旅行7
韓 国 平成二十年(二〇〇八年) 出 発 七月十五日(火曜日) 二人とも五時半に起き出す。 朝食を済ませ、なにかと手際よく準備したと思っていたのに、十時にはもうMKタクシーが迎えに来て少し慌てる。客は外人客四人を含めて十人の満席。 十一時四十五分に関空の国際線入口に到着する。搭乗券をもらい、簡単な昼食を摂り、税関を通過するが、手続きが以前より厳格になっている。 十四時二十分JL967便プサン行きが予定通り離陸した。
プサン(釜山)空港には十五時三十分に到着。曇っているが雨は降ってない。 入国手続きもなにか物々しい。テロ対策のためか何度もパスポートの確認がある。玄関で待っていてくれた女性添乗員の張さんに引き連れられて専用の観光バスに乗り込んだ。韓国人だが流暢な日本語だ。 クルーは四十人。すぐにバスは空港を出発して新羅の首都だった慶州へ向かう。 古墳公園を散策。あちこちに一こぶラクダや二こぶラクダのような古墳が点在する。わが国の古墳の元祖がこれなのだろう。その一つからいろいろ装飾品の遺跡が出てきたのをレプリカで展示してあるのを見学させてくれた。 芝生に黒白の鳥がうろうろするのでビデオで確かめると、カササギだった。 夕方六時半ごろホテルに到着。小高い丘の上にある七階建てのコーロンホテルだ。その732号室は七階の端の端である。予約を入れたのが遅かったので先着順らしく致し方ない。部屋はクラシックな雰囲気で浴室は修理がしてあった。我が家のバスルームの方が立派だと思った。 夕食はカニやイカ、野菜の入った海鮮鍋を賞味。四人一組で一鍋を囲む。大分若い夫婦と同席する。とは言っても「来年六十歳の定年間際です」とのこと。お互いに下戸同士でよかった。 テレビはどれも韓国語の放送でつまらなく、十一時に就寝する。 七月十六日(水曜日) モーニングコールが六時。朝食は七時からというので正直に七時に降りて行ったらもう皆席に着いていた。同じテーブルのご夫婦がアジア旅行に詳しくて、カンボジアのアンコールワットかトルコイスタンブールがいいですよと熱心に薦める。 八時にバス出発。慶州市内観光ののち、山道を二十分ほど歩いて石窟庵を訪れた。その中に大理石の乳白色の仏様がまつられていて、ガイドの張さんの話では仏様の唇は不思議なことにいくら削ってもピンク色をしているとのこと。しかし、この文化遺産を誰が削って証明したのだろう? 張さんはさらに、朝鮮が日本の統治下にあった時期、時の寺内総督がこの石像を解体して日本に持ち帰ろうとしたが、結局復元不能で断念したとの経緯を話し、残ってしまった石像の一部だと何気なく四つ五つ転がっている石を指した。 この山頂に続いていて山の中腹にある仏国寺へ行く。入口の鐘楼は日光の陽明門に匹敵するような華やかさだった。石垣やアーチ形の石組みが世界遺産になっている。 それから本場朝鮮の青磁の窯元へ出かけた。黄色い服の威勢のいいおばちゃんが汗をかきながらいかに手仕事で大変な作業かを話してくれて、その後で青磁の展示即売室へ誘導される。私たちはウインドウショッピングのみに時間を費やす。 昼食は野菜で焼肉などを包んで食べるサムパップ、唐辛子を使った物がめっぽう多い。キムチは常に付いてくる。 午後は海印寺に向かう。新羅時代に建てられたお寺で、何度も戦火に遭い建て直されたらしい。石の舎利塔だけが当時のものだそうだ。お寺の奥にある経典の版木の収蔵庫が六百年程前のもので、風通しや虫の被害から完全に守られていて、鳥も巣を作らない。他の建物は焼けてもそこだけは仏様の霊力があるのか焼けなかったと張さんは力説した。 夜八時ごろオンドル付きの儒城温泉ホテルへ着いた。ここでも七階の735号室。今日はずいぶん歩いたと思って万歩計を覗くと、なんと二万歩を越えていた。 夕食はテジカルビという豚ロースの焼肉料理。今日の同席者は山好きのご夫婦。ヒマラヤにも行ったという。 テレビの89チャンネルがNHKの日本語放送をしていたのでしばらく見る。祇園祭の宵山風景が写った。十一時就寝。 七月十七日(木曜日) モーニングコール六時。 七時朝食。韓国式朝定食。 午前中ほとんど遺跡が残っていない百済王朝最後の都、扶余の市内観光。定林寺址には千二百前の石の舎利塔があり、百済の都を滅ぼした将軍がその「偉業」を礎石に掘り込んだ文字が残っている。それがはからずも百済国の存在の証しとなった。王様の未亡人が龍と交わって子供を授かったとの言い伝えが残る宮南池(実は皇帝の落とし子だったとか)の周りは蓮池が取り囲み、白、ピンク、黄色の蓮の花盛りだった。特に大輪の白蓮は見事である。池の周りは柳の古木が取り囲み、やっと復元された池の中の東屋が伝説の舘跡とのこと。百済の都の遺跡が少なく、復元もされないのは有力な政治家がここから出なかったためだと張さんは説明した。(歴代大統領は新羅出身者が多い) この日のお昼はサムゲタンという若鶏に朝鮮人参や松の実、棗、もち米を詰めて炊き込んだ精力料理を食べた。 午後は世界遺産水原華城へ向かう。どこへ行っても歩くこと歩くこと。三四人、足の痛そうな人たちがいた。私たちは常日ごろから歩いているのでこの歳で歩けたのだと思う。水原華城は万里の長城より小規模だが実に丁寧で美しい石垣だ。石積みが互い違いに組まれている高い建築技術のおかげで、砲弾が当たっても崩れにくくなっている。 夕方、ソウルへ向かう。市内に近づくにつれてマンションが林立し始める。韓国の総人口の四分の一が集中し、人口千四百万人の大都会となると、我が京都など田舎町に思える。市中の大きなビルの中にある免税店で、十年経っても艶々しているというヤツメウナギの財布を妻が長女と末娘にお土産に買った。自分も旅の記念に紫水晶の店で腕輪を買う。「肩こり知らず」だと張さんお奨めの品だ。 宿泊はソウルパレスホテル、735号室。この旅行で一番いいホテルで部屋もバスルームもよかった。 夕食はプデチゲ料理。在韓米軍が持ち込んだハムやソーセージ、それからインスタントラーメンも入れて煮込んだ鍋料理である。 夜のオプショナルツアーにはまず南大門市場に出かける。韓国の国宝第一号「南大門」は先日の失火で全焼し跡形もない。今は板囲いで覆われ再建中で、残念というか勿体ない話だ。その前方から五百メートルの間にぎっしり建てこんだ南大門市場は東京のアメ横に匹敵するというが、私はアメ横を見てないので判らない。異様なほど活気のあることだけは間違いない。 そのあとソウルタワーへ出かけ、レーーザー光線と音楽のショーを楽しみ、塔に上がってソウルの夜景を見る。すごい人気でエレベーターが長蛇の列だった。「二百万ドルの夜景」と張さんが自慢するほどではないが、見ごたえはある。ソウルを分断する漢江に掛かる巨大な橋もぎらぎらしている。展望台の男子便所が評判で、用を足しながらも前方は総ガラスで夜景が見渡せる。 我々はもうくたくたでホテルに帰った。それでもホテルの近くにコンビニがあるというので、玄関先から三百メートルほど歩いて缶ビールを一本買って部屋に戻った。十一時だった。 それでまだエステとか足つぼマッサージに行った人たちは帰宅が十二時を過ぎたらしい。 七月十八日(金曜日) いつの間にやら最終日となる。七時モーニングコールのところ五時半に起きてしまった。八時にホテルをチェックアウトして、近くのレストランでの朝食はソルロンタンというあっさりスープ付きのあっさりご飯。 今日は世界遺産の宗廟を見に行く。 宗廟とは歴代の皇帝の御霊だけをお祭してある場所で、亡骸は別の場所に埋葬してある。建物は京都の三十三間堂に似ていて横に長い。皇帝が次々亡くなるにつれて継ぎ足していったため屋根瓦の色が途中から違っている。一年に一回盛大な祭りが民族衣装で執り行われるそうだ。魂のみを祭ってあり、魂の通る道がついているのだそうだ。 後は骨董品店の多い仁寺洞を散策。張さんの誘導でわれわれ数人が、入り込んだ一風変わった喫茶店で、得体の知れないお茶を飲む。甘くて、苦くて酸っぱくて、なかなかおいしい変わった飲み物だった。 「昨夜エステのお客さんが深夜帰宅になったお詫び」と言って、大統領官邸の傍を通るが、軍隊、警察をあげてのものものしい警戒だ。バスの中からの撮影も禁止とのこと。さらに「これも趙さんのサービス」ということで、ヒルトンホテルの地下にあるカジノへ行ってジュースを無料で頂く。さらに「張さんのサービス」ということで、ヒルトンホテルの地下にあるカジノへ行ってジュースを無料で頂く。 お昼は「冷麺」だったが、日本で食べる中華冷麺とは全く違い、腰のある細い春雨のような麺で、トッピングもほとんどない。少し物足りなくて「チヂミ」を追加注文したが、残すのが勿体無いのでがんばって食べたら食べ過ぎてしまった。 韓国食料品店に立ち寄って少し買い物をする。それから、いよいよ空港に向かう。二人共眠くてその後のバスの中はずっと寝ていた。 ソウル空港には五時前に着き、張さんとの別れを惜しみながら検査所に入る。五時五十五分発のJL964便で関空へ。 「関西は梅雨明けしました」とのアナウンスが流れて七時三十五分到着。 MKタクシーで送ってもらって、午後十時十分頃帰宅した。旅行中のビデオなど見ていて就寝は十二時を超える。 |