェーンブルン宮殿」の見物にバスを降りようとして、ふとデジカメが見当たらないのに気付く。あちこち探すが見当たらない。すでにみんなはバスを降りていた。しかたなく手ぶらでバスを降り、リュックを再点検するが見当たらない。宮殿の広場は壮大だった。

「みなさん。急いで撮影とかしてください。あまり時間がありませんので!」

日本人と思ったら本当は中国人だというガイドさんの指示でみんなカメラをパチパチ。私は爪を噛んであたりを見渡すしかない。

「ちょっと撮ってくれますか?」

若い女の子二人連れが頼んできた。

「いいですよ。」

「ありがとうございます。お二人も撮りましょうか?」

「いえ、いいんです・・・」

その後は宮殿の中へと移動。ここは撮影禁止だったのでほっとする。中年女性のガイドは早口で機関銃の連射のようにしゃべりまくった。

再びバスで移動してこんどはバロック建築の代表格「ベルベデーレ宮殿」に出かけた。ここは中へは入らす、庭園を一周しただけ。

バスで市中を走り、オペラ座の近くで降りて街中を歩く。新京極のような賑わいだった。

やがて一軒の中華料理屋に立ち寄り、昼食を摂る。テーブルが回らないので皿をみんなで廻しながら食べた。これはまず口に合っておいしかった。やはり我々は東洋人なのだろう。ひょっとしたら中国籍のガイドさんの知り合いのうちかも知れなかった。ガイドは今日はここまでの半日でお役目御免と帰ってしまった。食後スロバキアへのオプション参加者と別れて、私たちは今日は自由行動なので、カメラが気になり、タクシーを拾ってホテルに取って返す。部屋に駆け戻るがそこにもなかった。しかたなくフロントに降り、回らぬ片言でカメラが紛失したこと。届けものがないかを訊く。向こうはドイツ語と片言の英語。こちらもいらいらしたが、向こうの女性もイラついている。「ポリス、ポリス」と言っている。「不審に思うなら警察に届けろ。ここには無い。」そう言い張っているように見えた。しかたなく「分かった」と返事をする。

「ユーアンダスタン?」

「OK・・・」

と引き下がるほかなかった。

桂子は、

「人身事故でなかってよかったと考えよう。」

と慰めてくれた。自分のバカさに腹が立った。たぶん朝のコイン両替の時のドタバタの最中に掏られたのだろうと思う。部屋に戻って昼寝しかけたが寝られそうもない。二時半を過ぎていたがもう一度市内に出かけることにした。ホテルの前が国鉄の西駅(ウエストバンホフ)でそこの構内の煙草屋で一日乗車券を二枚買い、となりの土産屋でばかちょんカメラを二個買う。富士が二千円、コダックが三千円ほどだった。しかし富士は二十七枚撮り、コダックは三十九枚撮りでしかもフラッシュ付きだから富士が安いわけではない。

地下鉄は国鉄駅の地下にあった。乗り方は簡単で、煙草屋で買ったチケットを駅の入口の打刻機に突っ込んで自分で刻印する。駅員もいないし、せき止める何物もない。すいすい通れる。しかし時々臨検があり打刻してないと罰金を科せられるそうだ。

降りる駅が不安で傍の乗客に宮殿の地図を示して手まねで訊いてみる。親切な人が二三人次々と車内の路線図を指で示して三つ目だと教えてくれ、その駅まで来るとまた「ここだ、ここだ」と念を押してくれた。

地下鉄を降りて間もなく壮大なロマネスク様式のシュテファン寺院に行き当たった。ここがバカチョンカメラの使い初めとなる。

ベルベデーレ宮殿までは賑やかな商店街の中を通り抜けた。観光客用のきれいな黒塗りの馬車が客待ちをしている。入口は午前中に案内されて来た入口と違って古い威厳のある城門だった。

入って間もなく王家の「宝物館」があり、入ってみると、金銀財宝が居並んでいる。王冠、儀杖、食器、装飾品、王子の揺り篭など日本人の赤子を寝かせたらひきつけを起こしかねない。目の覚めるような代物がぎっしり敷き詰めたように並んでいた。

さらに広い庭を歩くと美術史博物館と自然史博物館が対峙して建っている。桂子の好みで前者に入ると、これもまた広大で行けども行けども部屋が連なっている。さすが宗教画が多いが、ところどころに有名な絵も展示されていて、桂子が時々、「あっ、ここにもこの絵がある!幸せ!」と感激していた。私はもう一つ分からない。

館内で偶然同じクルーの女の子の二人連れに出会った。桂子が宝物館がすばらしかったと話すと、「後で見に寄ります!」

とうれしそうだった。今夕はモーツァルトを聞きにいくとかで、若い人はいい。

「夕食は?」

「パスします!」

桂子はまだまだトラムで街中を一周したかったらしいが、私は疲れて帰ることを主張、地下鉄で西駅に戻ってくる。駅を出たところのスーパーでエビアン3リットル入りを二ユーロで買った。同じ団体のA ご夫婦をそこで見かけて挨拶する。その後この奥さんに事件が起こるのだがその時はご本人もそんな運命とは露知らないふうだった。

その日の夕食はホテルのレストランで摂ったが、添乗員のMさんが、

「ちょっと事件があってこれから出かけてきますので、帰りは十一時ごろになると思います。すいませんが、各自お休みください。」

と言い残してそそくさと出かけて行った。テーブルの人のうわさ話をつぎはぎすると、どうやらさっきスーパーでお会いした奥さんが地下鉄でスリに逢い、パスポートとユーロの入った財布を取られ、大使館に駆け込んだらしい。

その後の経過の分からないまま我々は部屋に戻り、十時ごろにはベッドにもぐった。

 

四月十四日(金曜日)

今朝はさらに早く六時十五分にモーニングコールが鳴った。私たちはそれでも電話の音に起こされたこともなく、いつものように五時過ぎには起きてごそごそしていた。

ウイーン二日目であるが、さっそくホテル移動のためスーツケースをドアの外へ出す。

朝食時、例の奥さんが無事に食事に降りて来ていた。事件は解決済みのようだった。

七時半バス出発。いきなりガイドさんが事件の経緯を説明する。大使館に電話したらちようど夕食時だったが、

「ご夫婦で団体旅行で明朝プラハへ発ちます。困り果てていますと事情を説明すると、それはお困りでしょう。なんとかしなけりゃ・・・と食事を切り上げて事務手続きをしてくださり、通常いくら早くても一日二日かかるところを一時間でやってくださいました。それには過去の経験から言って私もびっくりでした。ほんとうにいい大使館員さんに出会ったおかげです。皆さんにご心配をおかけしましたが、全員で旅行を続けられることになりました。」

皆から拍手が沸いた。そして当の奥さんからもお詫びと感謝の言葉が述べられた。

母親と娘の二人連れに、昨日夕食に見かけなかったと尋ねると、

「昨夜は夕食をパスしてワーグナーのオペラを見に行ってました。少し難解でしたが、すばらしかったです!」

とのこと。

そこからのバスの行程はチェスキークルムロフまでで二五〇`をひた走る。途中の国境検問所は一気に通り抜けた。チェスキークルムロフ城の見学。「チェコでもっとも美しい町」といわれる世界遺産の旧市街を見物。その後狭い石畳の商店街を混み合いながら通り抜け、小さな広場に出る。ここで小雨がぱらついてきて、旅行中初めて傘を広げた。ここで小一時間自由行動が許され、見晴らしのいい高台とその近くの教会を覗く。案内外の教会だったがなかなか立派な内部で、得をした感じだった。

昼食は近くの小川のほとりの小さなレストランでポーク料理のを食べる。ポーク料理といっても小さく切りきざんだ肉がまざった「まぜ料理」である。どこでも水は硬質というので水代を払って買って飲む。

そこからまた二五`走ってチェスケーブディヨヴィッツェに到着。ここでも小雨が降り続いていて傘をさしての観光だった。ブジェミスル・オタカル2世広場は先ほどのチェスキークルムロフ城下の広場よりずっと広くて賑やかだ。バロック様式で建てられた市庁舎などの美しい建物に囲まれている。

さらにそこから一五〇`走って午後七時にようやくプラハのホテルに到着した。ガラス張りで近代的な二十四階建ての五つ星のホテルだった。十五階の部屋に入る間もなくすぐに鍵を掛けてフロントに下りる。バスで近くのレストランへ。こじんまりした部屋へ通されたが、すでにボヘミヤンの生演奏と胸の突き出た女性歌手の歌声が響き渡っていた。ドリンクは飲み放題だといって、男性のウェーターが両脇に赤ワイン白ワインの入ったガラスの細長いビーカーを左右に抱えて、テーブルのワイングラスにお好みによりワインを上手に注ぎ込んでいく。そのたびに皆が拍手したり写真を撮ったりで盛り上がる。楽団は隣の部屋へ楽器ごと移動したかと思うとまたやって来て一演奏する。男女の踊り子がコミックな土地の踊りを披露する。浮かれ出したヨーロッパ人の老夫婦が曲に合わせてダンスを踊り出し、アルコールが回っているので最後に二人して引っくり返り、お客が支えなかったら大怪我をしたところだ。演奏や歌に合わせて客たちは手拍子するので賑やかというか喧騒の二時間だった。

ホテルに帰ったら十時。私は風呂にも入らずベッドに倒れ込む。

 

プラハ

四月十五日(土曜日)

部屋から見た早朝の空はこちらへ来てから初めての快晴だった。ちょうど真っ赤な朝日が丘の稜線から昇り始めるところだった。眼下に広がるプラハの街は絵本に出てくる中世の町のように朱色の屋根で込み合っていた。

六時半からの朝食である。広い美しい食堂だった。

今朝からまた別のガイドが付いた。少し頬のこけた小柄な顔立ちの修道女のようなプラハ女性である。声も小さく弱々しい。この人は外務省関係に勤め、その関係で日本に研修で二回派遣されている。本格的に日本に留学したわけではないと言うが、よくこれほどまで日本語をマスターしたものだ。

八時半、「北のローマ」と称される街全体が世界遺産だというプラハの街の観光に出る。

高い位置にプラハ城はあったが、城門の前にまるでおとぎ話の中のようなブルーの制服に金モールを付けた衛兵が立っている。到着が九時ジャストだったので門の衛兵の交替式が突然行われびっくりした。一斉にカメラの放射をする観光客を衛兵の一人が両手で制止する中に整然と両脇の二人が交代を終える。

プラハ城の中にも教会があり、内部を見学させてくれた。城を後にして狭い坂を下るがこれがまた「黄金の小道」と称して小さな店が居並ぶ世界遺産の道だった。その中ほどに「カフカが住んでいた家」と標識のついたブルーの粗末な家もあった。ここらあたりで私はもう一個バカチョンを買うが、なんと十二ユーロだから千八百円くらいだ。ウィーンの駅では三千円で買ったのだから大違いだった。

ブルタヴァ川(モルザウ川)に架かるプラハ最古の石橋、カレル橋の上を通る。欄干ごとに伝説上のいろいろな人物の銅像が飾られ。物売りする人、絵を描く人など、復活祭の最中で、土曜日とあって橋も揺れんばかりの観光客でひしめき合っていた。

カレル橋を渡り切っても街はいよいよ賑わいを増し、人波をかいくぐるようにしてボヘミアングラス店へ入る。私は疲れてソファーに座り込んで水を飲んでいた。私の横に寄ってきたのはCさんのご主人。彼は岡山だから少しそのなまりがある。おかみさんはパーマの先生だった。いわゆる髪結いの亭主である。少しおとなしいが、これには訳があって五十近くで右肺の半分を切除している。だから坂道は苦手、物を言うのも長話はしんどそうである。体力に自信がないのに旅行は好きだそうだ。桂子はそのCさんの奥さんと店内を巡り、数千円の安物の指輪を買って満足して戻ってきた。

「お父さんもなんか買うたら?」

「いや。カメラ失うたし、それだけでもう予算オーバーや。」

と私は殊勝な返事をした。本当はもう動きたくなかった。昼食はそこからまた少し歩いて、こじんまりした薄暗いレストランでチキン料理を食べる。チキンと言っても十センチばかりの肉が二切れ皿に載っていた。付け合わせの「クセネドリーキ」は名物だというが、どれがそれなのか結局わからなかった。

食後、六人の不参加者を除いて我々を含めた十四人がオプションに参加する。バスで世界遺産の村(町かも知れない。)クトナー・ホラへ出かける。石畳の田舎道を長々と歩いて古ぼけた幾つかの遺産を拝見する。このあたりは古くは名だたる銀山で栄えたようで、大きな礼拝堂(聖バルバラ教会)も王様や宗教団が建てたのではなく、裕福な商人の寄贈によって建ったのだ。飾りつけも庶民的なところが随所に見えた。壁の絵も庶民生活を現す流しの芸人や鍛冶屋とか鍋作りの絵が並んでいた。

銀貨の鋳造所跡(イタリーコート)も見て回る。そこがまた王様の住まいにもなり、役所にもなっているような説明だったと思う。しかし、歴史を知らなない私にはあまり見栄えのする内容物とは思えなかった。と言うより、睡眠不足ゆえ、よほど目の覚めるようなものを見せられないと印象に残らない。

ここ数日の寝不足が重なってかなり疲れてホテルに帰った。

夕食はホテルのレストランで、最終日というので奥の間に全員がかたまっていつもより少し豪華なメニューで食事した。でもステーキの肉は硬くナイフでぎしぎし引きちぎるように切らないといけない。せっかくの肉をみんな半分くらい食べ残している。一週間前まで見知らぬ者同志だったのが、今では少しは家庭の事情なども知り、親しい感じとなりつつあった。もうあと一週間もいっしょすれば完全な知り合いになれたかもしれない。でもこのあたりでいつも別れることになる。名前もろくろく知らぬまま。

 

帰国へ

四月十六日(日曜日)

六時モーニングコール。六時半にはスーツケースを部屋の前に出し、朝食を摂った。ホテルの玄関先に出て写真を撮る。七時半、バス出発。もうすべての予定を完了して帰国のために空港へ向う。かすめただけのプラハだがなんとなく名残惜しい。ブルタヴァ川(モルザウ川)を渡る時、遠くにカレル橋を見つけて回りから声が上る。

一時間ほどでプラハ空港に到着した。もうユーロもコルナも札はなかったが、コインがいくらか残っていた。それを使い切ろうと店を覗くが少々足らぬものばかり。

十時半ごろパリに向かって飛ぶ。

十一時半パリドゴール空港着。ここはごった返していた。十年選手の添乗員Mさんが諸事をてきぱきとこなしてくれたが、それでも出国手続きに並ぶだけで小一時間かかった。出発自体も遅れて、十二時過ぎにようやくパリを離れる。私の席は窓際だったが眼下は雲ばかりだ。昼食が配られたのは二時半ごろ。食後は窓を閉めるようにスチュワーデスに指示され、睡眠態勢に入る。こちらの三時は日本時間では夜の十時なのだ。

まだとても寝られないのでトランプゲームをして時間をつぶす。これは行きの機内で遊び方を見知らぬ青年に伝授されたものだが、なかなか面白い。桂子にも教えてしばらく一緒にプレイする。

数回うとうとしただろうか。窓を開けるとシベリヤの空は真っ暗闇だった。腕時計を七時間進ませ日本時間に変更する。

 

四月十七日(月曜日)

いつの間にやら日付が変っていた。少しは寝たのだろうか?

五時を過ぎたころから窓の外が真っ暗闇でなくなってきた。六時になると食事の準備らしい気配で機内が慌しくなり、六時半ごろ簡単な朝食が配られてきた。

七時を過ぎると窓外は明るくなり、やがてしだいに雲も晴れてくる。母国日本の山陰沿岸が白い波に縁取られてまるで地図を広げたように見えてくる。桂子にも見せ、通路側に座っていたDさんにも感動を見るように勧める。Dさんは義父の介護を長年つとめ、今年ようやく開放されたのだという。

八時半、とうとう関空に着陸した。旅は終わった。スーツケースを受け取り個々に挨拶を交わし、数日の交友を惜しみながら別れを告げる。

「荒川選手がテレビに出たらあなたのことを思い出しますよ。」

と添乗員のMさんに声を掛けると、彼女は初めて照れたような若い娘の顔になって微笑み返した。